建部神社(たてべじんじゃ)は 建部大社〈近江国一之宮〉旧社地の伝承地です 景行天皇46年(316)4月 神崎郡建部郷 千草嶽に 日本武尊の神霊を祀り建部大明神と崇めたのが起源とされ 天武天皇 白鳳4年(675)4月に近江国府のあった瀬田の地に遷座されたと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
建部神社(Tatebe Shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県東近江市五個荘伊野部町457(旧神崎郡五個荘町)
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
稲依別王(いなよりわけのきみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧社地伝承地
【創 建 (Beginning of history)】
(奉祀神社探訪)
建部神社(たてべじんじゃ)
鎮座地 神崎郡五個荘吼祠乎部四五七
祭 神 大己貴命・事代主神・日本武尊・稲依別王
由 緒 六代孝安天皇の御代に、近江国神崎郡千草嶽に大己貴命、事代主神を祀り後 日本武尊東征の帰路 近江国造の祖 意布多牟和気の女、布多遅能伊理比売を娶り 稲依別王 生まれ、景行天皇四十六年 稲依別王 御父 日本武尊の神霊を大神と共に千種獄に合祀され 近江一の宮 建部大明神と称し 建部の氏神と定められた。白鳳四年 天武天皇の御代に稲依別王の曽孫 建部連安麿 神勅により栗田郡勢多に移し、称徳天皇の神護景雲二年に至り 建部にある遠裔子孫その神徳を敬慕し 箕作山の麓に神殿を建立し 建部新宮と号し建部の荘十七ヶ村の氏神として神社創立より毎年陰暦二の申に建部祭礼を営む。
社 殿 本殿 一間社流造 間口一間四尺 奥行一間三尺
拝殿 入母屋造 間口二間 奥行三間
神 事 水神祭 七月一日
建 物 中間渡廊下・神輿庫・手水舎・社務所・祭器庫
例 祭 四月十四日(四月第二日曜日)
境内地 二二五三坪
神 紋 左三ッ巴
氏 子 五十四戸
崇敬者 一〇〇〇人
境内社 八幡神社・祇園神社
境外社・三堂神社
神社配布資料より
【由 緒 (History)】
由緒
人皇六代孝安天皇ノ御代ニ 近江国神崎郡 千草嶽ニ 大国主大神・事代主大神ヲ祀リ奉ル後、日本武尊御東征ノ帰路 近江国造リノ祖 意布多牟和気ノ女 布多運能伊理賣ヲ娶ラル 御子神霊ヲ奉シ 大神ト共ニ千草嶽ニ合祀サレ 近江一ノ宮建部大明神ト稱シ 建部ノ氏神ト定メラレ給フ 其後白鳳4年天武天皇ノ御代ニ 稲依別王命ノ曽孫 建部連安磨 神勅ニヨリ 栗太郡勢多ニ移シ奉ル 神護景雲2年ニ至り 建部ニアル遠喬子孫ソノ神徳ヲ敬慕シ 箕作山ノ麓ニ神殿ヲ建立シ 建部新宮ト号シ 建部ノ荘17ケ村ノ氏神トナシテ崇敬ス 建部神社ノ創立ヨリ 毎年陰暦二ノ申ニ 建部祭礼ヲ営ム
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・八幡神社《主》誉田別命
・祇園神社《主》素盞嗚命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・三堂神社
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
建部大社〈近江国一之宮〉の旧社地伝承地です
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える小野神社二座 日吉神社一座 比叡神同 佐久奈度神社一座
建部(タケヘノ)神社一座 川田神社二座 御上神社一座 奥津島神社一座
伊香神社一座 水尾神社二座 或水作三 已上 近江国
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江国 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)栗太郡 8座(大2座・小6座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 建部神社(名神大)
[ふ り が な ](たけへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takehe no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
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建部神社は 近江一之宮 建部大社 の元宮であるとの伝承について
建部神社(五個荘伊野部町)の配布資料によれば
近江国神崎郡(現東近江市)千種嶽に大己貴命、事代主神を祀った後 天武天皇 白鳳4年(675)に至り、建部安麻呂公が国司の命を奉じ栗太郡瀬田(現 大津市瀬田)に奉遷 と記しています
建部神社は近江一の宮「建部大社」の元宮です
建部神社は、孝安天皇(6代)の御代に、近江国神崎郡(現東近江市)千種嶽に大己貴命、事代主神を祀った後、景行天皇(12代)が御子日本武尊の功名を録えるため、武部(後の建部)を定め、日本武尊薨去3年後、景行46年(116)日本武尊の妃 布多遅比売命・御子 稲依別王命に対し神勅を以って、日本武尊の神霊を祀り建部大明神と崇め給うたのが起源とされています。
その後560年を経て、天武天皇 白鳳4年(675)に至り、建部安麻呂公が国司の命を奉じ栗太郡瀬田(現 大津市瀬田)に奉遷し、近江一国の守護神(国社)としてから約90年後。神護景雲2年(768)に、再び同地の下の森に新宮を建て。建部大明神を勧請し四柱の祭神を奉祀して、建部郷17ヶ村氏神となりました。主祭神である日本武尊は、数多くの戦いのなかで苦難、難関を克服してきたとされ、厄除けや苦難克服、難関突破等のご利益があると伝えられています。神社の右庭(本殿に向って左側)にある「癌封じの樺」は、箕作城の戦い【永禄11年(1568)】の舞台となった伊野部の村を見続け、炎の海と化した場所で生き抜いてきました。このような樹木の歴史を考えると、そのけなげさに哀れみを感じると同時に、自然への畏敬の念が生まれてきます。
そして、この棒は「癌封じの樺」として人々の心の拠り所となっています。
神社配布資料より
近江一の宮 建部大社の境内案内板によれば
景行天皇46年(西暦316)4月神崎郡 建部郷 千草嶽に 日本武尊の御神灵を建部大神としてお祀りしたのが創りである 天武天皇 白鳳4年(675)4月に近江国府のあった瀬田の地にお迂し と記しています
近江一の宮 建部大社
御祭神
本殿 日本武尊
相殿 天明玉命
権殿 大己貴命由緒
当社は近江国の一の宮と称えられ、景行天皇46年(西暦316)4月神崎郡 建部郷 千草嶽に、日本武尊の御神灵を建部大神としてお祀りしたのが創りである。
天武天皇 白鳳4年(675)4月に近江国府のあった瀬田の地にお迂し、此の国の守護神として仰ぎ奉られる様になった。天平勝宝7年(755)には 孝徳天皇の詔により 大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿に奉祭せられ現在に至っている。
例大祭 四月十五日
船幸祭 八月十七日境内案内板より
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近江鉄道湖東近江路線 河辺の森駅から 西へ約1.4km 徒歩17分程度
近江鉄道湖東近江路線 五箇荘駅から 南へ4.5km 車8分程度
県道209号からの参道入口には社号標「建部之郷 建部神社」が建ちます
近江商人の街として知られる東近江市五箇荘の建部郷17ヶ村氏神
建部神社(五個荘伊野部町)に参着
11月初旬の御参拝でしたが 予定より遅れてしまい 17:30分頃の参着
すっかり暗くなってしまいました
参道にある 神武天皇遥拝所
明かりの灯る石灯篭と狛犬 その先には 神楽殿が見えています
南南西を向く本殿の前にある神楽殿
すっかり暗くなった境内を本殿前の拝所にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の横辺りに癌封じのケヤキがある様でしたが暗くて断念
社殿に一礼をして 参道へと戻ります
参道に戻ると 鳥居について記された立札があり
皇族の久邇宮家が 五個荘地区の金堂・竜田に旧領地を持っておられ 久邇宮邦彦殿下〈昭和天皇の皇后(香淳皇后)の父〉との関係性も深かったようで 鳥居の扁額文字は 殿下のご真筆 と記されています
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)』〈和銅5年(712)編纂〉 に記される伝承
第12代 景行(ケイコウ)天皇〈在位AD 71~130年頃〉の条に
ヤマトタケルの命の系譜があり 近淡海〈琵琶湖〉の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の娘で〈建部神社を創建した〉布多遅比売(フタジヒメ)を娶り 生まれた子が 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱で 建部君(タケルベノキミ)の祖先であると記されています
【抜粋意訳】
中巻 景行天皇記 ヤマトタケルの命の系譜 の条
この倭建命(ヤマトタケル)が 伊玖米天皇(イクメノスメラミコト)の女(ムスメ)布多遅能伊理毘売命(フタジノイリビメノミコト)を娶して生みましし御子は 帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)一柱
また その海に入りたまひし 弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)を娶して生みましし御子は 若建王(ワカタケルノミコ)一柱
また 近淡海の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の祖(オヤ)
意富多牟和気(オホタムワケ)の女(ムスメ)布多遅比売(フタジヒメ)を娶して生みましし御子は 稲依別王(イナヨリワケノミコ)一柱また吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)の妹 大吉備建比売(オオキビタケヒメ)を娶して生みましし御子は 建貝児王(タケカイコノミコ)一柱
また山代(ヤマシロ)の玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)を娶して生みましし御子は 足鏡別王(アシカガミワケノミコ)一柱
また ある妻の子 息長田別王(オキナガタワケノミコ)
凡(スベテ)その倭建命の御子等 并(アワセ)せて六柱なり
かれ 帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)(仲哀天皇)は天の下治らしめき次に
稲依別王(イネヨリワケノオウ)は 犬上君(イヌカミノキミ)・建部君(タケルベノキミ)の祖先です
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
第12代 景行(ケイコウ)天皇〈在位AD 71~130年頃〉の条に
ヤマトタケルノミコトの功績を伝える者として「武部(タケルベ)」を定めたとあり
更に ヤマトタケルノミコトが 娶って妃としたのは 建部神社を創建した「兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉」で その子息として「武部君(タケルベノキミ)」の始祖である「稻依別王(イナヨリワケノミコ)」を生んでいると 記しています
【抜粋意訳】
景行天皇記 白鳥陵 の条
その時(ヤマトタケルノミコトが能褒野陵に葬られたとき)に
白鳥(シラトリ)となって 陵(ミサザキ)から出て
倭国(ヤマトノクニ)を目指して飛びました
群臣等(マヘツキミタチ)はその棺櫬(ヒツギ)を開いて見ると、
明衣(ミソ)〈神官の衣服・死装束〉だけが空しく残って屍骨(シカバネ)は無かった
それで使者を派遣して 白鳥を追い求めましたすると倭(ヤマト)の琴弾原(コトヒキノハラ)に留まりました
それで そこに陵(ミササギ)を造りました
白鳥は さらに飛んで河内(カウチ)に到り 旧市邑(フルイチノムラ)に留まりました その土地に また陵を造りましたそれで その時代の人は この三つの陵を名付けて 白鳥陵(シラトリノミサザキ)といいます
しかし ついに(白鳥)は高く飛んで天に昇っていかれました
そこで 衣冠(ミソカガフリ)を(代わりに)葬りました
その功名(ミナ)〈日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の功績〉を録(ツタ)えようと 武部(タケルベ)を定められました
この年は 天皇が踐祚(アマツヒツギシロシメシテ)〈皇位年月〉43年です
【抜粋意訳】
景行天皇記 日本武尊の妃と子女の条
これより先のこと
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は 兩道入姫皇女(フタジノイリビメノヒメミコ〈垂仁天皇の皇女〉を娶って妃とし
稻依別王(イナヨリワケノミコ)を生みました
次に
足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)
布忍入姫命(ヌノシイリビメノミコト)
稚武王(ワカタケノミコ)です
兄の稻依別王(イナヨリワケノミコ)は
犬上君(イヌカミノキミ)
武部君(タケルベノキミ)の二族の始祖なり
【原文参照】
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
建部公(タケベノキミ)について日本武尊の子孫と 記されています
【意訳】
右京(ミギリノミサト)第四巻 皇別の条
建部公(タケベノキミ)犬上朝臣(イヌカミアソン)と同祖(オナジキオヤ)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)之(ノ)後也(スエナリ)
続日本紀合
【原文参照】
建部神社(五個荘伊野部町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)