大井神社の遺跡(おおいじんじゃのいせき)は 史跡 鈴鹿駅跡(すずかのうまやあと)にあった延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)とされ ここから北40m程の所には゛都追美井(つつみい)゛〈神社の御神体とされる井戸〉もあります 明治42年(1909)関神社(亀山市関町)に合祀されました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大井神社の遺跡(Site of former Oi Shrine)
【通称名(Common name)】
史跡 鈴鹿駅跡(すずかのうまやあと)
【鎮座地 (Location) 】
三重県亀山市関町古厩
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》罔象女命・埴安姫命 が祀られていました
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
『関町郷土誌』昭和13年(1938)に記される内容
【抜粋意訳】
天然記念物 ゛御厩の松゛
閏町大字古厩字室路にある。古厩の所有に属す。 高さ五丈餘 廻り二丈 枝葉が繁茂している。
人皇第十一代垂仁天皇の御宇に皇大神宮 丹波國與佐郡より伊勢の国 山田ヶ原に遷幸の時、倭比賣命、此の所に神馬の蹄を休めさせ給ふた。其の傍に小井がある。則ち神馬を洗ひ給ふを。今猶ほ存在してゐる。これから大井神社とも称した。明治二年 聖上伊勢大廟へ御臨幸の際に幣帛奉納 勅使 北小路氏が奉幣せられたと云ふ。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
史跡 鈴鹿駅跡(御厩)
「鈴鹿駅(すずかのうまや)」は、大化の改新後、全国に駅制(うまやのせい)がひかれた折、畿内から東国や伊勢地方に向かう交通の要衝であった関地域に設けられた「駅(うまや)」で、駅馬二十匹を常備し、駅舎、厩舎、井戸等の施設が整えられ目印には松が植えられたとされている。
通称「御厩(おんまや)の松」と言われるこの場所は、駅の井戸とされる「都追美井(つつみい)」を御神体とする大井神社の旧跡であることや、また駅の名残と伝えられる「御厩の松」と呼ばれる松の巨木があったことなどから、この一帯が「鈴鹿駅」跡と指定される。
平成十六年十二月 関町教育委員会 関町文化財調査委員会現地標識より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・御厩の松(おんまやのまつ)
御厩の松
御厩の松は、亀山市関町古厩地内にあり、往時高さ五丈(約十五メートル)、幹まわり二丈(約六メートル)の巨松であった。大化の改新(六四五年)後、駅制が布かれ、この地鈴鹿駅家跡に植えられたと伝えられ、人皇第十一代垂仁天皇の御代、丹波与佐郡鎮座の皇大神宮伊勢山田ヶ原遷宮のおり、倭比賣命がここに神馬の蹄を休められたという。
この松は古代駅家跡の象徴として地元はもとより、関町も管理保存を続け、昭和五四年三月に県の天然記念物に指定され、その雄姿は多くの人々の仰ぐところであった。
然るにこの頃猛威をふるった松喰虫はこの地にも侵入し、懸命の防除も及ばず蝕害されるところとなり、東の幹は昭和五七年九月に、西の幹は翌年三月に伐採するの止むなきに至った。ちなみに樹齢四〇七年が確認されている。
平成三年春日、ここ由緒ある地にお厩の松館を建設し、松樹を納めて永く顕彰するものである。
亀山市教育委員会現地案内板より
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・都追美井(つつみい)〈大井神社の御神体の井戸〉
大井神社跡の北40m程の所にあり 延喜式内社の大井神社の御神体とされています
倭姫命の伝承があります
当時 大和(奈良の都)からは 加太峠を越えて この地に至ったとされていて 倭姫命は 天照大神の安住の地を求めてやって来こられた時に 関町古厩で馬をつなぎ「都追美井」の井戸の水でのどを潤したとの言い伝えが残ります
都追美井(つつみい)
延喜式内社に比定される大井神社の御神体の井戸である。
大井神社は、明治四十二年に、熊野皇大神社、笛吹大神社や宇佐八幡宮と合祀され、関神社となっている。ここ関町古厩(ふるまや)は、その地名から古代駅制の馬家(うまや)(交通・通信に利用する早馬を乗り継ぐための施設)があったとされ、古代以降、参宮路として、また鈴鹿川渡河点として交通史上重要な地である。
都追美井の名称は万葉集巻十四の駅家に関する次の歌が由来とされる。
鈴が音(ね)の 駅家(はやうまや)のつつみ井の水を賜(たま)へな妹(いも)が直手(ただて)よ 〔読み人知らず〕
(早馬のいる駅の井戸の清水を頂戴したいものだ。乙女の手からじかに。)平成二十一年三月 亀山市教育委員会
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大井神社 二座
[ふ り が な ](をほゐの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Wohoi no kaminoyashiro Futakura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)の論社
・関神社(亀山市関町)に合祀
・大井神社の遺跡(亀山市関町)
〈関神社に合祀された大井神社の旧鎮座地〉
・大井神社(鈴鹿市山辺町)
・江神社(亀山市下庄町)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 関駅から南下して 鈴鹿川を渡ります 約1.2km 車で5分程度
伊勢別街道を南下して 鈴鹿川を渡って240m程で街道沿いに石碑があります
大井神社の遺跡(亀山市関町古厩)に参着
石碑には゛式内 大井神社遺跡 大正四年 大典記念建碑゛と刻字されています
燈籠なども残されています
境内地の敷地には 現在も白砂が敷き詰められています
御厩の松(おんまやのまつ)の切り株は 覆い屋に保存されています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大井神社二座について 所在は゛山辺村に在す、清水あり゛〈現 大井神社(鈴鹿市山辺町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井神社二座
大井は於保為と訓べし
○祭神 稻羽八上姫神、御井神、〔考証〕
○山辺村に在す、清水あり〔考証〕今河曲郡に属す、
類社
山城國 乙訓郡 大井神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大井神社二座について 所在は゛下之庄村 産神 東西二社あり゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井(オホヰノ)神社二座
今 下之庄村 産神 東西二社あり 即是也、〔式内社検録、本村検地帳、おおい谷の名あり、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大井神社二座について 所在は゛大井神社二座と稱するもの 則此 東西両社なるか゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井神社二座
祭神
祭日
社格所在
今按るに 傍注に山邊村と註せるより 考證以下の諸書 これに從ふは妄なり 山邊は河曲郡にして 隷属差へり 其社も新地にして 千古の舊社に非す 又 再考には下庄村 井手明神に配す 併 其社地 山傍少にして 形狀舊祠とは見えす 又 按内記以後の諸書は 勢陽雑記に據て 古厩村に在とす 其社地も亦 狭隘容體 舊社にはあるへからす 傍注雑記等 大井の井を泉井の義として 山邊御井神馬洗井等に牽合するは從ふへからす
再考には堰埭の意とせるは是なり 下庄村は田茂川の北涯にあり 延寶七年檢地帳におおい谷一中七畝貮述拾八步と記し 都合四反九畝二步の地の字とす 村の産神は東西に二社地あり 西を江神社に配すれと明證なし 両社地 舊とは一聯の地勢にて中間を宮カ谷と唱ふ 鬱樹として千歳の舊社地たる事 瞭然たり 南を去て 山傍に井出明神の祠もあれは 大井神社二座と稱するもの 則此 東西両社なるか オオイ谷は大堰谷の謬借なるへけれは 愚據なきにしもあらす
【原文参照】教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155