河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)〈『延喜式』川桁神社〉

河脇神社(かわわきじんじゃ)は 愛知川の水害から地域を護る「流域三社」の一つで 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です 中世以降は白山大権現とも河脇大明神とも呼ばれ 明治維新期には村人が一致団結し 京都の神祇官から神霊を勧請した熱い歴史を持ち 明治初年現在名に改称されました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

河脇神社(Kawawaki shrine)

【通称名(Common name)】

・中世以降~明治初年迄は「白山大権現」とも「河脇大明神」とも称された

【鎮座地 (Location) 】

滋賀県愛知郡愛荘町中宿205番地

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大國主命(おほくにぬしのみこと)

《配》少名彦名命(すくなひこなのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

 

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

河脇(カワワキ)神社

御祭神 大国主命 少那彦名命

御神紋 左三ツ巴

御由緒

 愛知川筋の上は御河辺、中は河脇、下は河桁の三社のうちの古社で、河脇大明神と尊称していた。明治初年現在名に改称し同9年村社に列し同43年神饌幣帛料供進指定となる。

滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=897

【由 緒 (History)】

『式内社調査報告 第十二巻』昭和59年に記される内容

【原文抜粋】

由緒

 F社は河脇神社と稱する。元は白山大權現といったが、明治以後 河脇神社と改めた。天保十二年 (ー八四一 )十月二十日火災にあひ、社殿を始め文書や記錄の全てを燒失した。
『愛知郡志』には次の樣に見える。「相傳ふ 愛知神崎郡界に三社の宮あり、上に御川邊川桁神社   中に當社 下は河桁神社是なり」と。

【現代語訳】

歴史・由来

 F社は「河脇神社(かわわきじんじゃ)」といいます。 元々は「白山大権現(はくさんだいごんげん)」と呼ばれていましたが、明治時代以降に「河脇神社」と改めました。天保12年(1841年)10月20日に火災に遭い、神社の建物(社殿)をはじめ、古い古文書や記録のすべてを焼き失ってしまいました。

『愛知郡志(あいちぐんし)』という記録には、次のように書かれています。「言い伝えによると、愛知郡と神崎郡の境界には3つの神社(三社の宮)がある。上流にあるのが『御川辺川桁神社(みかわべかわげたじんじゃ)』、中流にあるのが『当神社(=河脇神社)』、下流にあるのが『河桁神社(かわげたじんじゃ)』がこれである」と。

【原文】『式内社調査報告第 巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

愛荘町立 愛知川図書館『愛荘町歴史研究』第一号(愛荘町教育委員会 文化振興課、2008年2月)より

当時の村人たちが、本来の「河脇神社」の姿を取り戻し、京都の有力者を通じて神霊を村へお迎えするまでの苦労と喜びが生き生きと描かれています

【原文抜粋】

資料3 河脇神社由来の一部(『諸掛立會帳』より)

 當村氏神 祭神 大國主命ハ従往古 河脇神社ナルヲ以河脇大明神ト敬フ 其故ハ愛知川脇ノ三社ニシテ 上ハ 御河邊(神田村)中央 河脇(當村)下ハ 河桁(出路)ナリ(年暦不詳 愛知川大洪水ノ砌 神嵜郡中へ川ヲ避ケ方位變ル)然ルニ 中古或ル禅僧ノ取持ニ因リ 白山大権現ト敬フ 當村 蓮乗寺ニモ其辺ノ事認メアル趣ナレトモ 之ハ村中ニハ 不存 其實 禅僧ノ周旋ニ因ルガ故ト存スルナリ

一 明治維新 神佛混交 御調へ分ケニ付 白山大権現ヲ廢シ素ヨリ 河脇神社ナルヲ以 河脇大明神ト敬フ
一 祭神 右 大國主命 鎭座ナルヲ以テ 御相殿ニ少那彦名命ヲ勸請シ奉ルヘク謂ヲ以 二柱ノ神靈ヲ勸請奉リ度村中一致スルナリ
一 京都神祇官へ上願ス
  宮長白川神祇伯資訓王殿

  副官西川吉輔殿(近江八幡町ノ産ニシテ高田吉兵衛 山本村稲本覺兵衛等別懇ナリ)同 宇津木久岑殿(近江彦根士族ニシテ右両人ノ別懇ナリ)此副官両名ノ在勤ヲ僥倖トシ 事實ヲ運ヒ当村 河脇神社ノ由緒ヲ以 神靈勧請ヲ奉願候ナリ

 慶應四年一月廿日即改号 明治元年ナリ

右願書差上候處御預リノ上 当村ノ成立 河脇神社ノ由緒實况等
御尋ノ義副官両人ヨリ稲本氏へ書面ヲ以 毎々御尋越ニ付 其都度 高田氏稲本〈方〉へ来リ遂一履歴ヲ認メ 其手準ニ尽カシ 京都へ相送り候 於御殿御聴届ニ相成 神靈(八華形ノ御鏡)大和錦ノ御袋入八足檀等ノ御拵方ノ様子等追々圖面御書翰ヲ以 被仰聞ノ次第ヲ 件々御返答申上然ルニ 其頃幸ニナル哉 宮川彦一郎為商用京都在留ニテ 同人進テ之ヲ擔當シ 白川殿ニ数度参昇殿ニモ拝謁御盃ヲ賜フ諸事尽力セラレ 候内御成就相成候御沙汰ニ付 其御迎トシテ氏子惣代宮川彦二郎 大橋清平 両人上京 白川殿へ参上候処 諸官員列席殿モ御出座ニテ 兼テ差上置書面之趣猶一應御尋被遊候義ヲ都合能上伸〈申〉相済願ノ通御聴上ケ相成 其御拵中 両人差扣ヘ居萬事御成就ニ付 白川殿江来昇候処 御殿ノ構造美ヲ尽シ 今當村へ御勧請申所ノ御神靈神櫃ヲ 八百萬ノ神前ニ御備ハシ神供ノ飾リハ五色ノ玉串 御酒 鏡 洗米 其外 山海ノ珍味 百味ノ御食ヲ備ヘ 敷人ノ神官音楽ヲ奏シ 御祭典大禮式ヲ行ハセラレ 其結構ハ紙筆ニ難尽候 其祭典終テ 當村各座へ神拝式ノ折紙ヲ授與セラレ 両人ヘハ殿ヨリ圭噐ノ御盃ヲ賜ル尤当各座へ折紙 御盃 則土器 熨斗 昆布ヲ賜 既ニ両人代勤シ之ヲ奉請帰ラルヽナリ 夫ヨリ神靈ノ御唐櫃ヲ白木ノ二重箱ニ納メ差持ニ仕立 白川殿ノ繪符ヲ建テ 御殿ヨリ御所 境町御門外迠供奉御見送り有り 夫ヨリ当村ノ者 警衛御供シテ迎ヒ帰ラレ 当村中ニハ兼テ待請ケノ義ニ付 道中ヨリノ注進ニ随ヒ 武佐宿迠 村役人不残御迎ヒニ参ル 續テ村中追々道路ヘ迎敬シ 行列ヲ尽シ帰村 社殿ニ納メ奉齋シ 續テ当村 河脇神社ノ祝祭ヲ行ヒ丁寧ニ其式ヲ成ス

【現代語訳】

資料3 河脇神社由来の一部(『諸掛立會帳』より)

 当村の氏神の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、古くから「河脇神社」であったため、河脇大明神として敬ってきました。

その理由は、愛知川(えちがわ)のほとりにある三つの神社(愛知川脇の三社)のことであり、上流が御河辺(みかわべ/神田村)、中央が河脇(かわわき/当村)、下流が河桁(かわげた/出路村)にあたります。(年代は不明ですが、愛知川が大洪水に見舞われた際、神崎郡の中へと川の流れを避けたため、土地の方角や位置が変わってしまいました)。

 しかしながら、中古(中世)に、ある禅僧の取り計らいによって(神仏習合していた)白山大権現(はくさんだいごんげん)として敬うようになってしまいました。当村の蓮乗寺(れんじょうじ)にもそのあたりの事情が書き残されているとのことですが、これ(仏教の神として祀ること)は村の本来の意思ではなく、実のところはその禅僧の斡旋(お節介)によるものだと考えております。

一、 明治維新の「神仏混交御調べ分け(神仏分離令)」に際して、白山大権現の称を廃止し、もともと河脇神社であったことから、再び河脇大明神として敬うことといたしました。
一、 祭神は右に記した大国主命が鎮座されているので、同じ社殿(相殿)に少彦名命(すくなひこなのみこと)を合わせてお迎え(勧請)すべきという理由から、二柱の神霊をお迎えしたいと村中が一致団結いたしました。
一、 京都の神祇官(じんぎかん)へ願い出をいたしました。

【神祇官の役人】

宮長:白川神祇伯 資訓王(しらかわ じんぎはく すけのりおう)殿
副官:西川吉輔(にしかわ きすけ)殿(近江八幡町の出身で、当村の高田吉兵衛や、山本村の稲本覚兵衛らと大変親しい間柄です)
同副官:宇津木久岑(うつぎ ひさみね)殿(近江彦根の士族で、右の西川・稲本ら両名と大変親しい間柄です)

この副官お二人が(京都の神祇官に)在勤されていることを幸運(僥倖)とし、話を進めてもらい、当村の河脇神社の由緒をもって神霊の勧請を願い出た次第です。(この願い出は)慶応4年1月20日(1868年)、すなわち改号して明治元年のことです。

この願書を差し上げたところ、一旦(神祇官へ)お預かりとなった上で、当村の成り立ちや河脇神社の由緒、実際の状況などについて、副官のお二人から稲本氏へ書面でたびたびお尋ね(照会)がありました。その都度、高田氏が稲本の方(宅)へやって来て、一つ一つ由緒や歴史を書き記し、その手続きのために尽力して京都へ送り届けました。

そして、御殿(白川邸・神祇官)にて無事に願いが聞き届けられ、神霊(八華形の鏡)や、大和錦の御袋、八足机(神前で物を載せる机)などの制作の手順や様子について、追って図面や書簡でお指図をいただくたびに、それぞれ返答を申し上げました。

そうしたところ、その頃大変幸運なことに、当村の宮川彦一郎が商用のために京都市中に在留しており、彼が自ら進んでこの大役を担当してくれました。白川邸に何度も通って昇殿し、拝謁してはお祝いの盃を賜るなど、諸事に尽力してくれている間に、ついに(神霊勧請の)お許しの沙汰が出ることとなりました。

そこで、その神霊をお迎えするため、氏子惣代の宮川彦二郎と大橋清平の二人が上京し、白川殿へ参上したところ、諸官員が列席し、白川殿ご本人もお出ましになりました。かねてより差し上げていた書面の内容について、さらにもう一度お尋ねがありましたが、都合よく申し開き(説明)が済み、願いの通りに聞き届けられました。

(調度品などの)制作を待つ間、二人は現地に控えていましたが、万事が成就したため白川殿へ上がったところ、御殿の造りは美の極みであり、これから当村へお迎えする御神霊の神櫃(しんき/神輿のような箱)が、八百万の神の前に備えられていました。神前への供物の飾りは、五色の玉串、お酒、鏡、洗米、そのほか山海の珍味など百味の御食(ごちそう)が備えられ、大勢の神官が音楽を奏でて、厳かな祭典の大礼式が行われました。その素晴らしさは言葉(紙筆)では尽くしがたいほどでした。

その祭典が終わると、当村の各座(氏子の集まり)へ、神拝式の折紙(証明書・お札)が授与され、代表の二人には白川殿より立派な(圭器の)御盃が賜られました。さらに当村の各座へも、折紙、御盃、および土器、熨斗、昆布が賜られ、二人が皆に代わってこれらをありがたく拝受して帰ることとなりました。

それから、神霊の納められた唐櫃(からひつ)を白木の二重箱に納めて、担いで運ぶ形(差持)に仕立て、白川殿の絵符(家紋入りの札や旗など)を掲げて出発しました。御殿から御所の境町御門(さかいまちごもん)の外まで、お見送りのお供(供奉)がつきました。

そこからは当村の者が警衛しながらお供をして(近江へ)迎え帰り、当村の中では以前から今か今かと待ちわびていたため、道中からの(もうすぐ着くという)知らせに従って、武佐宿(むさじゅく/中山道の宿場町)まで村役人が一人残らず出迎えに参りました。

続いて、村の中では追々道路に出て(神霊を)お迎えして敬意を表し、盛大な行列を仕立てて帰村しました。そして社殿に(神霊を)納めてお祭りし、続いて我が村の河脇神社の祝祭を執り行い、礼儀を尽くして丁寧にその儀式を終えました。

【原文参照】

『企画展「町並みと信仰」を開催して〜「中宿の歴史を知る会」活動報告〜』門脇 正人

愛荘町歴史研究 第1号 別刷
愛荘町教育委員会 文化振興課

        2 0 0 8年2月
https://www.town.aisho.shiga.jp/toshokan/goannai/3801.html

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・河脇神社 本殿〔覆屋〕

〔本殿〕一間社流造 間口四尺 奥行四尺 覆屋あり

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・河脇神社 拝殿

〔拝殿〕入母屋造 間口二間四尺 奥行二間四尺

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・〈境内社〉厳島神社

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・〈境内社〉猿田彦神社

※写真なし

・社頭

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・高田神社

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河脇神社の隣りにあります
境内に高田政行翁と書かれた石碑あり

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【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)神崎郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川桁神社
[ふ り が な ](かはけたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kahaketa no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『式内社調査報告 第十二巻』昭和59年に記される「式内社 川桁神社」内容

『式内社調査報告 第十二巻』には 延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社の論社としてA~Fの六社を挙げています

【原文抜粋】

【社名】

『延喜式神名考』は傍訓を「カハタナノ神社」とし、『神名帳考証』は傍訓を「カハラケタ神社」とする。
桁の字は音では「カウ」、訓では「ケタ」であるが、この訓みにしたずふと、『延喜式神名考』のカハタナとは訓みがたく、「カハケタジンジャ」と訓むべきだと考へられる。

【所在】

 川桁神社の所在は定かではなく、左記の六社が川桁神社であると傳稱されてゐる。この六社は、神崎、愛知、犬上の三郡にわたって散在してゐる。

Aの神社は、河桁御河邊神社と稱し、神崎郡八日市市神田町(舊神崎郡御園村大字神田三八五番地 )近江鐡道八日日市驛より東北へ約二キロメートル。

Bは、大瀧神社と稱され、大上郡多賀町大字宮ノ尾(舊神崎郡郡山上村大字萓尾 )近江鐵道多賀驛より南へ約四キロメートル。

Cは、河瀬神社と稱する。彦根市南川瀬町( 舊犬上郡川瀬村南川瀬)東海道線川瀬驛より南へ一キロメートル。

Dは、小幡神社と稱し、神崎郡五箇莊町大字中 (舊神崎郡五箇莊村大字中 )近江鐵道五箇莊驛より南へ約ー・五キロメートル。 

Eは、川桁神社と稱す。彦根市甲崎町(舊愛知郡稲枝村大字甲崎)東海道線稲枝驛より北へ約三キロメートル。

Fは、河脇神社と稱して、愛知郡愛知川町大字中宿(舊愛知川町大字中宿)近江鐡道愛知川驛より北へ〇・五キロメートル。

【原文】『式内社調査報告第 巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社(かはけたの かみのやしろ)の論社

A・河桁御河辺神社(東近江市神田町)

B・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)

C・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)

D・小幡神社(東近江市五個荘中町)

E・川桁神社(彦根市甲崎町)

F・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近江鉄道 愛知川駅から西方向へ約500m 徒歩での所要時間7~8分程度

旧中山道沿いに社頭があります

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社頭は南南東を向いています

河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり抜けて

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿の覆屋があります

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覆屋の中 本殿は見えません

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

※明治3年(1870年)成立のこの『神社覈録』は、式内社「川桁神社」について「祭神は不明」としたうえで、その所在地を犬上郡川瀬荘川瀬村(『輿地志略』による)としており、現・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)を論社としています。『明治神社誌料』(前掲)にも一説として『輿地志略』の説「輿地志略は犬上郡川瀬荘川瀬村に在りといふ」も紹介しています。式内社「川桁神社」については、江戸期以来の考証の時点ですでに神崎郡説と犬上郡説とが紹介されていました。

【抜粋意訳】(原文)

神埼郡二座 並小

乎加神社・・・〈中略〉

川桁神社

川桁は加波氣多と古點あり

〇祭神詳ならず

〇今 犬上郡川瀬荘川瀬村に在す〔輿地志〕

現代語訳(要旨)

神埼郡(神崎郡)には2座の式内小社が記載されており、そのうち一座は「乎加神社」・・・〈中略〉

もう一座が「川桁神社」で、

「川桁」には古くから「かわけた」と訓む点(古點)があるとしながらも、祭神については詳らかでない(不明である)とし、(当時)現に犬上郡川瀬荘川瀬村に鎮座するとしている(『輿地志略』による)。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

※『神祇志料』は 式内社「川桁神社」について 萱尾村の鎮座「大瀧大明神」としており、これは論社のひとつ 現「大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)」です。
なお、当社の祭神のひとつ「天湯河桁神」は、まさにこの『神祇志料』が引く、鵠を追って天湯河桁命が近江・越国にまで至ったという『古事記』『日本書紀』の説話(前述「予備知識」参照)に由来するものです。

【抜粋意訳】(原文)

川桁神社

今 萱尾村にあり、大瀧大明神と云ふ、
〔山上縣伺書、〇按神前を流るる愛知川南淵 大岩聳立る上に、桁の如く横はれる石上を、水瀧なして落る故に、川桁の名あり、又 神崎愛知二郡田に灌く水を、湯川と云ふ、近隣 百五十餘村の田畝、皆其水利を被るを以て、民人豐熟を祈り、秋稻を神社に納むるを例とすと云り、姑附て考に備ふ、〕

盖 鳥取部連の祖 天湯河桁命を祀る、〔參取古事記、新撰姓氏錄、〕

垂仁天皇御世、皇子 譽津別命 八拳鬚胷前に至るまで、眞事とはす、高往鵠が音を聞して、始て阿藝登比し給ひき、故 湯河桁命をして、其鳥を捕しめき、故其鵠を追尋て東方に追廻りて、近淡海國に至り、遂に高志國に至て捕て献りき、即是也。〔古事記參取、日本書紀、〕

現代語訳(要旨)

川桁神社は、今は萱尾村にあり、大瀧大明神と呼ばれている。
〔『山上縣伺書』によれば、神前を流れる愛知川の南の淵に大岩がそびえ立ち、その上に桁(横木)のように横たわる石があって、水がそこを瀧のように落ちるために「川桁」の名があるという。また、神崎・愛知の二郡の田を灌漑する水を「湯川」と呼び、近隣百五十余村の田畑はみなこの水の恩恵を受けているため、村人は豊作を祈り、秋の稲を神社に納めるのを例としているという。ひとまず書き添えて考察の参考とする。〕

当社は、鳥取部連の祖である天湯河桁命を祀るものと思われる。〔『古事記』『新撰姓氏録』を参照〕垂仁天皇の御代、皇子の誉津別命は、あごひげが胸元に至る年齢(成人)になっても、まともに物を言うことができなかった。ところが空高く飛ぶ鵠(くぐい、白鳥)の鳴く声を聞いて、初めて片言を発せられた。そこで天皇は湯河桁命に命じてその鳥を捕えさせた。湯河桁命はその鵠を追いかけて東方をめぐり、近淡海国(近江国)に至り、ついに高志国(越国)にまで至ってこれを捕え、献上した。これがすなわち当社の祭神である。〔『古事記』『日本書紀』を参照〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

※『特選神名牒』は、神崎郡神田村の御河辺神社を式内社とする決め手がなく、犬上郡河瀬村説(『輿地志略』)も郡が異なるとして退け、独自に愛知郡出路村(愛知郡愛知川町大字金田)現・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)を式内社「川桁神社」の所在地に定めています。
これにより、式内社「川桁神社」の論社所在については、
・河桁御河辺神社(東近江市神田町)
・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)犬上郡川瀬荘川瀬村説(『輿地志略』『神社覈録』)
・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)犬上郡萱尾村説(『神祇志料』)
・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)愛知郡出路村説(『特選神名牒』)

と、少なくとも四つの説が紹介されています。

ただし『特選神名牒』自身も、出路村説の根拠を「祭神の名にゆかりがあるように思われる」という状況証拠にとどめており、確たる決め手とまでは述べていません。

【抜粋意訳】(原文)

川桁(カハタナノ)神社

祭神 天ノ湯河板擧(アメノユカハタナノ)命
祭日 二月二酉日

社格 村社(明細帳になし)

所在 出路村〔今属 愛智郡〕(愛知郡愛知川町大字金田)

今按 縣の注進に神田村 出路村の二所に川桁ノ神社ある由を記して 何れが是なるを詳かにせずと云り
 されど輿地志略を考ふるに神田村御川邊明神 祭神 大己貴命 愛智川の水上にますに由て御川邊ノ神社と號すとありて 式社なる事を云はず 同社由緒書にも河桁御河邊大明神と云ひ 氏子十八村あり神宮寺古より別當にてありし趣を記せれば由ある古社なるべけれど 川桁神社なるべき證なし
又 輿地志略に川桁ノ神社 犬上ノ郡河瀬村にありと云へど 郡隔れば從がたし
 さて出路村由緒書に神社古より出路村 成亥の方 字神田代(ミトシロ)と云地に鎭座あり 毎年 神輿神幸の時の祭場を本庄村イワノキと云 其南方に河田湯河添湯と云湯水あり 近郷樞要の水道なりと云る 祭神の名にも由ありて聞ゆれば此地と定めて記せり

現代語訳(要旨)

川桁(かはたなの)神社。

祭神は天湯河桁命(原文は「天ノ湯河板挙命」、フリガナは「ユカハタナノ」)。

祭日は2月の二の酉の日(原文「二月二酉日」)。

社格は村社(ただし明細帳には記載がない)。

所在は出路村(現在は愛知郡に属し、愛知郡愛知川町大字金田にあたる)。

今考えるに、滋賀県からの注進(報告)には、神田村・出路村のいずれか2か所に川桁神社があるとしながら、どちらが正しいのか詳らかにしないとある。しかし『輿地志略』によれば、神田村の御川辺明神は祭神を大己貴命とし、愛智川の水上に鎮座することから「御川辺神社」というとあるが、これを式内社であるとは述べていない。同社の由緒書にも「河桁御河辺大明神」と称し、氏子十八村があり、神宮寺が古くから別当であった旨が記されているので、由緒ある古社ではあろうが、これが式内「川桁神社」であるという証拠はない。
また『輿地志略』には「川桁神社は犬上郡河瀬村にある」ともいうが、郡が隔たっているので従いがたい。 そこで出路村の由緒書によれば、当社は古くから出路村の亥(北西)の方角にあたる「神田代(ミトシロ)」という地に鎮座しており、毎年の神輿渡御の祭場を本庄村イワノキと称し、その南方には「河田湯・河添湯」という湯水があって近隣にとって重要な水源であるという。
祭神の名(天湯河桁命)にもゆかりがあると考えられるので、この地(出路村)をもって式内社の所在地と定めて記した。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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