度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は  豊受神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ度會元長の内外宮諸社記 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

度會國御神社(Watarai kunimi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市豊川町〈外宮域内〉

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》彦国見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)
〈伊勢国造・度会神主の始祖 天日別命(あめのひわけのみこと)の御子神〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・〈豊受大神宮(外宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』〈昭和3年1928)〉に記される内容

【抜粋意訳】

攝社末社所管社

度會國御神社

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

度會國御(ワタラヒクニミ)神社は 延喜大神宮式及び神名式に載す。止由氣太神宮儀式帳には度會之國都御神社、神名祕書には度會國見社に作れり。

祝祭の年月を詳にせず。
祭神は 神名祕書・倭姫命世記末文 所引一書及び神祇本源 所引の社記に、天日別命の子 彦國見賀岐建與束(ヒコクニミガキタケヨツカ)命と為す。天日別命が神武天皇の東征に從ひ、勅を奉じて伊勢津彦を討ちしことは、彼の伊勢風土記の残篇に見えたる有名なる傳説にして、其の直系の伊勢國造となり、傍系の度會氏となれることは、新撰姓氏錄•國造本紀・倭姫命世記等によりて之を知るべし。
本社が室町時代なる文明の頃まで、豊受大神宮の神域より堀を隔てたる所に鎭座したることは、度會元長の内外宮諸社記にようて明かなり。
其後社地を失ひしにより、正保二年 一禰宜 常晨 現地に再興したれど、古今其の位置を異にせり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『神宮綜覧』〈1915〉に記される内容

【抜粋意訳】

豊受大神宮宮域案内

度會國御神社(ワタラヒクニミジンジャ)

殿舎、
正殿壹宇 神明造、板葺、南面
玉垣御門 猿頭門、扉付
玉垣 連子板打
大鳥居 神明造

本社は、彦國見賀岐建與束(ヒコクニミガキタケヨツカ)命を鎭祭す。天村雲命の後裔 天日別命の第二子にして、度會の國祖神に坐す。本宮の攝社の一にして、裏参道御厩の北より西に入ること一町餘、右側にあり。

【原文参照】

神宮司庁 編纂『神宮綜覧』,国史研究会,1915.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1907594

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

度會國御神社は 豊受神宮(外宮)摂社です

・豊受神宮(外宮)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭。

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 度會國御神社
[ふ り が な ](わたらひの くにみかみのやしろ
[Old Shrine name]Watarahino kunimikami no yashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

度會國御神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉の 別称゛國見社(くにみのやしろ)゛について

『大神宮叢書 前篇1932年に記される゛國見社(くにみのやしろ)゛について

【抜粋意訳】

末社

國見社

見は借字にて生の字なるべし。すなはち國生神にまして度會國津御神なるべし。
神名帳に度會郡 度會國御神社あり。同式に多氣郡國生神社・國乃御神社など挙たり。
此は外宮攝社十六座の中にませど、此宮中にも國生神なる故に祭れるなるべし。されば大土御祖神社に祭れる國生の神も此神ならんか、猶考ふべし。さるを神名祕書•神祇本源なども、倭姫世記に、以に天日別命子崇祭、是度會國御社也、彦國見賀岐建與束命是也、といへるを證にひきて、國見社は此人也といふはひがごとなり。此人の名にたまく國見の二字あり。また度命氏人の祖なれば附會の説をもてかくいへるなり。もし然らば建與束の名を負ふべきを、しかあらぬをもて知べし。
是のみならず内宮遙宮なる伊雜宮の御形は、度會氏人の祖 玉柱屋姫を祭ると似つかざる空言をいへるも思ひあはすべし。大神宮の遙宮また木社に、度會氏人の祖を祭るべき理あらんやは。猶 外宮攝社の條にもかかる附會多し。考へ合すべし。

かくて右に挙たる三十二社は攝社 田社の中になけれど、今の世 末社に祭り拜所を構へたれば記せり。されど神名も社地も知がたき事多し。猶考ふべきなり。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

『大神宮叢書1942年に記される゛國見社(くにみのやしろ)゛について

【抜粋意訳】

神境紀談 卷三

國見社(くにみのやしろ) 附松原崎

此社は 北御門ノ社の西方にあり、國都御神社(クニツミカミノカミ)とも度會國御神(ワタライヒノクニミカミノ)社とも稱せり、彦國見加岐建與束(ヒコクニミカキタケヨツカ)命を祠れり、官帳の内にして國料を以て造り奉る社なり、今の社は宮司精長朝臣再興し給へり、
舊説に神事の前 齋宮の内に遠閉日に相値(アフ)の禰宜は、此ノ社の邊りに参宿するの例なりと云へり、
按するに古老口實傳に、上代の宿館は烏居の内の大庭なり、中古は外御馬屋の邊り中堀の内なりと見えたり、此ノ社地の邊りの堀廻(ホリメグ)らせるを以て看(ミ)れば、中古は此邊りに宿館ありて参宿するを、遠閉日に此社の邊りに参宿するとの傳へなりと言將來(イヒモテキタ)れるにや、又は大庭に宿館の有りし時は此ノ社地まで屏居(ヘイキョ)せしにや、又近時は遠閉日に値(アフ)の禰宜は松原崎の人家に一宿するの例なり、此ノ社地より西北の方館の俗家の西の末を松原崎と云ふなり、又は宮崎氏神社の邊りにも一宿するの例なり、

神名祕書に云、度會國御、天日別命子、彦國見賀岐建與束(ヒコクニミカキタケヨツカ)命、

社記に云、坐すに沼木ノ郷山田村に、

儀式帳に云、度會國都御神(ワタラヒノクニツミカミノ)社、正殿ー區、玉垣一重、御門一間、右ノ社 官幣 宛(アテ)奉る、但し國充て料を令む 造るに於祝に、又云、載するに官帳に名社、

風土記に云、神倭磐余彦(カンヤマトイハレヒコノ)天皇の御宇、惡神 伊不加理氐(イフカリテ)人民亡ひ、火氣 発起(オコリテ)而天下不安 佐留仁(サルニ)、日別命(ヒワケノミコト)を遣し使に大己貴神に復命し氐(テ)発し兵を從り西ノ宮征に此の東ノ洲を之時、崇め祭て大國玉ノ神を大己貴神、復命す、天皇大に歓び詔して曰く、宜く取て伊勢ノ國を卽ち爲に天日別命の之村地と、此ノ世不堪へに火氣に伊勢 多賀佐(タカサ)山の嶺(ミネ)に仁造りて石宅(イハヤ)を」使め居れて、天ノ日別ノ命 殺(コロシ)戮 荒振神を罰平(タイラケ)不遵(マツロハズ)、堺ひに山川を氐(テ)定るに地邑(ムラトコロ)を者也、以に天日別命ノ子を崇め祭る是の度會國御社(ワタラヒクニノミオヤノヤシロ)に也、彦國見賀岐建與束命 是也、母 大國玉女、美津佐佐良(ミツササラ)姫也、

古老口實傅に云、古人の云上代ノ宿館、詳に干禰宜宿館條、

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』[第6] (神宮随筆大成 後篇),西濃印刷出版部,昭和17.10. 国立国会図書館デジタルコレクション

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

度會國御神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉にご参拝した時の様子をご紹介します

豊受神宮(外宮)参拝

・豊受神宮(外宮)

〈豊受神宮(外宮)〉の参拝を済ませて 北御門鳥居へ

度會國御神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に向かいます

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北御門鳥居を抜けて 北御門口に向かう途中に 西へ折れる細い参道がありますので それを進みます

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外宮の案内板にも載っていませんので
案内板に目印の矢印をつけておきます〈正宮の裏辺り〉

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外宮は人々で賑やかですが 参道は 静かな森の中に続いています 清らかさと静けさに包まれて 誰も歩いていない参道を進みます

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静寂の続く参道は この先に摂社が鎮座することを知っている人ならば進みますが 5分ほど歩きますから 知らない人であれば 引き返してしまうだろうと想える

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度會國御神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉に参着

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殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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社殿に一礼をして

この先〈さらに奥〉に鎮座する大津神社〈豊受神宮(外宮)社〉へと向かいます

・大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》葦原神(あしはらのかみ)

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 度會國御神社について 所在地について 沼木郷山田原大神宮北〈現 

坂社・藤社(伊勢市八日市場町)辺りと記しています

【抜粋意訳】

度會國御神社

度会は郡名に同じ、御神は久爾都美加美と訓べし、

○祭神 見加伎建與束命

○沼木郷山田原大神宮北 或云國見社 に在す、神名略記

○式四、伊勢大神宮 度會宮所摂十六座の第四に戴す、

○倭姫世記云、以天日別命 子、崇祭、是 度曾国御神社也、彦國見賀岐建與束命是也、」
御鎭座本紀云、彦國見賀岐建與束命、號度會見神社也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 度會國御神社について 所在地について 沼木郷山田原にあり とあり 外宮域ではなく 山田前野村の本社の舊跡 八日市場の世義寺(せぎでら)舊址の畑地〈現 坂社・藤社(伊勢市八日市場町)辺りであると記しています

【抜粋意訳】

度會國御神(ワタラヒノクツニミカミノ)

今 沼木郷山田原にあり、國見社と云、神祇本源、神名帳考証、神名略記、
〇按 伊勢式内社検録に、本社を山田村に坐すとあれば、宮域ならぬ山田前野村に在し事明けし、然るに何時か社域に教王山 世義寺を建て、神霊を本尊とし、終に廃絶に及へり、寛文中 世義寺を排斥の時、寺坊と共に瀧波山に移さる、されば本社の舊跡は、八日市場の世義寺舊址の畑地 是也と云り、

大國玉命を祭る、
初 神武天皇 波西宮より此東州を征給ふ時、惡神火氣を起し、人民を亡ひて、天下安からざるに、天日別命 詔を受け、伊勢に入て荒振神を殺し、不順者を•戮ひ 大國玉神を和鎭め崇奉りて、復命しき、後 天日別命、大國玉神女 美津佐々良比賣に娶て、生子國見賀伎建與束命をして此神を祀らしむ、是は即 度會御社也、倭姫命世紀引一書

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗の祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 度會國御神社について 所在地について 田原豊受宮域内西北 (豊受大神宮域内)〈現 度會國御神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉とあり

本社の舊跡は 外宮域外西方なる世義寺屋敷の畠なるべし〈現 坂社・藤社(伊勢市八日市場町)辺り と記しています

【抜粋意訳】

度會國御神社

祭神 國見賀伎建與束命

祭日 六月九月十二月並十八日
 外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)

所在 三重縣沼木郷山田原豊受宮域内西北 (豊受大神宮域内)

今按 檢錄に正保二年 今地に造立なれど 舊地は外宮域外西方なる世義寺屋敷の畠なるべしと云ひ
度會縣注進狀にも山田一志久保町藤社の本社を國見社とせるは正しき傳へなりと云り

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

度會國御神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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