武藏御嶽神社(青梅市御岳山)

武藏御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は 崇神天皇7年(AD.91)創建と云う 又 日本武尊東征の 白狼の先導によって難を逃れた伝わる古社 天平8年(736)行基奈良大仏 勧進僧 蔵王権現の像を安置以来 東国の修験の聖地御嶽蔵王権現称されました 明治の神仏分離式内社゛大麻止乃豆乃天神社゛と改称した後゛御嶽神社゛゛武藏御嶽神社゛と社号変更 現在に至ります

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

武藏御嶽神社(Musashi Mitake shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

東京都青梅市御嶽山176

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》櫛智命(くしまちのみこと)
   大己貴命(おほなむちのみこと)
   少彦名命(すくなひこなのみこと)

《配》國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)
  〈第27代 安閑天皇

《奥の院》
日本武尊(やまとたけるのみこと)

《ご眷属》
大口眞神(おほくちまがみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

厄除・延命・長寿・子孫繁栄

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

武蔵御嶽神社由緒

 社伝によれば、創建は第十代崇神天皇七年と伝えられ、第十二代景行天皇の御代日本武尊御東征のみぎり、難を白狼の先導によって遁れられたといわれ、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。

 平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されております。

 山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。

 天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南面だった社殿を東面に改めました。人々の社寺詣でが盛んになると共に、世に三御嶽の1つとして、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に拡がり、講も組織され、現在に及んでおります。

 明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。

御祭神
櫛眞智命(くしまちのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)

奥 宮
日本武尊(やまとたけるのみこと)

御眷属
大口眞神(おおくちまがみ)

御社宝
赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい)(国宝 平安末期)
金覆輪円文螺鈿鏡鞍(きんぷくりんえんもんらでんのかがみぐら)(国宝 鎌倉期)
紫裾濃大鎧(むらさきすそごのおおよろい)(重文 鎌倉期)
宝寿丸黒漆鞘太刀(ほうじゅまるこくしつさやのたち)(重文 鎌倉期)
鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんのたち)(重文 鎌倉期)
宝寿丸太刀(ほうじゅまるのたち)(重美 鎌倉期 正中在銘)
鉄製俵形(重美 慶長十五年 西暦一六一〇年)
鰐口(わにぐち) (都有形文化財 建武五年 西暦一三三八年)
旧本殿 (都有形文化財 永正八年 西暦一五一一年)
太々神楽(都無形民俗文化財)
境内全域(市指定史跡)その他多数宝物殿に陳列

祭 儀
  祭 一月一日
  祭 一月三日
(ふとまにさい)
  祭 二月三日
  祭 二月十一日
春季大祭 三月八日
  祭 五月八日
奥社例祭 五月十五日
  式 六月三十日(夏越しの祓い)
流鏑馬祭 九月二十九日
秋季大祭 十一月五日
  祭 十一月二十三日
大口眞神社例祭 正月・五月・九月
  祭 毎月八日

行事
奉納俳句奉献祭 二月十一日
奉納剣道大会  四月二十九日
太々神楽一般公開 六月第三日曜日・九月十五日・十月第一日曜日
社務所

拝殿前の掲示板より

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【由  (History)】

武蔵御嶽神社ご由緒

ご祭神  櫛眞智命 大巳貴命 少彦名命 國押武金日命
奧の院  日本武尊
ご卷属  大口眞神 

創建は崇神天皇の御代と伝えられ、平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆乃天神社 (おおまとのつのあまつかみやしろ )として記されており、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。

 天平八年 (七三六)、僧行基により蔵王権現が祀られて以来、東国の蔵王信仰の中心として広く知られるようになり、その後建久二年 (ーー九一)、源頼朝が征夷大将軍に任じられる前年、源頼朝により社股が修理されています。さらには頼朝の有力御家人である畠山重忠は、鎧と太刀 (国の重要文化財に指定されている)を奉納したと伝えています。文暦元年 (ー二三四) には四条院の勅命により大中臣国兼を祭祀の司職と定め中興されます。元寇では、御嶽のご神体を鎌倉に遷し、蒙古軍退故祈願が行われています。室町時代に足利尊氏による文と神領の寄進など変わぬ崇敬は続きます徳川家康が関東に入国すると、翌年の天正一九年 (一五九一)、朱印地三〇石が寄進され、慶長ーー年 (一六〇六)、大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築しました。現在の社殿は元禄一三年 (一七〇〇)に幕府によって造営されました。江戸中期、庶民の寺社詣でが盛んになると、御嶽信仰も関東一円に広がり、講が組織され現在まで続いています。

 また、元和八年 (一六二二)の御嶽山社頭来由記には『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとさた時、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜 (やまびる野蒜)で大鹿を退治したが、山谷動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。そのとき、忽然と白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いた。尊は白狼に、災いを防ぎこの地を守護せよ。』とあり、御嶽大神のお使いでありながらも「大口真神」として今もなお崇敬を集めております。

摂末社
 所管社として、奥の院の男具那社・富士峰園地の産安社があります。産安社周辺は、江戸時代「浅間山」と呼ばれ、「富士峰千本桜」として桜の名所地でありました。この本殿は女神三柱をご祭神としており、安政五年に創建された大口真神社を昭和七年に移築したものです。その周辺には、安産杉・子授け檜•夫婦杉と呼ばれるご神木があり、この樹に触ると御神徳を得られるとされています。

 境内地には全国の一の宮を祀った社や、東照社、大口真神社などがあります。

宝物殿
 多摩地区に国宝は四点保存されておりますが、当社には国宝二点をはじめ、重要文化財三点、都 ,市指定の多くの艾化財が収蔵されております。これらの内数は、中世より続く最も重要な祭儀『日の出祭』の渡御 加わる、生きた文化財でもあります。神社へ奉納されるため、各時代の技術の粋が込められた武具や調度品に、御嶽信仰の歷史と篤さを感じていただけると思います。

神社パンフレットより

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

摂社・末社など境内の様子については 下記を参照してください

・武藏御嶽神社の摂社・末社について

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

『神社辞典』〈1990年初版〉には
武藏御嶽神社(青梅市御岳山ついて 元和(一六二二)成立の『御嶽山社頭来由記』『新編武蔵風土記稿』〈文政13年(1830)に完成〉には 
式内社 大麻止乃豆乃天神社は 当時すでに境内社となっていた本来の地主神゛坂本の地主大麻止乃豆乃天神 今は末社のごとくなりたり゛と゛中世修験道の発達にともない、金峯山蔵王権現信仰が盛んになったため、地主神の大麻止乃豆乃天神は末社とされたのであろう゛と記しています

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大麻止乃豆乃天神社
[ふ り が な ]おほまとのつのあまつかみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohomatonotsuno Amatsu kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

祭神 智命(くしまちのみこと)について

『延喜式神名帳』所載 大和国 十市郡 天香山坐櫛眞命神社の注記に「元名 大麻等乃智神」とあるので おそらく同じ祭神であろうと考えられています

延喜式内社 大和国 十市郡 天香山坐櫛真命神社(大 月次 新嘗・元名 大麻等乃知神)(あまのかこやまにいます まちのみことの かみのやしろ)の論社について

・天香山神社(橿原市南浦町)〈本社〉

・国常立神社(橿原市南浦町)〈奥宮〉

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社おほまとのつのあまつかみのやしろ)の論社について

・大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)

・武藏御嶽神社(青梅市御岳山)

・北野天満社(八王子市北野町)

・大国魂神社(東京・府中市宮町)

・天神社(府中市宮町)

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR青梅線 御嶽駅から西南方向へ約2.8km 車8分程度で
御岳登山鉄道 滝本駅に着きます

途中 一の鳥居をくぐります

゛奉祝 平成二十九年 酉年式年大祭゛の横断幕が掲げられます

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すぐに 御岳登山鉄道 滝本駅に着きます

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本来は 表参道 二の鳥居をくぐり 徒歩で山へと入ります

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そこに ケーブルカーの案内となります

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ここで車を降りて ケーブルカー経由で御岳山へと入ります

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滝本駅のホームへ向かうと 眼下にお社が祀られています
駅員さんに聞くと 稲荷社とのことでした

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ケーブルカーに乗り込みます
1927年に創設されたケーブルカー路線で 最大斜度は25度とのこと 御岳山(標高929m)の中腹=滝本駅(標高407.6m)から山頂付近=御岳山駅(標高831.0m)を片道約6分間で結びます

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御岳山駅から下を見るとかなり登っている事がわかります

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御岳山駅に到着

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御岳山駅からは 距離は1.2km ですが 結構な山道を進むので 徒歩30~40分でゆっくりと

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なだらかな参道を進みます

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通称゛赤鳥居゛と云われる明神鳥居が建ち 一礼をしてくぐります

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参道沿いには 御嶽講の方々が宿泊する゛宿坊゛があります

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案内図を見ると丁度 参道の中間あたりか?

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゛御嶽蔵王大権現大公開゛のポスターがありました

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参道の右 石垣の上に゛神代ケヤキ゛ 見事です

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参道の斜度もあり 歩くのも息が上がり始めた頃 茶店があります
一休み

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ここを抜けると 社頭の大鳥居となります

武藏御嶽神社(青梅市御岳山に参着

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傍らの手水舎で清めます

゛お犬さま゛の神社ですので ペット同伴(ほとんど おいぬさまに因んで 犬が多い)が可能です
ペット達もここで 清めます

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一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上がり 隋身門に向かいます

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扁額には゛御嶽神社゛隋身門をくぐります

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御嶽講の石碑が立ち並んでいます

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ここからの上り参道は゛霧の御坂゛と呼ばれています

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゛霧の御坂゛には 境内社の゛稲荷社゛゛三柱社゛が祀られていますので お参りをしながら参道を上がります

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すると 石段の途中に 青銅製の鳥居が建ちます

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けっこう足にはキツイ石段なので おいぬさま のベンチもあります

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立ち枯れた御神木を活用したお守り について 

御嶽蔵王大権現 御神木守奉製

御嶽神代檜・挽き痕
推定樹齢400年

御獄山の樹木は古来より神代の名が付き、中でも杉や槍は神代杉(じんだいすぎ)・神代檜(じんだいひのき)と呼ばれ御用材として使われており、望んでも手に入れることが難しい「稀(まれ)な木(き)」でありました。
此の神代檜は数百年の間、御嶽大神をお護りしておりておりましたが、永い勤めを終え立枯れてしまいました。

 樹齢の高い御神木は「壽木(じゅもく)・寿喜(じゅき)」と呼ばれ、大変貴重な御用材として使用されます。
この度、平成二十九年の酉年式年大祭を迎えるにあたり、この壽木を用いて、御嶽蔵王大権現のお姿を篆刻した御神木守りを奉製させて頂ました。この切り株は壽木である神代檜のものです。

立札より

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もうすぐのようです 社務所が見えてきました

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上がると 右手には゛宝物殿゛その前には゛畠山重忠像゛があります

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左手には 社務所

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正面の石段を上がり
拝殿にすすみます

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拝殿の前には オオカミの狛犬

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拝殿の扁額には゛御嶽山゛と記されています

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それにしても 見事な彫刻と彩色

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拝殿に置かれているガラスケースには゛御嶽蔵王権現の像

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の向かって左手には゛神楽殿゛゛授与所゛があります

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こちらから 一段高い境内は 本殿の鎮座する御神域となります
ペットの参拝もこちらまで こちらにペットの為の遥拝所が設けられています

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拝殿の奥 一段高い境内には 幣殿と本殿が鎮座します
゛御嶽蔵王大権現命柱゛の触拝所が設けられています

改めて お祈りをします

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武蔵国金峯山
御嶽蔵王大権現命柱

 自然信仰として御嶽山自体が 信仰の対象である当社では本殿内に八角形をした「心御柱(しんのみはしら)が大地から生まれそびえるように祀られております。
 心御柱古来神聖視さている神籬の一つています。 

十二年にの酉年大祭ではこの御を再現、内神の御体と結紐で結び、触拝として御にお触り預く事で、御嶽権現の御稜威をいだけます
 ご参拝の折は真摯なお心を持ちて、御柱にご参拝下さい
※宝物殿には寛政四年 (一七九二 )の御展示してあります

立札より

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その脇には境内社が祀られていて 順にお参りをします

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奥には 更に一段高い境内地があり 境内社が祀られます

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その中央には゛おいぬさま゛を祀る 大口眞神社が祀られています

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大口眞神社の狛犬は゛オオカミ゛であることは一目瞭然です

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更に奥には゛奥宮遥拝所゛から大岳山

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振り返ると゛巨福社゛その背には 神明社 更に御本殿と一直線

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背後の゛神明社゛現在は 伊勢の神を祀りますが

※この神明社は もしかすると 境内社の地主社だったのだろうか

『新編武蔵風土記稿』には 境内末社 地主社について「本社の後にあり 延喜式神名帳に出せる大麻止乃豆天神にして 神明を配祀せりといへり されば最古き神社にて 御嶽の鎮座以前よりの神なるにより 地主とは稱するなるべし されど今は末社のごとくなりたり」とあり
地主神であった式内社 大麻止乃豆天神社が この地には元々あったが 後から御嶽権現が著名となり 陰に隠れて末社となっている様子が記されています

現在の武藏御嶽神社 御本殿の御祭神は 櫛眞智命(くしまちのみこと)ですので 式内社は 本殿に合祀されていることになるのでしょうか

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その向かって右隣には 旧本殿を社として 全国の一の宮 を祀る゛常磐堅磐社゛見事な社殿です

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こちら側から 本殿を仰ぎます

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本殿の向かって右側に祀られる境内社にお参りをします

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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摂社・末社など境内の様子については 下記を参照してください

・武藏御嶽神社の摂社・末社について

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

武蔵演路(むさしえんろ)』〈編著者 大橋方長他 安永9(1780)年起稿〉に記される伝承

『式内社調査報告』に゛武蔵演路゛が引用されているが 式内社の比定は難しいとの所載あり

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 北野村の天神宮〈現 天満社(八王子市北野町)〉と記し 今 菅原道真公を祀る゛天満宮゛としているのは 誤りで 天神である とも記しています

抜粋意訳】

武蔵演路 第五 〇多摩 

八王子宿 天神宮 

北野村 八王子 六十宿
別当 大義寺 

或いは云う
式内 大麻止乃豆乃天神社之 祭神未考 

今 菅神とするは誤りなり 

【原文参照】

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 大和国 櫛真知命神社との関連を示唆し 所在地としては 府中六所大明神三殿の中央 大己貴命〈現 大国魂神社(東京・府中)〉もしくは 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉と記しています

抜粋意訳】

大麻止乃豆乃(オホマトノツノ)天神社

〇大和国 櫛真知命神社 元名 大麻呂井天和神

三実 作大麻等 野知神
惣風 大麻止乃智天神 圭田67束6毛田所祭 大己貴命也 安閑天皇乙卯年始尊官社 花時以花祭之 新稲之時以新稲祭之
〇当郡 布田村人 大八木範並云 当郡 府中六所大明神三殿の中央 大己貴命 景行天皇の世 祭り始むと云う 当社 春時 花を以って祭り 秋時 新稲を以って祭る式あり これこの大麻血乃知天神社ならんと云えり
式考 御岳山御岳大明神之 少彦名命

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

武藏御嶽神社(青梅市御岳山ついて 著名な神社なので 日本武尊の事柄を始めとして 詳細に綴られています
特に興味ある事として 御嶽山〈現 武藏御嶽神社境内末社 地主社について 「本社の後にあり 延喜式神名帳に出せる大麻止乃豆天神にして 神明を配祀せりといへり されば最古き神社にて 御嶽の鎮座以前よりの神なるにより 地主とは稱するなるべし されど今は末社のごとくなりたり」とあり

式内社 大麻止乃豆天神社が地主神として 元々あったが 後から御嶽権現が著名となり 陰に隠れて末社となっている様子が記されています

抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之114 多磨郡之26 三田領 御嶽村

御嶽社

中央の山上にあり 東面にて八尺四方の檜皮葺なり 四面に瑞籬あり 周匝二十四間 御戸帳は白地の金襴にて御紋を縫ひ出せり 社内の四方に鶴亀松竹を畫きたる絹障子を設く 狩野探幽が筆なりと云 又内のその左右に昇降の龍を彫りたる障子あり これは左甚五郎が造る處なりといへど定かならず

元和八年に記せし社傳を閲るに、
人皇十二代景行天皇四十年に 日本武尊 東夷征伐のため御下向ありしとき 相模國より渡海せられ 陸奥を平げ給ひ それより常陸をしづめ 甲斐の國に至り 猶信越の諸國を王化に歸せしめ給はんと 上州より當國に来り給ひて この御嶽山に陣營をすべられ 服するを睦ひ 背けるを誅し給ひて 東南の國々みな平均せしかば ふたたびこの陣營にかへり給ひ 猶西北を志し給ひて 山路の峻岨を越 今の奥ノ院 高良山 武内大臣山の邊をすぎ給ひしに 深山の邪神 大なる白鹿と化して 道路をふさぎける 猶太占を以 山鬼なることをしり給ひ 山蒜をとりて大鹿の面に弾き給ひしかば あやまたず眼にあたりて斃れけるとき 山谷鳴動して雲霧四方に起り 群臣路に迷ひしとき 忽然として白狼あらはれ 前驅して西北に導きまいらせけり  狼に告給ひて これより本陣にかへり火災盗難を守護すべし とありければ 獣ながら かしこまりし顔色あらはれて 御嶽山に向ひて去りしとなり これ當山 火難盗難退除の守護神たることのよしなり され尊は 事成らきて再びこの山にかへり給ひ 御身につけ給ひし御鎧をとかせられ 永く岩倉に納め給ふ これ當國に名を得しことのよしなり」

又の給ひしは 此國千歳の後 萬代不易の治世あるべしと これ當山を國の鎮護と仰ぐ基なり 後七百歳の星霜をへて 人皇四十五代 聖武天皇の御宇 天平八年 社稷安全の爲に 行基 菩薩命を奉じて東國に下向し この嶽は 往昔 日本武尊の陣營の古迹にして 東國治平の源なれば この地を卜して 堂舎を立 御長一搩手半 今の三尺に准す の蔵王権現の像を彫り 是を 鎔かして 金銅の像を治鑄して安置せり
 この勅願の叡慮は 東國の愚民等ややもすれば闘諍をなし しかのみならず 去年 病災に罹りて諸民困苦することを憂ひ給ひてより事おこれりとぞ その後 再び勅命下りて 黄金を以鑄さしめ給ふ  當今安置する所の神像なり

ここに於て宮殿坊舎甍を並べて 當國の靈場たりしが 建久二年の秋 秩父庄司 重忠 奥州の軍に先鋒たるの功により 将軍家より此杣郡を賜はり 御嶽山に城を築きて住居せしが 元文二年乙丑 重忠 二俣川にて戦死せし時 兵火の爲に 宮殿以下ことごとく灰燼となれり

その後 文暦元年 攝政道家卿祈念のことありて 四條帝へ奏聞して 神社佛閣ことごとく故に復し 散位大中臣國兼を祭祀の司職と定めらる時に 鎌倉将軍賴家より 神領として永錢三十六貫文の地を寄附せらる

由て 司職國兼 本迹縁起の神道を極め 佛道の制を換て神社の式に改め 行基が作りし蔵王の像を垂迹とし 坂本なる地主の神 大麻止乃豆の天神に神秘一座を加へて 二座合一の神社とし 御嶽山大権現と號せり
國兼は 始め伊勢の大宮司にして 姓は大中臣氏は大枝といへり さきに承久年中 新院人皇六十四代順徳帝の命に應じ 佐々木廣綱と共に 平義時を討せんとして利あらず 官軍ついに敗續して 新院 四國に遷され給ふの時 國兼は 佐渡國へ遁れたりしが 己が舊跡なりし 遠江國の住人 濱名民部丞といふものの家に隠れ 濱名氏を以氏となせり その後 寛喜元年 國家の騒亂を歎き ひそかに帝都の平安に復せんことを祈り奉んとて 笈を負て諸國を順行し 遂にこの山に来りしに 靈夢の告を蒙りけり 果して文暦中に至りて當山の司職となれり その後 寶治元年 三浦光村が逆意をくはだてしとき 國兼これに與するの流言あり やがて鎌倉の管領より兵を廢して 社殿を破壊し 國兼を誅せんとす たまたま不思議の神託ありて 軍士神威に怖れて近づかず 依て國兼が罪なきこと自らあらはれて 兵革のこともやみぬ
建長七年二月十一日國兼司職二十一年高良山に登りて昇天せりと云 (國兼昇天のことは壬生尼の置文に詳なりと云)

これより後 弘安三年 北條時宗 蒙古退治の比 祈願のことありて神體をしばらく鎌倉に迎へしが いくばくもなく夷賊みなごろしとなりしゆへに 明る四年の八月 惟康親王より 元のごとくに神體を當山へかへしたまへり
延文四年三月八日 足利義詮 神馬を奉れり ついに管領基氏より 諸社堂塔修造のことあり
應永廿三年十一月 上杉氏憲入道 逆意のとき 管領憲基 當山に陣をとりて京軍と共に氏憲を敗るの時 山の社家 軍役に從ひ功あるにより 明る二十四年の八月 社領ことごとく造營あり 且今より以来 武衛の事を兼へしとて 時の神主國房へ 神領の祖とそこばくの地を賜へり その後 山内の憲實 崇敬あさからずして 永享八年 神領加増のことあり この餘諸家よりの寄附祈願のことは枚擧するにいとまあらず 小田原北條家 關東に威を振ふとき 當山の神領 及ひ 武衛の領知を創りしかば 宮社もやうやくおとろへたり
天正十八年 御入國の後 東照宮より武營の役を御ゆるしあり  山上一里の地と舊領三十餘石の御寄附ありて 御朱印を賜はり ついで 慶長十年 大久保石見守に仰せて 本社以下の御再建あり ここに江城鎮護の御祈願として 古より 南面の社なりしを 東向に建改められしとぞ 時に慶長十一年八月 落成に及びしかば 太刀一振 神馬一匹を御奉納ありて 御當家繁榮のことをちかひ給ひしより 社領再び古に復して今に至ると云

祭禮 毎年十二月廿八日 武器をかざり 神輿を渡す 是を陽祭とも花祭とも唱へり  九月廿九日流鏑馬あり これを陰祭とも合穂祭とも云 其餘 春秋社日四月八日 七月七日 十一月十五日にも略祭あり  近里遠里のものつどいて 太々神楽を時々奉納するにより 山上常ににぎはへり

拝殿 東面にたてり 八間に四間 左右に石にて作りし狗二軀をおき 前に石階二十五級あり

奥院 本社により西の方十八間許を隔てて 甲籠山の中腹に特立せる盤岩にあり 是を岩倉と唱へり 社地の内 凡十五六歩 小社にて 前に二間に九尺の拝殿を立 祭神は伊弉册尊 火産靈二座也 神體は圓徑八寸許の鏡にして 右手に剣を擁し 左手を膝上に置 面相威厳ある像を鑄出せり

奥之奥院 奥院の後背なる絶頂にあり 社地凡二十坪許 石の小祠にて銅扉なり 大天狗 小天狗 櫻坊の三座をあはせ祀れりといふ

寶物 日本武尊御鎧一領 聖武帝の御宇 天平八年 今の南小曽木村なる岩倉より掘出して 當山に移せりと云 享保年中 神寶上覧ありしとき 日本武尊の御鎧は 武蔵國號の由て起る處の品なればしめをくべしとて 上箱を御寄附ありしと云つとふ

秩父重忠鎧一領 畠山重忠 日本武尊の鎧を模して着領とせしが 後に奉納せりといへり これも享保年中 上覧の時 御具足師 岩井定富に仰せて 御修理を加へられて返し給ふといひ傳へり
寶壽丸太刀一振 重忠自筆の願書をそへて寄附する處なり 重忠の負太刀とも  陣太刀とも云ひ傳へるなり

空鞍一口 厚貝にて蛇の目の模様あり
 一口 舌長御鎧なり
唐轡一口 重乗が作なり
以上三品は 四條帝 文暦元年 御馬を牽せられしときのものなりと

正宗太刀一振 武州入東郡安松所澤住人 斎藤主計佑信廣 弘治四年閏二月奉納の銘あり
厄除久利加羅太刀一振 天満自在天神の六字を鐫る いつの比か山本源次郎と云もの 少年二十五歳に當り 百日斎戒して作る處なりと云

源尊氏神領寄附状 建武元甲戌年四月とあり
經文 源信光卿書寫し給ふ由なり 

御嶽山社頭由来記 来由の大略は前に鈔出せり 巻末に元和八壬戌年九月 濱名左京允兼胤大中臣吉郷とあり

鳥居 貧乏山の下當村と柚木村との境にあり 石にて作る 兩柱の間一尺 高さ一丈一尺 御嶽山の三字を扁す これを一の鳥居と呼べり ここより社前までおよそ五六町程あり

御嶽山碑 一の鳥居の内にあり 銘文左に録す

武之全峰山在多摩川之源。蓋蔵王権現之古霊跡。相傳日本武尊
征伐東凱歌西之日。蔵弛於此嶺。武藏之名由是起矣。里称為
武藏國號之神社然而垂跡之始逮不可稽焉、天正十九年辛卯神祖(家康)賜命改作祠字、附以三十石、世々奉祭斯地也、峰轡雛茂形勝幽奇、三伏之候、天風凛々、冷氣人、途沿層崖深渓而行、有瀑布百尋飛流於恠巌之上、泉石可以洗昏蒙、松杉可以忘身世、雲影曳、瓢空中之素練、松韻〇〇、奏微外之水絃、壁立之翠屏篠滑、・・・・・・(中略
文化三年歳次丁卯春三月
青梅 岸鳳質文卿謹撰
東都 庫山人箕謹書

黒門四ケ所 一は琴澤川の東岸にあり 一は北の口瀧本通り正覺寺の邊にあり 一は二の鳥居の前 一は南の口養澤通り山の入口にあり
四ケ所ともに高さ一丈二尺 柱間一丈許の冠木門なり

下馬札 一の鳥居の前にあり 往古より建来りしを 元禄十三年 本社以下御修造の時あらためてたてられしと云
木鳥居一基 社頭を隔ること凡二町ばかりにあり 艮向にて高さ一丈五尺 これを二の鳥居と呼べり
樓 門 二鳥居を入て正面にあり 檜皮葺にて高さ二丈七尺 横六間半 幅四間半 左右に金剛力士二軀ををき 樓上に東國社稷總社御嶽山の九字を扁せり
銅鳥居 樓門を入て正面にあり 高一丈二尺 兩柱の間二間餘 武蔵國號社の扁額あり これを三の鳥居と呼べり
撞鐘樓 樓門の左にあり 鐘の圓徑二尺二寸 近き年の鑄造なれば 銘文は略してここに載せず
鐘 樓 本社より東北にあたりてあり 三間に三間半 鐘の長三尺 圓徑二尺五寸
銘文あり 左に載す

敬白 金峰山
奉鑄金峰山槌鐘
右志者 爲天地地久 御願圓満 乃至 法界衆生平等利益也

徳治二年丁未十一月廿七日
大檀那 壬生氏女納之
大 工 行重
    播磨権守利重

この鍾樓の背後に東照宮の御宮あり 檜皮葺高欄造りなり すべて御紋散しにして 廻り三間四方朱塗りの瑞籬を構へり

神輿殿 本社の後背右の方にあり 二間半に三間 神輿は御紋散なり
石燈籠一基 本社の後背にあり 竿石に銘あれど漫滅して定かには讀がたし 福田次郎遠之末葉 武州三田領長淵郷二俣尾村住人 福田半兵衛賴遠世慶長三巳丑五月吉日の數字ほのかにみゆ されど三年は戊戌なり 疑ふべし この石燈籠の邊に高さ五尺餘の石標あり 奥院征夷高祖神社 從是十八町の十三字を刻す

末社
地主社 本社の後にあり 延喜式神名帳に出せる大麻止乃豆天神にして 神明を配祀せりといへり されば最古き神社にて 御嶽の鎮座以前よりの神なるにより 地主とは稱するなるべし されど今は末社のごとくなりたり
籠守明神社 本社の右にあり 神體は甲冑の女體 小兒を懐きし木の坐像一尺八寸ばかり 神功皇后なりとも 或は句々幡淺々媛命なりとも云
勝手明神社 同じ並びにあり 神體は甲冑をつけし武矢の木像にて 長一尺八寸 受鬘命をいはえりと云
惠比須大黒相殿 本社の左にあり 社前に鐡にてたはらの形に造れる長二尺五寸 徑一尺五寸ばかりなるものあり
そのかたはらに銅板を附て それに
武州杣郷金峯山神主濱名助六郎吉胤代 當國柏原大工神田圖書 作者斎藤六郎兵衛也 願主助左衛門 慶長十五年庚戌九月五日と鐫り

八所相社 同じ邊にあり 三尺に四間 雷神 風神 山神 役行者 宇賀神 辨天 三嶋明神 春日明神の八座を祀す
風神社 是も本社の後にあり 小祠
火神社 前に同じ
巨福社 同じ邊にあり 大国玉命を祝ひまつれり 近郷の人是を耕作神と呼びて 社前の土を請持ゆきて田畑へほどこせば 必五穀豊熟すと云  報賽には其郷里の土を持来り奉納せり

愛宕社 本社の西一町許にあり、小祠
稲荷社 樓門を入て右の方に三祠ならびて立 一は金富理稲荷と號し 一は藤本稲荷 一は柳稲荷と號せり 共に稱號のおこりを詳にせず
疱瘡神社 二の鳥居の下右の方にあり 祭神菊理姫命 木の坐像長一尺八寸
富士淺間社 本社の北八町許を隔て富士峯と云處にあり 小社 祭神は木花開耶姫命 木の坐像長一尺餘 源賴朝建立する社なりと云 例祭は四月初申の日を用ゆ
熊野社 本社の東南大久野村の境にあり 小社にして上屋あり
山王社跡 樓門の右にあり
釋迦堂 二の鳥居の下右の方にあり 三間半四方 木の坐像長一尺六寸許を安す
観音堂跡 鍾樓の左にあり

大宮司 金井氏なり

御師三十三軒 大宮司の住居の邊より二の鳥居近き處までに散住せり
鈴木 島崎 服部 久保田 黒田 馬場 片柳 須崎 橋本 秋山 勤矢 原嶋 高名 岸野  尾崎 俵坊を氏とせるものなり この餘百姓にて禰宜を兼るもの十五人 いづれも山の下に住せり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承

大國魂神社府中市宮町ついて 式内社 大麻止乃豆乃天神社であると記しています

【抜粋意訳】

江戸名所圖會 三之巻

武蔵國(むさしのくに)総社(そうしゃ)六所明神(ろくしょみょうしん)社

 府中驛路(ふちゅうのえきろ)の左側にあり 延喜式内(えんぎしきない)大麻止之豆之天神社(おおまとのつのてんしんのやしろ)是(これ)なり
後世(こうせい)に至(いた)りて 同じく式内(しきない)小野神社(おののじんじゃ)を合(あわ)せ祭(まつ)る 故(ゆえ)に今(いま)両社一社(りょうしゃいっしゃ)の称(しょう)あり
神主は 猿渡氏(さるわたりうじ)其餘(そのよ)社司社僧等 奉祀す

本社祭神 大己貴命
相  殿 素戔嗚尊 伊弉諾尊 瓊瓊杵尊 大宮女大神 布留太神
以上 六神これを 俗に六所明神(ろくしょみょうじん)と称せり

天下春命 瀬織津比賣命 稲倉魂大神
以上 三神これを客来(きゃくらい)といへり

九神合わせて共 六所宮(ろくしょのみや)と称す
此の三神のいちは 一宮に小野神社との条下に詳(つまびらか)なり

延喜式神名帳曰 武蔵國 多磨郡八座 大麻止之豆之天神社 云云
・・・・・
・・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

府中六所宮(ふちゅうろくしょのみや)

小野宮(おののみや)と分倍(ふんばい)の境(さかい)府中(ふちゅう)より関土(せきど)へ行道(ゆくみち)は、往昔(むかし)奥州(おうしゅう)より鎌倉(かまくら)への通路(つうろ)にして、これを陣海道(じんかいどう)と称はえるは、元弘(げんこう)より永享(えいきょう)の間(あいだ)屡(しばしば)戦争(せんそう)の地(ち)にてありしかばかくは字(あざな)せるとなり

当社(とうしゃ)随神門(ずいしんもん)より外(そと)の列樹(れつじゅ)には、鵜(う)或(あるい)は鷺(さぎ)其余さまざまの水禽(みずとり)巣(す)を作(つく)り栖(すみか)す
日毎(ひごと)に品川(しながわ)等(とう)の海濱(かいひん)より其(その)巣(す)へ運び其雛(ひな)を育(いく)せり
然(しか)れども随神門(ずいしんもん)より内(うち)へは一羽(いちわ)といえども入(いる)事(こと)なきを当社(とうしゃ)七奇事(きじ)の一とす。又、寒中(かんちゅう)に至(いた)れば一羽も宿(やど)る事なく 翌(あく)る年(とし)の寒明(かんなけ)に至(いた)り又来(きた)ってねくらせり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

其二

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

其三

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

六所宮田植(ろくしょのみやたうえ)

五月六日は御田植(みたうえ)の神事(しんじ)にて武蔵国(むさしのくに)の人民(じんみん)早苗(さなえ)を携(たずさ)え来(きた)りて 神田(しいでん)に是(これ)を挿(はさ)めり
郷童(きょうどう)白鷺(しらさぎ)の形(かた)の造(つく)り物(もの)ある葢鉾(かさほこ)をささげて せんはいこうしの傘(からかさ)と唄(うた)ひ詳は 又ありてものは これものく唄(うた)いて 今(いま)植並(うえなら)し田(た)の中に下(くだ)り立(たち)て 早苗(さなえ)を踏(ふみ)しだき こひぢ田〉にまみれて 踊舞(おどりまう) 故(ゆえ)に有(あり)しにも似(に)ず ひぢ田〉の中にしずみはえるが 一夜(いちや)のうちにいとめて度(たた)起立(おきたち)て葉末(はすえ)に露(つゆ)むすびなんとしてうるわしき事かぎりなし

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

六所宮御旅所・・・・・
御田・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉と記しています
祭神については 大和国 十市郡 天香具山坐 櫛真知命神社 元名 大麻止乃知神とあ同名なので 本来は 櫛真知命が正しいのではないだろうか とも記しています

【抜粋意訳】

大麻止乃豆乃天神社

大は 於保と訓べし麻止乃豆乃は字なり
〇祭神 日本武尊 大己貴命 少彦名命地名記
〇御嶽山に在す地名記
〇惣國風土記七十七残存云大麻止乃智天神 圭田六十七毛田 所祭 大己貴命也 安閑天皇乙卯年始尊官社 花時以花祭之 新稲之時以新稲祭之

連胤 按るに〈考えるに〉大和国 十市郡 天香具山坐 櫛真知命神社 元名 大麻止乃知神とあ同名なれば 櫛真知命を祀れるにはあらざるか 尚考ふべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 大丸村に在り丸宮大明神〈現 大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〉で 祭神は天櫛眞知命 と記しています

【抜粋意訳】

大麻止乃豆乃天神社(オホマトノツノアマツカミノヤシロ)

今、大丸村に在り、丸宮大明神し云 蓋是也、

蓋 天櫛眞知命を祀る
凡 其祭 八月十五日之を行ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉という説があるが 疑わしい 大丸村〈現 大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)が正しいとして 大丸村の村名は もと大麻止を大円など書いてオホマルと訛り 終いに大丸とも書くこととなったと記しています

【抜粋意訳】

大麻止乃豆乃天神社

祭神 櫛真知命
祭日 十五
社格 郷社
所在 大丸村 字大山(南多摩郡稲城村大字大丸)
今按〈今考えるに〉
御嶽山御嶽神社を大麻止乃豆乃天神社と云えれど明証なければ信じがたし

擁書漫筆に 大丸村の丸宮大明神は 本社にその名かよいて聞ゆと云に就て 黒河春村が この説よろしく聞ゆ
大丸村は 玉川の岸にあり 大麻止乃豆は大眞門の津にて 玉川の渡津に由あるが
大和国 櫛真知命神社 元名 大麻呂井天和神とあるを 古本には大麻等乃知神社とあるも同義にて 埴安池邉にます神かとおほし
とあるを合せ考ふるに
村名の大丸は もと大麻止を大など書よりオホマルと訛り 終に大丸とも書くこととなりし なるべく社地の字を大山と云は 古名の遺れるものと思しく かたがたありて聞ゆれば之に従う

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

武藏御嶽神社(青梅市御岳山ついて 創建は 社伝に二説あり 一説は゛安閑天皇の御宇の創立にして、崇神天皇の世勅を以て神地を定められ゛一説は゛景行天皇四十年日本武尊東夷征伐の時゛と その詳細を記し
鎌倉時代に゛國兼が 坂本なる地主神 大麻止乃豆神に併せて神社となし、御嶽山大権現と號す゛とあり 式内社について記しています

【抜粋意訳】

〇東京府 武蔵國西多摩郡三田村大字御嶽山

府社 御嶽(ミタケノ)神社

祭神 櫛眞知(クシマチノ)

合殿 大己貴(オホナムチノ)命 少彦名(スクナヒコナノ)

社傳に曰く、
古老の説に安閑天皇の御宇の創立にして、崇神天皇の世勅を以て神地を定められ、後天武天皇の御字年幣帛を進めらると、
今一説にれば景行天皇四十年日本武尊東夷征伐の時、上州より来りて御嶽山を本陣とす、後山路を越えんとし給ふや、邪神白鹿と化し道路を塞ぎければ、尊忽ち之を斃し給ひしに、悪氣山谷に充ち群臣路に迷ひし時、忽ち白狼顯れ、前駆して西北に導きたり、尊是に於て狼に告げて、今より本陣に火災盗難を守護すべしとあり、是より社は火難、盗難退除の守護神たりと、
聖武天皇天平年行基の東國に下るや、尊の遺跡なればとて此山に堂舎を立て蔵王権現の像を安置せり、爾来國の震場たりしが、建久年畠山重忠此地を領し、御嶽山に城を構へたり、後、事に依りて重忠敗死するや、社殿城廓悉く灰燼に帰せり、

文暦元年前 摂政道家卿、四條帝に奏して散位大中臣國兼を以て祭祀の事を司らしむ、時に將軍頼経、神領として永銭三十六貫文の地を寄せらる、由りて國兼 佛道の制を止めて神社とし、坂本なる地主神大麻止乃豆神に併せて神社となし、御嶽山大権現と號す、
弘安年北條時宗蒙古退治の祈願あり、神体を暫く鎌倉へ移せしが、平ぐに及びて元の如く之を還し奉る、延文月足利義詮神馬を奉り、管領基氏より諸社堂塔修造の事あり、山内憲実崇敬篤く、永享年神領を加増し、其他諸家の寄附所願枚挙に遑あらず、後小田原北條家関東に威を振ふ時、当社の神領及び武衛の領知を削りしかば漸く衰頽に傾けり、
天正十八年徳川家康入國の後武衛を許されしのみならす、山上方一里の地と旧領三十余石の寄附ありてその朱印を賜ふ、慶長年大久保石見守に仰せて本社以下の再建あり、江城鎮護の祈願として、從来南面の社を東面に改めらる、翌年落成、太刀一振神馬一匹を奉納あり 新編武蔵風土記に拠る
新記に云「御嶽村は権現の神領にして、往古は杣郡秩父嶽とも称して、自一郡をなしたる地なりし」と、
一の鳥居内に御嶽山碑あり、当山の風致景趣を写すこと詳なり、曰く

「武州金峰山在多摩川之源、蓋藏王権現之古靈跡也、相伝、日本武尊征伐東夷凱歌西之日、藏兜於此嶺、武藏之名由是起矣、里人称為武藏國號之神社、然而垂跡之始、逮不可稽焉、天正十九年辛卯神祖(家康)賜命改作祠字、附以三十石、世々奉祭斯地也、峰轡雛茂形勝幽奇、三伏之候、天風凛々、冷氣人、途沿層崖深渓而行、有瀑布百尋飛流於恠巌之上、泉石可以洗昏蒙、松杉可以忘身世、雲影曳、瓢空中之素練、松韻〇〇、奏微外之水絃、壁立之翠屏篠滑、・・・・・・(中略文化三年歳次丁卯春三月 青梅 岸鳳質文卿謹撰

明治月社を大麻止乃豆乃天神社と改め、式内社と決し、同月縣社に列し、同時に現社名に改称す、蓋し神社覈録に大麻止乃天神社は御嶽山に在す、祭神日本武尊、大己貴命、少彦名命となすとありて社を以て式内社とす、然るに神祇志料には大丸村にありとなし、其所在に異説あり。 
杜殿は本殿、拝殿、社務所等を具へ、境内三萬二千四百二十六坪(官有地第一種)を有す。

境内神社
天津神社  八神社  皇御孫命社   神明社 常盤 體社 體社 北野社 社 東照社 巨福社 大ロ眞神社 國造社 三柱社 疾神社 月社 八雲社 座摩社 八幡社 春日社 中津社 風社 丹生社 御井社 多工美社 諏訪社 事勝社 稻荷社 山神社 猿女社 祖祖社 塞社 身祓社 琴平社 高龗社 七代瀧社 橘社 國津社 産安社 男那社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『神社辞典』〈1990年初版〉に記される伝承

武藏御嶽神社(青梅市御岳山ついて 式内社 大麻止乃豆乃天神社は 元和(一六二二)成立の『御嶽山社頭来由記』『新編武蔵風土記稿』〈文政13年(1830)に完成〉には 当時すでに境内社となっていた本来の地主神゛坂本の地主大麻止乃豆乃天神 今は末社のごとくなりたり゛と゛中世修験道の発達にともない、金峯山蔵王権現信仰が盛んになったため、地主神の大麻止乃豆乃天神は末社とされたのであろう゛と記しています

【抜粋意訳】

武蔵御嶽神社 むさしみたけじんじや

東京都青梅市御嶽山。旧府社。
櫛真知命を主神として相殿に大己貴命・少彦名命を祀る。

創祀不詳であるが、
一説に当社をもって延喜式内の大麻止乃豆乃天神社に当てられ、例えば、元和(一六二二)成立の『御嶽山社頭来由記』に「因て司職国兼爰に於て本迹縁起の神道を極め、仏堂の制を換て神社の営方に改造り、行基の作の蔵王霊像を垂迹とし、坂本の地主大麻止乃豆乃天神に神秘一座を加へ、三神合一にして御嶽大権現と称し奉る。」とあるのや
『新編武蔵風土記稿』に「末社 地主社、本社の後にあり、『延喜式神名帳』に出せる大麻止乃豆天神にして、神明を配祀せりといへり、されば最古き神社にて、御嶽の鎮座以前よりの神なるにより、地主とは称するなるべし、されど今は末社のごとくなりたり」とみえる。

中世修験道の発達にともない、金峯山蔵王権現信仰が盛んになったため、地主神の大麻止乃豆乃天神は末社とされたのであろう。東国の霊場として上下の崇敬をうけ、将軍頼経、は神領三六貫文を寄せ、延文(一三五九)足利義詮は神馬を奉り、関東管領足利基氏は社殿を修営している。永正(一五一一)三田氏宗は社殿を造営し、現在旧本殿として都重宝に指定されている。
徳川家康は山上方一里の地並びに三〇石の朱印地を安堵し、慶長一〇(一六〇五)大久保石見守をして社殿を造営し、翌年社殿落成に際し太刀一口、神馬一頭を奉納している。
明治(一八六九)神仏分離の際、一時大麻止乃豆乃天神社と復称したが、後に現社号に改めた。

国宝の伝畠山重忠奉納の赤糸縅甲冑一領及び文暦元年(一二三四)に散位大中臣国兼奉納の円文螺鈿鏡鞍一具のほか鍍金長覆輪太刀・宝寿丸太刀・慶長一五年の俵形賽銭箱・懸仏。鰐口・銅鏡など多数の社宝を有し、宝物館に展示されている(現、単立神社)。例祭五月八日

神社辞典より

武藏御嶽神社(青梅市御岳山 (hai)」(90度のお辞儀)

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摂社・末社など境内の様子については 下記を参照してください

・武藏御嶽神社の摂社・末社について

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