雄山神社 前立社壇(おやまじんじゃ まえたてしゃだん)は 平安初期に開山造営され立山信仰の拠点となった霊山 立山寺(岩峅寺)で 立山に入山する者の身の穢れや罪を湯立ての神事にて祓い 道中の無事を祈願した神仏習合の地です 雄山神社は 現在では・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
雄山神社 前立社壇(Oyama shrine Maetateshadan)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
富山県中新川郡立山町岩峅寺(いわくらじ)1番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・家業繁栄・縁結
・諸難防災・開運
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 越中国一之宮
・ 旧国幣小社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。
古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。
尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。
当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり 清和天皇 貞観5年正五位上に 宇多天皇 寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。
また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正11年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。
明治6年には県社となり、昭和15年に皇紀2600年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
御由緒
御祭神
伊邪那岐之神
天之手力男神伊邪那岐之神ハ天地開闢ノ初祖神ノ詔ヲ奉シテ修理固成ノ天業ニ就カセ給ヒ皇土郡品ノ祖現世司命ノ神ニ坐シマス
天之手力男神ハ皇國肇造ニ當リ天ノ岩戸ヲ開キテ 皇祖ノ御稜威ヲ光被セシメ給ヒ天業翼賛ニ神功ヲ顕シ給ヘル神ニ坐シマス
抑モ本社ノ鎮座ハ悠遠ニシテ詳カナラスト雖モ社傳ニ依レハ文武天皇ノ御宇大寶元年越中守佐伯有頼神教ヲ蒙リテ立山ヲ開キ社殿ヲ創立セリト云ヒ傳フ
神階ハ清和天皇貞観五年九月正五位上ヲ宇喜天皇寛平元年八月従四位下ヲ授ケラレ給ヒ延喜ノ舊社ニシテ世々領主武将ノ尊崇篤ク多クノ社領社僧ヲ有シ規模宏大越中随一ノ大社タリ又日本三霊山ノ一トシテ崇敬者全國ニ洽ク古来越中ニ テハ男子十五歳ニシテ立山ニ登拝セサル者ハ男子ノ數ニ入ラストノ傳統的信仰有リ夏期登拝スルヲ例トセリ
畏クモ 聖上陛下大正十四年新年ノ御歌ニ
立山の空にそびゆるををしさに
ならへとぞ思ふ御代の姿もト詠マセ給ヒテヨリ神威彌々四表ニ耀キ給フ
明治六年縣社ニ昭和十五年十一月國幣小社ニ列セラレ給ヘリ
當社神殿ハ建久年中源頼朝ノ創建ニカカリ其後足利義稙佐々成政造営セルモノニシテ明治三十 九年四月國寶建造物ニ指定セラル
祭日
四 月八日 古式大祭
十一月三日 秋 祭
雄山神社 前立社壇現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
重要文化財 建造物
雄山神社前立社壇本殿明治三十九年四月十四日指定
概説
雄山神社前立社壇の起源は定かではないが、岩峅(いわくら)の地名は、磐座(神、精霊が来臨する岩石の座)に通じるとされ、小字名の「岩坂(いわさか)」も「磐境(いわさか)」の神聖な意味から転じたものと思われる。立山山頂にある峰本社の里宮として創建され、古くは大宮立山寺と呼ばれ、江戸時代には岩倉寺、そして明治時代には岩峅寺雄山神社遙拝所と呼ばれてきた。
社伝によると、建久二年(1191年)に源頼朝が再建し、明応元年(1492年)足利義稙(よしたね)によって修復されたとしている。
その後も富山城主 佐々成政の庇護を受け、加賀藩前田家の所領後は、藩主一族の武運長久、息災延命、五穀豊穣などを祈る祈願所として厚く保護された。本殿は和様の斗栱組(ますぐみ)で、五間社流れ造りである。一間大面取りの向拝を付けて高い階段を覆い、下は浜床の様式をとり、総体は素木(しらき)造りである。
昇り階段下の向拝柱は角柱で、大斗(たいと)をのせ、その上に虹梁(こうりょう)を懸け、木鼻は象形で芭蕉葉図案を手挟(たばさみ)によって屋根に取り付けている。
また本殿は、大丸柱上に大斗をのせ、柱間には中央に神紋、双方に日、月、その他の図案彫刻を施こした蟇股(かえるまた)をはめ込んでいる。
破風(はふ)の拝下には「いの目懸魚(けぎょう)」を懸け、屋根はもと柿葺であったが、現在檜皮(ひわだ)葺である。
とくに蟇股彫刻や向拝の手挟、木鼻などは、室町中期の様式を示している。明治三十九年四月十四日付けで特別保護建造物に指定され、文化財保護法の施行によって、国指定の重要文化財となる。
立山町教育委員会
現地案内板より
・拝殿
・石の 狛犬
立山町指定文化財 彫刻
石造 狛犬 一対平成十六年二月十日指定
阿像 吽像 材質:凝灰岩
前立社壇所蔵の「越中立山古文書岩峅寺文書三十一号」と称されている「元和年代(1615~1623)八月十八日発の玉泉院黒印書状」に(前略)「御こまいぬを、みやうねんは御きしんなされ候はんと、おほせられ候」(後略)とある。
玉泉院は加賀藩二代目藩主 前田長利の正室永姫で、立山寺(現在の雄山神社前立社壇)への帰依が厚く、黒印書状が二十二点も残されている。
銘の存否は確認されていないが、玉泉院寄進ではないかと思われる。 江戸時代初期の製作品として、簡素な体形に江戸時代に即した端麗な装飾を施し、威厳と優雅さを具えた優品である。拝殿の案内板より
・摂社・末社・社務所
〈・摂社 刀尾社・末社 稲荷社・末社 八幡宮〉拝殿向かって左横に三社が並んで祀られています
・湯立の 釜
立山町指定文化財 歴史資料
岩峅寺湯立の釜
平成十年四月二十四日指定
旧立山寺(現在の雄山神社前立社壇)では古来、四月八日の春季祭礼において、五穀豊穣・無病息災を祈って、「湯立の神事」が行われており、その神事に使う釜は加賀藩主によって寄進されるのが慣例であった。現存する釜は、口縁部が二段となり、口径133cm余り、高さ約73cmの鋳鉄製である。
銘からは、加賀藩第十三代藩主斉泰が、江戸時代末期の弘化二年(1845)に寄進したもので、高岡の鋳物師金森彦兵衛によって鋳造されたことが読み取れる。
往時の立山信仰の一端を伝える由緒ある遺物であると同時に、立山と加賀藩との関わりを証明する数少ない貴重な歴史史料である。現地案内板より
・手水舎
・斎館・ 石舞台
・東神門
〈立山信仰への入り口に位置する為 本殿を挟み両脇に鳥居(表鳥居・東鳥居)と神門(表神門・東神門)がある造りは 前立社壇の特徴の一つ〉
・表神門
・社号標
・昭和天皇御製の歌碑〈前立社壇の参道口〉
昭和天皇御製
山色連天
立山の空に聳ゆるををしさに
ならへとぞ思ふみよのすがたも明治神宮名誉宮司 髙澤信一郎 勤書
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
現在では 雄山神社は 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
・雄山神社 峯本社(立山 頂上)
・雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)
・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
雄山神として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻七 貞觀五年(八六三)九月廿五日〈甲寅〉
○廿五日甲寅
授に
越中國 正五位下 雄山神に 正五位上
近江國 正六位上 葛野神に
伊豫國 正六位上 高繩神に 並に從五位下勘解由使起請二條
其一曰 神社帳准官舍帳 勘了之日 令移式部省
其二曰 奴婢生益 附帳之日 令注父母名 太政官處分 並依請
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中国 34座(大1座・小33座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)新川郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 雄山神社
[ふ り が な ](をやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Woyama no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 越中國 新川郡 雄山神社(をやまの かみのやしろ)の論社
延喜式内社 雄山神社については
芦峅寺村〈現 雄山神社中宮祈願殿〉と岩峅寺村〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉の2寺の僧侶が社地を争い止まらず
旧藩の裁判で山頂〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を本社と裁判したとする説
又 霊峰立山を神の山として奉斎するもので 元々本社は立山の山頂〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉とする説
又 岩峅寺村〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉が本社とする説があり 一定しませんでした
現在では 雄山神社は 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
・雄山神社 峯本社(立山 頂上)
・雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)
・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
・熊野神社(立山町栃津)
〈前立社壇の元鎮座地〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
富山地方鉄道立山線 岩峅寺駅から西方向へ約650m 東門まで 徒歩8分程度
表参道は境内の北側 常願寺川沿い 富山地方鉄道立山線の踏切を渡るとあります
社頭には 白い鳥居が建ちます
雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
参道が大きく曲がり 社号標゛国弊小社 雄山神社゛が建ちます
参道なりに曲がると 正面に表神門が建ちます
一礼をして 表神門をくぐります
手水舎で清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られます
社殿に一礼をして 境内社を参拝して もどります
境内の中央の樹は注連縄が懸かり 神木だろうか
表神門を抜けて 参道を戻ります
神社の西側には 常願寺川か流れ 富山地方鉄道の鉄橋が架かります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『萬葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌゛立山の賦゛
万葉集の巻17には 四月二十六日 越中國国司であった大伴家持によって 天平十九年(747)二十七日に詠まれた「立山の賦」が記されています
一説には゛多知夜麻尓゛(たちやまに)とある ゛たちやまは゛とは゛立山゛ではなく ゛太刀山(たちやま)゛即ち 剣岳(つるぎだけ)を指すもので 古代の立山信仰の基は 剣岳の遥拝であった とする説もあります
【抜粋意訳】
万葉集 巻17
〈歌番号4000〉
天平十九年(747)四月二十六日 立山賦一首 并短歌 此山者有新河郡也〈原文〉
安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓 等許奈都尓 由伎布理之伎弖 於<婆>勢流 可多加比河波能 伎欲吉瀬尓 安佐欲比其等尓 多都奇利能 於毛比須疑米夜 安里我欲比 伊夜登之能播仁 余<増>能未母 布利佐氣見都々 余呂豆餘能 可多良比具佐等 伊末太見奴 比等尓母都氣牟 於登能未毛 名能未<母>伎吉氐 登母之夫流我祢〈訓読〉
天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね〈仮名〉
あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに とこなつに ゆきふりしきて おばせる かたかひがはの きよきせに あさよひごとに たつきりの おもひすぎめや ありがよひ いやとしのはに よそのみも ふりさけみつつ よろづよの かたらひぐさと いまだみぬ ひとにもつげむ おとのみも なのみもききて ともしぶるがね〈歌番号4001〉
四月二十六日 立山賦一首 并短歌 此山者有新河郡也〈原文〉
多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之〈訓読〉
立山に降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし〈仮名〉
たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず かむからならし天平十九年(747)四月二十七日 大伴家持作之
〈歌番号4002〉
立山賦一首 并短歌 [此山者有新河郡也〈原文〉
可多加比能 可波能瀬伎欲久 由久美豆能 多由流許登奈久 安里我欲比見牟〈訓読〉
片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む〈仮名〉
かたかひの かはのせきよく ゆくみづの たゆることなく ありがよひみむ四月廿七日大伴宿祢家持作之
〈歌番号4003〉
敬和立山賦一首并二絶〈原文〉
阿佐比左之 曽我比尓見由流 可無奈我良 弥奈尓於婆勢流 之良久母能 知邊乎於之和氣 安麻曽々理 多可吉多知夜麻 布由奈都登 和久許等母奈久 之路多倍尓 遊吉波布里於吉弖 伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟 多知氐為弖 見礼登毛安夜之 弥祢太可美 多尓乎布可美等 於知多藝都 吉欲伎可敷知尓 安佐左良受 綺利多知和多利 由布佐礼婆 久毛為多奈i吉 久毛為奈須 己許呂毛之努尓 多都奇理能 於毛比須具佐受 由久美豆乃 於等母佐夜氣久 与呂豆余尓 伊比都藝由可牟 加<波>之多要受波〈訓読〉
朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは〈仮名〉
あさひさし そがひにみゆる かむながら みなにおばせる しらくもの ちへをおしわけ あまそそり たかきたちやま ふゆなつと わくこともなく しろたへに ゆきはふりおきて いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ たちてゐて みれどもあやし みねだかみ たにをふかみと おちたぎつ きよきかふちに あささらず きりたちわたり ゆふされば くもゐたなびき くもゐなす こころもしのに たつきりの おもひすぐさず ゆくみづの おともさやけく よろづよに いひつぎゆかむ かはしたえずは右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
〈歌番号4004〉
敬和立山賦一首并二絶〈原文〉
多知夜麻尓 布理於家流由伎能 等許奈都尓 氣受弖和多流波 可無奈我良等曽〈訓読〉
立山に 降り置ける雪の 常夏に 消ずてわたるは 神ながらとぞ〈仮名〉
たちやまに ふりおけるゆきの とこなつに けずてわたるは かむながらとぞ右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
〈歌番号4005〉
敬和立山賦一首并二絶〈原文〉
於知多藝都 可多加比我波能 多延奴期等 伊麻見流比等母 夜麻受可欲波牟〈訓読〉
落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も やまず通はむ〈仮名〉
おちたぎつ かたかひがはの たえぬごと いまみるひとも やまずかよはむ右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 雄山神社について 立山に在〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を挙げています
【抜粋意訳】
雄山(ヲヤマノ)神社
「三代実録」
貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上「万葉集」十七
須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓 云々
〈すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに とこなつに〉「新校」
立山在 新川郡
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 雄山神社について 立山に在り 立山権現〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
雄山神社
雄山は袁夜麻と讀り
〇祭神〇立山に在す 土人説
〇萬葉集十七巻に、立山賦、此山者在ニ新川郡也
安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓、云々
〈あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに〉連胤
按るに、
當社は立山の雄山に坐すが故に雄山神と稱ししにて、所謂 立山は高山と聞ゆれば、雄山神も坐すべけれど、其の比咩神は祈年祭に預り給はねば、立山神社とは申さぬなるべし、
常陸國 筑波山神社二座とありて、今も男體宮 女體宮とて両所に坐して、二上山ともいひ来り、其の男體は案上、女神は案下の幣に預り給へば、筑波山二座にて明か也、媛の女神も案下の幣にだに預り給ふならば、立山神社といふへきを、然あらぬから雄山神社と載せたるなるべし、神位
三代実録、貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 雄山神社について 立山に在り 立山権現〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
雄山(タケヤマノ)神社
今 立山に在り、立山権現と云ふ、神名帳考証、三才圖會、
〇按 越中國圖、立山の北に剣山あり、
萬葉集に須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓と云るは、此の山にして、須賣加未(スメガミ)と申せるは、即ち雄山神なり、姑附て考に備ふ、蓋 伊弉諾尊を祀る、参酌万葉集、土人傳説、
凡 其祭四月八日、十月三日之を行ふ、三才圖會、新川縣式社調帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 雄山神社について 所在は立山麓岩峅村〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉であると記しています
通説として 立山山頂の〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉とする説があるが
これは芦峅寺村と岩峅寺村の2寺の僧侶が社地を争い止まらず 旧藩の裁判で山頂を本社と裁判した事によるものと説明しています
芦峅寺村は〈現 雄山神社中宮祈願殿〉と岩峅寺村は〈現 雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)〉の事です
【抜粋意訳】
雄山神社
祭神 伊邪那岐神
天之手力男神神位
清和天皇 貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上祭日 今四月八日 十月三日
社格 郷社所在 立山麓岩峅村(中新川郡立山村立山峰)
今按〈今考えるに〉
注進状 立山の麓 岩峅村 遥拝と称するもの本社拝殿全備せるを以て 思ふに此の地に鎮座せしこと疑なし
山上は四時雪あり 登嶺に苦しむ故 六月朔日より七月晦日まで 神主を山上に遷座し遠近諸人をして山上に参拝せしめ 其の前後は岩峅本社に歸座あるを例とす 然るに立山峰鎮座と注進せしは 往年 葦峅 岩峅二村の両社僧より社地を争て止まざるより 舊藩にて一時 峰鎮座と裁判し此争を止めし也 然れば今の時 宜しく舊に復し玉ふべしと云り 猶よく考べし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
立山山頂の〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を本社とする説〈當社は往昔より今に至る迄 鹼俊なる山上の霊神として、殊に諸人の崇敬する所たり〉を採用し 式内社 雄山神社と記しています
山麓に大宮〈現 雄山神社中宮祈願殿〉があり これは祈願所とも記しています
【抜粋意訳】
〇富山縣 越中國 中新川郡立山村(立山峯)
縣社 雄山(オヤマノ・タケヤマノ)神社
祭神 天之手力男(アメノタヂカラヲノ)神
伊邪那岐(イザナギノ)命本社は延喜式に雄山神社、式外神名帳に立山権現とあるは即ち此れ也、蓋し立山に在るが故に立山権現とは云ふなり、
創建は崇神天皇の御宇に在りと云ひ、雄山神社の名 亦 古書に散見すれとも 其 確なること詳ならず、
三州志、及社記等の書を参酌して曰は、「大宝元年辛丑年、景行天皇後胤 稲春入彦苗裔佐伯有若越中守として下向、同年九月 嫡男 有頼卿謁説方原五智寺慈朝師、受戒、改名慈興、建立大権現大宮及王子眷属等社」とあり、又 三才國圖には此れを四條大納言なりと云ふ、
又 一本立山縁起に「佐伯若右衛門其子有恒立山大宮を建つ」と云ひ、
又 本朝通記に、「大宝三年釈教興立山権現を越中に勧請す云々」と見ゆ、按ずるに立山明神は上古より高山の霊神として、祭祀せられたるは論なし、
又 三千風行脚文集に、
「蘆倉庄立山、大宝元年慈興上人開基、日本第一大梁正一位立山権現、本地國常立尊、相殿二柱尊、皇孫尊、思兼命、手力「雄命等云々」とあり、
其の他諸記多きも慈に略す、
又 萬葉集にも當山を詠めるもの多し。
「多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之」
〈たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず かむからならし〉
「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛」
〈たちやまの ゆきしくらしも はひつきの かはのわたりせ あぶみつかすも〉さて當立山てふは 山の名なりや、神名なりやに就ては、古来 人々の研究せる所なり、按ずるに五十猛命伊達神と稱する事もあり、日本記 五十猛命神多将樹種 大八洲國之内莫不播殖而青山焉等あり。
三代実録に、清和天皇の貞観五年九月二十五日甲寅、越中國 正五位下 雄山神に正五位上を授けらる。
神祇志料に云く、「立山の北に剣山あり、萬葉集に須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓と云るは、此の山にして、須賣加未(スメガミ)と申せるは、即ち雄山神なり、姑附て考に備ふ」と。當社の社領は、式外神名帳にも社領五十石云々とあり、又古昔より寄進せらるる社領頗る多し、・・・・・・・
尚神社には其證書各通を保存せりと云ふ、
又 源頼朝 社殿を造営せしめらし事もあり、(社伝)
要するに當社は往昔より今に至る迄 鹼俊なる山上の霊神として、殊に諸人の崇敬する所たり、明治六年縣社に列す、建物には山上の社殿一宇、境内七坪を有せり、山麓に雄山神社摂社大宮あり 其社には祈願殿とて風雨を祈る社あり。
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【原文参照】
雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)