河桁御河辺神社(かわけたみかべじんじゃ)は 滋賀県東近江市神田町 愛知川のほとりに鎮座する古社です 社記によれば 宣化天皇4年(539)神崎郡司・玉祖宿禰磯戸彦連が神のお告げにより神崎川辺に社を建てて祀ったのが始まりと伝えられます 延喜式内社 近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
河桁御河辺神社(Kawaketamikabe shrine)
【通称名(Common name)】
御河邊さん
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県東近江市神田町380
【地 図 (Google Map)】
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【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
天湯河桁神(あめのゆかわけたのかみ)
瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)
倉稲魂命(いなぐらたまのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・〔祓戸の神〕天湯河桁神
・〔農耕水利の神〕瀬織津姫神
・〔商運の神〕倉稲魂命
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
現地案内板の【原文】より
河桁御河辺(かわけたみかべ)神社
御祭神
・瀬織津姫神〔祓戸の神〕
・天湯河桁神〔農耕水利の神〕
・倉稲魂命〔商運の神〕由緒
当社の創設は古く、人皇二十九代 宣化天皇四年に神崎の郡司、玉祖宿弥磯戸彦連が神勅により、五穀豊穣・万民長楽の神として勧請せられた。中古より三河辺大明神と称えられ 淳和天皇の天長二年には、弘法大師が当社に参籠され、十七日間参籠されたと伝えられています。延喜二年に当社は神名帖に加えられ、川桁神社として官幣を賜わり、神領を封下されました。当社は愛知川の水上にて此川の北東の源は 即ち君ヶ畑にて 惟喬親王の宮居があり 比辺を総じて御園と称し、川の名を御川という、其の御川の辺にまします 御社にて、御川辺神社と称し、御園地域の総社として称えられ 明治十六年に現在の社名となりました。
社殿は建武年間と応仁、文明の兵乱で焼失、さらに天正十年の兵乱にも会い、破壊と復興を繰返し、現存する本殿は、慶長十五年(一六一〇年)造営のものです。
この本殿の前には国の重要丈化財に指定された鎌倉時代建立の六角石燈籠があります。火袋に次の銘文がある。
十八日造立え
延慶二二年辛亥卯月 願主 沙門僧聖円主なる神事
一月十五日 ・粥占い神事
二月 一日 ・疫病災厄祓祭(ヤマヨゲマツリ)
二月十一日 ・祈年大祭
三月第三日曜日 例大祭(ハダカマツリ)
「江州社寺中行事」に有名な裸祭は、当社の例祭にて、古代の式典を今に伝えるもので、六人の頭人が馬に乗り、神馬・神主と共に一里余の道を渡御する祭である)
四月二十八日 ・講社祭祈祷祭
九月第一日曜日 秋祭(アマザケマツリ)
十一月二十三日 新嘗祭
現代語訳(要旨)
当社の創建は古く、第29代宣化天皇4年、神崎郡司の玉祖宿禰磯戸彦連が神のお告げにより、五穀豊穣・万民長楽の神として勧請したと伝えられています。平安時代からは「三河辺大明神」と呼ばれ、淳和天皇の天長2年(825年)には弘法大師(空海)が17日間にわたり当社に参籠したと伝わります。延喜2年(902年)には神名帳に加えられて「川桁神社」として官幣を受け、神領を賜りました。当社は、愛知川の水源にあたる君ヶ畑(惟喬親王の宮居があったとされる地)一帯を「御園」、そこを流れる川を「御川」と呼んだことにちなみ「御川辺神社」と称され、御園地域の総社として崇敬されましたが、明治16年(1883年)に現在の社名に改められました。社殿は建武年間の建立以来、応仁・文明の乱や天正10年の兵乱で焼失と再建を繰り返し、現存の本殿は慶長15年(1610年)の造営によるものです。本殿前の六角石燈籠は鎌倉時代の建立で国の重要文化財に指定されており、火袋には「延慶二二年辛亥卯月十八日」に願主・沙門僧聖円によって造立された旨の銘文が刻まれています。
【原文参照】:河桁御河辺神社境内由緒板(現地案内板)

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※石燈籠銘文の年号は、由緒板の表記どおり「延慶二二年」としています。ただし延慶は元年から4年(1308~1311年)までの元号であり、本来「二二年」という年次は存在しません。由緒板そのものの記載に誤りがあるか、原因を特定できていませんので 原文のまま載せています。
【由 緒 (History)】
滋賀県神社庁HP 神社紹介「河桁御河邊神社」より
河桁御河邊神社 (カワケタミカベ) ~(御河邊さん)
御祭神 天湯河桁命 瀬織津比咩神 稲倉魂命
御神紋 抱澤潟
御由緒
社蔵文書によれば、宣化天皇四年、当地の名族玉祖宿称磯戸彦連が勧請し、桓武天皇延暦三年二月初午日の神祭が、今日の例祭日となっている。天長二年には弘法大師が、十七日間仁王盤若経を続誦された。延喜式の神名帳の川桁神社が当社と言われているは定かでないが、この時代から神田村を神領としたと伝えている。惟喬親王の御子小椋兼賢王の崇敬厚く、社殿を造築をされたが承安三年に兵火の為焼失した。建暦二年に神殿、拝殿、神楽殿、楼門、鐘楼等が再建されたが、これも建武の年の兵乱で悉く焼失し、今の社殿は慶長十五年に、田中河内守吉久によって再建され、棟札に「江州神崎郡柿御園三河辺正一位大明神」とあり、早くから柿御園の産土神として崇敬された。
社名については、「輿地志略」に御川辺の御名は、愛知川の源、君ヶ畑に惟喬親王の宮居があったから、川の名は御川といい、川の辺に鎮座の故に御川辺大明神と元慶年の再建の時に号したと記されている。古くは柿御園十八ヶ村の崇敬を受け、中世以降は旧御園村全域の崇敬を集め、三川辺大明神と称したが、明治初年に今の社名となった。
明治十四年郷社に列し、大正四年神饌幣帛料供進指定となる。
本殿・境内建物
〔本殿〕三間社流造 間口三間三尺 奥行三間
〔拝殿〕入母屋造向拝付 間口三間三尺 奥行三間三尺
境内社(摂社・末社)
大神宮 竈處神社 日吉神社 籠守神社 恵美須神社
社宝・文化財 石燈籠(重美)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】(原文)
〇滋賀縣 近江國 神崎郡御園村大字神田
郷社 河桁御河邊(カハタナノミカハベノ)神社
祭神
瀬織津姫(セオリツヒメノ)神
天湯河桁(アメノユカハタナノ)神
倉稲魂(ウカノミタマノ)神一説 祭神 大己貴命なりといふ(輿地志略)、
社記によれば、宣化天皇四年二月庚午、神崎郡司 玉祖宿禰磯戸彦連といふもの、神勅によりて、神崎川邊に社を建てて祀りしに始まるといふ、淳和天皇 天長二年 弘法大師の参籠あり、清和天皇の朝 皇兄惟喬親王 数々参向し給ひ、且つ社殿の修營ありきと、醍醐天皇 延喜の制小社に列せられし 川桁神社は即ち當社にして、神田封戸を附せられきといふ、今の神田村之なり、
降つて高倉院の承安三年 兵燹に罹り、順徳天皇 建暦二年に至りて再建あり、
後醍醐天皇 建武年中 囘禄の災に罹り、珍寶秘書悉く焼失す、後亀山天皇 天授六年 修覆の事ありしが、正親町天皇 天正中兵火にかゝりしを以て、後陽成天皇 慶長十五年 社殿の再建あり、之れ今の社殿なり、明治九年十月村社に定まり、十四年郷社に列す、境内千七百二十九坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿其他社務所、井戸屋形等の建物を備へたり、
因に記す、
名細帳は當社を以て延喜式の川桁神社なりとすれども、川桁神社に就ては諸説 區々として一定せず、
輿地志略は犬上郡川瀬荘川瀬村に在りといひ、神祇志料は當郡萱尾村に在りといへり、猶考ふべし、輿地志略 當社を説いて曰く「御川邊の御名は、土俗空也上人の首流れ止る所ゆゑ、御首と號し、神に祭るといへるは、例の荒唐僻説なり、此の神社の邊 愛知川の水上にして、和南川の邊なり、此の川の北東の源は則君が畑なり、惟喬親王御住居ありしゆゑ、此の邊すべて御園と號す、依つて川の名も御川といふ、その川の邊なる社なれば御川邊神社と號す」と。境内神社
相殿神社 竈處神社 日吉三ノ宮神社
現代語訳(要旨)
郷社・河桁御河邊神社。
祭神は瀬織津姫神・天湯河桁神・倉稲魂神。
『輿地志略』による一説では祭神を大己貴命ともいう。社記によれば、宣化天皇4年2月庚午の日、神崎郡司であった玉祖宿禰磯戸彦連という人物が、神のお告げによって神崎川のほとりに社を建てて祀ったのが始まりという。淳和天皇の天長2年(825年)には弘法大師の参籠があった。清和天皇の御代には、皇兄・惟喬親王がたびたび参向し、社殿の修営にあたられたという。醍醐天皇の延喜の制で小社に列せられた川桁神社はすなわち当社であり、神田の地を神領として付されたといい、これが今の神田村である。時代が下って高倉院の承安3年(1173年)に兵災に遭い、順徳天皇の建暦2年(1212年)に再建された。後醍醐天皇の建武年間には火災(回禄の災)に遭い、社宝・古文書がことごとく焼失した。後亀山天皇の天授6年(1380年)に一度修覆があったが、正親町天皇の天正年間に兵火に遭い、後陽成天皇の慶長15年(1610年)に社殿が再建された。これが現在の社殿である。明治9年10月に村社と定められ、同14年に郷社に列せられた。境内は1729坪(官有地第一種)で、社殿は本殿・拝殿のほか社務所、井戸屋形等の建物を備えている。なお、社名を記した帳簿(名細帳)は当社を延喜式の川桁神社とするが、川桁神社の所在については諸説あって一定しない。『輿地志略』は犬上郡川瀬荘川瀬村にあるといい、『神祇志料』は同郡萱尾村にあるという。なお検討の余地がある。『輿地志略』は当社について次のように説く。「御川辺の名は、土地の言い伝えで空也上人の首が流れ着いて止まった所だから『御首』と号し、それを神として祀ったのだというが、これはよくある根拠のない作り話にすぎない。実際にはこの神社の周辺は愛知川の水源にあたる和南川のほとりであり、この川の北東の源はすなわち君ヶ畑である。惟喬親王がそこにお住まいだったので、この一帯を『御園』と称し、それゆえ川の名も『御川』というようになった。その川のほとりにある社であるから『御川辺神社』と号するのである」と。
【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
※由緒に登場する人物・出来事の異同:滋賀県神社庁サイトは「惟喬親王の御子・小椋兼賢王」が崇敬・社殿造営にあたったと伝えますが、『明治神社誌料』では「皇兄惟喬親王」本人がたびたび参向し社殿の修営にあたったとしており、関わった人物(親王本人か、その御子か)が資料によって異なります。また『明治神社誌料』が記す「後亀山天皇天授6年(1380年)の修覆」は他の資料には見られない情報です。
なお境内社については、滋賀県神社庁サイト(現在の紹介)が「大神宮・竈処神社・日吉神社・籠守神社・恵美須神社」の5社を挙げるのに対し、明治45年(1912年)刊行の『明治神社誌料』は「相殿神社・竈處神社・日吉三ノ宮神社」の3社を挙げています。これは両者が矛盾しているというより、明治期から現在までの間に境内社の統合・新設・改称があったことを示していると考えるのが自然でしょう。刊行時期の異なる史料である以上、境内社の顔ぶれが時代とともに変化していても不思議ではありません。
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・河桁御河辺神社 本殿

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・河桁御河辺神社 社殿

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・河桁御河辺神社 拝殿
本殿・拝殿の規模など建築の詳細は、上記「1.ご紹介」内【由緒(History)】欄に掲載した滋賀県神社庁サイトの由緒(本殿:三間社流造、拝殿:入母屋造向拝付)を参照ください。

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・昭和天皇の御製
「静かなる神のみそのの朝ぼらけ
世のありさまもかかれとぞおもふ」

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・拝殿前の石灯籠

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・社頭

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・河桁御河辺神社 御旅所〈若松天神社(東近江市 外町)〉
『淡海木間攫』には、若松天神社は「御川辺大明神の御旅所」と伝わっています
この御川辺大明神とは当社(河桁御河辺神社)のことで、本宮からの距離を「十五丁」と伝えています。
滋賀県神社庁HP 神社紹介「若松天神社」より
若松天(ワカマツテン)神社
御祭神:武甕槌神、経津主命
御神紋:左三ツ巴
【抜粋意訳】(原文)
「社記に『神護景雲元年、常陸国鹿島の神が伊賀国名張郡夏身を経て、大和国に遷り給う途次假の御座所を設けられ、其の時に植えられた若松が忽に大樹となり繁茂したので、同四年神殿を造り香取の神を勧請した』とある。又此社地は若松社として、平安期以後近江の歌枕として多く歌われている。祭神に関しては、輿地志略に『祭神は天満天神也、俗に若松天神と称すが春日明神なり』とあり、又淡海木間攫には『若松大明神、外村の生土神也、且御川辺大明神の御旅所也、本宮を去る事十五丁也』とあり、現在も河桁御河辺神社の春祭の御旅所となっている。明治九年村社に列し、大正四年神饌幣帛料供進指定となる。」
現代語訳(要旨)
社記によれば、神護景雲元年(767年)、常陸国鹿島の神(武甕槌神)が伊賀国名張郡夏身を経て大和国へ遷られる途中、仮の御座所を設けられた。その時に植えられた若松がたちまち大樹となって繁茂したため、神護景雲4年(770年)に神殿を造り、香取の神(経津主命)を勧請したという。この社地は「若松社」として、平安時代以降、近江の歌枕として多くの和歌に詠まれてきた。祭神については、『輿地志略』に「祭神は天満天神である。俗に若松天神というが、実は春日明神である」とあり、また『淡海木間攫』には「若松大明神は外村の産土神であり、かつ御川辺大明神(河桁御河辺神社)の御旅所である。本宮から十五町の距離にある」とある。現在も河桁御河辺神社の春祭の御旅所となっている。明治9年に村社に列せられ、大正4年に神饌幣帛料供進社に指定された。
【原文参照】:「若松天神社」滋賀県神社庁ホームページ(https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=426)
**当社の例祭「御河辺祭(みかべまつり)」の行列と御旅所〈若松天神社〉について(びわ湖ビジターズビューロー公式サイトより)**
※この御河辺祭の行列の中で御旅所・若松天神社での祭事が行われることが明記されています。
【抜粋意訳】(原文)
「御河辺祭は河桁御河辺神社の例祭で、その起源は古く、奈良時代末期に始まったと伝えられています。当初は2月の初午の日に行われていましたが、現在は3月16日に近い日曜日に行われています。前日の宵祭は頭人が袴を着用し、若衆たちが手に手に持つ提灯に囲まれて神社に参入します。当日はこの頭人が乗馬し、若衆連に囲まれながら宮入りし、御輿1基と馬8頭による行列を組み、2里余りの道程を練り歩きます。行列の途中、御旅所若松天神社で祭事があり、また、妙法寺地先でも頭人の馬駆けが行われます。」
【原文参照】:「御河辺祭」びわ湖ビジターズビューロー公式サイト(https://www.biwako-visitors.jp/event/detail/806/)
・金貝遺跡(かなかいいせき)
当社の南西、東近江市野村町に金貝遺跡(滋賀県指定史跡)という遺跡があります。これは愛知川中流域左岸の砂礫堆積地帯にあり、伏流水のため水が得にくく、古くから灌漑用水路や溜め池の開発が行われてきた土地です。平成19年度(2007年度)から県・市による発掘調査が行われ、地域の歴史の特徴がよくわかる二つの遺構が見つかっています。
一つは、柱を建てるための掘立柱穴の跡(柱穴群)です。実際に建物そのものが発見されたわけではなく、柱穴の配置(間面記法による分析)から建物の形式が推定されたものですが、それによると三間一面の小規模な建物ながら、身舎の全面に長い庇と階を設ける格調の高い構造であったと考えられ、これは三間社流造の神社建築と同じ形式にあたります。他の建物跡とは離れた地点に単独で建てられていたことも特徴で、同方位の建物跡群の年代から8世紀後半〜9世紀前半の遺構である可能性が高いとされ、平安時代前期までさかのぼる国内最古級の神社の本殿跡とされています。この柱穴跡は、神崎郡にあったとされる式内社「川桁神社」との関わりが指摘されています。
もう一つは、奈良時代から平安時代につくられた灌漑用水路の跡と、大型の掘立柱建物跡群です。金貝遺跡一帯は、愛知川から水を引くために掘削された「駒井筏川」によって灌漑されており、このような人工的な水路が複数掘削されていたことが発掘調査でわかっています。写真に残る水路跡の一つは8世紀〜10世紀前半にかけて使用されたもので、愛知川から1km以上離れた地点からさらに西へ延びていることから、相当な長さの水路であったとみられます。駒井筏川のような水路が奈良時代にはすでに造られていた可能性がありますが、一帯がどの荘園に属していたか、誰が開発したのかは文献では知られていません。 また奈良時代後半の柱穴跡(柱穴の配置から、桁行5間・片庇付きの建物2棟分と推定され、周辺から土師器・須恵器等が出土)と、条里地割に沿って北東を向く平安時代後半(12世紀前半)の建物の柱穴跡も検出されており、奈良時代後半の建物群の跡は、開発を主導した有力者に関わる施設と考えられています。愛知川との関わりや水田開発の成功を物語る遺跡です。
なお、リーフレット掲載の遺跡位置図では、金貝遺跡は当社(河桁御河辺神社)のごく近くに位置づけられていますが、これは位置図から確認できる事実であって、本文中では式内社「川桁神社」との関わりを指摘するにとどまり、当社を含むどの論社と直接結びつくかまでは述べられていません。
【原文参照】
https://www.city.higashiomi.shiga.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/160/kanakai.pdf
:東近江市教育委員会埋蔵文化財センター編『東近江市の遺跡シリーズ15 金貝遺跡(滋賀県指定史跡)』、平成28年(2016年)3月発行
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【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)神崎郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 川桁神社
[ふ り が な ](かはけたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kahaketa no kaminoyashiro)
【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『式内社調査報告 第十二巻』昭和59年に記される「式内社 川桁神社」内容
『式内社調査報告 第十二巻』には 延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社の論社としてA~Fの六社を挙げています
【原文抜粋】
【社名】
『延喜式神名考』は傍訓を「カハタナノ神社」とし、『神名帳考証』は傍訓を「カハラケタ神社」とする。
桁の字は音では「カウ」、訓では「ケタ」であるが、この訓みにしたずふと、『延喜式神名考』のカハタナとは訓みがたく、「カハケタジンジャ」と訓むべきだと考へられる。【所在】
川桁神社の所在は定かではなく、左記の六社が川桁神社であると傳稱されてゐる。この六社は、神崎、愛知、犬上の三郡にわたって散在してゐる。
Aの神社は、河桁御河邊神社と稱し、神崎郡八日市市神田町(舊神崎郡御園村大字神田三八五番地 )近江鐡道八日日市驛より東北へ約二キロメートル。
Bは、大瀧神社と稱され、大上郡多賀町大字宮ノ尾(舊神崎郡郡山上村大字萓尾 )近江鐵道多賀驛より南へ約四キロメートル。
Cは、河瀬神社と稱する。彦根市南川瀬町( 舊犬上郡川瀬村南川瀬)東海道線川瀬驛より南へ一キロメートル。
Dは、小幡神社と稱し、神崎郡五箇莊町大字中 (舊神崎郡五箇莊村大字中 )近江鐵道五箇莊驛より南へ約ー・五キロメートル。
Eは、川桁神社と稱す。彦根市甲崎町(舊愛知郡稲枝村大字甲崎)東海道線稲枝驛より北へ約三キロメートル。
Fは、河脇神社と稱して、愛知郡愛知川町大字中宿(舊愛知川町大字中宿)近江鐡道愛知川驛より北へ〇・五キロメートル。
【原文】『式内社調査報告第 巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より
延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社(かはけたの かみのやしろ)の論社
A・河桁御河辺神社(東近江市神田町)
B・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)
C・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)
D・小幡神社(東近江市五個荘中町)
E・川桁神社(彦根市甲崎町)
F・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近江鉄道 八日市駅から東へ約2.5km 車での所要時間6~8分程度
社頭は東南方向を向いています
社号標には「郷社 河桁御河邊神社」と刻字されています

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河桁御河辺神社(東近江市神田町)に参着

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鳥居の扁額には「河桁御河辺神社」と刻字されています
一礼をして鳥居をくぐり抜けて 境内に進みます

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手水鉢があり 清めます

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥に幣殿があります ともに壁はありません
幣殿の奥には 本殿が祀られています

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社殿に一礼をして 境内を戻ります
この写真だと判り易いので 拝殿の向きは石燈籠の向きで 南方向を向いています
社頭は東南方向を向いていています

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東南方向を向いている社頭の鳥居を戻ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
※明治3年(1870年)成立のこの『神社覈録』は、式内社「川桁神社」について「祭神は不明」としたうえで、その所在地を犬上郡川瀬荘川瀬村(『輿地志略』による)としており、現・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)を論社としています。『明治神社誌料』(前掲)にも一説として『輿地志略』の説「輿地志略は犬上郡川瀬荘川瀬村に在りといふ」も紹介しています。式内社「川桁神社」については、江戸期以来の考証の時点ですでに神崎郡説と犬上郡説とが紹介されていました。
【抜粋意訳】(原文)
神埼郡二座 並小
乎加神社・・・〈中略〉
川桁神社
川桁は加波氣多と古點あり
〇祭神詳ならず
〇今 犬上郡川瀬荘川瀬村に在す〔輿地志〕
現代語訳(要旨)
神埼郡(神崎郡)には2座の式内小社が記載されており、そのうち一座は「乎加神社」・・・〈中略〉
もう一座が「川桁神社」で、
「川桁」には古くから「かわけた」と訓む点(古點)があるとしながらも、祭神については詳らかでない(不明である)とし、(当時)現に犬上郡川瀬荘川瀬村に鎮座するとしている(『輿地志略』による)。
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
※『神祇志料』は 式内社「川桁神社」について 萱尾村の鎮座「大瀧大明神」としており、これは論社のひとつ 現「大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)」です。
なお、当社の祭神のひとつ「天湯河桁神」は、まさにこの『神祇志料』が引く、鵠を追って天湯河桁命が近江・越国にまで至ったという『古事記』『日本書紀』の説話(前述「予備知識」参照)に由来するものです。
【抜粋意訳】(原文)
川桁神社
今 萱尾村にあり、大瀧大明神と云ふ、
〔山上縣伺書、〇按神前を流るる愛知川南淵 大岩聳立る上に、桁の如く横はれる石上を、水瀧なして落る故に、川桁の名あり、又 神崎愛知二郡田に灌く水を、湯川と云ふ、近隣 百五十餘村の田畝、皆其水利を被るを以て、民人豐熟を祈り、秋稻を神社に納むるを例とすと云り、姑附て考に備ふ、〕盖 鳥取部連の祖 天湯河桁命を祀る、〔參取古事記、新撰姓氏錄、〕
垂仁天皇御世、皇子 譽津別命 八拳鬚胷前に至るまで、眞事とはす、高往鵠が音を聞して、始て阿藝登比し給ひき、故 湯河桁命をして、其鳥を捕しめき、故其鵠を追尋て東方に追廻りて、近淡海國に至り、遂に高志國に至て捕て献りき、即是也。〔古事記參取、日本書紀、〕
現代語訳(要旨)
川桁神社は、今は萱尾村にあり、大瀧大明神と呼ばれている。
〔『山上縣伺書』によれば、神前を流れる愛知川の南の淵に大岩がそびえ立ち、その上に桁(横木)のように横たわる石があって、水がそこを瀧のように落ちるために「川桁」の名があるという。また、神崎・愛知の二郡の田を灌漑する水を「湯川」と呼び、近隣百五十余村の田畑はみなこの水の恩恵を受けているため、村人は豊作を祈り、秋の稲を神社に納めるのを例としているという。ひとまず書き添えて考察の参考とする。〕当社は、鳥取部連の祖である天湯河桁命を祀るものと思われる。〔『古事記』『新撰姓氏録』を参照〕垂仁天皇の御代、皇子の誉津別命は、あごひげが胸元に至る年齢(成人)になっても、まともに物を言うことができなかった。ところが空高く飛ぶ鵠(くぐい、白鳥)の鳴く声を聞いて、初めて片言を発せられた。そこで天皇は湯河桁命に命じてその鳥を捕えさせた。湯河桁命はその鵠を追いかけて東方をめぐり、近淡海国(近江国)に至り、ついに高志国(越国)にまで至ってこれを捕え、献上した。これがすなわち当社の祭神である。〔『古事記』『日本書紀』を参照〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
※『特選神名牒』は、神崎郡神田村の御河辺神社を式内社とする決め手がなく、犬上郡河瀬村説(『輿地志略』)も郡が異なるとして退け、独自に愛知郡出路村(愛知郡愛知川町大字金田)現・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)を式内社「川桁神社」の所在地に定めています。
これにより、式内社「川桁神社」の論社所在については、
・河桁御河辺神社(東近江市神田町)
・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)犬上郡川瀬荘川瀬村説(『輿地志略』『神社覈録』)
・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)犬上郡萱尾村説(『神祇志料』)
・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)愛知郡出路村説(『特選神名牒』)
と、少なくとも四つの説が紹介されています。
ただし『特選神名牒』自身も、出路村説の根拠を「祭神の名にゆかりがあるように思われる」という状況証拠にとどめており、確たる決め手とまでは述べていません。
【抜粋意訳】(原文)
川桁(カハタナノ)神社
祭神 天ノ湯河板擧(アメノユカハタナノ)命
祭日 二月二酉日社格 村社(明細帳になし)
所在 出路村〔今属 愛智郡〕(愛知郡愛知川町大字金田)
今按 縣の注進に神田村 出路村の二所に川桁ノ神社ある由を記して 何れが是なるを詳かにせずと云り
されど輿地志略を考ふるに神田村御川邊明神 祭神 大己貴命 愛智川の水上にますに由て御川邊ノ神社と號すとありて 式社なる事を云はず 同社由緒書にも河桁御河邊大明神と云ひ 氏子十八村あり神宮寺古より別當にてありし趣を記せれば由ある古社なるべけれど 川桁神社なるべき證なし
又 輿地志略に川桁ノ神社 犬上ノ郡河瀬村にありと云へど 郡隔れば從がたし
さて出路村由緒書に神社古より出路村 成亥の方 字神田代(ミトシロ)と云地に鎭座あり 毎年 神輿神幸の時の祭場を本庄村イワノキと云 其南方に河田湯河添湯と云湯水あり 近郷樞要の水道なりと云る 祭神の名にも由ありて聞ゆれば此地と定めて記せり
現代語訳(要旨)
川桁神社(かはたなの)。祭神は天湯河桁命(原文は「天ノ湯河板挙命」、フリガナは「ユカハタナノ」)。祭日は2月の二の酉の日(原文「二月二酉日」)。社格は村社(ただし明細帳には記載がない)。
所在は出路村(現在は愛知郡に属し、愛知郡愛知川町大字金田にあたる)。
今考えるに、滋賀県からの注進(報告)には、神田村・出路村のいずれか2か所に川桁神社があるとしながら、どちらが正しいのか詳らかにしないとある。しかし『輿地志略』によれば、神田村の御川辺明神は祭神を大己貴命とし、愛智川の水上に鎮座することから「御川辺神社」というとあるが、これを式内社であるとは述べていない。同社の由緒書にも「河桁御河辺大明神」と称し、氏子十八村があり、神宮寺が古くから別当であった旨が記されているので、由緒ある古社ではあろうが、これが式内「川桁神社」であるという証拠はない。
また『輿地志略』には「川桁神社は犬上郡河瀬村にある」ともいうが、郡が隔たっているので従いがたい。 そこで出路村の由緒書によれば、当社は古くから出路村の亥(北西)の方角にあたる「神田代(ミトシロ)」という地に鎮座しており、毎年の神輿渡御の祭場を本庄村イワノキと称し、その南方には「河田湯・河添湯」という湯水があって近隣にとって重要な水源であるという。
祭神の名(天湯河桁命)にもゆかりがあると考えられるので、この地(出路村)をもって式内社の所在地と定めて記した。
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
河桁御河辺神社(東近江市神田町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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