氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)

氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一宮と称されていたとも伝えられています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

氷川女體神社Hikawa nyotai Shrine)
(ひかわにょたいじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》奇稲田姫命(kushi inadahime no mikoto)
《配》三穂津姫命Mihotsuhime no mikoto)
   大己貴命Onamuchi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社〈論社〉
・ 武蔵一之宮Musashi no kuni ichinomiya)

【創  (Beginning of history)】

社伝によれば
第10代 崇神天皇の御代に出雲大社を勧請して創建されたと伝わります

神社パンフレットより

【由  (history)】

三室 氷川女體神社 さいたま市緑区宮本鎮座

当社は崇神天皇の御代に、出雲杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。

主祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、大己貴命(おおなむちのみこと)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)を配祀(はいし)している。

当社の御手洗瀬である見沼を囲み、大宮氷川神社(男体社) 大宮中川の中山神社(簸(ひ)王子社)とともに、三社深い関係にあり「三室」を伝えてきた。

古代。女神を祀(まつ)るところや、社殿が東方に向いているなど、その創立の古さと由緒を忍ばせている。

中世以来。武門の崇敬を集めており、これらにゆかりある宝物も多い。徳川家康からは社領50石を寄進され、また、徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。

古来からの御船遊(みふねあそび)神事は、見沼干拓後、磐船(いわふね)祭として行なわれ、その遺跡が現存している。
また、暖地性植物が繁茂する社叢(しゃそう)は天然記念物であり、ふるさとの森にも指定されている。

(社頭掲示より)

【境内社 (Other deities within the precincts)】

『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』によれば
神明(シンメイ)社  宗像(ムナカタノ)社  住吉(スミヨシ)社
御嶽(ミタケ)社  石上(いそのかみの)社  境内遥拝所
社偶(シャグウ)神社

松尾(マツノヲノ)天神(アマツカミノ)合祀

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679 

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 4座(大1座・小3座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 多気比売神社
[ふ り が な  ](たけのひめの かみのやしろ)
[How to read ]Take no hime no kamino yashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鎮座地の 見沼たんぼ について

古代 見沼は東京湾の入り江でした
江戸時代 享保の改革で有名な 8代将軍 徳川 吉宗(tokugawa yoshimune)の時代 享保12年(1727年)に見沼のたんぼ になりました

縄文時代~江戸時代初期
古代、海面は現在よりも高く、現在見沼たんぼのある地域は東京湾とつながる入江であり、旧浦和市域の3分の2が海底にありました。 この地が海であった証拠に、見沼たんぼ周辺では縄文時代前期の貝塚が数多く発見されています。
その後、約6000年前を境に海が後退し、入り江が東京湾と分離して、無数の沼・湿地が生まれました。見沼の誕生です。

江戸時代初期~中期
江戸時代初期、 徳川家康(とくがわいえやす)の命により、江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子へ通す利根川東遷(とねがわとうせん)と荒川の流れを統合して 耕地を安定させる荒川の西遷(せいせん)が始まります。この大土木工事は代官頭 伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)を始めとする伊奈一族により行われました。

この事業により、下流地域の水害の危険度は著しく低くなりましたが、その代わりに農業用水も不足するようになったので、貯水量を確保するために、伊奈忠治(いなただはる)により築造されたのが見沼溜井(みぬまためい)です。

江戸時代中期~戦後
見沼たんぼが開かれたのは 江戸時代中期、徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代です。
徳川吉宗(とくがわよしむね)による幕府の財政改革(享保の改革)(きょうほうのかいかく)のため、土木技術家・井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)に、数多くあった池沼の新田開発が命じられました。
その一つとして、享保12年(1727年)に 八丁堤(はっちょうづつみ)を切って見沼溜井(みぬまためい) が干拓され、見沼たんぼが生まれました。

さいたま市 見沼たんぼのHPより
http://www.minumatanbo-saitama.jp/outline/history.htm

見沼と 磐船祭(iwafune matsuri)氷川女体神社磐船祭祀遺跡)について

浦和市指定史跡

氷川女体神社 磐船祭祀遺跡(いわふねまつりさいしいせき)

指定年月日 昭和54年3月28日

氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭でした。しかし、享保12年(1727)の見沼干拓によりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に 柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここにその祭祀を移して行うことになりました。
それが磐船祭です。実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間ですが、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわめて重要なものです。
この遺跡は保存状態も良く、また、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡 としての価値が高いといえます。

面積 3971平方メートル
祭場(四本竹跡) 径30メートル
御幸道 長さ65メートル

なお、昭和57年度に、復原整備事業を実施しました。

昭和59年10月
氷川女体神社
浦和市教育委員会

案内板より

埼玉県神社庁HPによれば

当社は、古代より見沼の水に対する人々の熱い想いと共に崇敬されてきました。現存する祇園 磐船龍神祭がその事を如実に物語っております。 五月四日一時頃より行われるそのお祀りに、龍の担ぎ手を募集しております。さらに今年は巫女舞に加えて、神社で募った可愛い地元の子供たちの舞をご覧いただけます。

当社(女體社)と 大宮区高鼻町大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一とする説があります

太古の社の本領発揮 完全に縄文時代まで遡るお話です

「荒脛巾神(arahabakinokami)」は そのずっと以前から 氷川神社の地に地主神として先住の神としていたのだとする説につながり これらを念頭に置いて
古代の想像図(東京湾の入り江)です

三点の赤い印は 3つの神社の現在地です

・左上 大宮氷川神社 (大宮区高鼻町)
・真中 中氷川神社 = 現 中山神社 (見沼区中川)
・右下 氷川女體神社 (緑区三室)

この3つの神社は いずれも かつての見沼の畔にあり かつ一直線に並んでいます

・左上 男体社(父神)
・真中 簸王子社(王子神)
・右下 女体社(母神)

(三社一体の如く) それぞれの役割を持ちながら 一つの氷川神社として 近世まで広大な神域を持って まつりごとの機能をしていたと言われています

大宮氷川神社 男体社(父神)

大宮氷川神社の記事をご覧ください

 

中氷川神社(現 中山神社)簸王子社(王子神)

中氷川神社(現 中山神社)の記事をご覧ください

 

氷川女體神社 女体社(母神)〈当社〉

 

それは縄文期の太陽信仰と重なり
驚くことに意図的な配置により 太陽の運行軌道は この3社の直線上に現れ
夏至の太陽は 西北西の大宮氷川神社に沈み
冬至の太陽は 東南東の氷川女體神社から昇る

太陽信仰と暦は 古代の人々にとって 最も重要な神事のひとつであった筈で
この太陽の軌道を龍神の如く 神の沼「見沼」が3社を縫い合わせています

御祭神には 龍神としてのご神徳もあるとされていますが
国学者の堤朝風(1765~1834)は「氷川大明神は龍の姿の神だという言い伝えがある」と述べています

氷川女體神社には まさしく見沼に住まう「龍神」の祭りとして御船祭りが江戸期までありました
今でも 社前には 僅かですが かつての「見沼」を彷彿とさせる雰囲気が残っています

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東浦和駅から県道235経由 約3.2km 車13分程度
見沼代用水の縁を進むと朱色の御神橋が掛かり

氷川女體神社Hikawa nyotai Shrine)に参着

見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しているので階段の上に鳥居が建ちます

階段を上がり 一礼をして 朱色の鳥居をくぐります

鳥居の扁額には「武蔵国一宮 氷川女體神社」とあります

真っ直ぐな石畳の参道の先には 拝殿が立ちます

拝殿にすすみます 

拝殿の扁額には「武蔵國一宮」と掲げられています

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿の前には細いコンクリートの参道が社務所に延びています

社務所は社殿に向かって左側です お札・ご朱印などを受領します

拝殿の奥には本殿(江戸幕府4代将軍 徳川家綱が再興した)が立ちます

埼玉県指定有形文化財(建造物)

氷川女體神社社殿(ひかわにょたいじんじゃしゃでん)一棟

氷川女體神社は、武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。
中世以降は、武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょうごぐさりたち)(県指定有形文化財)は鎌倉幕府執権北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付(いわつき)太田氏や小田原北条氏の庇護(ひご)を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として50石の地を寄進されました。
また、当社に残る寛文7年(1667)銘の棟札(むなふだ)等により、本殿は江戸幕府4代将軍 徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。
社殿は本殿と拝殿(はいでん)を幣殿(へいでん)でつなぐ複合社殿で、権現造(ごんげんづくり)の形式となっています。
本殿は三間社流造(さんげしゃながれづくり)で、正面三間(3.56m)、側面二間(2.11m)、さらに向拝(ごはい)がついています。
幣殿は両下造(りょうさげづくり)で、正目一間(3.56m)側面二間(3.63m)です。
拝殿は入母屋造(いりもやづくり)で、正面五間(9.46m)側面二間(4.5m)です。

さらに向拝がつき、その向拝には千鳥破風(ちどりはふ)及び唐破風(からはふ)がついています。
平成23年・24年に社殿修理が行われ、屋根が柿葺(こけらぶ)きの時期があったことがわかりました。
この社殿は、埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成19年に埼玉県の有形文化財に指定されました。

さいたま市

案内板より

境内には 見沼の龍神様を祀る龍神社があります

境内には 沢山の祠社があり お詣りをします
『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』によれば
神明(シンメイ)社  宗像(ムナカタノ)社  住吉(スミヨシ)社
御嶽(ミタケ)社  石上(いそのかみの)社  境内遥拝所
社偶(シャグウ)神社
松尾(マツノヲノ)天神(アマツカミノ)合祀

境内を後にします

鳥居をくぐり抜けて 「氷川女体神社磐船祭祀遺跡」へ向かいます

正面の参道階段を下り 神橋を渡ると祭祀場に通じています

社頭の祭祀場の形は 旧見沼内に 柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらしてあります

夕日が照らす見沼代用水を戻ります

氷川公園から かつて見沼に突き出た小舌状台地であったとされる社叢を眺め 振り返り一礼をします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『江戸名所図会(edo meisho zue)』に記される伝承

『江戸名所図会(edo meisho zue)』の絵図は「三室村(みむろむら) 元簸河神社(みとひかわのしんしゃ)」として記載されています

文面では
「宮本簸川大明神社(みやもと ひかわだいみょうじんのやしろ)」宮本郷三室山(みむろやま)の南麓(みなみのふもと)にあり
土人(どじん)宮本の簸川社(ひかわのやしろ)と称(とな)え 又 女躰宮(にょたいぐう)と号す

祭神(さいしん)大宮同躰(おおみやどうたい)として
本宮(ほんぐう)大己貴命(おおなむちのみこと)

右(みぎ)   素戔嗚尊(すさのをのみこと)
左(ひだり)  奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
を斎(いつ)ひ祀(まつ)る・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修) ,天保05年 ~  刊本(後修) ,天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局

武蔵国一宮 氷川女體神社の道標(みちしるべ)

江戸期には 武蔵國一之宮として 多くの参拝者があったことを伝えています

武蔵国一宮 氷川女體神社の道標(みちしるべ)

もともと、赤山街道沿いの大間木水深(みずぶか)(浦和)の地にあった、この石碑には、「武蔵国一宮」「女體宮道」とあって、
幕末の弘化二年(一八四五)に当社への道しるべとして
赤山街道に面して建立されたものです。
また、当社から北西約400メートルの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政2年(1855)に、馬場方面から参詣する人たちの便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものです。
幕末の頃に相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど、当社への参詣客は非常に多く、篤い信仰を得ていたことを物語る貴重な資料となっています。

案内板より

『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』に記される伝承

意訳

郷社 氷川女體(ヒカワニョタイ)神社

祭神 稲田姫命
合祀 三穂津姫(ミホツヒメノ)命
大己貴(オホナムチノ)命

もと単に氷川神社と称せしを、中古 浮屠の輩(僧侶)が 今の社号に改めしと、
創立年代詳ならずといえども、社伝によれば、(第10代)崇神天皇の御代の創建にして、大宮の氷川神社、中川の氷川神社、及び当社の3社を合わせて 氷川神社と称せしを 世の変遷に伴い、いつしか各別社となれるものなり
御神体は「3体にして 中央は稲田姫 左は三穂津姫命 右は大己貴命」と新編武蔵風土記に見えたり・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当社は古来、当国一ノ宮と称し、寛文の棟札及び 鳥居の扁額に武蔵國の一ノ宮と記せり、しかれども新編武蔵風土記稿之を弁じて、付会説となせり、いわく
「神職 及び 土人等は、当国の一ノ宮と称すれど、一ノ宮は、大宮宿 氷川明神なることは古書にも載せ、疑うべしともおもわれず、いわんや当社には、させる記録もなく、又 文珠院 所蔵の大般若経、その除の古文書、且つ正保の国員など、ことごとく女体権現と、のせたれば、一ノ宮ならんという、付会なること論をまたず。」・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

境内神社
神明(シンメイ)社  宗像(ムナカタノ)社  住吉(スミヨシ)社
御嶽(ミタケ)社  石上(いそのかみの)社  境内遥拝所
社偶(シャグウ)神社
松尾(マツノヲノ)天神(アマツカミノ)合祀
・・・・・・・・・・・・・

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』平安時代初期 著者 明治神社誌料編纂所 編

明治神社誌料

氷川女體神社Hikawa nyotai Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

大宮氷川神社 男体社(父神)
大宮氷川神社の記事をご覧ください

 

中氷川神社(現 中山神社)簸王子社(王子神)
中氷川神社(現 中山神社)の記事をご覧ください

 

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

 

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