田村神社(甲賀市土山町北土山)〈征夷大将軍・坂上田村磨呂公を祀る神社〉

田村神社(たむらじんじゃ)は 垂仁天皇45年(西暦16年)甲可翁(こうかのおきな)と云う人が 倭姫命を崇敬し その生霊を鎮祭し 鈴鹿社〈高座大明神と云われた 弘仁三年(812)嵯峨天皇の勅により坂上田村麻呂を神社程近き二子峰に鎮祭し 十三年(822)現地に遷し 鈴鹿社に合祀し 高座田村大明神田村神社と稱しました

御神紋 田村みょうが
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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

田村神社(Tamura shrine

通称名(Common name)

・田村さん

【鎮座地 (Location) 

滋賀県甲賀市土山町北土山469

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》坂上田村麻呂公(さかのうえのたむらまろこう)
嵯峨天皇(さがてんのう)
倭姫命(やのとひめのみこと)

《配》稲倉魂命・大己貴命・国狭槌尊・大山咋神・荒魂

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・厄除の大神
・交通安全の神様

【格  (Rules of dignity) 

・旧 郷社

【創  (Beginning of history)】

由緒

田村神社は 近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 当社の言い伝えによると、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。

田村神社公式HPより
http://tamura-jinja.com/yuisho.htm

【由  (History)】

御由緒

 本神社は垂仁天皇四十五年の創祀と伝えられ、皇女倭姫命、天照大神を奉じ甲可日雲宮に鎮祀しされ、郷人姫命の神功を追慕し生霊を奉祀し以て高座大明神と称す。
 降って弘仁三年嵯峨天皇の勅により坂上田村麻呂を神社程近き二子峰に鎮祭せられ同十三年四月八日高座大明神の傍に一社建て遷宮高座田村大明神と称す。
社殿は古記録によれば天文十一年に再建。天文五年に焼失、延保四年社殿一棟を再建、中左右の三座を設け新に嵯峨天皇を奉祀す。古くは本殿二宇の外攝末社二十四社ありしが現在は本殿及境内社一社を存す。

 社名古くは高座大明神降りて高座田村大明神又は高座神社と称せしが中古後水尾上皇より寛永十五年下賜せられたる額正一位田村大明神とあるにより明治二十年四月六日許可を受け田村神社と改称す。
 皇室の御崇敬に関しては、寛永十五年後水尾上皇より勅額を下賜せられ、文久三年伊勢勅使柳原中納言参拝初穂の献上、明治二十一年有栖川一品親王及大妃両殿下御参拝幣物を賜る。
 武門武将藩主に至りては 寛永二年鍋島侯、享保十三年中山前大納言、同年植村土佐守、明和七年代官多羅尾氏外数十人の参拝あり特に田村麻呂の後裔一ノ関城主田村候代々の崇敬厚く寛永十五年鳥居の寄進其の額は坂上村隆の筆なり、正保四年社殿造営費の寄進、元禄十年田村建顯候参拝太刀及和歌を献じ、宝永五年遙拝殿建設費の寄進、正徳元年太刀を献じ、同三年以後毎年米十石を寄進元禄より宝暦に至る代参六十五回に及び現在におよぶなり。

 一般崇敬に至りては 祭神田村麻呂或時神記して宣く「人民厄難を除き安全を祈る者は毎年正月十八日神前に詣で東の方に向い其の身の年の数を節分の前火豆にて数へ神前に投て災厄を払うべし」と此の神記により現在二月十八日厄除祭を行い参詣者数十万人に及び崇敬講社員は、近江、伊勢、伊賀三国に及び数万戸なり。

厄除の由来

此の祭儀の起源は古く公鈴鹿山道に悪鬼を平定し給いしより、五穀豊熟せず、疫病流行し、弘仁正月詔ありて厄除大祭を挙行せられ、其の霊験いやちこなりしより、厄除の大神と広く厚く崇敬せられた。

神矢の由来

弘仁元年秋九月勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を言向平げ給いて御弓矢を張り給いて申し給うに今や悪鬼もなし之より此の矢の功徳を以て万民の災を除かん此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斎き祀れと放ち給へるに本殿前に落ち不思議や青々芽出したる現存の矢竹であり、茲に大神の御心を心として神矢を謹製賽者之を戴き厄災を祓う深き信仰なり。

滋賀県神社庁HPより
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=589

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・吉崎稲荷神社

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・矢竹

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矢竹(厄除矢)の由来

御祭神 坂上田村麻呂公が、勅を奉じて鈴鹿山中に跋扈し旅人等を悩ます悪鬼 (俗に云う山賊 )を言向け平定された際、御弓矢を張り給いて申された「今や悪鬼も無し、これより此の矢の功德を以て万民の災を除かん。此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斎き祀れ」放たれた矢は、ここ本殿前に落ち不思議なことに青々と芽が出て育ち、現在の矢竹となったと伝えられています。
爾来、田村大神の御心を心として神矢を奉製し、矢の功徳を以て御崇敬者の厄災を祓い開運惠方を導く深き信仰となったのであります。

現地案内札より

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・一願成就の清め道

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・厄落し太鼓橋

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厄落しの由来

由村大神ある夜 夢の中に悪しき年に當るとも諸々の災難を除かんは、社殿前を流る御手洗川に節分の福豆を年の数だけ東に向い祈念をこめて流さば禍は流れ去る、之より厄落しとして己が厄災を祓う事が慣例となる

現地案内札より

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・厄落とし 福豆

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・天満神社・祝谷神社

・神馬像

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・神明石鳥居

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・手水舎

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・拝殿

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・拝殿額゛大名垂宇宙゛

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拝殿に掲げられた「大名垂宇宙」の額

 この額は江戸時代末期に幕臣として活躍した浅野長祚(ながよし)(1816~1880)の書で「大名宇宙(たいめいうちゅう)ニ垂(た)ルル」と読みます。これは中国の高名な詩人である杜甫(とほ)が、後漢末期(三国持代)の名軍師•諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を讃えて詠んだ漢詩に由来し、「諸葛孔明の偉大な名は広く世に知られている」という意味があります。

 浅野長祚は、赤穂藩主であった浅野家の分家の出身で、幕末の混乱した時代にあって、浦賀奉行・江戸町奉行などの要職を歴任しました(通称 備前守(びぜんのかみ)、号 梅堂(ばいどう))。詩文や書画に通暁した趣味多彩な才人で、特に中国書画の研究では当時の第一人者だったと言われています。
 裏面には安政6年(1859)の銘があり、奉納者として「土山但馬正(たじまのかみ)、矢田伊兵衛、立岡長祚に揮毫を依頼し、寄進されたものとかんがえられます。

『たむら』第6号より説明文掲載

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・祈祷殿・授与所・社務所

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・二の鳥居・三の鳥居

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・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

鈴鹿社・田村神社(甲賀市土山町北土山)の創祀について

口伝には 垂仁天皇45年(西暦16年)4月8日 甲可翁(こうかのおきな)と云える人が 天照大神を奉じて甲可日雲宮に鎮祀した倭姫命を崇敬し 今の宮地に神離を建て その生霊を鎮祭して 名づけて鈴鹿社〈高座大明神と云う

社伝には 弘仁元年(810)藤原仲成が乱を起して鈴鹿に據るや 52代 嵯峨天皇の勅を受けて 坂上田村麻呂公が これを討滅す (世に鈴鹿の鬼神と云は之れなり)
田村神社は 嵯峨天皇 弘仁二年(811)辛卯の冬勅願の神社として 二子峯に社殿を創建し 同三年(812)正月十一日厄除の神事あり 弘仁十三年(822)壬寅四月八日 現地に遷し鈴鹿神社に合祀し 田村神社と稱す
嵯峨天皇は 其後に合祀せるものなるべし 其後の沿革明ならず

別説による田村神社(甲賀市土山町北土山)の創祀

゛嵯峨天皇の勅命を受けた坂上田村麻呂公が鈴鹿峠に棲む鬼を退治した゛とある この鬼について

①『御伽草子』などに 退治した鬼の正体は 身の丈30mにもなる大嶽丸
その退治に深く関わったのが鈴鹿峠に棲む 天女の鈴鹿御前とする説
②この鈴鹿御前が 鬼女として名高い存在で これを退治したとしたとする説
③鈴鹿御前は 別名・立烏帽子と呼ばれる鈴鹿峠の女盗賊であったとする説
④女盗賊の立烏帽子が深く信仰していた 鈴鹿峠(鈴鹿山)の山の神であるとする説

等々さまざまな鬼として伝えられています

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鈴鹿峠について〈旧東海道の難所 東の箱根 西の鈴鹿峠

江戸時代に旧東海道の難所であった鈴鹿峠には 鈴鹿峠の山上と 近江側の西麓にあたる土山に それぞれ田村麻呂を祀る「田村社」が存在しました

鈴鹿峠と田村麻呂信仰

近江と伊勢とをつなぐ鈴鹿峠は、箱根とならんで東海道の難所として聞こえてきました。ここは古墳時代の土器が採集されるように、古くから峠として利用されていたことは確実ですが、とくに平安時代の仁和2(886)年、東海道がここを通るようになって以降は、近畿と東海を結ぶ要地として重視されてきました。

鈴鹿峠は都の役人が襲撃されたことが記録されているように、「山賊」の横行することでも都人に恐れられてきました。『今昔物語集』には京都の水銀商いが日ごろ手なずけていた蜂で山賊を撃退する話がのっていますが、実際には「山賊」とは峠を支配し警固する武士であったと考えられています。

さて、この鈴鹿峠をめぐる伝説に、坂上田村麻呂が山賊を討伐したという話があります。

『東海道名所図会』にはこれを「鬼神退治」として描いていて、庶民のあいだにもよく知られた伝説であったようです。そんなわけで江戸時代には峠の上と近江側の麓にあたる土山に、それぞれ田村麻呂を祀る「田村社」が存在しました。後者が現在の田村神社です。

田村麻呂は平安時代の初期に桓武天皇に仕えて蝦夷との戦争に活躍した実在の人物ですが、武勇で知られた田村麻呂への崇敬が、「山賊」という言葉に示される旅路の危難を除けたいと思う庶民の祈りと結びつき、さらにはそれが峠の神の信仰と習合したと解釈されます。

田村神社では、毎年二月に「厄除け大祭」が行われ多くの参詣者で賑わいますが、それは旅路の安全を守る峠の神が、厄除けの神として信仰を寄せられたかたちで、そこに古代から現代に至る鈴鹿峠の長い歴史と、田村麻呂によせる庶民信仰の推移をうかがうことができます。

甲賀市役所 歴史文化財課 普及活用係HPより
https://www.city.koka.lg.jp/4772.htm

鈴鹿御前(すずかごぜん)の伝承について

鈴鹿山が神格化された〈山岳信仰〉女神とされています 時代の経過とともに倭姫命(やまとひめのみこと)とも同一視されて祀られました

鈴鹿山に住んでいたという伝承上の女神・鈴鹿姫・鈴鹿大明神・鈴鹿権現・鈴鹿神女とも称されています

 後世には 鈴鹿山の盗賊 立烏帽子(たてえぼし)とも同一視されて・女盗賊・鬼・天の魔焰(第六天魔王もしくは第四天魔王の娘)とも記されています
 室町時代以降の伝承では ほとんどが鈴鹿峠で 坂上田村麻呂公と一対の夫婦神として信仰されています

亀山のむかしばなし 立烏帽子(たてえぼし)

 鈴鹿山(すずかやま)にあらわれたという女(おんな)の山賊(さんぞく)で、大変(たいへん)美(うつく)しい人(ひと)であったといわれます。
「鈴鹿御前(すずかごぜん)」ともよばれ、鈴鹿山(すずかやま)の山賊(さんぞく)のかしらである悪路王(あくろおう)の妻(つま)でした。天皇(てんのう)の命令(めいれい)で立烏帽子(たてえぼし)を退治(たいじ)にきた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のことが好(す)きになり、田村麻呂(たむらまろ)が悪路王(あくろおう)をうちとるときに手(て)を貸(か)したと言(い)います。もとの話(はなし)は、『御伽草子(おとぎぞうし)』という本(ほん)にのせられていますが、いろいろな形(かたち)の話(はなし)があり、数多(かずおお)くの演劇(えんげき)や小説(しょうせつ)などにとりあげられています。

亀山市歴史博物館HPより
https://kameyamarekihaku.jp/kodomo/w_e_b/hanashi/mukashi/touzoku/page002.html

鈴鹿社と田村社について

鈴鹿山には 鈴鹿御前と坂上田村麻呂公を祀る神社が鎮座します

鈴鹿峠には 片山神社〈鈴鹿大明神〉亀山市関町坂下田村神社旧跡〈田村祠・田村明神〉(現 片山神社の境内 愛宕社)が鎮座します

・鈴鹿山の鏡岩 (鏡石・鏡肌)

〈鈴鹿山の山頂にある巨岩 三重県指定天然記念物〉

・田村神社旧跡〈田村祠・田村明神〉 (現 片山神社の境内 愛宕社

〈坂上田村麻呂が弓箭を納めたところに文室綿麻呂が祠を建てたと云う〉

鈴鹿峠に祀られる 片山神社〈鈴鹿大明神〉亀山市関町坂下)〈鈴鹿峠の田村社の合祀先〉について

・片山神社(亀山市関町)
平成11年(1999)放火により焼失(神楽殿を残して本殿瓦解)境内は跡地のようになっていました

鈴鹿山西麓に祀られる 田村神社(甲賀市土山町北土山)について

又 鈴鹿山西麓(滋賀県甲賀市土山町北土山)には 田村神社(甲賀市土山町北土山)が鎮座しています

・田村神社(甲賀市土山町北土山)

 

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

新名神高速道路 甲賀土山ICからR1号経由で約5.4km 車10分程度

旧東海道と現在の国道1号線の交わる所に一の鳥居が建っています

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田村神社(甲賀市土山町北土山)に参着

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一礼をしてから参道を進みます この参道そのものが 旧東海道となっています

車は 神社の西側にある駐車場へ ここから拝殿の前迄 参拝道が設けられています

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境内に入ると 正面に拝殿があり 左側〈西側〉に社務所が建てられています

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には すぐに本殿はなく とても離れていますので 改めて参道を進むことになります

神明石鳥居をくぐり抜けて参道を進みます

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厄落し太鼓橋があり 福豆で厄落とし を祈願

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石畳みの参道は 微妙に折れながら 本殿へと続いていて 参拝者が正中を進まないように配慮がなされています

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本殿の拝所にすすみ

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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本殿の拝所のすぐ横に゛吉崎稲荷大明神゛の祠が祀られています

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本殿の前方には 社の横を流れている゛田村川゛にて゛清め゛が行えるように 田村川までの゛一願成就の清め道゛と云う道が設けられていました

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新撰近江名所図会』〈明治42年(1909)〉に記される伝承

【抜粋意訳】

甲賀郡 田村神社

 土山村大字土山にあり 垂仁天皇四十五年 甲可の翁と云へる人あり 倭姫命を崇敬し 今の宮地に神離を建て 其生霊を祭り名づけて鈴鹿社と云ふ
弘仁元年 藤原仲成 亂を起して鈴鹿に據るや 田村麻呂 勅を受けて之を討滅す (世に鈴鹿の鬼神と云は之れなり)
 時に疫病天下に流行し 殊に鈴鹿以西の諸國に多く万民死する者甚多し 是れ或は 賊徒仲成の執心あらんとて 是に於て 祠を二子山上に建て 田村麻呂の神霊を祭り 除厄の神事を行ひしかば 疫病忽ち屏息し 万民始めて安堵の思あり 其後 神異度々ありしを以て 弘仁十三年 今の地に遷宮し 鈴鹿社と合祀し 神號を正一位高座大明神と稱し 嵯峨天皇勅願所となる 以後每年舊暦正月十八日を以て除厄の神祭を行ふ 此日は男女厄年に當るもの 遠近より賽して境内頗る繁盛なり 又 古來 伊勢参宮して 此地を通過する者 必らず當社に詣して 除災を祈るを例とす

【原文参照】

清水新兵衛 編『新撰近江名所図会』,文泉堂,明42.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765758

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

滋賀縣之部

〇滋賀縣 近江國甲賀郡土山村大字北土山

郷社 田村(タムラノ)神社

祭神 坂上田村磨(サカノウヘノタムラマロ)
   嵯峨(サカ)天皇
倭姫(ヤマトヒメノ)命

 田村磨呂 左京大夫刈田の子なり身長五尺八寸胸の厚さ一尺二寸容貌魁偉髯針の如し、延暦年中 從五位下 近衛將監に任せられ内匠助兼ね累遷して近衛少將  越後守となる俄に征夷副使となりて 大將軍大伴弟磨と蝦夷を討つ、殺傷甚だ多し、功を以て從四位下に進み 木工頭を兼ぬ、奧羽按察使兼陸奥守鑽守府將軍に任せらる、尋いで征夷大將軍に拜す、二十年蝦夷陸奥復反す、朝廷節刀を授けて之を討たしむ、凱旋の日 從三位に叙せられ近衛中將に遷る、二十一年澤城を城きて蝦夷を鎮す、翌年復陸奥に之き志度城を築く、發する時 刑部卿となる、

 既にして嵯峨天皇の朝に至り、平城上皇藥子の言に迷ひて、天皇の左右 田村磨等の甘心を買はんとす、天皇之を聞きて、田村磨を大納言に進めて、以て其心を固うす、上皇兵を起して東せんとす、百官之に從ふ、天皇乃ち坂上田村磨、文屋綿磨をして美濃路を塞がしむ、既にして亂平ぎ 弘仁二年栗田別業に薨ず、年五十四、帝爲に朝を見ざる事一日、人を遺して邸に至り 從二位を授く、宇治郷の地方三丁を賜ひて墓を作る、屍を棺中に立て、平安城に向けて葬る、此後事あらんとする時は必ず鴨動すといふ (大日本史)、

 創祀は、垂仁天皇四十五年四月八日、甲賀の翁といふもの倭姫命を當地に祀りしに起る、之を鈴鹿神社といふ、田村神社は、嵯峨天皇 弘仁二年辛卯の冬勅願の神社として、二子峯に社殿を創建し、同三年正月十一日厄除の神事あり、弘仁十三年壬寅四月八日、現地に遷し鈴鹿神社に合祀し、田村神社と稱す、嵯峨天皇は其後に合祀せるものなるべし、其後の沿革明ならず、
 後奈良天皇 天文十年領主佐々木義實 再建の事あり (輿地志略・社記参取)、明治九年十月村社に定まり後郷社に列す、境内二千九百十五坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拜殿其他神樂般、神門 ,社務所等の建物を具へたり、附近蟹坂に蟹城あり、田村磨誅する所の賊を埋むと、又曰く大蟹を埋むと、未だ其何れか是なるを知らず。 

境内神社  吉崎(ヨシサキノ)神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

田村神社(甲賀市土山町北土山) (hai)」(90度のお辞儀)

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近江国の式内社 155座(大13座・小142座)についても参照ください

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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