丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は 創建は古く 少なくとも今から千七百年前のことと伝えられます 神功皇后の三韓征伐の時 丹生都比売大神の託宣によって 衣服・武具・船に朱砂〈丹〉を塗り戦勝されたので 応神天皇が 社殿と広大な神領を寄進されたとする 式内社であり 紀伊国一之宮でもあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
丹生都比賣神社(Niutsuhime shrine)
【通称名(Common name)】
・天野大社(あまのたいしゃ)
・天野神社(あまのじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《第一殿》丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
〈天照大御神の妹神 稚日女尊(わかひるめのみこと)〉
《第二殿》高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
〈丹生都比売大神の御子〉
《第三殿》大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)
《第四殿》市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
《若 宮》行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)
〈鎌倉時代・気比神宮から大食都比売大神・厳島神社から市杵島比売大神を勧請した真言宗の僧侶〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
《第一殿》
・諸々の災いを祓い退け 一切のものを守り育てる女神
・不老長寿、農業・養蚕・織物の守り神
《第二殿》
・人生の幸福への導きの神
《第三殿》
・あらゆる食物に関する守り神 食べ物を司る神
《第四殿》
・財運と芸能の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 紀伊国一之宮
・ 旧 官幣大社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
丹生都比売神社(旧官幣大社)
一、御由緒
当社の創建は古く、少なくとも今から千七百年前のことと伝えられる。現存する日本最古の祝詞のひとつである「丹生大明神告門」によれば、丹生都比売大神は天照大御神の妹神で、紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。また、播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船をすべて朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な神領を寄進されたとある。丹は朱砂を意味し、その鉱床のあるところに「丹生」の名前がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を採掘する一族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、その総本社である。
御子の高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師空海の前に、白と黒の犬を連れた下流後に化身して現れ、空海を高野山へ導いたと今昔物語にある。空海は、日本人の心に根ざした仏教を布教するために、大神のご守護を受けて、神々の住む山を借受け、真言密教の総本山高野山を開いた。そして、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、当社と高野山に於て、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成された。当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで神と仏が調和して五十六人の神主と僧侶で守られてきた。
高野山に参詣する表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社の境内の入口で、まず地主神である当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習であった。
現在の本殿のかたちは、今から八百年前の鎌倉時代に、行勝上人により、気比神宮から大食都比得大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、合わせて四殿となり、室町時代に火事により、復興されたものである。
一、社殿と文化財
朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗な本殿は、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されている。他に文化財としては、国宝の銀銅蛭巻太刀、重要文化財の木造狛犬四対、木造鍍金装神輿、金銅琵琶等多数ある。一、主な祭礼
一月一日 歳旦祭
一月第三日曜日 厄除祭・御田祭
二月十七日 祈年祭
四月第三日曜日 花盛祭
六月三十日 夏越の大祓
七月十八日 神還祭
十月十六日 例祭
十一月二十三日 新嘗祭
十二月三十一日 歳越の大祓
毎月十六日 月次祭現地貼紙より
【由 緒 (History)】
由緒
丹生都比売大神は 天照大神の御妹神で別名稚日女尊(わかひるめのみこと)と申します。織物の祖神と言われ、御子の高野御子と共に大和地方を巡歴され、農耕殖産を教え導かれこの地に鎮座されました。
神功皇后に協力された功績で応神天皇より紀ノ川以南の広大な地を神領として与えられました。その後も皇室の御崇敬は厚く延喜の制で名神大社に列せられ、大正13年官弊大社になりました。
それ故社宝には、国宝や重文も多く保存されています。
古くは弘法大師が当社の側に曼陀羅院を建立し、その後 神白、神黒、2匹の犬の導きで高野山に真言密教の道場を開き、以来当社は高野山の守護神として崇拝されています。
第3、4殿には鎌倉時代の初め行勝上人により、敦賀の気比神宮、安芸の厳島神社を勧請され、4柱の神を各殿にお祀りして以来4社明神とも呼ばれてお導きの神として参詣者が絶えません。
当社の特殊神事の1月14日の御田祭、4月22日の花盛祭及び渡御の儀は平安時代の古式そのままに行われています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
由緒
紀伊山地の入り口にあたる、標高450mの盆地である天野の地に神社が創建されたのは、今から1,700年以上前と伝えられる。
『丹生大明神告門』によれば、丹生都比売大神は、天照大御神の御妹神で、稚日女尊とも申し上げ、紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を伝えられ、この地に鎮座せられたとある。
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后出兵の折、大神の託宣により、赤土を賜り、これを天逆鉾に塗り船に立てたところ、戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿を造営され、紀伊山地の北西部一帯を神領として寄進されたとある。
今も大神を御祭神とする神社は県内80社をはじめ、全国約180社を数え、当社が本社である。
さらに、『日本書紀』に神功皇后が新羅より帰還された後の記事として天野の祝(神職を意味する)が登場することから、神社の奉斎が古くから行われていたことを示すものとされている。
式内社としては、名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預る。
また、蒙古襲来の後、紀伊国一之宮ともなった。
これは、幕府が当社に異国降伏を祈願したところ、大ガラスが飛び立ち暴風が起こって元の軍船を壊滅させた御神威が理由とされる。
社格制度上では、大正13年に官幣大社に列格している。
信仰的には、真言密教との密接な関係を保ってきた神社として知られる。
弘法大師は、丹生都比売大神より神領を借受け、高野山の壇上伽藍の御社に守護神として大神を祀り、真言密教の総本山を開いた。
大神の御子の高野御子大神は、弘法大師空海の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へ導いたと今昔物語に伝わる。
また、古来、高野山への参詣者は、表参道である町石道を登り、途中にある二つ鳥居からまず当社に参拝するのが習わしであった。
鎌倉時代から明治の廃仏毀釈までは、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、惣神主をはじめ社家19家と社僧、神子、神楽男総勢56人で護られてきた、その間、舞楽法会が行われている。
これは、都からの伶人30余名による舞楽が奉納され、高野山の僧侶100余名による法会が、国の安泰を祈る行事として、社頭で行われたものである。
神社の社殿は、鎌倉時代に、行勝上人により、大食都比売大神と市杵島比売大神が勧請され、現在の4殿となり、室町時代に火災により消失するが、すぐに復興されている。
朱塗りに彫刻と彩色を施した社殿は、春日造では日本一の規模を誇ると言われる、楼門とともに重要文化財に指定されている。
鏡池に架かる朱塗りの太鼓橋は、天野盆地の里山の風景に溶けこみ四季折々に姿を変える。
主なご祭礼としては、例祭は秋の大祭として斎行され、春の大祭としては、4月第3日曜日にご祭神に花を供える花盛祭があり、この日渡御の儀が行われご神幸がある。
他に、1月第3日曜日に行われる御田祭があり、起源は平安時代後期とされる豊作を祈る農耕神事である。
平成16年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録された。和歌山県神社庁HPより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・佐波神社(さわじんじゃ)
〈明治時代に上天野地区の諸社を合祀〉
・鏡池の中に鎮座する境内社〈祭神不詳〉
・輪橋(太鼓橋)
・祓い橋と中鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・狩場明神
〈《第二殿》高野御子大神(たかのみこのおおかみ)〈丹生都比売大神の御子〉〉
弘法大師空海を高野山まで道案内した山人〈狩人〉が 矢の根を研いだとされる 狩場明神の矢根研石です
史跡 狩場明神矢根研石
弘仁七年僧空海唐にての修行を了へ日本に帰国し真言密教の根本道場を開く地を求めてたまたま大和宇智郡犬飼山辺りに来たりて一狩人に逢ひその連れし黒白二匹の犬に導かれて高野山に達しこヽにて真言宗の一大霊場を開くこととなるのであるがこの狩人こそ狩場明神の化身であったと云はれています。狩場明神は現在のかつらぎ町大字宮本辺りを根據とされ四方に遊猟し常にこの処にて矢の根を研ぎたりと云はれその跡がこの石であり紀伊續風土記高野山の部に「八幡の森又は御社の森は教良寺村の南に在り内に狩場明神矢根研石と云あり方一尺許りにて矢の根を研ぎたるやうの跡在り」と記されておる。狩場明神は又の御名を高野御子神と申し天野大社の主祭神丹生都比売大神の御子であるとされており従ってこの地は天野高野を結ぶ由緒ある史跡である。
昭和五十七年九月県道新設のため現在地より西北五米の所より掘り出し昭和五十九年一月現在地に移す
昔よりの云ひ傅へによれば婦人此の石に触れば安産の霊験ありと云う現地石碑より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が 記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申。京畿七道諸神、進階及新叙。惣二百六十七社。奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・
・・・
紀伊國
從四位下 伊達神。志摩神。靜火神 並正四位下
從五位下勳八等 丹生都比賣神。伊太祁會神。大屋都 比賣神。神都摩都比賣神。鳴神 並に從四位下
從五位下 須佐神。熊野早玉神。熊野坐神 並從五位上
・・・
・・・巻四十四 元慶七年(八八三)十二月廿八日〈庚申〉の条
○廿八日庚申。
紀伊國 從四位下勳八等 丹生比売神・伊太祁曾神 並に叙く從四位上を
阿波國 正五位上 天日鷲神 從四位下
加賀國 從五位下 菅生神 正五位下
參河國 從五位下 石鞍神、阿波國 從五位下 埴生女屋神・八桙神 並從五位上
河内國 正六位上 栗栖神・堺神、越中國 正六位上 新治神、因幡國 正六位上 蟲井神、伯耆國 正六位上 天照高日女神・天乃神奈斐神・天高神、安藝國 正六位上 風伯神 並從五位下
以從五位下橘朝臣貞樹爲豐前守。去二月、丁母憂罷職。今以本官起之。
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にひなへのまつり)
奉(たてまつる)尊幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・丹生都比女神社一座 日前神社一座 国懸神社一座 伊太祁曽神社一座 大屋都比売神社一座 都麻都比売神社一座 鳴神社一座 伊達神社一座 志磨神社一座 静火神社一座 須佐神社一座〈已上紀伊国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)伊都郡 2座(大1座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 丹都比女神社(名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](につひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nitsuhime no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『紀伊国名所図會(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される「天野社新嘗祭」の伝承
「天野社新嘗祭」では゛浜降り神事゛が伝わり 毎年 天野丹生都比売神社の神輿が 高野山から紀ノ川沿いを玉津嶋神社まで渡御し 翌日 日前宮へと神行する神事がありました
・天野社新嘗祭の挿絵
【抜粋意訳】
天野社〈現 丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)〉新嘗祭(にいなめさい)では
かつて 天野社の神輿(みこし)が「・玉津島のこしの窟〈玉津島社の祓所〉・日前宮の草の宮」の両方に渡御していたが 今は廃絶し惣神主が玉津島の方角を向いて 祝詞を奏上する
【原文参照】
「むかし当社の神輿 玉津嶋のこしの窟に渡御ありて 日前宮の草の宮にも渡らせ給ひしに 故ありて其式廃れしかは 今は祝詞棚といふをつくりて 惣神主 かの方にむかひて祝詞を申すなり」
「祝詞棚 経蔵の北にあり 対処に於て二八十一三ケ月祭式あり 神幸のとき玉津嶋明神へ祝詞をあぐるになり」
「天野社新嘗祭で神輿(みこし)が渡御する「・玉津島のこしの窟・日前宮の草の宮」との関連について
玉津島 興の岩屋(こしのいわや)〈現 鹽竈神社〉について
゛興の岩屋(こしのいわや)と言われるのは、かつて浜降り神事の際に神輿が奉置される場所であったからである。浜降りとは、毎年9月16日に高野山の地主神である天野丹生都比売神社の神輿が、紀ノ川沿いにはるばる玉津島神社まで渡御し、翌日日前宮へと渡御してゆく神事をいい、神輿が玉津島神社で一晩奉置されるところが輿の窟であった。浜降り神事はその起源を古代まで遡ることができると考えられるが、鎌倉時代に一時中断された時期があり、文保2年(1318)に再開されたことが記録に残されている。その後戦国期に途絶え、近世には天野社の鳥居外から玉津島神社を遥拝するなどの神事になっている。゛
『和歌の浦学術調査報告書』平成22年12月17日 編集・発行 和歌山県教育委員会より
天野社と玉津島神社の御祭神は 稚日女尊(わかひるめのみこと)
さて 天野社〈丹生都比売神社〉の神輿は どのような理由で 玉津島神社に渡御して その帰途 日前宮に行くのか? この三社の関係については?
『紀伊続風土記』には
「丹生津比咩は 伊弉諾伊弉冉二尊の御兒 天照大御神の御妹にして 稚日女尊と申し 神世より 本国 和歌浦 玉津島に鎮座せりと云れ」と丹生都比賣神と稚日女尊と同神と記しています
丹生都比売神社のHPにも同様の記述があります
゛丹生都比売神社のご祭神
丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
伊勢神宮に祀られる天照大御神の妹神で、稚日女尊(わかひるめのみこと)とも申し上げる゛
又
伊藤信明さんの著書「天野社・日前宮と玉津島」『和歌の浦 その原像を求めて』によると「玉津島は天野社の渡御地であり、日前宮・国懸宮の祓い所でもある特別な場所で、玉津島で天野社惣神主と日前・国懸宮の紀国造(惣神主)が共にお籠もりをして新嘗祭が行われた。紀氏と丹生氏の神事の場所であり、両氏族にとって聖地であった。」とされます
各々の神社の記事
・玉津島神社(和歌山市和歌浦中)
・鹽竈神社(和歌山市和歌浦中)
・日前神宮・國懸神宮(和歌山市)
・日前神宮の旧鎮座地とれる名草郡毛見郷 濱ノ宮
・丹生都比売神社(かつらぎ町上天野)
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紀伊国(kii no kuni)〈和歌山県〉一之宮(いちのみや)について
紀伊國(きいのくに)には 一之宮が三ヶ所あり 互いに深く関わっています
日前神宮・國懸神宮
日前神宮・國懸神宮(和歌山市)の神職は 紀氏で 日前宮・国懸宮の惣神主であった 伊太祁曽神社の旧社地に祀られています
・日前神宮・國懸神宮(和歌山市)
・日前神宮・國懸神宮の旧鎮座地 名草郡毛見郷 濱ノ宮
伊太祁曽神社
伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)の社伝には「古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが 第十一代 垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので その地を明け渡した」と伝え
・伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)
・三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
丹生都比売神社(天野大社)
丹生都比売神社(かつらぎ町)を祀る 天野社の丹生氏は 紀国国造の系譜に連なります
かつて新嘗祭では 神輿(みこし)が「・玉津島のこしの窟・日前宮の草の宮」に渡御していました
・丹生都比売神社(かつらぎ町)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR妙寺駅から 南下して紀ノ川を渡り 山を登り約8.5km 車20分程度
輪橋(太鼓橋)の掛かる鏡池の隣に駐車場がありました
鳥居も玉垣もみな 朱砂〈丹〉を塗った色に仕上げられています 美しいです
丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)に参着
境内には 参道は真っ直ぐに延びていますが高低差が付けられています 参拝者は まず社頭の鳥居をくぐり 輪橋を上がり 祓橋を渡り 中鳥居 楼門 神域へと上がって行きます
輪橋を上がります
輪橋の頂点からは 祓い橋と中鳥居が見えてきます
中鳥居に一礼をして 境内に進み いま歩んできた参道を振り返ります
正面を向くと 石畳みの参道の先には楼門が立ち 本殿屋根の千木が見えています
参道右手には 社務所と手水舎があり 清めます
参道を進み 正面は楼門 向かって右手は拝殿 向かって左手は神饌所
楼門へと上がる石段は 自然石の風合いが残り 味わいがあります
石段を上がると 青銅製の狛犬が座しています
楼門が 拝所となっています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝所の奥には鳥居が建ち 瑞垣の先に4つの本殿が 北北東を向いて並んで鎮座しています
社殿の南西側から 第一殿を眺めます
この辺りには 何回参拝しても 沢山のカエルいます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『播磨国風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
爾保都比売命(にほつひめのみこと)が 丹生都比売神(にうつひめのかみ)と同一視されています
神功皇后の三韓征伐の際 爾保都比売命が 国造の石坂比売命に憑いて神託 赤土(にふつ)を授け勝利されたので「管川の藤代の峯」〈丹生都比売神社の旧鎮座地〉にこの神を祀ったと 記されています
【抜粋意訳】
播磨国風土記逸文
息長帯日女命(神功皇后)が 新羅国を平定しようと思いお下りになられた時に 諸神(もろもろのかみ)に祈願された
この時 国堅大神(くにかためしおほかみ)の御子 爾保都比賣命(にほつひめのみこと)が 国造の石坂比賣命(いはさかひめのみこと)に 憑いて教え給われた「我が前に好く治めて奉れば〈私の祭祀をよくしてくれるならば〉善き験(しるし)を出そう 比比良木八尋桙底不附國(ひひらぎの やひろほこ そこつかぬくに)・越賣眉引國(をとめの まゆひきくに)・玉匣賀賀益國(たまくしげ かがやくくに)・苦尻有寶白衾新羅國(こもまくら たからある たくふすま しらきのくに) を丹浪(にのなみ)を以って 平伏(ことむけ)給うだろう」と
そこで 此処に赤土(にふつ)を出し賜る その土を天之逆桙(あまのさかほこ)に塗り 神舟の艫舳(ともとへ)に建て また 御船の裳(も)や御軍(みいくさ)の著衣(よろひ)も赤土で染めた
こうして 海水をかき濁して海を渡られた
その時 船底に潜っていた魚や空高く飛ぶ鳥なども往来せず 船を遮るものは何も無くなった こうして新羅を平伏させ 已訖(をはり)として還り上りましたすなわち その神を紀伊国の管川(つつかは)にある藤代之峰(ふぢしろのみね)に鎮め奉りました 以上
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
神功皇后の時代に
紀伊国の「小竹(しの)」と「天野(あまの)」に社があり この両社の神職(祝)を同じ墓に葬った禁忌を伝えています
丹生都比女神社は 別名を天野明神と号していたので この神職の話だろうとされています
【抜粋意訳】
神功皇后の段 常夜(とこやみ)を行く 小竹祝興天野祝共爲善友 の条
忍熊王(オシクマノミコ)は 軍を引いて退き 菟道(うじ)〈現 京都府宇治市〉に到り 陣を敷きました
皇后は 南に詣でて紀伊国(きいのくに)日高(ひだか)〈現 和歌山県日高郡〉で 太子(ヒツギノミコ)〈応神天皇〉と会われた
群臣(まへつきみたち)と議(はかりごと)〈軍議〉をされ 遂に忍熊王(オシクマノミコ)を攻めるため さらに小竹宮(しののみや)〈現 和歌山県那珂郡粉河町長田〉に移られた
この時 多くの日を経ても 昼が夜のよう暗く 当時の人は「常夜(とこやみ)行く」と言った
皇后は 紀直(きのあたい)の祖先の豊耳(トヨミミ)に問われた
「この怪(しるし)は 何ゆえにだろうか ?」
その時 一人の老父が有り言うには
「聞くところでは このような怪(しるし)を 阿豆那比之罪(あずないのつみ)と言います」
「どういうことか?」
老父は答え
「二つの社(やしろ)の 祝者(はふり)〈神官〉を共に合わせて葬っているからでしょう」それで港(むらに)に里(さと)があり 問うてみる 一人が言うには
「小竹(しの)の祝(はふり)と 天野(あまの)の祝(はふり)は 善友(うるわしきとも)だった
小竹の祝が 病に逢って死でしまった
天野の祝は 血泣(いさち)〈激しく泣き〉て言った
「吾(われ)は 生きている時に 交友(うるわしきとも)であった どうして死んで 墓穴を同じにしないでいられるか」
それで 屍(かばね)〈遺体〉のそばに自ら伏して死んだ それで合葬した これであろうか」墓を開いてみると事実でした それで棺櫬(ひつぎ)を改めて 異なる所に埋めました
すると 日の光は照り輝き 昼と夜は別れました
【原文参照】
『今昔物語集(konjaku monogatari shu)』に記される伝承
弘法大師空海が 高野山金剛峯寺を開いた際に 地主神の丹生都比売神社(丹生明神の化身)から神領を譲られた伝説が 綴られています
大師は「我が唐にして擲げし所の三鈷落ちたらむ所を尋ねむ」と思って 都を出て探し求めたとあり 山人〈丹生の明神〉に案内されて三鈷が突き刺さっていた所を見いだすことになる
【抜粋意訳】
巻十一 第廿五話 弘法大師始建高野山語第廿五
〈弘法大師(こうぼうたいし)始めて高野の山を建つること 第二十五〉
今昔 弘法大師 真言教 諸の所に弘め置給て 年漸く老に臨給ふ程に 数(あまた)の弟子に皆所々の寺々を譲り給て後「我が唐にして擲(な)げし所の三鈷、落たらむ所を尋む」と思て 弘仁七年と云ふ年の六月に 王城を出て尋ぬるに 大和国宇智の郡に至て 一人の猟人に会ぬ
〈今は昔 弘法大師(こうぼうたいし)は真言(しんごん)の教えを諸所方々に広められたが しだいに老齢になられて 数多くの弟子に所々の寺を譲られた その後 「私が唐にいる時に 投げた三鈷(さんご)の落ちた所を尋ねてみよう」と思い 弘仁七年(816)6月に都を出て尋ねるうちに 大和国(やまとのくに)宇智郡(うちのこおり)に至って 一人の猟師に出会われた〉其の形 面赤くして長八尺許也 青き色の小袖を着せり 骨高く筋太し 弓箭を以て身に帯せり 大小の二の黒き犬を具せり 即ち 此の人 大師を見て過ぎ通るに云く「何ぞの聖人の行き給ふぞ」と 大師の宣はく「我れ 唐にして三鈷を擲て『禅定の霊穴に落よ』と誓ひき 今 其の所を求め行く也」と 猟者の云く「我れは是南山の犬飼也 我れ其の所を知れり 速に教奉るべし」と云て 犬を放て走らしむる間 犬失ぬ
〈その姿を見ると 顔は赤く 身長は8尺(約240㎝)程で 青い色の小袖(こそで)を着て 骨は高く筋肉は太く 身に弓と矢を帯びていて 大小2匹の黒い犬を連れている この人は 大師を見て 通り過ぎ行く時に「そこを行かれる聖人(しょうにん)は どちら様でしょうか」という
大師は「私は唐にいる時に 三鈷を空へ投げ『わたくしが禅定(ぜんじょう)に入るに相応しい霊穴(れいけつ)に落ちよ』と誓いました 今 その所を捜し求めて歩いています」
猟師は「私は 南山の犬飼です 私はその場所を知っています すぐにお教えいたしましょう」と言って 犬を放って走らせると 犬は失せてしまった〉大師 其(そこ)より紀伊国の堺 大河の辺に宿しぬ 此に一人の山人に会ぬ 大師 此の事を問給ふに「此より南に平原の沢有り。是其の所也」
明る朝に 山人 大師に相具して行く間、密に語て云く「我れ 此の山の王也 速に此の領地を奉るべし」と 山の中に百町許入ぬ 山の中は直しく鉢を臥たる如くにして 廻に峰八立て登れり 檜の云む方無く大なる 竹の様にて生並たり 其の中に 一の檜の中に 大なる竹胯有り 此の三鈷 打立てられたり 是を見るに 喜び悲ぶ事限無し 「是禅定の霊崛也」と知ぬ 「此の山人は誰人ぞ」と問へば「丹生の明神となむ申す 今の天野の宮是也 犬飼をば 高野の明神となむ申す」と云て失ぬ
〈大師は そこから紀伊国(きいのくに)の国境にある大河のほとりで宿をとられた そこで一人の山人に出会われた 大師がこのことを問われると「ここから南に 平原の沢があります その所がお尋ねの場所です」と答えた
翌朝 山人は大師と一緒にそこへ出かけて行く途中「私は この山の王です さっそくこの領地をさしあげましょう」とささやいた
やがて山の中に百町ほど入る この山の中はきちんと鉢(はち)を伏せたような形で 周囲には八つの峰がそび立っている 言葉に出来ない程の檜の大木があり その中に 一本の檜の中に二股となっている部分があって そこに この三鈷が打ち立てられていた
これを見ると 限りない喜びと悲しみがあられた「これこそ禅定の霊崛(れいくつ)」であると悟られた
「貴方は誰ですか」と この山人に尋ねると
「丹生の明神と申します」と答えた
今の天野の宮(天野神社)は この方を祀られています そして更に「あの犬飼は 高野明神(こうやのみょうじん)と申します」と言って消えてしまった〉大師 返給て 諸の職 皆辞して 御弟子に所々を付く 東寺をば実恵僧都に付く 神護寺をば真済僧正に付く 真言院をば真雅僧正に付く 高雄を棄て南山に移り入給ぬ 堂塔房舎を其の員造る 其の中に 高さ十六丈の大塔を造て 丈六の五仏を安置して 御願として名づけて金剛峰寺とす
亦 入定の所を造て 承和二年と云ふ年の三月廿一日の寅時に 結跏趺坐して 大日の定印を結て 内にして入定す 年六十二 弟子等 遺言に依て弥勒実号を唱ふ〈大師は 都にお帰りになりすべての役目をみな辞して 御弟子に諸所の寺をお任せになられた
東寺(とうじ)を実恵僧都に 神護寺を真済僧正に 真言院をば真雅僧正に お任せになり こ自身は高雄を去って南山に移られた 数多くの堂塔や僧房を造られたが その中に 高さ一六丈の大きな塔を造り 丈六の五体の仏像を安置して その寺を大師のご本願寺として金剛峰寺と名付けられた また 入城の場所を作り 承和二年三月廿一日寅刻に結跏趺坐して 大日如来の定印を結んで その中で入城なされた 御年六十二歳 その時 御弟子たちは 遺言により 弥勒菩薩の名号を唱えた〉其の後 久く有て 此の入定の峒(ほら)を開て 御髪剃り御衣を着せ替奉けるを 其の事絶て久く無かりけるを 般若寺の観賢僧正と云ふ人 権(かり)の長者にて有ける時 大師には曾孫弟子にぞ当ける 彼の山に詣て 入定の峒を開たりければ 霧立て暗夜の如くにて 露見えざりければ 暫く有て霧の閑(しづ)まるを見れば 早く 御衣の朽たるが 風の入て吹けば 塵に成て吹立てられて見ゆる也けり
〈その後 長い間が経っても この入定の峒(ほら)を開き 髪を剃り 衣を着せ替え差し上げていたが それ以降 そのようにはしなくなりました 般若寺の観賢僧正という人物が 権(かり)の長者〈権長者〉になっていた時 大師には曾孫弟子にあたります 彼の山〈高野山〉を訪れ 入定の峒(ほら)を開いたところ 霧が立ち込め 暗闇のようで 露見することはありませんでした しばらくすると霧が晴れて静まり返ると 早くも衣が朽ち果て 風に吹かれて塵となり 舞い上がって 霧に見えていたのです〉塵閑まりければ 大師は見え給ける 御髪は一尺許生て在ましければ 僧正自ら水を浴び 浄き衣を着て入てぞ 新き剃刀を以て 御髪を剃奉ける 水精の御念珠の緒の朽にければ 御前に落散たるを拾ひ集めて 緒を直ぐ揘(すげ)て 御手に懸奉てけり 御衣 清浄に調へ儲て 着(きせ)奉て 出ぬ 僧正 自ら室を出づとて 今始て別れ奉らむ様に 覚えず無き悲れぬ 其の後は 恐れ奉て 室を開く人無し
但し 人の詣づる時は 上ぐる堂の戸 自然ら少し開き 山に鳴る音有り 或る時には金打つ音有り 様々に奇(あやし)き事有る也 鳥の音そら希なる山中と云へども 露恐しき思ひ無し
〈塵が静まってくると 大師は姿を現しました その髪は一尺ほど伸びておられたので 僧正は自ら水を浴び 清浄な衣を着て中に入りました 新しい剃刀を用いて 大師の髪を剃りました 水精の念珠の糸が朽ちていたので 彼は地面に散らばった糸を集め 直ちに結び直して手に掛けました 清浄な衣を整えてお着せし 僧正は自ら室から出て行きました 今初めてお別れする様な気持ちになり 思わず泣き悲しまれました しかし その後 恐れ多く感じて 室を開く人はいませんでした
ただし お参り人がある時には 上へ向かう堂の戸が自然に少し開き 山から鳴る音が聞こえ 時には鐘を打つ音もあり 様々な奇妙なことが起こります 鳥の鳴き声もまれな山中ですが 露恐ろしい思いはありません〉坂の下に丹生・高野の二の明神は 鳥居を並べて在す 誓の如く山を守る
「奇異なる所也」とて 于今人参る事絶えず 女 永く登らず
「高野の弘法大師と申す是也」となむ 語り伝へたるとや
〈坂の下に 丹生(にう)・高野(こうや)の二柱の明神が 鳥居を並べて鎮座されていて 誓い通りに このお山を守護しておられる「霊妙なる所だと」今も参拝人の絶える事はないが 女性は永久に登らない
「高野の弘法大師と申し上げるのはこの方である」とこう語り伝えている〉
【原文参照】
『紀伊国名所図會(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)について 天野神社(あまのじんじゃ)と称すとあり 式内社に比定しています
【抜粋意訳】
三編 四之巻下 天野神社(あまのじんじゃ)
丹生四所明神と称する 神一山の鎮守なり 当社毎年五十餘度の神事あり・・・・祀神四座(まつるかみよんざ)
一宮(いちのみや)
正一位勲八等 丹生津比賣大神 一祝惣神主 丹生一麿 当社の神事を司る
延喜式 云 丹生津比賣神社(名神大月次新嘗)
三代実録云 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 紀伊國 從五位下勳八等 丹生都比賣神 並に從四位下
紀伊國 從四位下勳八等 丹生比売神 並に叙く從四位上を
・・・
・・・二宮(にのみや)
正一位 丹生髙野御子大神 二祝子 丹生相見某 当社の神事を勤む三宮(さんのみや)
氣比大神 三祝子 丹生某 当社の神事を勤む四宮(よんのみや)
嚴嶋大神 四祝子 松島某 当社の神事を勤む末社 左右十二王子社 瑞牆の内左右にあり左は五神合殿右は六神合殿別外衣比須社と合せて左右十二王子の社といふ
番神社 同右にあり
若宮 行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)の社なり 上人 終焉のとき誓ひて丹生一の祝と謂て曰 露死せば永く当社の守護神となるべしと 祝答へて曰 上人は当社の中奥なり争う礼教せざらんやとて 没後 当社を建て若宮と称すと也拝殿(はいでん) 又は透廊といふ中門の西なり
神人廰(かんじんのちょう) 中門の東
御供所(おともしょ) 社殿の坤にあり 西の端に竃明神の祠あり 神職の篭所なり
舞台 透廊の前にあり 毎年六月十七日十八日能あり 此會を笈凌といふ
鐘楼 舞台の西にあり応仁年中に鋳がたし
持所 御社の西にあり 延慶年中 勅願によりて創造す 本尊は不動愛染合躰の秘佛なり
護摩所 御社の東にあり 不動明王智証大師の作なり
御影堂 護摩所の東にあり 天野口伝抄に曰 二位禅尼女人のふる里に生ることあらざる誠なげき御堂を建たまひ 大師の尊像を仏師に命ずに無我夢中に尊像を拝しし模造すといふ
多宝塔 御影堂の北にあり 本尊五智如来なり
神輿堂 多宝塔の北にあり
山王堂 又 本地堂をいふ 神輿堂の北にあり 四社明神の本地仏を安置すと 東三条院御願なり
荒神社 山王堂の中にあり
不動堂 荒神社の東にあり
長 床 不動堂の北西にあり 小庵堂といふ西の按に行者堂あり
一切経蔵 長床の東にあり 池水ことを廻まいり 道法親王御灌頂の日 行勝上人をして止雨の法を行いしむ 即功験ありを賞として 斯経蔵を創造してときめくといふ
寶 蔵 経蔵と同く池中に建つ
祝詞棚 経蔵の北にあり 対処に於て二八十一三ケ月祭式あり 神幸のとき玉津嶋明神へ祝詞をあぐるになり
輪 橋 本社の正面にあり 橋下の池を御池といふ 又暁池ともいふ他 中に小丘あり 昔八百比丘尼といふもの神陵を納とぞ
花表二基 輪橋の前後にあり
大庵室 又 曼荼羅院と号す 大師の創建とならん謹みて 当社の神系を按ずるに
一宮(いちのみや)丹生津比賣大神は 伊邪那岐伊邪那美二柱の御子に坐し 異国降伏の守護神にて 昔 神功皇后 三韓征伐の大挙に当りて 神霊針間国造石坂比賣に着したまひ 我霊を祀れば善験を現さんと教たまひし 赤土を出し給ひぬ 皇后その赤土を以て 天の逆鉾に塗て神舟の艫舳に建て 御舟裳とも軍人の着衣とも染させ給ひ 又は 海水を掻濁して凌つも給ひしえば 海上平穏に平穏しく 新羅を平伏給へり 因て 御凱陣のとき 其神霊を本国 管川藤代峯に鎮め奉り給ふ 應神天皇の御宇 神霊更に奄田村の石口に顕を所々に遷幸あり 遂に当社に鎮座し給ふ
三韓の役に勲功ありし神霊なるを以て 勅して神地の境界を定め給ふ その地大抵 今の寺領の四至是なり 又 毛荒物 毛和物を猟て神に供せんが為に 黒白の犬二部 并に犬飼二人を雇り其犬の口代とて 田地若干を己寄せ給ひぬ
是即 弘仁年間に大師を導たる狩場明神の祖なり 又 紀国造職譲補のときも白犬一疋を相見に引せし 当社に献ずるを古例とす 大師開山の後 供御の式は改るども 犬を宣ずるはこの縁なり
約営を神に坐せぞ はやく官社に列して朝廷の御崇敬も他に異なり 後 蒙古の賊皇国を窺しとき 弘安四年四月五日同十二日 当社 四所明神の内 三の大神託宣なりて 日本国中の諸神 蒙古を征せんが為に 九州に発向したまふ先例に任せく 天野大明神一陣に向ひ給ふべしと 議定既に平ぬ 我明神の為に楯を突き 真先に魁すべし 明神の進発は来二十八日の丑の刻なり云々
かかる霊験ありなるによりて 異賊降伏せしれば 正応五年 勅して和泉国日根郡近木庄一所を寄附したまへとす二宮(にのみや)高野御子大神は 御子は彦と通じ 天若彦を天若御子と言いたる如し 此神高野彦にして往昔此地の領主なるにあらん 天野祝の遠祖にして丹生津比賣大神いまだ此地に鎮座したまはざること 以前は 天野祝専 此神に奉仕せしにぞあらん 故に満山の衆僧苟くも此神を崇敬せざる時は 大小祟りをうくといふ 二神は大師開山の時より 密教擁護の御誓ひ浅すられ屡出現ましまして 山上の弘隆を守護したまふ事 緒書に詳にして 世に普く知る所なれば今略す
三宮(さんのみや)気比大神 正応官符に三宮を蟻通神といへり 又の御名とかや
四宮(しのみや)厳島明神二座 勧請の由来を承元年間 丹生明神 行勝商人に告給わく 越前の気比と安芸の厳島の二神は 我古の親友なり 願くは一所に在て密教を擁護し 又 異国征伐のとき扶翼の神将とせん 早く丹生の祝に命じて 我殿中に勧請すべしとのたまへて 是によりて二神を此に合祠し 四社相並べしより 丹生四所明神と称すとなん 以上四座の御傳 異説諸書に紛々として 一小冊に尽すに山上伝ふる所を 又 異なきぞ 他日 其辨を詳にすべし
【原文参照】
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)について 上天野村の天野神社と記し 丹生四所明神社と称されていて 一宮・二宮は丹生高野二柱の神で 往古より此地に鎮座している 三宮・四宮は中世以後に加えて祀られたので 合せて四所明神と称されるのは 後の世になってからである と記しています
【抜粋意訳】
巻之48 伊都郡第七 天野荘 上天野村 天野神社
〇丹生四所明神社 (境内周四町)
一宮 丹生津比咩大神(ニフツヒメノオホカミ)
二宮 丹生高野御子神(ニフタカノミコノカミ)
三宮 笥飯神(ケヒノカミ)
四宮 嚴島神(イツクシマノカミ)已上四社 檜皮葺 千木 鰹木なり 大宮作 極彩色 梁行一間四尺餘 桁行一間四尺 毎社に異なり
右四所明神の内 一宮二宮は丹生高野二柱の神にして 往古より此地に鎮まり坐せり 三宮四宮は中世以後加へ祀る所にして 合せて四所明神と称ふはことごとく後の世の事なり
祝部丹生氏を紀國造と同家にて 往古より当社を奉仕したり今に至る 中世以来 高野山検校社務兼職し一山最尊崇と極ると 以て諸殿雑舎大に備えり最壮麗と儘く祭祀神事怠慢なる事なし
長宮 梁行五尺桁行二間二尺 本社の左にあり 祀神五座 皮張神 皮付神 土公神 大将軍 八王子
長宮 梁行五尺桁行二間六尺一寸 本社の右にあり 祀神六座 八幡 熊野 金峯 白山 住吉 信田
衣比須宮 梁行五尺桁行三尺三寸 右の長宮の次ぎあり 祀神十二王子之一合祀百廿伴神
以上三社十二座の神を十二王子といふ 舊は高野明神の社に合祭せしを承元三年(1209年)行勝上人分ち祭る所といふ
若 宮 梁行六尺八寸桁行六尺六寸 衣比須宮の東にあり 行勝上人建保五年(1217年)五月七日遷化の後當社を造りて其霊を祭る故に行勝社ともいふ
内鳥居 四社の中央にあり高さ二間二尺幅一間三尺格子の扉あり
瑞 籬 内鳥居の左右本社末社を圍繞して東西長さ十七間餘
中 門 梁行二間二尺桁行三間六尺二階造高さ一丈二尺内の鳥居の正面にあり
右前殿 中門の西に接す桁行十三間五尺梁行三間七尺車寄透廊太鞁部屋大般若蔵承仕部屋別あり東北隅御馬屋芝といふあり古の厩の趾といふ
左前殿 桁行十一間餘梁行三間一尺中門の東に接す拜殿神人廳神楽所神子部屋の別あり
御供所 桁行九間三尺梁行四間二尺五寸右前殿の坤にあり西の端に竈門明神を祀る
舞 臺 方三間餘右前殿の前にあり
樂 屋 桁行五間四尺梁行二間五尺舞臺の西にあり中間に橋を架す
鐘 樓 方一丈一尺舞臺の西にあり洪鐘に應仁三年(1496年)の銘あり
持 所 桁行七尺間四間梁間同三餘本社の西にあり 本尊兩頭愛染明王大師四十二歳の作といふ 外に愛染明王一區覚鑁上人の作といふ大壇の裏に正和年中(1312年~)銘文あり
護摩所 方三間本社の東にあり一に壇所ともいふ本尊不動明王智證の作といふ天野口傳鈔に行勝上人の遺跡也とあり持所護摩所を天野兩僧といふ
御影堂 方三間護摩所の東にあり二位禅尼の草創といふ 本尊弘法太師は舊北院御室の本尊なりといふ
多寳塔 方二間三尺餘御影堂の北にあり本尊大日如來
神輿堂 梁行二間五尺桁行二間六尺多寳塔の北にあり 神輿二乗を納む
山王堂 七尺間方六間四尺神輿堂の西北にあり 又は本地堂とも曼陀羅院ともいふ或は大師の草創ともいふ又東三條院御願の堂ともいふ 四社明神の本地佛胎蔵界大日如來金剛界大日如來千手觀音辨財天女を安置す
不動堂 梁行三間餘桁行三間四尺餘山王堂の西北にあり 六月十日此堂にて社家に月俸を輿ふ依りて御蔵ともいふ
荒神社 方二尺六寸不動堂の北にあり瑞籬鳥居あり社の前に石地蔵あり
長 床 桁行二十五間餘梁行四間不動堂の西北にあり西の端に行者堂あり方二間二尺中央役行者像左に義覺の像を安置す東の端に小庵室あり長床の後に芝あり三角芝といふ葛城先達の行所なり
寳 蔵 二間に三間行者堂の南池ノ中にあり前に土橋を架す行人方神事の具を蔵む
一切經蔵 二間に三間寳蔵の西池ノ中に並へり前に板橋を架す仁和寺道法親王御灌頂の時行勝上人命を奉し止雨の法を行ひ即験あり其賞として此經蔵を造り宋本の一切經を蔵む
鳥居二基 中門の北輪橋の南北にあり南にあるを中の鳥居といふ高さ二丈四尺餘北にあるを外の鳥居といふ高さ一丈七尺扁額に正一位勲八等丹生大明神正一位勲八等高野大明神と書す 宮法印道守の筆なり外の鳥居の内に螺籟石といふあり四月十日螺を此石上に吹きて明神の神幸を送る故に名とす
輪 橋 長さ十間餘幅二間餘本社の正面五十間許池に架す 池中に小丘あり相傳ふ往古八百比丘尼神鏡を納めし所といふ
石碑四基 中の鳥居と輪橋との間にありて左右に列建す修験者の建る所なり
大庵室 東西十六間餘南北十一間輪橋の西にあり上下の門及長屋あり大師曼茶院を此地に草創し後山上に移す雅眞僧都其舊跡に山王院を草創せし舊地なりといふ學侶方検校以下大衆の宿所とす
祝詞棚 外の鳥居の西北にあり神輿渡御の時海部郡和歌浦玉津島明神へ濱降[ハマクダリ]の神幸の式をなして祝詞を捧くる所なり
一宮丹生津比咩大神延喜式ニ曰丹生都比女神社名神大月次新嘗本國神名帳曰正一位勲八等丹生津比咩大神とある是なり 丹生津比咩は伊弉諾伊弉册二尊の御兒 天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し神世より本國和歌浦玉津島に鎭まり坐せり 神功皇后新羅を征伐し給ひし時此神赤土を以て功勲を顯はし給ひし故 皇后凱旋の後伊都郡丹生の川上菅川藤代峰に鎭め奉れり 菅川今筒香と書す藤代峯上人水呑峠又右堂カ峯或は子粒カ嶽ともいふ古老傳へて藤代ノ峯ともいひしといふ其地は上筒香東富貴和州坂本三村の界なり 此邊より流れ出る川を丹生川といふ西北に流るゝ事五六里にして紀州に入る 此峯より東の方和州に流るゝ川を又丹生川といふ 神武紀に丹生川上といふ是なり此邊總て赤土を生するを以て丹生の名あり又上筒香村により川上東へ登る事三十町許に 天照大神顯れ給ひし舊地といふありそは丹生明神の訛傳なるへし 又筒香村の西川の下に明神岩といふあり土人傳へて筒香明神の影向石といふ是又御鎭座の時始めて下り給へる石なるへし 今上筒香村に丹生四社明神を祀りて荘中の氏神とす故に是を筒香明神といふ
そは此神の居まく欲し給へる處なるにや書記に 皇后御凱旋の後功勲を顯し給へる神等の功労に報ひ給ひて其鎭り座らんと欲し給へる處にそれゝゝ鎭め奉りし事を書して稚日女尊誨之曰吾欲居活田[イクタ]長峽[ナガヲ]ノ國ニ因テ以海上[ウナカミ]ノ五十狭茅[イサチ]ヲ令祭とあるは延喜式摂津國八部ノ郡生田神社なり生田社當社と勲位も同等なるを見れは同神にて荒魂[アラミタマ]和魂[ニギミタマ]を別ち祀れるにて住吉の神荒魂和魂を別ちて長門と摂津と兩所に祭りしと同類ならむ 書記に其偏を洩して載せさるとも下文引く所の播磨風土記に其漏せる方を書せは此二書を合せて此御神の事備はるといふへし
是より一神兩所に分れ立ち給ひて御名も別に稱へ奉れるなり事代主ノ神初は阿波ノ國に座しゝに後 皇后を助けて功勲を顯し給へるにより摂津國長田に鎭め奉る 式に阿波ノ國にては事代主神社といひ摂津國にては長田神社といふと同例なり
然れとも舊一神なるを以て其間十餘里を隔つといへども毎年九月十六日神輿玉津島に遷幸なし奉る 名つけて濱降[ハマクダリ]の神事といふ祭祀の部并せ考ふへし
又紀伊國造と天野祝部とは共に天名草彦の子孫にして玉津島神は國造の齋ひ祀れる所丹生神社は天野祝部の齋き祀る所神輿遷幸の事も日前宮の神職と共に同く事を執行ひし事皆異神ならさる證とすへし 此御神 皇后を助け給へる事詳に播磨風土記に書せり 今其全文を左に載す。
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 丹生都比女神社(名神大月次新嘗)について 天野村〈現 丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)〉としています 日本書紀・釈日本紀などの伝承を載せています
【抜粋意訳】
丹生都比女神社(名神大月次新嘗)
丹生都比女は假字なり
〇祭神明らか也
〇天野郷天野村に在す、名勝志、神社誌、
天野明神と称す、高野山金剛峰寺の鎮守となれり、例祭年中五十餘度、
○日本紀、神功皇后巻云、小竹祝興天野祝共爲善友、 考証に、小竹祝は神社及び系譜未詳 と云ふは疎漏なり、
釈日本紀曰、先師説云、丹生都比女社者、高野山天野明神也、
播磨国風土記曰、 釈日本紀所引用、息長帯日女命、欲平新羅国下坐之時、祷於衆神、爾時国堅大神子爾保都比賣命、著国造石坂比賣命敬曰、好治奉我前者、我爾出善験、云云、平伏新羅已訖、還上乃鎮奉其神於紀伊国管川藤代之峯、
国人加納諸平云、管川は今筒香と訛りて、天野あたり惣ての庄名なり、藤代峯は富貴筒香大和等の堺の高峯を云りと里人いふ、今は水呑ノ峯とも石堂カ峯とも子粒カ峯ともいへど、古名藤代なり、後に此峯より今の地には遷し奉るなり、彼山は海部郡藤代より山続きなれど、いたくへだたれり、諸神記曰、寺家申状云、丹生明神、伊弉諾伊弉冉之御娘、高野権現者、日神天照之御甥也、頭注曰、 上略 天照大神之妹稚日女神也、高野明神当宮太子也、一説云、丹生都姫天照大神也、坐和州丹生川之裔、故名丹生都姫、後又顕伊勢国、○丹生津姫記云、 考證所引用 正応六年衆徒奏状■、当社者、乾道七世之胤子、爲八荒鎮将之武神、是以地神第三代天津彦々瓊々杵尊、始祐丹生廟祠■、称常世宮、人皇十六代応神天皇、殊崇霊威■、定山境地、
神位
三代実録、貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 紀伊國 從五位下勳八等 丹生都比賣神 並に從四位下
紀伊國 從四位下勳八等 丹生比売神 並に叙く從四位上を
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【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 丹生都比女神社(名神大月次新嘗)について 天野村〈現 丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)〉としています
播磨風土記の引用があり 当社は神功皇后の時 始て菅田藤白峯に鎮め奉しを 後 天野村に遷し玉ひしなり と記されています
【抜粋意訳】
丹生都比女神社(名神大月次新嘗)
今按〈今考えるに〉
播磨風土記に 息長帯日女命欲平新羅国下坐之時祷於衆神爾時国堅大神之子爾保都比賣命昔国造石坂比賣命教日好治奉我前者我西出善験而比々良木八尋杵根底不附国越賣眉引国玉甲賀々益国苦尻有寳白衾新羅国矣以丹波而将平伏賜如此教賜於此出賜赤土其土塗天之逆桙建神舟之艫舳又染御丹裳及御軍之著衣又撹濁海水渡賜之時底潜魚又高飛鳥等不往来不遮前如是而平伏新羅己訖還上乃鎮奉其神於紀伊国管川藤代之峯 とある
爾保都比賣命は 式帳にいはゆる丹生都比賣命是也
さて此神の鎮座すは 高野山なる天野村なる故は 釈紀に先師説云 丹生明神者伊弉諾伊弉冉之御娘云々神名帳頭に天照大神之妹稚日女神也云々一説云 丹生都姫天照大神とあるを以て 紀伊続風土記に丹生津比咩は伊弉諾伊弉冉二尊の御兒天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し神世より本国和歌浦玉津島に鎮座せりと云れと 丹生都比賣神と稚日女尊と同神なる證なけるは信かたく
古史成文には 埴夜須比賣神 亦名 丹生都比賣神として 其伝に彼赤土を賜へる事を云ひ 丹生は埴土の義にて土を掌玉ふの名なりと云へれと 是亦 證ある事なし 仍て祭神 爾保都比賣命と記せり神位
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条 紀伊國 從五位下勳八等 丹生都比賣神 並に從四位下
紀伊國 從四位下勳八等 丹生比売神 並に叙く從四位上を祭日 二月十六日 並十六日
社格 懸社
所在 天野村(伊都郡天野村大字上天野)
今按〈今考えるに〉
本社 播磨風土記に云る如く 当社は神功皇后の時 始て菅田藤白峯に鎮め奉しを 後 天野村に遷し玉ひしなり
【原文参照】
丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)