伊勢125社
-
粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉& 土宮神社(鳥羽市小浜町)
粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 元祿五年(1692)大宮司 河邊長春が現在地に再興しました 創建は垂仁天皇の御宇 倭姫命が 皇大神を伊勢に鎮座の明年 御贄所を定めるため志摩國にいでまし御帰途 淡良伎(アハラキ)之島を經て 伊氣浦(イケノウラ)に至り ここで御贄を奉られた神を淡海子(アハミコノ)神と名付けて社を定めたと伝わります
-
江神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉& 栄野神社(伊勢市二見町江)
江神社(えじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 皇大神〈天照大神〉を倭姫命(やまとひめのみこと)が奉遷され 当地の海岸に着船 出迎えた゛佐見都比古命(さみつひこのみこと)゛に土地の名前を尋ねたのちに江社を定められたと伝わります 栄野神社(えいのじんじゃ)にも同様の言い伝えがあります
-
宇治神社&足神神社(伊勢市宇治今在家町)
宇治神社(うぢじんじゃ)は 創祀について古来二説あり 一つは那自賣神社〈皇大神宮(内宮)末社〉の跡地に土地の神を祀ったというもので 宇治橋の鳥居から約350mと内宮のすぐ近くに鎮座します 境内には 葦立弖(あしたて)社〈皇大神宮(内宮)末社〉に擬したされる゛足神さま゛〈足神神社〉足腰の病にご利益があり 内宮を参拝したあとに詣でる人が後を絶ちません
-
饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉&宇治橋
饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)は 宇治橋の守護神〈宇治橋より惡しきものが入らざるように 橋の守護の神〉宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)を齋き祭った皇大神宮(内宮)所管社で 社號゛饗土(あえど)゛は 内宮の宮域四方の境に悪しきものが入ってこないよう 防ぎお祭りする土地の意〉宇治橋の対面〈西側〉鎮座します
-
大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 川相神社・熊淵神社〉
大水神社(おおみずじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)の摂社で 皇大神宮(内宮)末社の2社〈・細川水神〈川相神社(かわあいじんじゃ)・多支大刀自神〈熊淵神社(くまぶちじんじゃ)〉が御同座します 3社ともに垂仁天皇の御代 倭姫命によって御鎭祭されたと伝わります
-
津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 新川神社・石井神社〉
津長神社(つながじんじゃ)〉は 皇大神宮(内宮)の摂社です 鎮座地の古地名を「津長原止」と云い 倭姫命が上陸したと伝えらる 五十鈴川を遡上した船の留場〈津〉でした 水神の栖長比賣命を祀る津長神社には 皇大神宮(内宮)の末社〈新川神社〉新川比賣命・〈石井神社〉高水上命が御同座しています
-
朽羅神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
朽羅神社(くちらじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 倭姫命が祝い定めたとされ 水田の中いかにも神が坐します雰囲気の゛宮田森゛に鎮座します 社名は゛朽羅(くちら)とも久麻良比(くまらひ)゛とも云い 共に゛籠(こもる)゛の転訛りで゛神の籠る森゛であるという意味とのことです 延喜式内社 伊勢國 度会郡 朽羅神社(くちらの かみのやしろ)とされます
-
園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神〈曽奈比比古命〉゛が皇大神に御園を奉り これを祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社の27社中 第3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄七年(1694)大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました
-
髙向大社(伊勢市御薗町高向)
高向大社(たかぶくたいしゃ)は 『高向村神社記』に 第45代 聖武天皇の御代 天平三年(731)の創建と云い 又 貞観三年(861)八月 大雨洪水があり大杉の根本に゛白羽の蓋根矢゛が流れ着いたと 山城 賀茂別雷神社の「丹塗矢伝承」と同類の伝承があり 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)であるとの説があります
-
雷電神社(伊勢市小俣町本町)
雷電神社(らいでんじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社の一つです 雷電神社の旧鎮座地は 確定しておらず その多数の論社があり 諸書に「離宮院の坤方(ひつじさる)〈南西方向〉」にありと記されている社で 此処に祀られていた〈裏の宮・八王子〉とも称していた゛雷電神社゛ことです
-
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
湯田神社(ゆたじんじゃ)は 雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一で格式も高かったが 中世に廃絶し 社地は明らかになりませんでした 産土社の境内社 湯田社に再興したもので 祭神についても大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)とされますが 鳴宸電(なるいかつち)を祀る説があり 式内社・湯田神社 ・雷電神社の二つの論社となっています
-
多岐原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
多岐原神社(たきはらじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 内宮別宮の瀧原宮から宮川を約6km下ったところに鎮座します ここは倭姫命が 皇大神(天照大神)を奉じて巡幸中 宮川を渡ろうとしたが 砂も流れる早瀬があり 渡河難渋であった時 真奈胡神(まなごのかみ)があらわれ その案内で渡ることができた 故に多岐原神社が定め祀られたと伝わります
-
田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉
田乃家神社(たのえじんじゃ)〈御同座 田乃家御前神社(たのえみまえじんじゃ)〉は 創建は 第21代 雄略天皇の御代(457~479年)と伝わる皇大神宮(内宮)の摂社 かつて造宮使造替六社の一つで高い格式がありましたが ここも中世に頽廃し 寬文三年(1663)に再興されました その際 御前神は正殿に御同座し〈昔は二殿あり〉 現在に至ります
-
蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉
蚊野神社(かのじんじゃ)御同座する 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)は 第21代 雄略天皇(457~479年)が定めたと伝え 皇大神宮(内宮)の27摂社の第7位と格式があります 規定では 造替使がその任に当り 20年に1度正宮と並び正殿を造替える神社でしたが 中世には頽廃してしまいます 寬文三年(1663)大宮司 河邊精長により 現社地に再興され 現在に至ります
-
鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
鴨神社(かもじんじゃ) は 皇大神宮(内宮)の摂社で『延暦儀式帳』〈延暦23年(804)〉によれば ゛倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と伝わり その後 中世に頽廃しましたが 寬文三年(1663)攝社として再興され この時は 本村字竈谷の地゛氷室洞くつ゛の所に本社が造立されています 明治九年(1876)更に神宮司廳に於て 現在の地に移造されています
-
大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
大間國生神社(おおまくなりじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)です 『倭姫命世記』に゛雄略天皇二十二年(478)の條に大若子(オホワカゴ)命の社を定む 大間社是なり゛とあります 中世に廃絶し 江戸時代に現在地に祀られました 玉垣内には 正殿が二殿〈大間社(祭神・大若子命)國生社(祭神・乙若子命)〉あります
-
坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
坂手國生神社(さかてくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 創建について『倭姫命世紀』に゛垂仁天皇の御時 倭姫命が皇大神を奉戴し この地に御遷幸の時 國つ神の゛高水神(たかみづのかみ)゛が この國は岳高田深坂手國(をかたかしたふかしさかてのくに)とお迎え申し゛田上御田(たのへのみた)゛を奉られたので 坂手社(さかてのやしろ)が祝い定められたと云います
-
狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
狭田國生神社(さたくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 『倭姫命世記』に「倭姫命が皇大神を奉じ 寒川を遡った時 速河彦命が参り゛畔廣之狹田(アゼヒロノサタ)の國゛の神田を献上し 倭姫命が゛速河狭田社゛を祝定めた」と云う 延喜式内社 伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)とされます
-
高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮 域内)
高河原神社(たかがわらじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の摂社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)とされます その後 応永26年(1419)に焼失し 近世には社地不明となりましたが 寛文3年(1663)現社地(月夜見宮 域内)に再興されました
-
月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉
月夜見宮(つきよみのみや)は 古くは 高河原(たかがわら)と呼ばれ 農耕の神を祀る神社であったと云います 延喜式〈927年12月編纂〉式内社 伊勢國 度會郡 月夜見神社(つきよみの かみのやしろ)の時は 外宮摂社の首位でした その後 土御門天皇の承元四年(1210)土宮の嘉例に淮じ豊受大神宮(外宮)の別宮に昇格しました