住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝に第12代 景行天皇の時に武内宿弥が勅命を奉じて東北を巡視した折 海陸共に要害の地であったこの地を東北の関門 総鎮守として航海安全と国家鎮護として祀ったとあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”の一つ 式内社 陸奥国 磐城郡 住吉神社(すみよし かみのやしろ)であり 東北一社とも称しています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
住吉神社(Sumiyoshi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福島県いわき市小名浜住吉字住吉1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》住之江三神(すみのえさんじん)
〈表筒之男命(うわつつのをのみこと)中筒之男命(なかつつをのみこと)底筒之男命(そこつつのをのみこと)〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・厄祓い・清祓い
・出世・学問
・交通安全・海上安全
・安産
・商売繁盛
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内(えんぎしきない)東北一社(とうほくいちのやしろ)
住吉神社略記
御祭神
住之江三神
表筒之男命(うわつつのおのみこと)
中筒之男命(なかつつおのみこと)
底筒之男命(そこつつのおのみこと)御由緒
人皇(じんこう)十二代景行(けいこう)天皇の御代(みよ)に時の大臣(おとど)武内宿弥(たけのうちすくね)が勅命を奉じて東北地方を巡視した折、この地が海陸共に要害の地であり東北の関門に当るので航海安全と国家鎮護のため東北の総鎮守として祀られた。御神徳
厄祓いの神 清祓いの神
御祭神は竜宮に坐(ま)します海の神でありまして常に潮満玉(しおみつたま)と潮干玉(しおひるたま)をお持ちになり、参拝者の願いは潮満玉(しおみつたま)の霊妙な働きを顕現し、潮干玉(しおひるたま)を以って禍(厄)を祓いご守護下さるといわれております。出世神 学問芸術の神
和歌三神(住吉社(すみよしのやしろ)天満宮 玉津島社(たまつしまのやしろ)の一柱(ひとはしら)に数えられており、学問芸術の神として、また出世神として初宮詣受験進入学等のおり 近郷近在より多くの参詣があります交通安全 海上安全の守護神
神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐のおり航路の安全を護り、海が大時化(おおしけ)になると舳先(へさき)に現れて無事凱旋することができたところから海神として航海安全の神として霊験あらたかであります安産の守護神
同じく三韓征伐の折りは、産月間近な神功皇后(じんぐうこうごう)の玉体を守って安産の霊験をあらわされ 無事応神天皇を出産され、そのことが住吉の大神の御神威 の賜として広く崇敬をあつめております商業繁栄の神 商売繁盛の神
三韓征伐は矛を使わずして諸外国に稜威を示すこととなり、年々貢ぎ物の使者が我が国を訪れるようになり、そのため商業の道が拓かれました。よって商業繁栄の神、商売繁盛の神として広く崇敬をあつめております。例大祭 十月十二日 十三日の両日
(現在の十月の第二日曜日とその前日に神振行事を行う)神 事 勅使参向式 流鏑馬式・浦安の舞
境内の名勝
生木(いきぎ)の橋、幽境(かくりさと)、臥龍銀杏(がりゅういちょう)、磯山(蓬莱山とも云う)、月見の池摂社 八幡神社(神功皇后)を祀る
現地案内板より
【由 緒 (History)】
福島県いわき市小名浜は先史時代には海湾でした。その湾内にあった小さな岩山が海食の跡を残して現在も存在しています。古代において遠方への旅は船によることが多く、この岩山は当時船を出していた人々にとって灯台と同じような役割を果たし、帰るべきところの目印、生活を守る大切な存在でした。やがて岩山は神格化され、その麓にお社(やしろ)が祀られるようになったと言われています。
第12代景行(けいこう)天皇の御代に、時の大臣(おおおみ)建内宿禰(たけのうちのすくね)が勅命を奉じて東北地方を巡視したことがありました。その時、この住吉が陸と海との要害の地であり、東北の関門にもあたるので、武内宿弥により当社は航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られました。
第70代御冷泉(ごれいぜい)天皇の康平7年(西暦1064年)には、朝廷が勅使をお遣わしになって、東国の賊徒の平定を御祈願になりました。また、源頼義(みなもとのよりよし)は源家の宝刀鵜の丸の剣(うのまるのつるぎ)を献じて武運を祈念されたと言われています。
当社は朝野の崇敬厚く、鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進しています。また、豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、徳川時代は20石の朱印地を所有していました。
参道
社殿より参道を望む江戸中期には平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きが変えられました。その時に内藤家より幅5間長さ200間の参道が寄進されました。現在も道路として残る参道は馬場とも呼ばれ、馬の訓練に使用できる真っ直ぐなものです。この道路に沿う町を新町と言い、従来の北側の参道沿いを大町と言います。北側の参道は狭く、また少し曲がっており、成立した歴史的経緯を十分に理解できます。明治時代になると国家神道の隆盛に伴って当社も発展しました。しかし、住吉の地は藤原川と矢田川に囲まれたところにあり、それらの川の度重なる氾濫により経済的には恵まれませんでした。そのような状況から、明治、大正時代の当社の神職に常駐する専任者はおらず、近隣の湯本に鎮座する温泉神社の神職が兼務し、昭和の初期に至りました。その後、社掌として渡邊繁が着任して戦後宮司となり、昭和32年本殿が大改修され翌年には県重要文化財に指定されるなど、現在に至る発展の基礎が確立されました。
当社は延喜式内社(延喜年間、西暦901~923年に作成された書物に記録されている神社のこと)であり、平安時代には既に現在の場所に社殿を有し、それから移転することなく今日まで至った神社です。全国に住吉神社は多くありますが、当社は全国住吉七社の一社に数えられています。また、御祭神は同じですが、大阪の住吉神社から後世分社したというものではなく、独立した神社です。
住吉神社公式HPより
http://www.sumiyosi-jinja.jp/index.htm
・住吉神社本殿(すみよしじんじゃほんでん)
側面・背面に施された見事な彫刻
福島県指定重要文化財(建造物)
住吉神社本殿(すみよしじんじゃほんでん)一棟
(付)棟札、木簡八枚
昭和三十三年八月一日指定
所在地 いわき市小名浜住吉
所有者 住吉神社当社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で、タケノウチスクネが奉祀したと伝えられる
本殿は三間社(正面四・七メートル、側面三・一二メートル)の流れ造りで、棟札によると、寛永十八年(一六四一)に当時の泉城主の一族内藤氏によって再建され、元来 北向きに建てられていたのを貞享元年(一六八四)に東向き にかえたという。
正面中央一間は板唐戸(いたからど)、円柱の上下・大瓶束(たいへいづか)・本殿や向拝(こうはい)の軒(のき)組みなどはほぼ禅宗様になっているが、正面両脇の柱間をはじめ、側壁・三方欄間・脇障子にはめこまれた花獣・四天王などの厚肉の彫刻や大瓶束・円柱に付した獅子、あるいは手挟みなどの彫刻はほとんどが後補のものとみられる。幣殿と拝殿は近年の改築である。
江戸時代初期の本県の神社建築のひとつの様式を知る上で、貴重な建造物である。
福島県教育委員会現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・諏訪神社《主》建御名方神
・別雷神社《主》別雷神
・久須志神社《主》少彦名命
・八坂神社《主》素戔嗚命
・北野神社《主》菅原道真公
・祭具庫
・磯山(いそやま)
・石祠
・臥龍銀杏(がりゅういちょう)
・生木の橋・太鼓橋(いきぎのはし・たいこばし)
・月見の池(つきみのいけ)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・摂社 八幡神社《主》応神天皇,神功皇后
住吉神社(すみよしじんじゃ)の勅使参向式(ちょくしさんこうしき)並びに摂社 八幡神社(せっしゃ はちまんじんじゃ)の流鏑馬(やぶさめ)
住吉神社の例大祭は現在、十月十三日に近い日曜日を中心に行われ、勅使参向式は本祭の日に、流鏑馬神事は宵宮と本祭の両日に行われる。
勅使参向式は、謡「高砂」(侍謡)により勅旨一行を迎え、拝殿に昇殿する。勅使祭詞奏上、宮司返し祝詞奏上の後、謡「高砂」(所は高砂、四海波、納め)の奉納を行う。
宵宮には、小名浜港にさがり勅使安着式が行われ、帰着後に流鏑馬神事が行われる。
流鏑馬神事は、初回は扇子を持ち手放しで走る。二回目には、その扇子を撤く。次に三度弓を射て走る。最後に扇子を撤くカラ走りをする。
勅使参向式並びに流鏑馬などの神事は、社会変遷により、その一部に変容を余儀なくされた面はあるものの、概ね古来の姿を残しており、いわき市内はもとより、福島県内においても数少ない貴重な神事である。
(市指定無形民俗文化財)
住吉神社の流鏑馬並びに勅使参向式
指定 平成16年4月28日 所有者 住吉神社
いわき市教育委員会
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
豊城入彦命の東国の六腹(むつのはら)の子孫が 居住地を氏の名とすることが記されています
【抜粋意訳】
延暦十年(七九一)四月〈乙未〉辛卯朔五の条
○夏四月乙未
近衛将監従五位下 兼 常陸大掾池原公綱主等言 池原 上毛野二氏之先 出自豊城入彦命 其入彦命子孫 東国六腹朝臣 各因居地 賜姓命氏 斯乃古今所同 百王不易也 伏望因居地名 蒙賜住吉朝臣 勅綱主兄弟二人 依請賜之
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)磐城郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 住吉神社
[ふ り が な ](すみよし かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sumiyoshi kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について
住吉神社は 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上あると云われます
住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている
・底筒男命〈底筒之男命〉(そこつつのをのみこと)
・中筒男命〈中筒之男命〉(なかつつのをのみこと)
・表筒男命〈上筒之男命〉(うわつつのをのみこと)
住吉大神と号する場合は
住吉三神と息長帯姫命〈神功皇后〉を併せ祀ります
住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる
『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます
その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています
三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について
福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています
「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」
住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説
住吉神社の発祥について
現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが
下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています
実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐・対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています
『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています
仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”(すみよしのかみのやしろ ななやしろ)について
『延喜式神名帳』所載の七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥〉各々に七社の住吉神社が鎮座します
これを住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します
格式の高さが際立つ 住吉七社
内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津〉
住吉七社の内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津〉
『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』〈927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について
①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(対馬 鴨居瀬)
・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)
➁壹岐嶋 壹岐郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(博多区住吉)
・若久住吉神社(福岡市南区)
・現人神社(那珂川市)
④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(下関市)長門国一之宮
➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)
・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
・住吉神社(加東市下久米)
・小野住吉神社(小野市垂井町)
・秋津住吉神社(加東市秋津)
⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)
・住吉神社(いわき市小名浜住吉)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
常磐道湯本インターから小名浜方面に約8.5km 車15分程度
神社から東に延びる参道の入口 県道66号沿いに社号標があり 参道の途中に一の鳥居が建ちます
社頭には朱色の両部鳥居
住吉神社(いわき市小名浜住吉)に参着
社頭の朱色の両部鳥居は 横から見ると 道路上に在るのがわかります
両部鳥居のすぐ手前には 生木の橋・太鼓橋(いきぎのはし・たいこばし)
一礼をして 鳥居をくぐります
生木の橋を回り込むように 石畳みの参道を進みます
向かって右手には 手水舎があり清めます
神門をくぐり抜けます
神門の両側には 廻廊があります
拝殿にすすみます
拝殿の前には 青銅製の燈籠
拝殿の扁額は 延喜式内 住吉神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
本殿の彫刻は見事です
境内の裏手には 磯山と呼ばれる小丘 境内社が祀られています
社殿に一礼をして 神門をくぐり抜けます
両部鳥居から 東に参道が伸びています
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 住吉神社の所在は 住吉村〈現 住吉神社(いわき市小名浜住吉)〉と記しています
【抜粋意訳】
住吉神社
住吉は 須美乃江と訓べし
〇祭神 表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 神功皇后〇住吉村に在す
例祭 六月十三日續日本紀 延暦十年(七九一)四月〈乙未〉辛卯朔五の条
○夏四月乙未
近衛将監従五位下 兼 常陸大掾池原公綱主等言 池原 上毛野二氏之先 出自豊城入彦命 其入彦命子孫 東国六腹朝臣 各因居地 賜姓命氏 斯乃古今所同 百王不易也 伏望因居地名 蒙賜住吉朝臣 勅綱主兄弟二人 依請賜之類社
摂津国住吉郡 住吉坐神社の條見合うべし
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 住吉神社の所在は 住吉村〈現 住吉神社(いわき市小名浜住吉)〉と記しています
【抜粋意訳】
住吉神社
祭神 表筒男命 中筒男命 底筒男命
祭日 九月十二日
社格 郷社
所在 住吉村 今国 磐城国(石城郡玉川村大字住吉)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
住吉神社(いわき市小名浜住吉)は 延喜式内社であると記しています
【抜粋意訳】
福島縣 磐城國 石城郡玉川村大字住吉
郷社 住吉(スミノエノ)神社
祭神 表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命
創建年代詳ならずと雖も、延喜式に磐城郡名神小社七座の一に列し、
古事記に蓋底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命を祀ると見え、
神名帳考証に云く、住吉神社、多奇波世君、
姓氏録に云く「住吉朝臣、上毛野同祖、豊城入彦命五世孫 多奇波世君之後也」
續日本紀に云く「延暦十年(七九一)四月〈乙未〉辛卯朔五の条○夏四月乙未
近衛将監従五位下 兼 常陸大掾池原公綱主等言 池原 上毛野二氏之先 出自豊城入彦命 其入彦命子孫 東国六腹朝臣 各因居地 賜姓命氏 斯乃古今所同 百王不易也 伏望因居地名 蒙賜住吉朝臣 勅綱主兄弟二人 依請賜之」神社覈録に云く、住吉は 須美乃江と訓べし、住吉村に在す、例祭 六月十三日、蓋往昔 此地住吉館なるものあり」
観聞老志にも「岩城判官居城是也、建 住吉神祠、是亦 延喜式所記也」と見えたり、以て略由緒を知るべし、
尚社伝に依れば、其の後 寛永十八年八月五日城主内藤兵部少輔政晴 社殿を改造し以て今日に到る。
明治九年十一月郷社に列せらる。
社殿は神殿 幣殿 拝殿 石水盤 燈籠等具備し、境内坪通1742坪を有し、老樹四方に樹茂し、正面の賽路を馬場と称す。社傍に小丘あり、磯山と云ふ、岩石重墨古松其の間を点綴し風光絶佳なり、又宝物は太刀二口、大拍子一、銘旗二等とす、往昔大祭の都度流鏑馬の御事あり、勅使参向ありて賽人堵の如し。境内神社 久須志(クスシノ)神社
【原文参照】
住吉神社(いわき市小名浜住吉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)