神村神社 社地跡(伊勢市御薗町高向)

神村神社 社地跡かぶらじんじゃ しゃちあとは 明治41年(1908)に高向大社に合祀された゛神村社かぶらのやしろ加牟良社・鏑社とも〉゛社地跡です 高向区の御頭神事は現在で大社(かみ)さん゛゛神村社(かぶら)さん゛二社の御頭(おかしら)によって神事が催行されています 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社です

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神村神社 社地跡Kabura shrine  ruins

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市御薗町高向

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

御祭神 不祥

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

牟良神社跡 顕彰碑

 此地は往古大野と称し、松杉鬱蒼とし、河川環濠して神苑聖域を成せり。千古以前より此処に高向郷の一邑加村(神村とも)在りて里人の祭祀せる加牟良社が鎮座せし神聖地矣。
 当社は貞観三年八月に高向住人の三津正盛が私祭したるを創祀と伝矣。中世の文安年中には加村は既に廃亡して、文明年間の頃には当社は蕪社とも称せられる。加牟良社ないし蕪社の両称を於て、後世、之を承継して、近世近代、現今に至矣。
 明治末期、国家神道の制令に従て、同四十一十五日を於て、高向大社之合祀の官許を得て、同年廿一日に、加牟良神社の合祀執行し焉矣。以後、昭和十三月の水難災厄後に、社地跡の煙滅を憂て一碑建立す。
 今般、此地辺境の土地区画圃場整備事業の施行を利して、社地跡整備し。当該碑文を撰して、後古悠久に顕彰せんと為者矣

秋日女乃命い者ひて この里を
 かむらと越し毛 名をおふせ介無 「松杉集」所蔵 秦 秀益 作

昭和五拾九年二月吉日建立 高向区

現地 顕彰石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

高向御頭神事(たかぶく おかしらしんじ)について

高向区の御頭神事は大社(かみ)さん゛゛神村社(かぶら)さん゛二社の御頭があり
大社(かみ)さん゛ 大社の御頭
神村社(かぶら)さん゛ 神村社の御頭

〈高向大社は 大社(かみ)・鏑社(かぶら)の二社が合祀されています〉

Google Arts & Culture「高向御頭神事」〈伊勢市作成〉

https://artsandculture.google.com/story/VQURMBipZJIHLQ?hl=ja

神村社は 古記録には 神村(かぶら)社 加牟良(かぶら)社と記録され 鏑(かぶら)社とも呼ばれています

高向御頭神事(たかぶく おかしらしんじ)〈伊勢市教育委員会〉
高向御頭神事』のあらまし

 「御頭神事」の起源は、養和年間(1181~82)全国的な天候凶変や悪疫が流行り、多くの村人が病に倒れ死んでいくなか、神童の木昌少年が御神体の御頭(おかしら)を出し郷内を巡り、お祓い清めの踊りを舞い悪霊を祓い去ったことであると伝えられています。この御頭は、長歴二年(1038)に本滝定行なる人が、大柳木から2体の御頭を彫刻し、大社・鏑社に奉納したものである。

 神事では、早朝より大社(カミ)さん、鏑(カブラ)さんの2体の御頭が大社・会所・祷屋(とうや)宅にて「七起しの舞」を舞い、高向大社や各家々を一軒ずつ巡る「フクメモノ」を行いながら無病息災を祈願し、斬祓祭場で集めた邪気を祓い神に戻るという行事です。

 打祭りと呼ばれる夜の祭典では、松明の火の粉が舞い落ちる中、御頭を振るさまは実に勇壮である。800年以上の歴史を秘めた伝統ある行事で、昭和28年5月県指定無形文化財に、同52年5月国指定重要無形民俗文化財に指定されています。

高向大社

天平三年(731)に、高向の曽禰處行昭が、初めて祭祀したと神社記は伝えています。祭神はスサノオノミコトと一族七神といわれています。明治41年10月、に鏑社・山神社・八幡社を高向大社に合祀しました。

 鏑社は、貞観三年(861)八月、三津正盛なる人が、鏑矢大明神とし勧請し祀った神社で、加布良社ともいわれ、現在は、跡地に碑が建立されています。

〈伊勢市教育委員会〉高向御頭神事(たかぶく おかしらしんじ)パンフレットより

高向御頭神事(たかぶく おかしらしんじ)パンフレットより〈伊勢市教育委員会〉

由緒

神村社を奉斎した加村は 高向村の枝郷で本村よりさらに西北の宮川沿ひに位置し、年代は不明だが度々の水害によつて早く高向村に移転したと伝へられる、
『高向神社記』に引く「蕪社棟札記」によれば、神村社の創祀について「貞観三年八月五日大雨降洪水時大野大椙本ニ白羽蕪根矢白川流留ル。三津正盛此一筋矢見付我屋持來、其夜大光動、正盛恐テ件矢大椙之邊ニ造社、彼矢神躰祭號蕪矢大明神也。今加牟良社也」と記す。
社料としては「豊受皇太神宮末社」の宇須野社の「鯛祭田之内一石代米納」と、同じく槐本社の御供料麥「十三石」の内二石八斗五升が御供料として充てられてゐる。このことは同じ氏神であつた高向大社が社人二人に十二石宛社料として給し、神事修理のため二町の田があつたことと比較すると違いがよく分かる。このような経営がなされてゐたことは『類聚神祇本源』の外宮別宮編の「長徳三年(九九七)八月田社卅三前」として「神村社」が記載されてゐること、すなはち 外宮の関連の神社として祭祀が行はれてゐたことを一方で裏付けてゐると考へられる。

『式内社調査報告』より

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

神村社かぶらのやしろ加牟良社・鏑社〉の合祀先 高向大社

・髙向大社(伊勢市御薗町高向)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 雷電神社
[ふ り が な ]いかつちの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ikatsuchi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社について

式内社 雷電神社は 旧鎮座地が確定しておらず論社多数あります

(1)度会郡小俣町掛橋 雷電神社 『式社案内記』『神名帳傍註』
(2)度会郡小俣町湯田 湯田神社『伊勢式内神社宮地記』『神宮典略』
(3)度会郡御薗村高向 高向大社『二宮管社沿革考』御巫清直
(4)度会郡御薗村高向 神村社『高向神社祭神考』中東顯煕
(5)度会郡小俣町離宮院跡 官舎神社『伊勢式内神社宮地記』
(6)伊勢市柏町(雷社)『摂末社独案内』

『大神宮叢書 前篇』に記される内容

式内社である雷神社の所在が 不明なのは不思議であり 本来は 現在の・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉が 鳴雷と呼ばれるので雷神社であって
宇治山田神社が 楊田社と呼ばれている もしかすると湯田と楊田が入れ違った可能性があるのでは ないかとも指摘しています

【抜粋意訳】

神宮典略二 内宮宮社下 末社 雷神社

雷神社

帳に、四月例十四日御笠縫内人造奉御抜條に、伊加津知神社見え、建久年中行事記に(六月十五日)御占神態の歌に、奈留伊賀津千毛於利萬志萬世、とよめり。
神名式に度會郡に雷電神社と見ゆ。是の社なるべし。

(外宮の末社に北御門社は若雷神な祭るといひ、また雷神社といふ名見えたれど、官社にあらざれば是にはあらじ。)

當宮の攝社に湯田神社 稱に鳴雷とあれば、此社をかく云つるかと思へど、神名式に湯田社・雷電社と竝ベ載たれば、同社とも定めがたくて別に挙たり。
(今も末社の中に拜所の別處なるも此故なるべし)猶上(湯田社條下)に云べし。按に、帳の宇治山田神社大神宮式に見えず、湯田社と云はあり。官社は延喜の比まで幣帛を奉り給へば、其跡も正しかるべきを、此社のもれたるはいぶかし。
年中行事記に宇治山田神社を楊田社としるせるを思ふに、式の湯田の湯は楊の誤たるにて、楊田ならんかと思へど、諸本みな湯田社とあれば今定めがたし。猶考ふべし。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

『大神宮叢書 前篇』に記される内容

式内社である雷神社の所在が 不明なのは不思議であり 本来は 現在の・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉が 鳴雷と呼ばれるので雷神社であって
宇治山田神社が 楊田社と呼ばれている もしかすると湯田と楊田が入れ違った可能性があるのでは ないかとも指摘しています

【抜粋意訳】

神宮典略二 内宮宮社下 末社 雷神社

雷神社

帳に、四月例十四日御笠縫内人造奉御抜條に、伊加津知神社見え、建久年中行事記に(六月十五日)御占神態の歌に、奈留伊賀津千毛於利萬志萬世、とよめり。
神名式に度會郡に雷電神社と見ゆ。是の社なるべし。

(外宮の末社に北御門社は若雷神な祭るといひ、また雷神社といふ名見えたれど、官社にあらざれば是にはあらじ。)

當宮の攝社に湯田神社 稱に鳴雷とあれば、此社をかく云つるかと思へど、神名式に湯田社・雷電社と竝ベ載たれば、同社とも定めがたくて別に挙たり。
(今も末社の中に拜所の別處なるも此故なるべし)猶上(湯田社條下)に云べし。按に、帳の宇治山田神社大神宮式に見えず、湯田社と云はあり。官社は延喜の比まで幣帛を奉り給へば、其跡も正しかるべきを、此社のもれたるはいぶかし。
年中行事記に宇治山田神社を楊田社としるせるを思ふに、式の湯田の湯は楊の誤たるにて、楊田ならんかと思へど、諸本みな湯田社とあれば今定めがたし。猶考ふべし。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 後篇伊加津知神社に記される内容

次のようにあります

【抜粋意訳】

大神宮儀式解卷第二十四   年中行事井月記   四月例   十四日御衣御笠散奉

伊加津知神社一具(イカヅチノヤシロ ニ イチグ)

伊加津知(イカヅチ)は 雷(イカヅチ)なり。
神名帳、伊勢國 度會郡 雷電(イカヅチノ)神社あり。これ歟。
但下蓑笠奉る社々を見るに、上(菅度會郡神社行事)造宮使造奉る六社の中五社ありて、湯田ノ社無ければ、此處(ココ)に伊加津知ノ社といひしは、湯田ノ社に坐す 鳴震雷ノ神をさしていふにや。此ノ二つの外にはあらじ。惡風雨を停(トド)めん祭なれば、雷電ノ神を祭るはことわりかなへり。大神宮式、御蓑笠奉進の處、此社は見えず。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239705

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 中篇離宮院考証」に記される内容

次のようにあります

【抜粋意訳】

離宮院考証

別當神社

類聚神祇本源に云く。長德ノ檢錄田社に卅三前ノ外。式外ノ社 別當ノ社。(坐に離宮坤方)

神名略記に云く。別雷ノ社 坐すに離宮の坤方に。別雷を作に別當者非也。

按るに別當、別雷未 知ら孰か是なるを、然して當社者 掛橋村の産土神社乎、在りに離宮 舊趾の坤位二町許に。
延喜式神名帳に載す雷電神社を、考証、同再考等以て為すに當社之別號と。

伊勢式社案内記に云く、小俣村の離宮院森の内に石積に祭る神三所有り、最初の石積を雷神社と云、據て考に而不ず辨せ地勢を、漫に為すは虛妄説を、不足を信るに焉。 

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 中篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239731

・雷電神社(伊勢市小俣町本町)

・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

・髙向大社(伊勢市御薗町高向)

・神村神社 旧跡(伊勢市御薗町高向)

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

R23号 宮川ICから西へ約500m 車ですぐ

髙向大社の北側にある 神村神社の旧跡に寄りながら
〈最初は 場所がわからず 髙向大社のすぐ北側のここかと勘違いしました〉

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髙向大社(伊勢市御薗町高向)に向かいます

・髙向大社(伊勢市御薗町高向)


しかし 旧跡なのに石碑もなくて おかしいなと感じながら 帰り際に道路際の鉄塔の下に見つけました
反対車線だったので 撮影なし

神村神社 旧跡(伊勢市御薗町高向)に参着

向きに建つ石柱には「神村神社々地阯」と刻字
牟良神社跡 顕彰碑」があります

牟良神社跡の北側には すぐに宮川が流れています

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豊浜大橋の土手には゛御頭神事禊斎の場゛があります

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案内板には

指定重要無形民俗文化財

御頭神事禊斎の場

宮川は、大台が原山系に水源を発し長さ約百キロメートルといはれ、流域九市町村を経てこの地に至る。
近世の書物に「勅使(ちょくし)参向の時 爰(ここ)に禊(みそぎ)あり又 古(いにしえ)三祭禮の前月、祢宜(ねぎ)の大祓(おおはらえ)もここに勤仕す。諸国より参誰人 此川(このかわ)に浴して、身を清むるもこれにならえり。」とあり伊勢の地に入る前に、宮川にて垢難(こり)が行われていた。又諸国より伊勢参宮をする人に頼まれ代垢難(こり)と云って参宮をする人に代って禊(みそぎ)が行われており、宮川は古(いにしえ)より祓川(はらえがわ)といわれてきた。

高向区には、八百有余年の歴史と伝統ある「御頭神事」が継承されています。
この神祭は、高向大社の例大祭として、毎年二月十一日に斎行され、禊(みそぎ)を受ける奉仕者は、祷屋番を始め祷屋役人及び会所(区長、総代、自治会長)氏子総代、杉大夫(舞手)であり、前日までに宮川の清流にて禊斎(ほうさい)を行い神祭に備えます。従来この禊祭(けっさい)は、浜行きと称し、二見ヶ浦にて行われていましたが、本年より、この地で行うようになった。
平成八年十二月 高向大社

現地案内板より

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 雷電神社について 祭神は別雷神 所在は 離宮院坤方〈度会郡小俣町離宮院跡 官舎神社〉に在す 今存亡詳ならず〈現在は あるかないかもわからない〉と記しています

【抜粋意訳】

雷電神社

雷電は伊加津知と訓べし

祭神 別雷神、神祇本源

〇離宮院坤方に在す、同上 今存亡詳ならず、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 雷電神社について 祭神 所在については何も記されていません

【抜粋意訳】

雷電神社

〇按 延暦儀式帳、雷電を伊加津知に作る
凡 毎年 神衣祭日、笠縫内人蓑笠各一具を奉て、風雨を祈る、延暦儀式帳

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 雷電神社について 祭神 所在については何も記されていません

【抜粋意訳】

雷電神社

祭神
祭日
社格 外宮所攝 天喜十八社之一
所在

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

神村神社 社地跡(伊勢市御薗町高向) (hai)」(90度のお辞儀)

https://www.facebook.com/okasirajinji/?locale=ja_JP

お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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