大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 創祀年代は不詳ながら 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀していたと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大歳金刀比羅神社(Ohotoshi konpira shrine)
【通称名(Common name)】
・こんぴらさん
・かじやのこんぴら様
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県多可郡多可町中区鍛冶屋856-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《配》大歳神(おほとしのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
天目一命(あめのまひとつのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・厄除け、商売繁盛、子授け、縁結び
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考論社〉
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
創立年代不詳。延宝5年(1677)、検地帳には石検九畝二十歩の神田を載せたれば、慶長年度には既に有数の神社。
明治43年(1910)に至りて、寛政6年(1794)当社摂社として讃岐琴平宮より藤井孫右衛門の勧請した 無格社(兵庫県神社誌)金刀比羅神社を、大歳金刀比羅神社と改称す。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312065.htm
大歳金刀比羅神社
祭 神 大歳神 大己貴命 保食神 事代主命
例祭日 十一月二十日・二十三日
由 緒
創立年代不詳にして延宝五年の検地帳に慶長の古検の時 九畝二十歩の神田ありし由を記す
此に当時相当の神社なりしを知る
寛政六年当社摂社として讃岐琴平宮より勧請したる金刀比羅神社を本殿の大歳神社に合祀し 大歳金刀比羅神社と改称す金刀比羅大神が疫病を鎮められた御神徳により いのちの神様 かじやのこんぴら様と親しまれている 神社である
現地案内板より
【由 緒 (History)】
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)
ご祭神
大歳神(おおとしのかみ)
大己貴命(おおなむちのみこと)
保食神(うけもちのかみ)
事代主命(ことしろぬしのみこと)往古(おうこ)は鍛冶の神、天目一命(あまのまひとつのかみ)が奉祀(ほうし)されていたと推測されますが、大歳神社は延宝検地帳にも広大な神域が記されており、慶長年代以前の創始と考えられます。
寛政(かんせい)六年(1759)二月、当村の藤井孫右衛門が諸病平癒(へいゆ)のため、讃岐(さぬき)琴平宮(ことひらぐう)より勧請したものです。
明治四十四年一月、在来の大歳神社に合祀(ごうし)、大歳金刀比羅神社と改称しました。
社殿は荘厳な神殿造(しんでんづく)りで近隣 希(まれ)な威容(いよう)を保っています。
金刀比羅祭礼は、姫路の総社祭、北条の住吉神社祭と併せ、「播州三大祭」と称せられ、かつて十万余の参拝者で賑わい、鍛冶屋線の列車も五~六輌編成で、両三日終日賑わったものです。
なお、入り口の常夜灯(じょうやとう)は、天保二年(1831)九月の建立であり、万燈籠(まんとうろう)は、金刀比羅講引退記念などと記され、比較的新しいものもあります。現地案内板より
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・幣殿
・拝殿
〈本殿向かって右の境内社〉
・天照皇大神社
・弥都波能賣神社(みつはのめのじんじゃ)
〈本殿向かって左の境内社〉
・大山津見神社(おおやまつみじんじゃ)
・皇居遥拝所(こうきょようはいじょ)
・天目一箇神社(あめのまひとつのかみ)
天目一神社(加美区的場)
荒田神社の西北の丘の上にある小社。
「ひとつさん」と呼ばれて親しまれており、4月にはお祭りが行われます。
天目一命は、町内では他に、山寄上(やまよりかみ) •青玉神社、鳥羽(とりま)•青玉神社、清水(きよみず)•西宮神社で主祭神として、
鍛冶屋(かじや)・大歳金比羅神社、間子(まこ)•加都良神社では 摂社として祀られています。
・お堂か?
・舞殿
・手水舎
〈境内向かって右手の神池の境内社〉
・江島神社〈江島辨才天〉
・裏山から落ちる清流の瀧 神池にそそぐ
〈境内向かって右手の境内社〉
・八坂稲荷神社
・北播護国神社
・参道
・社頭の鳥居
・御神橋・背後には 金比羅山 その麓に境内
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年~平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています
明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 一説に天一神社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います
【抜粋意訳】
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉
昔 近江天皇の御世〈天智天皇 在位668~672年〉
丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里にいた この人は 河内国の免寸(とのき)の村人が持っていた劔を買い取った
劔を得て以後 家はこぞって滅び亡くなってしまったそれから後 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地〉に圃(はたつくり)〈畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔は 廻り一尺(約30cm)ばかり その柄(え)は 朽ち失せていたが その刃は渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここに犬猪(いぬゐ)は 怪しんで劔を取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)〈鍛冶〉を招き その刃を焼かせた
その時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は 大いに驚き つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は 異劔(あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上されたその後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年(684)〉七月 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所〉に還し送られた 今は この里の御宅に安置されている
【原文参照】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一命(あまのまひとつのみこと)〈(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する神についての記述だと想われます
゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?
【抜粋意訳】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)
大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)
賀眉(かみ)は 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている
荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも)し 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと その御子に養う神〈父神〉に酒を注ぐように命ずると その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
〈参考論社〉として掲載します
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多可郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天目一神社
[ふ り が な ](あまめのひとつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amame no hitotsu no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
スポンサーリンク
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
・住吉神社(小野市中番町)
・山王神社(加東市厚利)
・八坂神社(小野市中番町)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
多可町役場から北へ約2.1km 車5分程度
国道427号線から右折〈東へ〉進むと思出川という川があり この御神橋を渡ると 金比羅山があり その麓に境内があります
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり抜けて 参道を進みます 背後の山は 金比羅山です
石燈籠が立ち並ぶ参道を進みます 参道には白砂が敷かれていて 箒の目が綺麗に入り 掃き清められています 丁寧に祀られていることが良く判ります
参道向かって右手には 辨天さまと弁天池でしょうか 朱色の橋が架けられています
社地は 玉垣が廻されて 一段高い壇になつています 正面に拝殿があります
玉垣内に進むと 拝殿の前には狛犬が座し 社殿の両側には境内社が祀られています
拝殿にすすみます 扁額が奉納されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後ろには幣殿 その奥に少し離れて 玉垣に囲まれて本殿が鎮座しています
向かって左側から本殿を見ると社紋でしょうか 〇に金の文字が入っている幕が本殿に掛けられています その隣の小さな祠は 大山津見神社です
その左側には 境内摂社 天目一箇神社とお堂があります
境内の右手には 八坂稲荷神社 その奥には護国神社があります
裏山からは 湧水でしょうか? 清流が滝になって落ちて 神池となっています
社殿に一礼をして 掃き清められた参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛在所分明ならず゛〈所在は不明〉と記しています
ただし諸説があり 次の様に記しています
゛式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕゛〈現 稲荷神社(多可町中区糀屋)〉
゛一説 大木村にあり゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉
゛古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり゛〈現 天目一神社(的場 御田上)・加都良神社 境内社 天目一神社〉
゛播磨鑑に、的場村にありといへり゛〈現 荒田神社(的場)・天目一神社(的場 御田上)〉
【抜粋意訳】
天目一神社
天目一は 阿米乃麻比登都と訓べし
〇祭神明らか也
〇在所分明ならず
〇日本紀、〔神代下〕一書曰、天目一箇神爲に作金者、」
倭姫世記云、崇神天皇六年九月、就に於倭笠縫邑、〔中略〕令 齋部氏、率に石凝姥神裔 天目ー筒□裔二氏、更鋳造 鏡劔、以爲 護身御璽、式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕一説 大木村にあり、」
古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり、〔今按、荒田神社 父神なれば、相殿も祭り難し〕
播磨鑑に、的場村にありといへり、猶國人に尋ねて一決すべし、
〇神代巻 口决に、天目一箇神社、在に播磨國多可郡と云るは、唯此帳にあるを云るにて、何の證にも成がたし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 天目一神社について 所在は゛今 大木村にあり、゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一(アメノマヒトツノ)神社
今 大木村にあり、〔飾磨縣神社調〕
天津彦根命の子 天久斯麻比止者命を祭る〔新撰姓氏録、延喜式、神代巻口譯、〕此神亦 天麻比止都禰命と云ひ、又 天目一箇神と云ふ、〔新撰姓氏録、古語拾遺〕
上古天照大御神、天窟に隠り坐し時、雜刀斧及鐵鐸を作り仕奉りし神也、〔古語拾遺〕
凡 十一月八日 祭を行ふ〔飾磨縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛大木村 (多可郡日野村大字大木)゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一神社
祭神 天目一箇命
祭日 十一月八日
社格 村社所在 大木村 (多可郡日野村大字大木)
【原文参照】