氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
氣比神宮(Kehi Jingu)
[通称名(Common name)]
氣比さん(けひさん・けいさん)
【鎮座地 (Location) 】
福井県敦賀市曙町11-68
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
本殿(本宮)3座
四社之宮(ししゃのみや)4座 計7座
本殿(本宮)3座
《主》
左 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈御食津大神(みけつおおかみ)〉
中 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)〈第14代天皇〉
右 神功皇后(じんぐうこうごう)〈仲哀天皇の皇后〉
四社之宮(ししゃのみや)4座
総社宮 応神天皇(おうじんてんのう)〈第15代天皇〉
東殿宮 日本武尊(やまとたけるのみこと)
平殿宮 玉姫命(たまひめのみこと)〈神功皇后の妹神 虚空津比賣命〉
西殿宮 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・伊奢沙別命〈衣食住・海上安全・農漁業・交通安全〉
・仲哀天皇〈無病息災・延命長寿・武運長久〉
・神功皇后〈安産・農漁業・海上安全・無病息災・延命長寿・武運長久・音楽舞踊〉
・日本武尊〈武運長久・無病息災・延命長寿〉
・応神天皇〈海上安全・農漁業・無病息災・延命長寿・武運長久〉
・玉妃命〈音楽舞踊〉
・武内宿禰命〈延命長寿・無病息災・武運長久〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 越前國一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
北陸道総鎮守
越前國一之宮 氣比神宮
祭神七座
・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(氣比大神)
・帶仲津彦命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)
・息長帶姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
・日本武命(やまとたけるのみこと)
・誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神天皇)
・玉姫命(たまひめのみこと)
・武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)沿 革
主祭神 氣比大神は 神代から此の地に鎮り給うた
大宝二年(七〇二)勅に依り 社殿の修営を行ない仲哀天皇 神功皇后を合祀した。
日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。
延喜式に「祭神七座並 名神大社」とあり 類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており 此の七座の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。
歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。
明治二十八年 官幣大社に昇格し 神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と 称した。之単に北門の鎮護たるのみでなく日本有数の古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め九月二日より十五日に及ぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和四十三年 畏くも天皇皇后両陛下の御親拝・昭和六十二年五月 昭和の大造営に依る本殿遷座祭・平成十四年 御祭神合祀 壱千参百弐年大祭にあたり、幣帛料の 御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。
戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である 式内摂社 角鹿(つぬが)神社がある。
社頭案内板より
【由 緒 (History)】
氣比神宮御由緒
祭神七座 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)
玉妃命(たまひめのみこと)
武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)主祭神 伊奢沙別命は通称 氣比の大神として二千年有余の昔当地に鎮座になりました。大宝二年(七〇二)の御造営時に他の神々を合せ祀り、祭神七座の格式は言う迄もなく 越前之国一の宮・北陸道総鎮守と崇められる元の官幣大社であります。時恰も平成十四年、御祭神 合祀壱千参百年式年大祭が盛大に斎行されました。
境内に式内摂社・角鹿(つぬが)神社があります。「救賀」の地名発祥の神社でもあります。当神宮と敦賀は古い歴史と伝統を守りながら時代を共にして来ました。九月に見る豪華絢爛の絵巻さながら、市民参加の敦賀まつり(氣比祭)が之を象徴しています。また六月の御田植祭と牛腸(ごちょう)祭・七月の総参祭(そうのまいり)は、いずれも御祭神ゆかりの特殊神事として注目されています。
また仏教との関係も深く遊行上人のお砂持科事。旧跡は明らかでないが神宮寺は日本最古と記される氣比神宮寺。最澄(伝教大師)・空海 (弘法大師)が求法の祈誓をかけて大行を修したと伝える聖地があります。その他 芭蕉 が「奥の
細道」に北陸の勝を探り氣比社参。正保二年(一六四五)神領地・佐渡の国、鳥居が原にて伐採の榁樹一本で両柱を建立。芸術性に秀でた天下無双の大華表、有栖川宮威仁親王染筆にかかる扁額が爽やかに光を放つ。
古くより国家鎮護の大社として、悠久の歴史に育まれた「日本のこころ」が御参詣の皆さまの心を潤すことを願って巳みません。
平成十八年三月吉辰 氣比神宮宮司謹記現地石碑より
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿向かって左手に鎮座・九社之宮 神明両宮
九社之宮
神明両宮 御由緒 (鳥居側より)伊佐々別神社(いざさわけじんじゃ)
摂社。祭神は御食津大神荒魂神。漁労を守る神であり北方の海に面す。応神天皇皇太子の時当宮に参拝せられ、夢に大神が現れ御名を易える事を約し、その威徳により翌朝笥飯の浦一面余る程の 御食の魚(みけのな)を賜わった。天皇嬉び御神威を畏み、気比大神の荒魂を勧請崇祀された社である。擬領神社(おおみやつこじんじゃ)
末社。社記に武功狭日命(たけいさひのみこと)と伝えられ、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う。旧事紀には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)
摂社(式内社)。祭神は天伊弉奈彦大神。続日本後記に、承和七年(八四〇)八月、越前國従二位勲一等 気比大神御子 無位 天利劔神、天比女若御子神、天伊奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)
摂社(式内社)。祭神は天比女若御子大神。社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来より縁結びの御神徳が顕著である。天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)
摂社(式内社)。祭神は天利劔大神。仲哀天皇当宮に参拝、宝を奉納せられ霊験いと奇しと云われる。後に祠を建て天利劔宮と称え信仰される。鏡神社(かがみのじんじゃ)
末社。神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わしたので別殿に國常立尊と共に崇め天鏡宮と称え奉ったと云う。慈悲之大神として知られる。林神社(はやしのじんじゃ)
末社。林山姫神を祀る。福徳円満の大神。延喜式所載の越中國防波郡林神社は当社と御同体である。
延暦四年(七八五)、僧最澄気比の宮に詣で求法を祈り、同七年再び下向して林神社の霊鏡を請い」比叡山日枝神社に遷し奉った。当社が江州比叡山気比明神の本社である。金神社(かねのじんじゃ)
末社。素盞鳴尊を祀り、家内安全の神とされる。延暦二十三年(八〇四)八月二十八日、僧空海 当宮に詣で、大般若経一千巻を読求法にて渡唐を祈る。弘仁七年(八一六)に再び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷し鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の気比明神はこれである。剣神社(つるぎじんじゃ)
末社。祭神は姫大神尊。剛毅果断の神として往古神明の奇瑞があり、両生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったと伝えられる。神明両宮(しんめいりょうぐう)
末社。祭神 天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)。外宮は慶長十七年(一六一)三月二十八日、内宮は元和元年(一六一五)九月二十八日伊勢の神宮よりそれぞれ勧請奉祀される。現地案内板より
摂社
・伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)
《主》御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
末社
・擬領神社(おおみやつこじんじゃ)
《主》建功狭日命(たけいさひのみこと)
〈式内社〉摂社
・天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)〈第七之王子宮〉
《主》天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
・天伊弉奈彦神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
〈式内社〉摂社
・天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)〈第六之王子宮〉
《主》天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
・天伊弉奈姫神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
〈式内社〉摂社
・天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)〈第五之王子宮〉
《主》天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
・天利劔神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
末社
・鏡神社(かがみのじんじゃ)〈第四之王子宮〉
《主》神功皇后奉献の宝鏡の神霊(天鏡尊)
末社
・林神社(はやしのじんじゃ)〈第三之王子宮〉
《主》林山姫神(はやまひめのかみ)
末社
・金神社(かねのじんじゃ)〈第二之王子宮〉
《主》素盞嗚尊(すさのをのみこと)
末社
・剣神社(つるぎじんじゃ)〈第一之王子宮〉
《主》姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
末社・神明両宮(しんめいりょうぐう)
《主》天照皇大神(内宮) 豊受大神(外宮)
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東参道に鎮座する境内社〈・角鹿神社・兒宮・大神下前神社〉
正安2年(1300年)まで 東口が境内表口であったと伝わります
角鹿神社(つぬがじんじゃ)
摂社(式内社)。祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等命が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられるその政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。
現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東口が表参道であったため氣比神宮本社の門神であった。兒宮(このみや)
末社。祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)。元は氣比神宮寺の境内に鎮座。
平安時代、寛和二年(986)九月二十日遷宮の事が残されており由緒は古く、子宝及び安産の神と称され、小児の守神として今日に至る。大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
末社(式内社)。御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。敦賀市内氣比大神四守護神の一社で元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを明治四十四年現在の地に遷座、稲荷神社、金刀比羅神社を合祀した。
境内案内板より
〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ)
《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)《合》松尾大神(まつのおおおかみ)
・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
〈式内社〉摂社・大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《合》稲荷大神,金刀比羅大神
・大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
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表参道の大鳥居近くに鎮座する境内社
・猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
《主》猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
・大鳥居
気比の大鳥居(旧国宝 )
当神宮は古く仲哀天皇 の行幸・奉拝祈願があり悠久二十年の歴史を有する
元の官幣大社で北陸道総鎮守 越前国一之宮である。大鳥居の歴史は通称 赤鳥居として嵯峨天皇 弘仁元年(八一〇)の造営時に東参道口に創建されたが 度重なる災害に依り倒壊した為 正保二年(一六四五)境域の西門に配し 同礎石を移し 寛永年間 旧神領地 佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治三十四年 国宝に指定(現在は国の重要文化財 )木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている。尚正面の扁額は有栖川宮威仁親王 の御染筆である。現地案内板より
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
本殿の東北約100m程 敦賀北小学校〈廃校〉校庭に鎮座
伊奢沙別命は 笥飯大神(けひのおおかみ)御食津大神とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承される
神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・氣比神社 七座 巳上 越前國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越前国 126座(大8座・小118座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)敦賀郡 43座(大7座・小36座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 氣比神社 七座(並名神大)
[ふ り が な ](きひの かみのやしろ ならび ななくら)
[Old Shrine name](Kihi no kamino yashiro Nanakura)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
氣比神宮 主祭神 氣比大神神(けひのおほかみ)について
氣比神宮 主祭神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈別名 御食津大神(みけつおおかみ)〉とされます
さらに 異説伝承として
主祭神・氣比大神(けひのおほかみ)は ・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)説・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)説・天日槍(あめのひぼこ)説などがあります
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
古代朝鮮の加羅国王の王子とされ 角鹿(つぬが)〈角鹿から敦賀に転訛〉の語源とされる
天日槍(あめのひぼこ)と同一神とする説もある
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は
足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈第14代 仲哀天皇〉で 皇后は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は
地主神の伊奢沙別命です
“伊奢沙別”という名は 元は神功皇后の皇子 譽田別尊(応神天皇)の名であり “譽田別”という名は 元は伊奢沙別神の名であり 名(な)と魚(な)を交換したとされる
天日槍(あめのひぼこ)は
記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの渡来神
神功皇后の母は 天之日矛の子孫
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と同一神とする説もある
いずれも 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉に関連する神です
この天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社に 但馬國一之宮 出石神社 があります
神紋を同じくする 越前國一之宮 氣比神宮 と 但馬國一之宮 出石神社 について
双方とも 日本海側の大社であり 新羅からの渡来神 天日槍(あめのひぼこ)との関連があります
ともに・桐・三つ巴・十六八重菊を御神紋としているのは何故なのでしょうか
・越前國一之宮 氣比神宮〈神紋は 五七の桐 三つ巴 十六八重菊〉
・氣比神宮(敦賀市)
・但馬國一之宮 出石神社〈神紋は 五三の鬼桐 三つ巴 十六八重菊〉
・出石神社(豊岡市出石町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR北陸本線 敦賀駅から北へ約1.1km 徒歩15分程度
表参道には 旧国宝の氣比の大鳥居が建ちます
氣比神宮(敦賀市曙町)に参着
社頭には 大きな石燈籠 永代常夜灯と刻まれています
社号標には「官幣大社 氣比神宮」とあり 神橋を渡ります
大鳥居は・春日大社(奈良県)・安芸厳島神社と並ぶ”日本三大木造鳥居”の一つ 一礼をしてくぐります
すぐ左手には 境内社 猿田彦神社
更に参道左手には 長命水 大宝2年(702)~
太古 氣比神宮は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(氣比大神)1柱を祀る神社でしたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 氣比大神との神縁により仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀されて 七柱の御祭神となり 神宮を修営中に 突然 地下水が噴出したと伝えられます
参道右手には社務所
左手に手水舎 清めます
石畳の参道を進むと正面に 旗掛松
旗掛松(はたかけのまつ)
南北朝争乱時代の延元元年(1336)、北朝の足利軍に対し当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたと伝える祈願の松で、今は旧松根から芽吹いた二代目が育っている。
現地案内板より
この旗掛松の正面には 廻廊を抜ける鳥居が建ち その先には社殿が建ちます
一礼をして 社殿正面の鳥居をくぐります
廻廊内には 南向きに社殿が建っていて 西には授与所 石畳の参道が東西南北に十字に通っています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の西には 鳥居が建ち 本殿向かって左手に・九社之宮 神明両宮が鎮座します
鳥居をくぐり抜けると 伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)・擬領神社(おおみやつこじんじゃ)
〈式内社〉摂社
・天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)〈第七之王子宮〉
《主》天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
・天伊弉奈彦神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)〈第六之王子宮〉
《主》天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
・天伊弉奈姫神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)〈第五之王子宮〉
《主》天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
・天利劔神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
末社
・鏡神社(かがみのじんじゃ)〈第四之王子宮〉
・林神社(はやしのじんじゃ)〈第三之王子宮〉
・金神社(かねのじんじゃ)〈第二之王子宮〉
・剣神社(つるぎじんじゃ)〈第一之王子宮〉
末社・神明両宮(しんめいりょうぐう)
ここから 塀越しに 御本殿 と 四社の宮 の西側2社が祀られているのを拝します
もう一度 社殿前に出てから 廻廊の外へと東門から出ます
ここから 東参道に鎮座する境内社〈・角鹿神社・兒宮・大神下前神社〉へと向かいます
〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ)
・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
〈式内社〉摂社・大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
・大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
その先〈さらに東〉には
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
再び 拝殿に戻り 社殿に一礼をして 正面鳥居を抜けて 表参道へと戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
氣比神宮の神名「氣比大神(けひのおほかみ)」の由來として「皇太子(ホンダワケノミコト)と地主神(イザサワケノミコト)が 名(な)と魚(な)を交換したやり取り」が 記されています
【抜粋意訳】
仲哀天皇 の段 伊奢沙和気大神〈氣比大神(けひのおほかみ)〉
かくて 建内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)が 禊(みそぎ)をしようと
その太子〈ホンダワケノミコト 〉(後の第15代 応神天皇)をおつれ申し上げて
淡海〈近江〉から 若狹國(わかさのくに)を経歴した時 高志の前〈越前〉の角鹿(つぬが)〈敦賀〉に假宮を造くられました
その時 この土地に坐(ましま)す 伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)が 夜の夢にあらわれ「わたしの名 を 御子の御名 とかえたい」と仰せられた
その言にお答えして「恐れ多いことです 仰せの通り 御名をおかえ致します」と申しあげたまた その神が仰せになり「明日の朝 濱に出るがよい 名をかえたので 幣を献上しよう」と云われた
よって 翌朝 濱においでになつた時 鼻の毀(やぶ)れた入鹿魚(イルカ)が すでに或る浦に寄っていました
そこで 御子は 神に申された「神は わたくしに 御食の魚(みけのな)を給わられた」
それで この神の御名を稱えて 御食津大神(みけつおほかみ)と号〈名付け〉された その神は 今は 氣比大神(けひのおほかみ)と申し上げます
また その入鹿魚(イルカ)の鼻の血が臭かったので その浦を血浦(ちぬら)と言います 今は 都奴賀(つぬが)〈敦賀〉と言いますここに還ってお上りになる時 母君の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は 酒を造り待っていて 獻上された ここに母は歌を詠まれた
このお酒は わたくしのお酒ではございません
酒の神 常世(とこよ)においでになる 石に坐(まし)ます少名御神(すくなのかみ)の
神の寿〈神の祝〉寿き狂ほし〈祝い狂くるわせ〉て
豊寿き〈豊かに祝〉寿き廻ほし〈祝い廻り〉
献(たてまつ)り來(いらし)た 御酒です
さあ召しあがれ
そう歌われて お酒を献(たてまつ)りました ここに建内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)が 御子のために答え申し上げた歌は
この酒を釀(かも)した人は その鼓(つつみ)を 臼(うす)のように立て
歌いつつ釀(かも)したのか 舞いつつ釀(かも)したのか
この酒の 御酒の なんと楽しい酒
これは酒楽(さかくら)の歌でございます
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』仲哀天皇の段 に記される伝承
気長足姫尊〈神功皇后〉を皇后とし 角鹿(つぬが)〈敦賀〉にお出でになられ 行宮(かりみや)を建て 笥飯宮(けひのみや)と称したと記しています
【抜粋意訳】
仲哀天皇の段
二年春正月甲寅朔甲子〈春一月十一日〉の条
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉を皇后とされた
これより先に 叔父 彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘 大中媛(おほなかひめ)を娶り妃とされた
籠坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子(おしくまのみこ)を生まれた
次に 来熊田造(くくまたのみやつこ)の祖 大酒主(おほさかぬし)の娘 弟媛(おとひめ)を娶り 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生まれた
二月癸未朔戊子〈二月六日〉の条角鹿(つぬが)〈敦賀〉にお出でになられた
すぐに 行宮(かりみや)を建てて 居とされた
これを 笥飯宮(けひのみや)と言う
その月に 淡路屯倉(あわじのみやけ)を定められた
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』神功皇后の段 に記される伝承
【抜粋意訳】
神功皇后の段
十三年春二月丁巳朔甲子〈十三年春二月八日〉の条
武内宿禰(たけのうちすくね)に命じて 太子(ひつぎのみこ)〈応神天皇〉に従わせて 角鹿(つぬが)〈敦賀〉の笥飯大神(けひのおほかみ)に参拝された
癸酉〈十七日〉 太子は角鹿(つぬが)〈敦賀〉から戻られた
この日 皇太后は 太子のために 大殿(おほとの)で宴(とよあかり)〈宴会〉を催された 。
皇太后は觴(みさかずき)〈御盃〉を挙げて 太子に寿(さかほい)〈酒を呑み祝う〉をされた そして 歌を詠まれた此の御酒(ミキ)は 吾(ワ)が神酒(ミキ)ならず
神酒(クシ)の司(カミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す
いはたたす 少御神(スクナミカミ)の
豊寿(トヨホ)き 寿(ホ)き廻(モト)ほし
神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし
奉(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)そ
あさず飲(ヲ)せ ささコノミキハ ワガミキナラズ
クシノカミ 卜コヨニイマス
イハタタス スクナミ力ミノ
卜ヨホキ ホキモ卜ホシ
カムホキ ホキクルホシ
マツリコシミキソ
アサズヲセササ
〈歌の意〉
この神酒は 私だけの酒ではありません
神酒の司で常世の国に坐(まし)ます少名彦神が 祝いの言葉を述べながら そばで歌い狂い 天皇に醸し献上した御酒です
さあ 残さず お飲みなさい武内宿禰(たけのうちすくね)が 太子に変わり答えて歌った
此(コ)の御酒(ミキ)を 醸(カ)みけむ人は
その鼓(ツツミ) 臼(ウス)に立てて
歌ひつつ 醸(カ)みけめかも
この御酒(ミキ)の あやにうた楽しささコノミキヲ 力ミケムヒ卜ハ
ソノツツミ ウスニタテテ
ウタヒツツ 力ミケメカモ
コノミキノ アヤニウタタノシササ
〈歌の意〉
この神酒を醸した人は 鼓を臼のように立てて 歌い醸したからだろう
この神酒の 何ともおいしいことよ さあさあ
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』応神天皇の段 に記される伝承
ある伝として 笥飯大神(けひのおほかみ)と応神天皇とが名前を交換した と記しています
【抜粋意訳】
応神天皇の段〈誉田天皇(ほむたの すめらみこと)〉
誉田天皇(ほむたのすめらみこと)は 足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈仲哀天皇〉の第四子
母は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉という
天皇は 皇后が新羅(しらぎ)を討った歲次庚辰〈仲哀九年〉冬十二月に筑紫(ちくし)の蚊田(かだ)で お生まれになった
幼少から聡明 物事を深く遠く見通された
立居振る舞いに 聖人の兆しがあられた皇太后の摂政三年 皇太子に立たれた
時に 年三歳天皇が初め 孕まれておられる時 天神地祇(てんじんちぎ)は 三韓(みつのからくに)を授けた
生れた時すでに 腕の上に盛り上った肉があり その形が鞆(ほむた)(弓を射る革の防具)に似ていた
これは 皇太后〈神功皇后〉が雄装〈雄々しいなり〉をして 鞆(ほむた)を履いた様子に似られた肖は阿叡(ヘエ)と読みます
その名を称え 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)という
古の人は 弓の鞆(とも)のことを褒武多「ほむた」と言いました
ある伝によると
天皇が初め 太子となり 越国(こしのくに)〈北陸〉にお出ました角鹿(つぬが)〈敦賀〉の笥飯大神(けひのおほかみ)に拝祭(おがみ)奉りました
その時 大神と太子とが名前を交換した
それで 大神を名付けて 去来紗別神(いざさわけのかみ)と言うようになった
太子は 誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けたと云うすなわち 大神の元名は 誉田別神(ほむたわけのかみ) 太子の元名は 去来紗別尊(いざさわけのみこと)と云う
しかし 何も所見は無く 未だ詳らかではない摂政六十九年夏四月 皇太后が崩御された ときに年百歳
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』持統天皇の段 に記される伝承
越前国司(えちぜんのくにのつかさ)が 白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を捕らえ献上した これにより神封(〈気比神宮〉笥飯神(けひのかみ)に寄進された封戸)について 具体的に記されています
【抜粋意訳】
持統天皇の段
即位六年九月 癸丑(二十一日)の条
伊勢国司(いせのくにのつかさ)が 嘉禾(よきいね)二本を奉った
越前国司(えちぜんのくにのつかさ)が 白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を奉った戊午(二十六日)の条
詔(みことのり)して
「白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を角鹿郡(つぬがのこおり)の浦上(うらかみ)の浜で獲えた
よって 笥飯神(けひのかみ)〈気比神宮〉に 封(へひと)を二十戸を増し これまでの分の上に加える
【原文参照】
六国史に記される 神階奉授
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
神階奉授が 記されます
【抜粋意訳】
承和2年(835)2月23日(戊戌)の条
越前國 正三位勲一等 氣比ノ大神 ノ 祝リ 祢宜ヲ
承和6年(839)12月9日(丁巳)の条
奉授ニ 越前國 正三位勲一等 氣比ノ大神ニ 従二位ヲ 餘如故
承和7年(840)9月13日(乙酉)の条
奉授に 越前國 従二位勲一等 氣比ノ大神の御子
無位 天利剱神 天比女若御子神 天伊佐奈彦神 並びに 従五位下を
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
諸国の神々とともに神階奉授が 記されます
【抜粋意訳】
嘉祥3年(850)10月7日(辛亥)の条
山城國・・・
・・・越前國 氣比神 正二位
筑前國・・・・・・
・・・・
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道ノ神 267社の神々とともに神階奉授が 記されます
【抜粋意訳】
貞観元年(859)1月27日(甲申)の条
京畿七道ノ神に 階(くらい)を進む及び 新たに叙つ 惣(すべて)二百六十七社なり
奉授に
・・・・・
・・・・・
越前國 正二位勲一等 氣比ノ神に 従一位
【原文参照】
『おくのほそ道(Okunohosomichi)〈元禄15年(1702年)刊〉』に記される伝承
松尾芭蕉が 元禄2年(1689)8月〈中秋の名月の前夜8月14日(陰暦)〉(現在の9月終)に 氣比明神(けひのみょうじん)に夜参した と記されています
【原文参照】
漸(ようや)く 白根が嶽(しらねがだけ)かくれて 比那が嵩(ひながだけ)あらはる
あさむづの橋をわたりて 玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂(ほ)に出(い)でにけり
鴬の関(うぐいすのせき)を過(すぎ)て湯尾峠(ゆのおとうげ)を越(こゆ)れば 燧が城(ひうちがじょう) かへるやまに初鴈(はつかり)を聞きて 十四日の夕ぐれ 敦賀の津(つるがのつ)に 宿(やど)をもとむ
その夜 月ことに晴(は)れたり「あすの夜もかくあるべきにや」といへば
「越路(こしじ)のならひ なお明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と
あるじに酒すすめられて 氣比明神(けひのみょうじん)に夜参(やさん)す
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御廟(ごびょう)なり
社頭(しゃとう)神(かん)さびて 松の木の間(まつのこのま)に 月のもり入(はいり)たる おまへの白砂(しろすな)霜(しも)を敷(しけ)るがごとし
「往昔(そのむかし)遊行二世(ゆぎょうにせ)の上人(しょうにん) 大願発起(たいがんほっき)のことありて みづから草を刈(かり)土石(どせき)を荷(にな)ひ 泥渟(でいてい)をかはかせて 参詣(さんけい)往来(おうらい)の煩(わずらい)なし
古例(これい)今にたえず
神前(しんぜん)に 真砂(まさご)を荷(にな)ひたまふ
これを遊行(ゆぎょう)の砂持(すなもち)ともうし待(はべ)ると 亭主(ていしゅ)のかたりける
月清(つききよ)し 遊行のもてる 砂の上
十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(あめふる)。
名月(めいげつや)や 北国(ほっこく)日和(びより) さだめなき
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
七座の神について 詳しく記しています
【抜粋意訳】
氣比神社 七座(並名神大)
氣比は假字なり
〇祭神
中殿 左 御食津大神 中 仲哀天皇 右 神功皇后 以上三座
東殿 日本武尊、一座
西殿 武内宿禰、一座
総社 応神天皇、一座
平殿 淀姫命、 一座 合七座〇敦賀津に在す、敦賀志、地名考
〇式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座 中略 越前國 氣比神社 七座
〇当国一宮なり
〇永萬記云、氣比社 米拾五石進
〇日本紀、仲哀天皇二年二月癸未朔戊子〈二月六日〉幸角鹿、卽興行宮而居之、是謂笥飯宮
古事記、仲哀段 建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也日本紀、神功皇后十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子、令拜角鹿笥飯大神
日本紀、応神天皇巻に、一云「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳
考証云、或人曰、氣比大神 是仲哀帝是なり・・・・・
国造本紀曰、角鹿国造、吉備臣祖 若武彦命孫、云々、・・・・・
・・・・・神位
『続日本後紀』承和6年(839)12月9日 越前國 正三位勲一等 氣比ノ大神ニ 従二位ヲ 餘如故
『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)10月7日 越前國 氣比神 正二位
『日本三代実録』貞観元年(859)1月27日 越前國 正二位勲一等 氣比ノ神に 従一位
『類聚三代格』寛平5年(893)12月29日 格ニ 坐ニ 越前國 正一位勲一等 氣比大神官幣 神寶
・・・・・社職 把笏
・・・・神宮寺 社務
・・・・封戸
・・・・造営
・・・焼亡
・・・・雑事
・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
氣比神社 七座(並名神大) 氣比神宮
祭神
伊奢沙和氣大神
足仲彦天皇
息長足媛尊日本武尊
譽田天皇
武内宿禰
淀姫命今按 社伝に祭神七座本宮保食神に足仲彦天皇 息長足媛尊を大寶二年に合祀す 東殿 日本武尊 総社 譽田天皇 西殿 武内宿喇 平殿 淀姫命にて東殿以下の四座は本宮の四隅に配祀とみえたり
然るに 本宮 保食神は
古事記 仲哀記に 建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也とあろ御食津大神と云によりて云るものなれぱ保食紳と定めては云難し 寶の御名は伊奢沙和気大神にませば也 故今之を訂せり足仲彦天王 息長足媛尊を祭る事は 書紀 仲哀記に二年二月癸未朔戊子〈二月六日〉幸角鹿、卽興行宮而居之、是謂笥飯宮 この宮は神社を云るにはあらず行宮の事なり とみえたるが如く行宮を設けて 天皇と皇后と此地にましまして この神に御祈りなどありしに因れるものなるべし 日本武尊は仲哀天皇の御父にまし 譽田天皇と武内宿禰は 此神を拝み奉りし御縁故により 淀姫命は海神にて征韓のとき殊更に祭られ玉ひし故によれるなるべし この神を或いは 皇后の御妹なりとも云うも其縁故なり 而るを江談抄一宮記等の諸書に仲哀天皇を主と祭れる如く云るは非なり故今とらず社傅に従ふ
神位
弘仁天皇『続日本紀』《宝亀元年(七七〇)八月辛卯【二】》○辛卯 遣神祇員外少史正七位上中臣葛野連飯麻呂 奉幣帛於越前国気比神
仁明天皇『続日本後紀』承和6年(839)12月9日 越前國 正三位勲一等 氣比ノ大神ニ 従二位ヲ 餘如故
文徳天皇『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)10月7日 越前國 氣比神 正二位
清和天皇『日本三代実録』貞観元年(859)1月27日 越前國 正二位勲一等 氣比ノ神に 従一位
宇多天皇『類聚三代格』寛平5年(893)12月29日 越前國 正一位勲一等 氣比大神祭日 八月四日
社格 國幣中社(官幣大社)
所在 敦賀浦
【原文参照】
氣比神宮(敦賀市曙町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)