玉前神社(たまさきじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される名神大社で 上総国一之宮とされる格式高い由緒を持ちます しかし 永禄年間(1558~1570)大きな戦火にかかり 社殿・宝物・文書の多くを焼失しており ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていません 神武天皇の御代 あるいは景行天皇の御代の創立と伝えられます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
玉前神社(Tamasaki Shrine)
(たまさきじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
千葉県長生郡一宮町一宮3048
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》玉依姫命(Tamayorihime no mikoto)
※ 異説あり
『長生郡郷土誌』には
1基は 玉前大神(タマサキノオオカミ) もう1基は 玉依姫 と記されます『日本三代実録』には 玉崎神(タマサキノカミ)と記されます
由緒には 永禄年間(1558~1570)大きな戦火にかかり 社殿・宝物・文書の多くを焼失しており ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていません
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・子授け Children will be born as desired
・安産 Healthy childbirth
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・厄除け Prayer at an age considered a milestone in life
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 上總國一之宮(Kazusa no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
ご祭神 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
玉依姫命は 海(龍宮)よりこの地におあがりになり、姉神 豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)より託された鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)をご養育、後に命を結 婚されて初代天皇 神武帝をお産みになられました
ご祭神が 私達の生活全般をお守りくださるのは勿論ですが わけても安産・子育てのお働きに象徴される女性の守護神として、また「龍宮」の意味する豊かさや喜びをもたらし 男女をはじめ 人のご縁を結ぶ神として古くより信仰されています
ご由緒
創始は 古く詳らかではありませんが、延喜式内名神大社、また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも重きをおくべき神社とされていました 明治4年には国幣 中社に列しています
昭和23年に当時皇太子であられた今上陛下がご参拝、同28年には昭和天皇、平成4年には今上陛下より幣饌料を賜りました
また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田15石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした
ご例祭
9月13日 ご例祭と神幸祭
大同2年(807)に始まったと伝えられる当地方で最も古い浜降神事です 「上総の裸祭」といわれ、ご祭神 由縁の釣が崎海岸に12柱の神々が集われる壮大な祭儀です 裸の男達が神輿を奉じて九十九里浜を疾走します
文化財
国指定重要文化財「梅樹双雀鏡」県指定有形文化財「玉前神社社殿」などがあり県指定無形民俗文化財「上総神楽」は300年の伝統をもち現在でも年7回奉納されています境内案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
一宮町は房総半島九十九里浜の最南端に位置し、一年を通して寒暑の差が少なく温暖な気候に恵まれた土地で、縄文弥生の頃から人々の営みがあったことが遺跡や貝塚などによって明らかにされています。
歴史の古いこの一宮町の名称の由来となった玉前神社は 上総国にまつられる古社であり、平安時代にまとめられた『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』では名神大社(みょうじんたいしゃ)としてその名を列せられ、全国でも重きをおくべき神社として古くから朝廷・豪族・幕府の信仰を集め、上総国一之宮(かずさのくにいちのみや)の格式を保ってまいりました。
しかしながら 永禄年間の大きな戦火にかかり、社殿・宝物・文書の多くを焼失しており、ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていませんが、毎年9月10日から13日に行われるご例祭には少なくとも1200年の歴史があり、移りゆく時代に少しずつその形を変えながらも、古代からの深い意義を連綿と守り伝えてきたことを何よりの宝物として、この郷の人々と共に大切にしています。
「上総の裸まつり」「十二社まつり」と称されるこのお祭りは房総半島に多く見られる浜降り神事の代表として広く知られ、壮大な儀礼をひと目見ようと、関東一円から大勢の人々が集います。公式HPより https://www.tamasaki.org/yuisho/index.htm
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・十二社(ジュウニシャ) ※一宮町内の12神社を合祀
《主》大山咋命・木花開耶姫命・櫛御食野命・軻遇突智命・白山比咩命・大山祇命・事代主命・少彦名命・誉田別命・大物主命・賽神三柱・罔象女命
・三峯神社(ミツミネジンジャ)《主》日本武尊尊(ヤマトタケルノミコト)
・招魂社(ショウコンシャ)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える玉前神社(タマササノカミノヤシロ) 一座 上總国(カズサノクニ)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上総国 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埴生郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 玉前神社(名神大)
[ふ り が な ](たまさき の かみのやしろ)(みょうじんだい)
[Old Shrine name](Tamasaki no kamino yashiro)(Myojindai)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
創建に関わる「日本武尊の伝承」を伝える 境内「天乃真名井」について
石碑に刻まれている碑文です 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の白鳥伝説 に基づく神社創建の伝承の内容です
この天乃真名井は 玉前神社創祀のものである
伝によれば 日本武尊は東征を果たし都へ帰る途中 伊吹山で敢え無く最期を遂げられた
そして 一羽の白鳥と化して 弟橘姫命の亡くなったこの上総の地へ飛来した玉前神社の上空を舞っていたとき 一枚の羽が この井戸へ吸い込まれていった
そのとき突然 太東岬の近くにある湖へ 一羽の雌の白鳥が現れ 上空を舞っていた白鳥を呼ぶのであった
これを知った白鳥は すぐその湖に飛んでいき湖上の白鳥と仲むつまじく泳いだ
日が沈みかけると 白鳥は西の空へと飛んで行き 残った雌の白鳥は 弟橘姫命の化身であろうといわれている以来 この井戸を白鳥の井と称されるようになった
この井戸は 太東岬の湖に通じており いかなる旱魃でも涸れることがない
昭和62年12月17日千葉県東方沖地震により この井戸も崩壊したため ここに改修をして 往昔の姿をとどめるものである平成元年4月吉日 玉前神社
玉前神社の本宮とされる「玉崎神社(タマサキジンジャ)〈中原〉」について
この「天乃真名井」伝承にある「太東岬の近くにある湖」は 現在の大東漁港の西にある「中原堰」「椎木堰」を差しているであろうことは推測できます
この湿地帯の中心部に 大正時代迄は 玉前神社の本宮とされていた神社があります
・玉崎神社(中原)〈玉前神社(一宮町)の本宮とも伝わる〉《参考論社》
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玉﨑神社(中原)「玉前神社(一宮町)」の本宮であると云われます
玉﨑神社(たまさきじんじゃ)は 長生郡一宮町の玉前神社(一宮町)の本宮であると云われています 1200年以上前に 西方より渡ってきた物部氏一族が 和泉浦に創建した歴史ある古社で かつては安房神社 香取神社と並び房総の3大神社と称されたと伝わります 現在でも9月13日に行われる十二社祭りの本宮にあたります
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玉前神社の元宮とされる「神洗神社(カミアライジンジャ)」について
社伝では
「神代の昔、ご祭神が海から上陸された時その身体〈髪〉を洗われたと伝えられる池が 参道左に見え神洗池と称されている。」
・神洗神社(一宮町綱田)〈玉前神社(一宮町)の元宮とも伝わる〉
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR外房線下車 徒歩 約500m 6分程度
駅から道の途中には 昭和20年以前の社号標「國幣中社 玉前神社」が建ち かつて駅からの参道であったことが窺えます〈一の鳥居が建っていたそうです〉
県道228号を100m程北上すると玉前神社前の交差点の入口を左折します
社頭の朱色の鳥居が見えてきます
境内は玉垣が廻されていて 社頭には朱色の鳥居が建ち その横には「上総国 一之宮 玉前神社 神社本庁統理 徳川宗敬謹書」と社号標に記されています
一礼をして 鳥居をくぐり 境内へ進みます
玉前神社(Tamasaki Shrine)に参着
境内には石畳みの参道が続き 二の鳥居があり 扁額は「玉前神社」とあり 脇には「天乃真名井」御神水 その先に狛犬 手水舎があり 清めます
丁度 平成の大修理の期間で 漆黒〈漆塗り〉の拝殿は見れませんでしたが
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿は 平成の大修理の覆い囲われていますが 本殿は良く見えると案内があり奥に回ります
すると 見所が色々とあります 順にご紹介します
「平 廣常 顕彰碑」があり 混沌とした鎌倉時代の幕開けの一場面が切り取られて 興味を引きます
平廣常 顕彰碑
町内の高藤山城が居城と伝えられている上総権介平朝臣廣常は、三代に亘り上総國を支配した武将である。源頼朝が鎌倉幕府を興す際の功労者の一人であったが、謀反の企てがあると頼朝が疑心を懐き、かつまた、生来の傲慢さも不興をかって寿永二年(一一八三)十二月に謀殺された。しかし、実のところは同年七月に廣常は当社に鎧一領とこの石碑に記された書状を添えて、頼朝の心願と東国太平を祈願していたのだった。
石碑は廣常の玉前神社への篤い信仰を顕彰したもので、表に当社への祈願文を、裏には廣常の行跡が記されている。
この文書や鎧は戦国期の戦乱で焼失した。
平成11年9月 玉前神社
「芭蕉の句碑」があり 地元の俳人「金波」の一門が立てたものらしい
一宮町指定文化財(史跡) 芭蕉の句碑
この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(一六八八)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左端には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」の句を発句とする表十句を刻んである。
背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金並みの芭蕉景仰の漢文銘画あり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛 とあり、上総千町村(現茂原市千町)の俳人起名庵金波 河野五郎兵衛」一門によって建てられたもので、書も金波といわれている。
金波は文化元年(一八〇四)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永五年(一八五二)千町村の河野家の養子として迎えられ明治二十年八十四歳で没した。
平成5年8月31日 一宮町教育委員会
「はだしの道」という場所があって
古墳の周囲に玉砂利が敷いてあります この道を裸足で回るようで”時計回り”に三周して願い事をするようです
漆黒の本殿を仰ぎ見ます 丁度ご神職の御子息にお逢いして この修理にお父上が尽力されていて 総漆塗りの大修理に莫大な費用がかかり 皆さんに御寄進を頂いていることなどを伺い お気持ちだけを納めさせていただき 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
玉崎神(タマサキノカミ)と表記され 神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観10年(868年)7月27日 戊午の条
授(サズク)に
伊豆国
正4位下 三島神 従3位上総国
従5位上 勲5等 玉崎神(タマサキノカミ)に 従4位下飛騨国従5位上 水無神 正5位下
【意訳】
元慶元年(877年)5月17日 丁巳の条
授(サズク)に
上総国(カズサノクニ)
従4位上 勲5等 玉埼神(タマサキノカミ)に 正4位上
従5位上 勲5等
姉前神 島穴神 飫富神 橘樹神
並 正5位下従5位下 神氏神 従5位上
【意訳】
元慶8年(884年)7月15日 癸酉の条
授(サズク)に
武蔵国
正5位上 勲6等 畔切神 従4位下
従5位上 小野神 正5位上上総国(カズサノクニ)
正4位下 勲5等 玉崎神(タマサキノカミ)に 正4位上正5位下 勲5等 姉前神 橘神 飯富神
並 正5位上正6位上 建市神 田原神
並 従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
忌部の玉作に関連する神社と推論しています
【意訳】
玉前神社 名神大
『日本三代実録』
貞観10年(868年)7月27日戊午の条 玉崎神(タマサキノカミ)に従4位下元慶元年(877年)5月17日丁巳の条 玉埼神(タマサキノカミ)に正4位上元慶8年(884年)7月15日癸酉の条 玉崎神(タマサキノカミ)に正4位上
『新撰姓氏録』449
忌玉作 高魂命孫 天明玉命の後也『古語拾遺』
太玉命 乃率 神名 櫛明玉命著聞
延久2年8月2日 上総国一ノ宮の御託宣に懐妊の後 既に3年に及ぶ
今 明玉国を治める時に のぞみて 若宮を誕生すと 仰られけり これによりて 海浜を見れば 明珠一頸ありけり
御正体に違うことなかりける〇今 一宮村に在す
扶見25
元暦元年正月の条に云う
8日 上総国 一宮の神主等申し云々 願書云う 敬白 上総国一宮 宝前云々 治承6年7月日 上総権介平朝臣廣常永万
玉崎社〇国人云う 今 属すのは 長柄郡
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
祭神を 前玉命(サキタマノミコト)と記しています
【意訳】
玉前神社 名神大
玉前は 多麻佐岐(タマサキ)と訓ずべし
〇祭神 前玉命(サキタマノミコト) 頭注
〇一宮本郷村に在す 今 長柄郡に属す 地名記
〇当国 一之宮なり 一宮記
〇延喜式三巻 臨時祭 名神祭285座 上総国 玉前神社 一座〇旧事記 神代本記 振魂尊 見前玉命 掃部連等祖
神位
貞観10年(868年)7月27日戊午の条 玉崎神(タマサキノカミ)に従4位下元慶元年(877年)5月17日丁巳の条 玉埼神(タマサキノカミ)に正4位上
元慶8年(884年)7月15日癸酉の条 玉崎神(タマサキノカミ)に正4位上託宣
古今著聞集に云う
延久2年8月3日 上総国一ノ宮の御託宣に 懐妊の後 既に3年に及ぶ
今 明王国を治める時に のぞみて 若宮を誕生すと 仰られけり これによりて 海浜を見れば 明珠一頸ありけり 御正体に違うことなかりける雑事
扶桑見聞私記 元暦元年正月8日 上総国 一宮の神主等申し云う 中略 小桜盛りなり 廣常が納めたる鎧なり 一封の状を高紐に結び付けたり 願書云う 敬白 上総国一宮 宝前云々 治承6年7月日 上総権介平朝臣廣常
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【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)完成 に記される内容
祭神を不詳としています
【意訳】
玉前神社 名神大
祭神 不詳
神位
清和天皇
貞観10年(868年)7月27日戊午の条 玉崎神(タマサキノカミ)に従4位下陽成天皇
元慶元年(877年)5月17日丁巳の条 玉埼神(タマサキノカミ)に正4位上
元慶8年(884年)7月15日癸酉の条 玉崎神(タマサキノカミ)に正4位上社格 國幣中社
所在 一宮本郷村(長生郡一宮村)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
玉前神社(Tamasaki Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)