志登神社(しとじんじゃ)は 『記紀神話』日向二代 彦火火出見尊〈山幸彦〉の妃 ゛豊玉姫命゛が 海神国より帰り 浮島であったこの地に上陸されたので 社殿は西方に向って建ち 昔は海上から参拝するようになっていたと伝わります 延喜式内社 筑前國 怡土郡 志登神社(しとの かみのやしろ)とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
志登神社(Shito shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県糸島市志登82
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
《相殿神》和多津見神(わたつみのかみ)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神
・福を招き、出世を約束する女神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
志登神社
(延喜式内社)(エンギシキナイシャ)
御祭神 豊玉姫命
相 殿 和多津見神 彦火火出見尊
息長帯姫命 武内宿祢命
祭 典
・元旦祭 一月一日 ・祈稔祭 四月七日
・千度汐井 七月中旬・例大祭(神事)十月六日
・新穀感謝祭 十二月三日
由 来
志登神社は延喜式神名帳(西暦九〇五年醍醐天皇の時代)に記載せられた式内社で筑前十九社の一社に列せられた由緒ある古社である。
この事は延喜年間にこの地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、又、志摩郡の総社として郡民一体の崇敬を集めていた。現地石碑文より
式内社 志登神社
歴史
延喜式内社(エンギシキナイシャ)(醍醐天皇(第六十代)平安前期九〇五年)の社格を授る延喜神明帳に記載される(九二七年)
郷社と定められる(明治五年十一月)
福岡県社に定められる(大正四年十一月)昭和二十年終戦まで社殿
構造 神明流造り
天正九年十一月(高祖城主)原田隆種(了栄)再建
元禄三年三月(黒田藩三代)黒田光之公再建
享保二年六月(黒田藩五代)黒田宣政公再建
明治三十年代 可也山地震にて崩壊 再建
平成二十七年七月 火災焼失後 再建博多東長寺(元弘年間)が 戦乱で焼失した為室町以前は記録無し
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
志登神社
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
弥生時代は、この周辺は、入江が東西から割り込み、伊都国の港を形成していた。
祭神は日本神話によれば海神国より帰って、この地に上陸されたという日向二代の妃「豊玉妃」であり、社殿は西方に向って建ち、昔は海上から参拝するようになっていた。
附近の遺跡
志登支石墓群(弥生前期の南鮮式巨石墳)(国指定遺跡)
岩 鏡(支石墓)(弥生南鮮式巨石墳)(豊玉姫にまつわる伝説)現地案内板より
由緒
御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。
社地の近くには豊玉姫命が髪を梳った地とされる岩鏡や、鏡掛松、拝松、古宮、玉ノ井などの古跡が点在しており、南東5kmの高祖山で彦火々出見命を祀る高祖神社、彦火々出見命が龍宮に赴くのを導いた塩土翁を祀る志摩芥屋の塩土神社も何かしらの関わりがあると考えられています。
古くからこの周辺は、海洋交易の要衝で、入江が東西から割り込み伊都国の港を形成していたと考えられています。南東600mにはそのことを裏付ける志登支石墓群が残されています。国指定遺跡の志登支石墓群は、弥生前期(約2500~2200年前)に造られ、朝鮮半島との繋がりを示すものとされています。
天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、潤村から西太郎丸村まで12丁歩の神田が寄附されました。しかし豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至ります。元禄3年(1690)3月、第3代藩主の黒田光之から神田1町6反の寄附と共に神殿を初め末社に至るまで造立され再興されました。明治5年(1872)11月3日郷社に列格、大正5年(1916)10月12日県社に昇格し、同年12月12日幣帛供進社に指定されました。平成27年(2015)12月に前年の火災焼失から再建されました。
志登神社公式HPより
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・幣殿
・拝殿
・三柱社〈拝殿向かって右手 三社合殿〉
中央・皇大神宮《主》天照大神
左殿・八坂神社《主》須佐男命
右殿・志々岐神社《主》十域別神 倉稲魂神
・松本天満宮〈社殿向かって左手〉
《主》菅原道真公〈元 志登字松本に鎮座〉
・厳島弁財天〈境内入り口右〉
《主》弁財天
・鬼瓦
〈平成26年(2014)焼失した・拝殿の鬼瓦・本殿 梢殿の鬼瓦〉
・手水舎
・二の鳥居〈扁額 志登大明神〉
神社二番鳥居
この鳥居は、嘉永四年(1707)に黒田藩四代黒田綱正が寄進したもので志摩怡土郡の現存する鳥居の中で最古の鳥居と思われる
鳥居脇の石碑文より
・二の注連縄柱
・大石大神
大石大神
細語(ささやき)橋の由来
神池に架せられていたが膝行(いさり)の人が此の橋の上で足が立ったと云う伝説があることから神池の入口に立て、万病平癒を願い祭られています。元禄時代現地石碑文より
・碑文〈志登神社再建委員会 平成二十八年正月〉
・一の注連縄柱
・一の鳥居
・社号標゛延喜式内社 郷社 志登神社゛
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・小宮址
〈志登神社を建て直す時 祭神を分霊した仮の宮殿 志登神社の鳥居 西北100m〉
・古跡 岩鏡(いわがみ)
〈豊玉姫命が 岩鏡の上で髪をとかした 伝説あり〉
・志登支石墓群(しとしせきぼぐん)
〈1953年 文化財保護委員会による発掘調査では 弥生時代早期~中期(約2500~2100年前)にかけての支石墓10基 甕棺墓8基などが発見されました〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
筑前國 怡土郡 志登神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)怡土郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 志登神社
[ふ り が な ](しとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shito no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『記紀神話』にある゛海幸山幸゛について
兄・海幸彦(うみさちひこ)は 海の漁師、弟・山幸彦(やまさちひこ)は 山の猟師です。ある日、弟の要望で、弓矢と釣竿を交換して猟・漁を行いますが、山幸彦は兄の大事な釣針を無くしてしまいます。兄に責められた山幸彦は、釣針を探す旅に出て、潮の神シオツチの案内で海底の海宮(わたつみのみや)に辿りつき、そこで大海神の娘・豊玉姫(トヨタマヒメ)と結ばれます。大海神の力を借りて釣り針を見つけた山幸彦は地上に戻り、豊玉姫の助力を得て兄を屈服させます。
この後、豊玉姫は出産のため山幸彦のもとを訪れ、「海神の一族である自分は、出産の際に本来の姿に戻ってしまうので、決して覗かないように」と伝えます。山幸彦が産屋を覗くと、巨大なワニ(鮫)あるいは竜の姿に戻った豊玉姫が出産の苦しみでのたうちまわっていました。
約束を破られ、恥じた豊玉姫は子神ウガヤフキアエズ(以下ウガヤと省略)を置いて海宮へ帰り、通路を閉ざしてしまいますが、夫と子を忘れられず、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を乳母として送ります。ウガヤは、叔母・乳母である玉依姫と結ばれ、初代天皇となるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が誕生する場面で、古事記の上巻(神話編)は終わります。
糸島の志登神社の社伝には ゛豊玉姫命の上陸の地゛とある
社伝では 御祭神の豊玉姫命が龍宮で身籠り 彦火々出見命を(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされます
志登神社の公式HPにも 其の事が記されています
゛由緒
御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。゛
奉納された゛豊玉姫命の絵馬゛に記されている文
゛古の 對馬の豊玉神社より 古来 糸島水道の浮島である所の志登に降臨された 御神体 豊玉姫命
その父神 綿津見神を祟の奉り
海運安全祈願して建立された「式内社志登神社」の由来絵馬を・・・・奉納する゛
゛対馬の和多都美神社゛から 当地〈志登神社〉に降臨した豊玉姫命
志登神社の社伝では 豊玉姫命は 対馬の和多都美神社より当地〈志登神社〉に降臨したと伝えています
対馬の和多都美神社の社伝には 豊玉姫尊の父神 豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が建てた宮殿゛海宮(わたつみのみや)゛が 和多都美神社(わたつみじんじゃ)であり 彦火火出見尊と豊玉姫命のご夫婦の神が過ごした宮と伝えています
和多都美神社の縁起によれば
゛縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が当地に宮殿を造り、宮を「海宮(わたつみのみや)」と名付け、この地を「夫姫(おとひめ)」と名付けた。
その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。
そして神々しい神奈備(かんなび)「夫姫山(おとひめさん)」のさざ波によるこの霊地に 彦火火出見尊と豊玉姫命のご夫婦の神を奉斎したと伝えている。゛
對馬の伝承を考慮すると
豊玉姫尊と彦火火出見尊〈山幸彦〉は゛対馬の和多都美神社゛で過ごし゛対馬の住吉神社(鴨居瀬)゛で御子を出産します
詳しくは 下記の 和多都美神社(対馬 仁位)の記事をご覧ください
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 式内社 和多都美神社(名神大)には 二つの論社があります
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 和多都美神社(名神大)(わたつみの かみのやしろ)の論社
・和多都美神社(対馬 仁位)
・海神神社(対馬 木坂)
対馬にある゛山幸彦命(やまさちひこのみこと)と 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の出産故事゛について
対馬の住吉神社(鴨居瀬)には 次のような伝承があります
゛彦火火出見命 津島海宮に降らせ給ひ 豊玉彦命の姫 豊玉姫を娶り、
海宮に住み給いしこと、三年 豊玉姫 胎妊の身となり
産室を此の地 柴瀬戸 神浦に造らしめ給ひて 皇子 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命の御誕生 御抱育し玉いし古跡なり゛
つまり 彦火火出見尊〈山幸彦〉と豊玉姫尊の御子である〈日向三代の3代目 神武天皇の父神〉゛鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)゛の出産故事が伝承されています
延喜式内社 對馬嶋 下縣郡 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(対馬 鴨居瀬)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR筑肥線 波多江駅から 北方へ約1.6km 車5分程度
志登支石墓群の方向を目指します
この辺りは 太古には 海〈糸島水道〉であったとされ 糸島市HPにあった「史跡の概要」には 現在の糸島市の土地条件図が載っていて この辺りが 太古には海〈糸島水道〉であった事が想像できます
志登支石墓群の場所〈地図の中央〉が この辺りです
この辺りからは 西方面には 糸島富士〈可也山〉があります
志登神社の場所は 太陽を崇拝したのではないかとの推測もあり 冬至の日には 社殿から参道・鳥居を結ぶ一直線に夕日が沈む事が有名ですが
秋分の日は 糸島富士(可也山)の山頂に 夕日が沈むのを 志登神社から見ることができます
志登神社も 昔は浮島となっており 海上から参拝するようになっていたとされます 容易に想像できます
まるで 浮島のようです
志登神社(糸島市志登)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
鳥居の扁額には゛志登神社゛と刻字
参道を進むと
御神橋の゛細語(ささやき)橋゛を渡ります
すると 境内の入り口に 第二の゛注連縄柱゛があり その先に 二の鳥居が建ちます 幾重にも張られた結界が 境内の神聖さを物語っています
扁額に゛志登大明神゛と刻字 二の鳥居をくぐり抜けると 周囲を木々に取り囲まれた聖地のような境内となります
右手に境内社 厳島辨天と手水舎があり 清めてお参りをします
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛志登神社゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
この社殿は 平成二十七年に再建されたもので 寄付者の芳名が記されています
拝殿 幣殿 本殿が一体となった素晴らしい本殿です
境内社にお参りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 志登神社について 所在は゛志登村に在す゛゛村より北、田の中に林あり゛〈現 志登神社(糸島市志登)〉と記しています
【抜粋意訳】
志登神社
志登は 假字也
〇祭神 豊玉姫命 社傳
〇志登村に在す、今志摩郡に属(ツケ)り、續風土記
例祭續風土記云、相殿の神三座有、第一は神功皇后、第二 高良大明神、第三 高祖大明神なり、志登明神を合せて四座なり、
御社は村より北、田の中に林の一村立る中にあり、神殿は西にむかへりと云へり、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 志登神社について 所在は゛志登村に在す゛゛村より北、田の中に林あり゛〈現 志登神社(糸島市志登)〉と記しています
【抜粋意訳】
志登(シトノ)神社
今 志摩郡志登村に在り、志登大明神と云ふ、筑前續風土記、福岡縣管内神社考証
海神 豊玉姫命を祀る、土人傳説
凡 毎年九月七日祭を行ふ、筑前續風土記、神名帳考証
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 志登神社について 所在は゛志登村゛〈現 志登神社(糸島市志登)〉と記しています
【抜粋意訳】
志登神社
祭神 豊玉姫命
祭日 九月七日
社格 郷社(縣社)
所在 志登村(糸島郡波多江村大字志登)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
志登神社(糸島市志登)について 式内社 志登神社であると記しています
【抜粋意訳】
福岡縣 筑前國糸島郡波多江村大字志登
志登(シドノ)神社
祭神
豊玉姫(トヨタマヒメノ)命
彦火火出見(ヒコホホデミノ)命
武内宿禰(タケシウチノスクネ)
和多津見(ワタツミノ)命
息長帯姫(オキナガタラシヒメノ)命
創建年月詳ならす、然れども延喜式神名帳に、恰土郡一座に志登神社とあるは即ち当社の事なり、筑前績風土記、和漢三才図絵、和爾雅、社傅等孰れも當社を以て式内社たる由を証せり、
社記に 「往古祭禮には神輿潤村に還幸あり、宮司七人、巫女八人、神樂人八人、此外社官多供奉」とあり、以て盛大なるを知るに足る、
續風土紀社記等を見るに、元亀天正の頃 猶神田十二町を有せしが、其後領主小早川秀秋の時、神田を没せられ、末社も亦 頽廃し、其遺跡 田畠と成る、神官の家も悉く断絶して僅かに真言宗にて照光寺と号する社僧一家を存するのみ、
元禄三年に至り、国主 黒田忠之 神田三十石の寄附あり、同年神殿及末社鳥居等の造営ありて、神事も古礼に復したりといふ、
筑前舊志略に青柳翁の説に 弘安四年 蒙古合戦の功により、肥後国託摩別當次郎時秀と云人をして、志登神社の地頭職たらしめし、其文書 今尚 肥後國託摩郡の農家にあり、又 花山天皇の御宇 岩隈式部大藏種美と云ふ人あり、当社々記によれば始めて大宮司と称す云々と見え、又 天正15年 秀吉公 西征の時、神領悉く没収せられ、元禄年間 黒田氏より、神田一町六反を寄附せられ、維新の初め 舊藩主 長知 神領を増加して頗る尊崇せりと云ふ、以上に依り 其の沿革の概略を推知すべし、明治五年十一月郷社に列す。現今 社殿は、本殿、幣殿、拝殿を備へ、境内1535坪(官有地第一種)、村の北方田圃の間に在り、四囲樹林ありて社前亦泉水の設あり。
境内神社 厳島神社 三柱神社 志々岐神社
例祭日 三月七日
【原文参照】
志登神社(糸島市志登)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)