高鴨神社(たかかもじんじゃ)は 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)別名 迦毛之大御神〈かものおほみかみ〉を祀ります 記紀神話に 大御神と名のつく神は 天照大御神 伊邪那岐大御神と同神の三神のみ 死した神々をも甦えらせる御神力の強き神で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高鴨神社(Takakamo shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
奈良県御所市鴨神1110
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)
〈迦毛之大御神〉〈かものおほみかみ〉
《配》事代主命(ことしろぬしのみこと)
《配》阿治須岐速雄命(あじすきはやをのみこと)
《配》下照姫命(したてるひめのみこと)
《配》天稚彦命(あめのわかひこのみこと)
《配》七十五座(神名秘伝)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・神恩感謝 ・家内安全・病気平癒 ・商売繁盛 ・交通安全 ・安産祈願
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
本 殿 国指定重要文化財 天文十二年(室町時代1543年)再建
御祭神
・阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこねのみこと)
〈迦毛之大御神〉〈かものおおみかみ〉・事代主命(ことしろぬしのみこと)
・阿治須岐速男命(あじすきはやおのみこと)
・下照姫命(したてるひめのみこと)
・天稚彦命(あめのわかひこのみこと)当地は少なくとも縄文晩期より集落が形成され祭祀が行われていたことが、近年の考古学調査で明らかとなっております。
当高鴨神社は全国鴨(加茂)系の神社の元宮で、古代より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。主祭神の阿遅志貴高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され、この大御神と名のつく神様は記紀には天照大御神、伊邪那岐大御神と三神しかおられず、死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。
迦毛之大御神は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまで約三百社でお祀りされており、妹神の下照姫命は全国、約百五十社でお祀りされております。福島県一宮の都々古別神社、栃木県日光の二荒山神社、高知県一宮の土佐神社、関東方面では秋葉神社等、鴨と名の付かない神社も数多くあり、伊勢の皇大神宮の摂社の中にも鴨神社が祀られております。
「カモ」は「カミ」の語源の一つと考えられており、「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出しているさまを表しております
県内には延喜式内社が二百十六社あり、その中でも特に霊威が強く月次、相嘗、新嘗の祭りに官幣に預かる名神大社は僅か十二社しかありません。
その内の五社(高鴨神社・高天彦神社・一言主神社・鴨都波神社・葛木坐火雷神社)がここ葛城地方にかたまっております。
当時、この地方が朝廷を始め国家にとって重要な放置を占めていたことがわかります。一つの理由として背後の山と深い関係があります。
金剛山は明治四年までは女人禁制の霊山で、役行者・行基・円光・道鏡などが修行した山です。葛域の峯(現在の金剛山・葛城山など)には霊力の強い神々が住み、そこで修行をすればその神々の験力を得られるとされ、験力を修めた者のことを修験者(行者とも)と呼ばれました。寄贈 御所ライオンズクラブ 平成二十四年四月 改建
現地案内板より
高鴨神社
「延喜式」に 大和 葛上郡一七座の一 で 高鴨阿治須岐宅彦根命(たかがもあずすきたかひこねのみこと)神社 四座とある
名神大社に列せられ 月次 相嘗 新嘗の祭がある
祭神は 高鴨阿治須岐宅彦根命
本殿は 三間社 流造 桧皮葺き 左扉の裏に「天文12年(1543)3月13日」の墨書があり 構造 形式ともに室町時代の建立とされる
明治35年に 国宝に指定されたが 現在は重要文化財
向拝の正面に 唐破風のつけられているのが珍らしい
また 吊鐘は 延宝7年(1679)に鋳造きれ 爾来 一日七度 300年以上にもわたって時を告げて「高鴨の時報」として名高い御所市 財団法人 観光資源保護財団
現地案内板より
【由 緒 (History)】
ご由緒について
この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で 本社は その鴨族が守護神として祀った社の一つであります
『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、 最高の社格をもつ神社でありました。
清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の 御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
弥生中期、鴨族の一部は この丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。
そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・ 播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。
中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。公式HPより
由緒
御祭神 味鋤高彦根命は、出雲の大国主神の御長男に座し、遠い神代の昔、御父神を援けて、諸国を廻り、山野を開拓して、人民に農業の道を教え、我が国文化の発展に大きな功績を残し給うた神でありますが、その御神徳の広大なことは、その御神名によるも、充分拝察されるのであります。
而して大神は、その後御父神にすすめて、天孫に此の国土を奉り給ひ、御親らは、皇室の近き守り神として、大和の葛城の鴨の地に御鎮りになりました。
ところで、当御鎮座の地は、大神が、当国御経営の際、久しく駐り給うた御遺跡でありまして住民等は大神を敬慕するの余り、大宮の跡に斎場を設けて、只管、大神をお祀り申し上げて居たのであります。
即ち、当神社は、遠く神代の昔から、現在地に鎮座されて居る当国有数の古社であります。
そこで雄略天皇の御代、大和国高鴨神社の氏人鴨氏の一族が此の地に移住し、更にその氏神の御分霊を奉斎し、高鴨神社と称し奉りました。
而して、当社は、古来周布郡の惣鎮守と崇められ、平安時代には、既に官社に列せられ、鎌倉時代には、伊予国官社30社中第七位に居り(六位迄が、国府の所在地越智郡の神社、伊曽乃神社は、十二位)建長7年10月伊予国田所長官紀木工じょうより、其筋へ提出した伊予国免田注進記(越智郡桜井町国分寺蔵)によれば、高鴨寺神宮寺領三町、大般若田一町、金剛般若田3町2反、臨時田3町40歩、合計10町2反40歩の田地を供進して居るのであります。是を見ても、国司守護等の崇敬厚く、又地方信仰の標的たりし大社であったことは明かであります。室町時代 土佐長曽我部氏の1族、周布郡千足山村黒川に移住し、黒川氏を称しました。肥前守元春に至り、剣山城(石根村妙)を築き、1郡を征服して領主となりました。
時に当神社が祖国の一の宮と同神なる故に、之を崇敬して、己の産土神とし、且、当郡六郷の惣鎮守と定めました。
斯くして、天文元年親ら本殿を造営し、是を機会に、石田村徳増氏、北条村武方氏両人を、土佐へ遣し、同国一宮の御分霊を迎えて合祀いたしました。
尚、此の御神霊は、本殿が完成する迄の間、徳増氏の邸内に御鎮座になって居たので、同家には、御輿掛石、御供水の泉、御神馬塚等の御神跡が残り、斯る関係を以て、石田村内で徳増氏のみは、今に至るも、当社を氏神と称え、大祭には、神輿を迎え奉って、昔ながらの敬拝を捧げて居ります。ところで、黒川氏の2代は、対馬守通俊と称し、其の子に備後神通あき有り、更にこの通あきの子を美濃守通広と云いましたが、夫々相継いで信仰し、或は社領を寄進し、或は甲冑刀剣を奉納し、或は、臨時金穀を供進し、其の上祭祀には必ず親ら奉幣するのを例とされました。
而して、その祭儀の、鄭重荘厳であったことは、天正5年神主須藤吉正(現宮司鴨氏の先祖)の録した御頭文(祭祀の準備儀式、祭礼当番の事務に就て詳記したもの)に詳悉せる所であります。天正13年秋豊臣太閤の四国征伐に際し、剣山城主黒川五右衛門尉通貫、開城して此の地を去るに及び、従来の制度全く弛緩いたしました。
依って、六郷の氏子分離し、神領滅失して、社運大に衰えました。
寛永13年一柳蔵人直頼、此の地1万石を領し小松に館するに及び、亦先例に遵い当社を以て、産土神とし、社領として毎年米5石を供進し、社殿を修し、物資を納め、親しく参拝し、或は、代参を以て奉幣する等、尊信頗る深いものが有りました。斯くすること、直頼、直治、直卿、頼邦、頼寿、頼欽、頼親、頼紹、頼明に至る9世連綿継続したのであります。就中、頼紹は、27回、頼親は17回もの多きにわたって親拝した事実が有ります。
又何れの領主に於ても、初めて入部した時、及参観のため東上する時、又帰国した際には必ず奉幣し、且毎年の大祭には、奉行に代拝させるのを例として居りました。斯様に、領主の崇敬深厚なことは、比類稀なところであります。弘化5年 神主従五位下鴨重忠、大宮司に補せられ、嘉永元年6月18日には、神階正一位を授けられました。
此の時、領主頼紹は、雄剣一口及龍馬一頭代金百両を奉納したのであります。明治4年廃藩置県となり、9代の領主従五位一柳頼明、東京に転住するに及び、当社又衰微するに至りました。
明治5年五月郷社に定められ、同43年4月神饌幣帛料供進神社に指定せられました。
然るに、昭和20年肇国以来未曾有の敗戦の結果、占領軍から発せられた神道指令によって、明治以来の社格待遇が廃止せられ、爾来、公共団体との関係を全く絶って、神社本廳に属する宗教法人として、今日に及んで居ります。斯くの如く、当社は、古来光彩ある歴史を有し、且、4千坪を越える広大な境内山中には、大桧老杉欝蒼として天を摩し、荘重なる社殿と相俟って、実に、賽者の襟を正さしめるものがあります。又神苑には、櫻楓多く、春秋の美観は、筆舌に尽すことが出来ません。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
スポンサーリンク
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・祓戸神社〈鳥居横に祀られる〉
《主》大直日神(おおなおひのかみ)神直日神(かみなおひのかみ)
伊豆能売神(いずのめのかみ)底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
〈本殿向かって右手に祀られる境内社〉
・市杵島姫命神社《主》市杵島姫命
・東神社 奈良県指定文化財《主》天兒屋根命 天照大御神 住吉三前大神
・佐味護国神社《主》護國の英靈
・大山咋神社《主》大山咋命 御歳大神と伝えられる
・春日神社《主》建御雷命
・大黒石
・雷神社《主》火雷命
・細井神社《主》水波能賣命
・西佐味神社《主》高木大神 闇龗大神 高龗大神 十二將軍大神
〈本殿向かって左手に祀られる境内社〉
・八幡神社《主》誉田別命
・一言主神社《主》事代主命
・猿田彦神社《主》猿田彦命
・聖神社《主》大物主命
・稲荷神社《主》宇賀御魂命
・金毘羅神社《主》大己貴命
・八坂神社《主》素戔嗚命
・牛瀧神社《主》豊岡姫命
・西神社《主》多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)天御勝日女命(あめのみかちひめのみこと)瀧津彦命(たきつひこのみこと)塩治彦命(やむやひこのみこと)
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
高鴨社(たかかものやしろ)四座
絹(キヌ)8疋 絲(イト)12絇 綿(ワタ)12屯 調布12端 唐布6段8尺 木綿6斤10両 海藻8斤8両 凝海藻(コルモハ)8斤10両 塩4斗 筥4合
瓼(サラケ)缶(モタイ)水瓫(ホトギ)山都婆波 小都婆波 筥瓶酒垂匜等 呂須伎高盤片盤 短女杯(ヒキメツキ)筥杯小杯酒浅陶曰 各8口 酒稲200束 正統
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
高鴨神社 四座
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)葛上郡 17座(大12座・小5座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座(並名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](たかかものあじすきたかひこねのみことの かみのやしろ しくら)
(ならびにみょうじんだい つきなみ あいなめ にいなめ)
[Old Shrine name](Takakamo no ajisukitakahikone no miko no kamino yashiro shikura)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式』〈延長5年(927)〉巻八『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される伝承
【抜粋意訳】
延喜式 巻8 神祇 祝詞 出雲国造神賀詞
「その時 大穴持命は 御自分の和魂を 倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱え 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す」と記されます
【原文参照】
スポンサーリンク
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される
大穴持命が〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた4つの神社と御自分の鎮まる出雲大社について
⑴
御自分の和魂祀る 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗
・大神神社(桜井市三輪)
⑵
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
・高鴨神社(御所市鴨神)
⑶
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社 大
・河俣神社(橿原市雲梯町)
⑷
賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 高市郡 飛鳥坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
・飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)
・酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧鎮座地〉
⑸
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉出雲國 出雲郡 杵築神社 名神大
・出雲大社(出雲市)
詳しくは
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京奈和自動車道 五條北ICから R24号を北へ 県道30号を北へ 約2.6km 車5分程度
朱色の鳥居に「高鴨神社」の扁額
高鴨神社(御所市鴨神)に参着
一礼して 鳥居をくぐると 右手には社務所 左手に池と手水舎があり 清めます
池には 舞台があります
参道を進むと 右手に御神木の大杉 その先に 二の鳥居が建ちます
一礼をして 二の鳥居をくぐり 階段を上がり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 本殿が鎮座します
本殿の東西に それぞれ境内社が祀られていますので お詣りをします
絵馬堂には 鴨の絵馬が奉納されています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
【抜粋意訳】
大国主神(おおくにぬしのかみ)系譜〈迦毛大御神(かものおほみかみ)〉の段
大国主神(おおくにぬしのかみ)が
胸形(むなかた)〈宗像〉の奥津宮(おきつみや)に坐(ましま)す 多紀理毘売命(たきりびめのみこと)を娶り産んだ子は
阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)
次に妹の高比売命(たかひめのみこと) 亦名(またのな)は 下光比売命(したてるひめのみこと)
阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)は 今は 迦毛大御神(かものおほみかみ)と申す神なり大国主神(おおくにぬしのかみ)が
神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)を娶り産んだ子は 事代主神(ことしろぬしのかみ)
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と天稚彦(あめのわかひこ)の容姿が瓜二つ〈そっくり〉であった と記されています
【抜粋意訳】
日本書紀第二巻 神代下 第九段 本文 天稚彦の弔い
以前から、天稚彦(あめのわかひこ)が 葦原中国(あしはらのなかつくに)にいたとき 味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と友善〈友情を育んでいた〉
味耜は婀膩須岐(あじすき)と読みますそこで味耜高彦根神は 天に昇って 天稚彦を弔(とむら)いました
この神〈味耜高彦根神〉の容姿形(すがたかたち)が 天稚彦が生きていたときの有様に よく似ていた
それで天稚彦の親族・妻子は 皆「私の君は まだ生きておられた」と言い そして服にすがりつき喜び泣いた
これに味耜高彦根神は 憤然として怒り言った
「朋友之道〈友人〉として 弔うべきだからと思い 死の汚穢(ケガレ)も厭わず 遠くから来て悲しんでいる それなのに どうして私を死者と間違うのか」
そして 腰に差していた剣の大葉刈(おおはかり)
刈は我里(かり)と読み 亦の名〈別名〉は 神戸劒(かんとのつるぎ)
を以って 喪屋〈葬式の為に建てた屋〉を切り倒したこれが即ち 下界に落ちて山となり 現在 美濃国(みののくに)の藍見川(あいみのかわ)の川上にある喪山(もやま)である
世間の人が 生きている人と死んだ人と間違えるのを忌むのは これが由来
【原文参照】
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』にある伝承
鴨都波神社(御所市宮前町)or 高鴨神社(御所市鴨神)の神戸を指しているものとされます
【意訳】
意宇郡条 賀茂神戸(かものかんべ)〈現 安来市辺り〉
郡家の東南三十四里所造天下大神命(あめのしたつくらししおほかみ)〈大国主神〉の御子
阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)は 葛城(かつらぎ)の賀茂社(かものやしろ)に坐(ましま)すこの神の神子戸(みこと)〈神戸〉故に 鴨(かも)と云う
(神亀三年 字を賀茂と改む) 即ち正倉あり
【原文参照】
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
第21代 雄略天皇〈在位457~479〉により 土佐に遷されていた高鴨神が 天平宝字八年(764)十一月 大和国へ戻され祀られた と記されています
【意訳】
聖武天皇 天平宝字八年(764)十一月庚子の条
復祠 高鴨神 於 大和國 葛上郡 高鴨神
〈大和國 葛上郡に於いて高鴨神の祠を再興す〉
者法臣圓 其弟中衛将監 従五位下 下賀茂朝臣田守等言
〈僧円興弟中衛將監高賀茂朝臣田守が請によりて 高鴨神を土佐より迎へて葛城山東下高宮岡上に祀りき〉昔 大伯瀬天皇狩于葛城山時有老父毎 天皇相逐争狩 天皇恕之流 其人土佐國先祖所 神化成老父爰被放逐 於 これ天皇の遺田守迎之今祠 本處
〈昔 雄略天皇の御代 一日天皇 葛城山に狩し給ひしとき 此神 老翁となりて現はれ 帝と獲ものを競ひ給ひ 不遜の詞ありしを以て 天皇 大に怒らせ給ひて 土佐國に遷し奉りしと云ふ 高賀茂朝臣田守が本来の処へ 今祠を迎えた〉
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社が記され その名で大和国の上位の神々と共に 神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観元年正月27日甲申の条
京畿七道の諸神に進む階(くらいを)及び 新たに叙(のべる)惣(すべ)て267社なり
奉授(たてまつり さずく)
大和国(やまとのくに)
従一位 大己貴神(おほあなむちのかみ)に 正一位正二位 葛木御歳神(かつらきのみとしのかみ)
従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(かもあじすきたかひこねのかみ)
従二位 高市御縣鴨八重事代主神(たかいちみあがたのやえことしろぬしのかみ)
従二位勲二等 大神大物主神(おおみわのおおものぬしのかみ)
従二位勲三等 大和大国魂神(おほやまとおほくにたまのかみ)
正三位勲六等 石上神(いそのかみのかみ)
正三位 高鴨神(たかかものかみ) に並びに 従一位・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【意訳】
高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座 並名神大月次相嘗新嘗
高鴨は 多加賀母と訓べし、阿治須岐は假宇也、詫彦根は多加比古禰と訓べし、
○祭神明か也
〇神通寺村に在す、(大和志、同名所図会)
○式二(四時祭下)相嘗祭神七十一座、高鴨社四座、」
同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國高鴨神社四座、
〇古事記、(神代段)大國主神、娶坐胸形奥津宮神多紀理毘売命、生子阿遅鋤高日子根神、吹妹高此売命、亦名下光比売命、此之阿遅鋤高日子根神者、今謂迦毛大御神者也、』
旧事紀、(地神本紀)大己貴命、先娶坐宗像奥都島神田心姫命、生児味鋤高彦根神、(坐倭国葛上郡高鴨社、云拾篠社)
日本紀神代巻下云、先是天稚彦在於葦原中國也、與味鋤高彦根神友善、』
式八(祝詞)出雲国造神賀詞に、阿遅須岐高孫根乃命乃御魂乎、葛木乃鴨能神奈備爾坐云々、」
出震國風土記に、阿遅須枳高日子命之后天御梶日女命、産給多伎都比古命」同記に、意宇郡、賀筏神戸、神阿遅須枳高日子命、坐葛城賀茂社、故云鴨、連胤 按るに、当社四座の中に、天御梶日女命、彦多伎都比古神たちもましましけむ、猶考ふべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從二位勲八等鴨阿治須岐宅比古尼神、正三位高鴨神並從一位、雑事
式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稻、大和国賀茂意富纏向倭文四社、河内國恩智一社、和泉國安那志一社、摂津國住道伊佐具二社、各三十束、合二百四十束、送住道社、大和國片岡一社、摂津國廣田生田長田三社、各五十束、合二百束、送生田社、並合神部造、差中臣一人充給酒使、醸生田社酒者、於敏費崎給之、醸住道社酒者、於難波舘給之、下略
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【意訳】
高鴨阿治須岐詫彦根命(タカカモアヂスキタカヒコネノ)神社四座 並名神大月次相嘗新嘗
〇称 高鴨明神祭神 阿治須岐高彦根(アヂスキタカヒコネノ)命
多紀理比賣(タキリヒメノ)命今按 此神の此地に鎮座の始は出雲國造神賀詞に「大穴持命は 御自分の和魂を 倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱え 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す」云々とある是なり
而るに 雄略天皇の朝 此神を土佐に遷し祭り 天平宝字八年に及びて復ひ この所に祭られしものとみえたりそれは 續日本紀 天平宝字八年十一月庚子 復祠 高鴨神 於 大和國 葛上郡 高鴨神者法臣圓 其弟中衛将監 従五位下 下賀茂朝臣田守等言
昔 大伯瀬天皇狩于葛城山時有老父毎 天皇相逐争狩 天皇恕之流其人土佐國先祖所 神化成老父爰被放逐 於 これ天皇の遺田守迎之今祠 本處 とあるにて明かなり さて祭神は本社の傅に此外に下照比賣神 天稚彦神の二座を祭る由なれど こは旧事記に下照姫命ハ坐ニ 倭国葛上郡 雲櫛(クモグシ)ノ社一とあり 又 書紀に昧鋤高彦根神と天稚彦と親善なりとあるよりの説にて疑はしければ取らす
神位 清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉授 大和國従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(アジスキタカヒコネノカミ)ニ 正三位 高鴨神ニ並びに従一位
祭日 九月九日
社格 村社
所在 神通寺村(下葛城郡葛城材大字鴨神高鴨神社)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【意訳】
〇奈良縣 大和國 南葛城郡 葛城村大字鴨神
縣社 高鴨(タカカモノ)神社
祭神 昧鋤高彦根神(アヂスキタカヒコネノカミ)
相殿 下照比売神(シタテルヒメノカミ)
田心姫命(タゴリヒメノミコト)
天稚彦命(アメワカヒコノミコト)本社創建は 神武天皇の御代と云ひ、又綏靖、孝昭両朝の御世とも云ひ、未だ詳ならざれども、蓋し人皇初世の頃に建立せられしものゝ如し、御神体は御木像四体及び左右大臣木像二体とす、
神社覈録に 神通寺村に在りとせり(大和志社記)、大国主神の裔、大田田根子命の孫、大賀茂積命此神に仕へ奉りしより、賀茂朝臣世々其祭事を掌れり(新撰姓氏録続日本紀)、
神社覈録に「高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座、高鴨は多加賀母と訓べし、阿治須岐は假名也、詫彦根は多加比古禰と訓べし、古事記(神代段)大國主神、娶坐胸形奥津宮、神多紀理毘売命、生子阿遅鋤高日子根神、次妹高比売命、亦名下光比売命、此之阿遅鋤高日子根神者、今謂迦毛大御神者也、旧事紀(地神本紀)大己貴命、先娶坐宗像奥都島神田心姫命生児味鋤高彦根神(坐倭国葛上郡高鴨社云拾篠社)云々」とあり、
雄略天皇の朝一日天皇 葛城山に狩し給ひしとき、此神 老翁となりて現はれ、帝と獲ものを競ひ給ひ、不遜の詞ありしを以て、天皇 大に怒らせ給ひて 土佐國に遷し奉りしと云ふ(続日本紀)
聖武天皇 天平宝字8年11月庚子 僧円興弟中衛將監高賀茂朝臣田守が請によりて、高鴨神を土佐より迎へて葛城山東下高宮岡上に祀りき(続日本紀 釈日本紀)
称徳天皇 天平神護元年 上佐地廿戸を充て神封とし、同2年大和伊與地三十三戸を寄せ奉り(新抄格勅符)
清和天皇 貞観元年正月甲申 從二位動八等 鴨阿治須伎多加比古尼神に從一位を授け(三代実録)
醍醐天皇 延喜の制 四座並に名神大社に列り、祈年、月次、相嘗祭の案上官幣に預り(延喜式)
一條天皇 正暦5年4月戊申 疫病の御祈の爲に、中臣氏人を宣命使として幣を大和鴨社に奉る(本朝世紀)
高鴨社、捨篠社、又上津賀茂社とも云ひ、佐保荘六ケ村の氏神だり(社記大和志大和名所図絵)
明治6年村社に列し、同16年3月県社に昇格す。
社殿は本殿、拝殿、神饌殿、祝詞殿、絵馬殿。宝庫等にして、古色蒼然結構最も社麗を極む、特に本殿は後奈良天皇天文12年の造営に係り、明治35年7月31日特別保護建造物に指定せらる、
境内5365坪(官有地第一種)、全山老杉古木鬱蒼として繁茂し、清冽たる池水其麓をめぐる、春秋の景殊に愛すべく、実に静閑雅の神境たり、
宝物には大般若経六百巻、十六善神一軸(元亭元年9月藤原遠貞寄進)、神鏡、太刀、金幣等あり、
明治42年 同村内村社、無格七社を境内に移転ぜり、即ち左記 境内社の中、細井神社以下の七社是なり。
境内神社
東(ヒガシノ)神社
西(ニシノ)神社
聖(ヒジリノ)神社
八幡(ハチマンノ)神社
稲荷(イナリノ)神社
一言主(ヒトコトヌシノ)神社
猿田彦(サルタヒコノ)神社
金刀比羅(コトヒラノ)神社
細井(ホソイノ)神社
大山(オオヤマノ)神社
春日神社
市杵島神社
雷(イカヅチノ)神社
八坂神社
西佐味(ニシサミノ)神社
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
【意訳】
高鴨阿治須岐詫彦根命(タカカモアヂスキタカヒコネノ)神社
葛城村大字鴨宇篠にあり
延喜式神名帳に「高鴨阿治須岐詫彦根命(タカカモアヂスキタカヒコネノ)神社四座 並名神大月次相嘗新嘗」と見ゆ
高鴨社・捨篠(すてしぬ)社・上津賀茂(かうつかも)社 等の称あり
今 村社たり旧事記曰く 大己貴神・・児 昧鋤高彦根神 坐ニ 倭國 葛上郡 髙鴨社 云ニ 捨篠社ト
・・・
〇案ずるに「カウツカモ」は 上津賀茂(かうつかも)ノ仮字ニシテ 即チ 今の鴨神の旧名なり祭神 創立
昧鋤高彦根命に阿治須岐速雄(あじすきはやを)・夷守比賣(ひなもりひめ)・天八重事代主(あめのやえことしろぬし)の三神を配祀す 事大神(おほみわ)分身類社鈔に詳なり 曰く高鴨神社 四座 大和國 葛上郡 並名神大 月次相嘗新嘗
阿治須岐託彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
阿治須岐速雄命(あじすきはやをのみこと)
夷守比賣命(ひなもりひめのみこと)
天八重事代主(あめのやえことしろぬしみこと)若子神社 三座
天御勝姫命(あめのみかちひめのみこと)
塩治彦命(やむやひこのみこと)
瀧津彦命(たきつひこのみこと)比奈守神社 一座(美濃国 厚見郡)
下照姫命之御魂(したてるひめのみことのみたま)藍部(あすべ)神社 一座(美濃国 厚見郡 藍見川邊 藻山是則この地なり)
天若彦命(あめのわかひこのみこと)
と見ゆれば 彦根の妹 下照姫 天若彦の妻 の別名なり大神系図・・
【原文参照】
高鴨神社(御所市鴨神)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)