大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)〈『延喜式』川桁神社〉

大瀧神社(おおたきじんじゃ)は 高龗神・闇龗神・水分神を祀り 犬上川上流の滝のほとりに鎮座します 古来 多賀大社の末社・奥宮とも考えられ 多賀大社・胡宮神社とともに「多賀の三社参り」の一社としても知られ 境内の犬上神社には大蛇退治の伝承があります 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

大瀧神社(Ohtaki shrine)

【通称名(Common name)】

【鎮座地 (Location) 】

滋賀県犬上郡多賀町富之尾1585

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》高龗神(たかおかみのかみ)

《配》闇龗神(くらおかみのかみ)
   水分神(みずをわけるかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

水を司る神様・農家の守護神

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

大瀧(オオタキ)神社

御由緒

創祀年代不詳であるが、『淡海落穂草』に「大瀧三社の御舘野の礼所は大同2年坂上田村麿将軍の御領にて建立云々」とあり、今も俗稱御舘野と呼ぶ所がある。其後寛永年代徳川家により造営がなされ、現在に至っている。明治9年村社、同14年に郷社。同41年神饌幣帛供進指定となる。

【原文参照】滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=949

由緒

 大瀧神社は古来多賀大社の末社、あるいは奥宮として考えられてきたようである。お祭神 高龗神、闇龗神で、室温湿雨を司り水脈を主宰し、農作物の生茂繁植の道を補助し給う神である。社殿の創立年代は、大同2年(87)坂上田村麿将軍の願いで建立されたものと想像される。寛永15年(1638)徳川家光公により修復され、今日に至り、昭和48年(1972)滋賀県有形文化財に指定され、昭和54年(1978)本殿の屋根の葺替及び部分修理がなされた。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由 緒 (History)】

現地案内板(多賀町教育委員会)〈平成25年(2013)5月設置〉に記される内容

大瀧神社(瀧ノ宮)

御祭神

 高龗神(たかおおかみ)
 闇龗神(くらおおかみ)
 水分神(みずをわけるかみ)

例祭日
 五月五日

御本殿
 一間社流造 桧皮葺(江戸時代)

滋賀県指定有形文化財
(昭和四十八年六月二十七日指定)

 御祭神は京都鞍馬の貴船神社にも祀られる水神で、旧大滝村の総鎮守として、また、犬上川流域の水利を司る神として広く崇敬されている。

 創祀年代は確定できないが、「淡海落穂草」に「大同二年 坂上田村麿将軍の御領にて建立」とある。

 現在の本殿は、標木及び高欄擬宝珠に寛永十五年(一六三八)の銘があり、多賀大社・胡宮神社等と共に徳川家の造営によるものであり、象頭形の木鼻、花鳥を刻した蟇股欄間等に江戸初期の様式手法をよく伝えている。

平成二十五年五月 多賀町教育委員会

現地案内板より

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『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋原文】

滋賀縣近江國犬上郡大瀧村大字富之尾

郷社 大瀧神社

祭神 高龗神

創建年代詳ならずと雖も、多賀社の末社〔温故録には、大瀧山大明神世に多賀宮の奥院なりといへり〕にして(近江輿地志略)、平城天皇 大同二年 坂上田村麻呂 社参すといへば、其以前の鎭座なる事明なり、後柏原天皇 永正二年二月二日 犬追物執行奉納あり、檢使 多賀豐後守高忠吉田雲荷入道 出仕す、後水尾天皇 寛永十五年 徳川家光 社殿を造營す、明治十二年郷社に列す、

境内三千六百六十坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿あり、地は翠巒絶圍の中に在り、緑樹蕭鬱として頗る幽邃の趣あり、社前一瀑流あり、大上川の上流にして、飛瀑二條 怪岩奇石 其中に在り、夏季は最も賞すべし、
御神體は木像にして、寶物は徳川家光の願文等あり、

境内社 犬上神社は義犬を祀るといふ、昔者 此の邊に獵師あり、一犬を養ひ、名づけて小白丸といふ、慈愛甚だ厚く、常に狩に伴ひ側を放す事なし、一日 鳥籠山に獵し、疲れて大樹の下に眠る、犬頻りに吠え、狂奔して其の衣裾を噛む、獵師 之を叱すれども止まず、獵師 怒って之を斬れば、其の首飛んで樹梢に上る、仰いで之を見れば、大蛇 口を開いて獵師を呑まんとするものの咽を噛む、獵師 之を斬りしを悔ゆれども及ばず、爲に祠を建てて之を祀る。之れ犬上祠なりと(土俗傳説 三國傳記)、然れども之れ信ずるに足らずと輿地志略にはいへり。

境内神社 犬上(イヌカミノ)神社 大雷(オホイカヅチノ)神社

例祭日 五月五日

【現代語訳】

滋賀県近江国犬上郡大瀧村大字富之尾

郷社 大瀧神社

祭神 高龗神(たかおかみのかみ)

創建された年代は詳しく分かっていません。しかし、大瀧神社は多賀社の末社であり、『温故録』には「大瀧山大明神は、世に多賀宮の奥院といわれている」と記されています。また、『近江輿地志略』によれば、平城天皇の大同2年(807)に坂上田村麻呂が当社へ参詣したとされることから、それ以前から鎮座していたことは明らかであるとしています。

その後、後柏原天皇の永正2年(1505)2月2日には、犬追物が執り行われ、奉納されました。このとき、検使として多賀豊後守高忠、吉田雲荷入道が出仕しました。

後水尾天皇の寛永15年(1638)には、徳川家光が社殿を造営しました。

明治12年(1879)には郷社に列せられました。

境内は3,660坪で、官有地第一種です。社殿には本殿と拝殿があります。
神社は緑に覆われた山々に囲まれた場所にあり、木々が鬱蒼と茂って、たいへん奥深く静かな趣があります。社前には滝の流れがあり、大上川の上流に位置しています。二条の滝が流れ落ち、その周囲には変化に富んだ岩や奇岩があり、特に夏の景観は見事であるとされています。

御神体は木像で、宝物として徳川家光の願文などが伝えられています。

境内社の**犬上神社(いぬかみじんじゃ)**は、忠義を尽くした犬を祀った神社であると伝えられています。
昔、この付近に一人の猟師が住んでいました。猟師は一匹の犬を飼い、「小白丸」と名づけてたいへん可愛がっていました。狩りに出るときにはいつも小白丸を連れて行き、自分のそばから離すことはありませんでした。
ある日、猟師は鳥籠山へ狩りに出かけ、疲れたため大木の下で眠ってしまいました。すると小白丸がしきりに吠え、激しく走り回りながら猟師の衣の裾を噛みました。
猟師は小白丸を叱りましたが、犬はやめようとしません。ついに猟師は腹を立て、小白丸を斬ってしまいました。
すると、斬られた小白丸の首は飛び上がって木の梢へ達しました。猟師が見上げると、そこには大蛇が口を開き、まさに猟師を呑み込もうとしていました。小白丸の首は、その大蛇の喉に噛みついていたのです。

ここで猟師は初めて、小白丸が自分を危険から救おうとしていたことを知りました。小白丸を斬ってしまったことを悔やみましたが、もはや取り返しがつきません。そのため祠を建て、小白丸を祀りました。これが犬上祠の起こりであると、土地人の伝承や『三國傳記』では伝えています。

ただし、『近江輿地志略』は、この伝承について「信ずるに足らず」、すなわち、そのまま史実として信用することはできないとしています。

境内には、
犬上神社(いぬかみのじんじゃ)
大雷神社(おおいかづちのじんじゃ)が祀られています。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

※【注記】原文中の「境内社 犬上神社は義犬を祀るといふ」に始まるこの伝承は、大瀧神社境内案内板「大蛇ヶ淵」「大胴松の由緒」(大瀧神社、平成29年〈2017〉10月設置)にも、同じモチーフ(愛犬が主人を大蛇から守り、誤って斬られてしまう)で伝えられています。ただし、細部にはいくつか違いがあります。この『明治神社誌料』では、名もない「一人の猟師」の物語として語られていますが、現地の案内板では、主人公が犬上氏の祖神である稲依別王命(いなよりわけのおうのみこと)だと明記されています。また、愛犬の名前も、『明治神社誌料』の「小白丸」に対して、現地案内板では「小石丸」となっています。このように、同じ伝承でも、明治期の記録と平成期の案内板とでは、登場人物の設定が異なっている点にご注意ください。

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・大瀧神社 社殿

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・大瀧神社 本殿〈覆屋〉

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県指定有形文化財 大瀧神社本殿

一間社流造、檜皮葺、江戸時代
昭和四十八年六月二十七日指定

 神社の創立は、明らかでないが多賀大社の奥宮あるいは末社とも考えられる。一間社流造の本殿形式は、全国的に分布し、三間社流造に次いで遺構が多い。

 現在の本殿は、棟木(むなぎ)および高欄擬宝珠に寛永十五年(一六三八)の銘があり、また、「慈性日記」の同年の記録からも胡宮神社本殿(多賀町)、千代神社本殿(彦根市)などと共に多賀大社の末社として再建されたことが裏付けられる。

 一間社としては規模の大きな本殿で、象頭形の木鼻、鳥や花を彫刻した蟇股(かえるまた)、欄間(らんま)などに江戸初期の様式手法をよく伝えている。

平成四年三月 滋賀県教育委員会

【原文参照】1992年現地案内板より

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・大瀧神社 拝殿

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・〈本殿向かって右脇 境内社〉犬上神社《主》稲依別王命

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・〈本殿向かって左脇 境内社〉大雷神社《主》大雷神,《配》大山祇神

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・〈社殿向かって右〉手水舎

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・御神木の杉

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・二の鳥居

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・〈境内社〉冨王稲荷神社

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・鳥居・社号標

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・社頭

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・大蛇ヶ淵

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大蛇ヶ淵

大瀧神社境内のご神木杉あたりより見下ろす岩瀬は「大蛇ヶ淵」と呼ばれています。上流に犬上ダムが建設されるまでは「大瀧」の名に恥じない堂々たる瀑布でした。

ここには、神代の昔に大蛇が棲んでいたといわれる龍淵がありました。大蛇は、近辺住民に仇なす祟り神でしたが、稲依別王命(いなよりわけのおうのみこと)と忠犬小石丸によってこの淵に鎮められました。(詳細は参道上の「大胴松の由緒」をご覧ください)

この場所より目を対岸に向けると小さな祠が見えます。この祠が犬上神社に祭られている稲依別王命が小石丸の首を鎮めたといわれるところです。眼下の大蛇ヶ淵と、時に大奔流と化す川面を見守り鎮めているかのようです。

平成二十九年(二〇一七年)十月 大瀧神社

【原文参照】現地案内板より

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・〈境内社 犬上神社の旧鎮座地〉大胴松

大胴松の由緒

 その昔、犬上式部二族の祖先といわれます稲依別王命(いなよりわけのおうのみこと)は、日頃より猟を好まれ猟犬の小石丸を引き連れ山を歩きまわっていました。

その時に、この渓谷の淵に人々を襲う大蛇がいることを聞き、退治しようと猟犬 小石丸を伴い、渓谷を探し続けました。七日七夜を過ぎ、仮眠していましたところ小石丸が吠えたてるので稲依別王命は怒り腰の剣で一刀のもとに愛犬の首をはねました。首は岩陰より稲依別王命に襲いかかろうとする大蛇の喉に咬みつき大蛇は淵に落ちて死にました。

 稲依別王命は大いに驚き、この愛犬忠死に深く感銘し、祠をたて、犬咬明神として祭りました。こうして、稲依別王命を救った忠犬の霊を葬り大胴塚とし、そこに松を植えたのが大胴松です。今は枯れ果て面影を残すのみですが、お堂を建てその霊をお祭りしています。

 境内三社のうち犬上神社には稲依別王命が祭られています。

平成二十九年(二〇一七年)十月 大瀧神社

【原文参照】現地案内板より

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【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)神崎郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川桁神社
[ふ り が な ](かはけたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kahaketa no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『式内社調査報告 第十二巻』昭和59年に記される「式内社 川桁神社」内容

『式内社調査報告 第十二巻』には 延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社の論社としてA~Fの六社を挙げています

【原文抜粋】

【社名】

『延喜式神名考』は傍訓を「カハタナノ神社」とし、『神名帳考証』は傍訓を「カハラケタ神社」とする。
桁の字は音では「カウ」、訓では「ケタ」であるが、この訓みにしたずふと、『延喜式神名考』のカハタナとは訓みがたく、「カハケタジンジャ」と訓むべきだと考へられる。

【所在】

 川桁神社の所在は定かではなく、左記の六社が川桁神社であると傳稱されてゐる。この六社は、神崎、愛知、犬上の三郡にわたって散在してゐる。

Aの神社は、河桁御河邊神社と稱し、神崎郡八日市市神田町(舊神崎郡御園村大字神田三八五番地 )近江鐡道八日日市驛より東北へ約二キロメートル。

Bは、大瀧神社と稱され、大上郡多賀町大字宮ノ尾(舊神崎郡郡山上村大字萓尾 )近江鐵道多賀驛より南へ約四キロメートル。

Cは、河瀬神社と稱する。彦根市南川瀬町( 舊犬上郡川瀬村南川瀬)東海道線川瀬驛より南へ一キロメートル。

Dは、小幡神社と稱し、神崎郡五箇莊町大字中 (舊神崎郡五箇莊村大字中 )近江鐵道五箇莊驛より南へ約ー・五キロメートル。 

Eは、川桁神社と稱す。彦根市甲崎町(舊愛知郡稲枝村大字甲崎)東海道線稲枝驛より北へ約三キロメートル。

Fは、河脇神社と稱して、愛知郡愛知川町大字中宿(舊愛知川町大字中宿)近江鐡道愛知川驛より北へ〇・五キロメートル。

【原文】『式内社調査報告第 巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社(かはけたの かみのやしろ)の論社

A・河桁御河辺神社(東近江市神田町)

B・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)

C・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)

D・小幡神社(東近江市五個荘中町)

E・川桁神社(彦根市甲崎町)

F・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)

多賀の三社参り(多賀大社・大瀧神社・胡宮神社)について

 大瀧神社は、延喜式内社「川桁神社」の論社という枠組みとは別に、隣接する多賀大社・胡宮神社とあわせて「多賀の三社参り」と呼ばれる巡拝コースの一社にも数えられています。多賀大社の駐車場にあった案内板には、胡宮神社と大瀧神社それぞれの由緒とあわせて、次のように記されています。

胡宮神社の由緒

 この地から南へ約七百米のところにあり、ご祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさの)命。

 古くから多賀大社の奥宮といわれているが、鎮座地の敏満寺は中世、敏満寺という寺を中心に仏教文化が栄えたところで、百を越える僧坊(戦国の兵火で焼失)が建ち並び、胡宮神社はその鎮守でした。

 延命長寿の神様として崇敬され、本殿は県の重要文化財、その社宝、銅製五輪塔は国の重要文化財であります。

大瀧神社の由緒

 この地から南南東五キロ米のところにあり、ご祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、闇龗神(くらおかみのかみ)。水を司る神様で、犬上川の清流が奇岩怪岩の間から流れ落ちる滝のほとりに鎮座しています。

 農業用水の要の位置に鎮座され、農家の守護神として古くから犬上郡一帯の篤い崇敬を受けています。

 尚、胡宮神社と大瀧神社は共に紅葉の名所として知られ、多賀町観光協会では、ここに多賀大社を加え、この三社を巡るコースを多賀の三社参りと称し、皆様におすすめしております。

【原文参照】多賀大社の駐車場にあった案内板より

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・多賀大社(犬上郡多賀町多賀)

・胡宮神社(犬上郡多賀町敏満寺)〈多賀大社の奥宮or別宮〉

・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)〈多賀大社の奥宮or末社〉※当記事です

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近江鉄道 多賀大社前駅から南方向へ約6km 車での所要時間10~12分程度

大瀧神社は 多賀町の奥深い山中「犬上川」の中流域 「大蛇ヶ淵」と称される霊地の淵にひっそりと佇んでいます

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大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)に参着

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社号とは別に「名勝 瀧之宮」の標柱があります

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一礼をしてから 社頭の鳥居をくぐり抜けます

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参道を進むと 右手に〈境内社〉冨王稲荷神社
正面には二の鳥居がたちます

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二の鳥居をくぐり抜けて境内に入ると 大瀧神社の境内社 犬上神社をモチーフにしたポスターがあります
ちょうど戌年の参拝でした

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すぐ右手に手水舎があり その向こうに西南方向を向いて社殿が建てられています

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿が祀られていますので 本殿でもお祈りをします

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本殿の両脇には境内社が祀られています
向って右が 犬上神社です

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お祈りをおえて 境内を振り返ると 御神木の杉が聳えています

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この大瀧神社境内のご神木杉あたりより見下ろす「犬上川の岩瀬」は「大蛇ヶ淵」と呼ばれ 上流に犬上ダムが建設されるまでは「大瀧」の名に恥じない堂々たる瀑布だったとのこと

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 この「大蛇ヶ淵」には 神代の昔に大蛇が棲んでいたといわれる龍淵があり 大蛇は近辺住民に仇なす祟り神でしたが 稲依別王命(いなよりわけのおうのみこと)と忠犬 小石丸によってこの淵に鎮めらたと云う伝説があります

「大蛇ヶ淵」に降りていく石段があります

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これが現在の「大蛇ヶ淵」

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境内へともどります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

※明治3年(1870年)成立のこの『神社覈録』は、式内社「川桁神社」について「祭神は不明」としたうえで、その所在地を犬上郡川瀬荘川瀬村(『輿地志略』による)としており、現・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)を論社としています。『明治神社誌料』(前掲)にも一説として『輿地志略』の説「輿地志略は犬上郡川瀬荘川瀬村に在りといふ」も紹介しています。式内社「川桁神社」については、江戸期以来の考証の時点ですでに神崎郡説と犬上郡説とが紹介されていました。

【抜粋意訳】(原文)

神埼郡二座 並小

乎加神社・・・〈中略〉

川桁神社

川桁は加波氣多と古點あり

〇祭神詳ならず

〇今 犬上郡川瀬荘川瀬村に在す〔輿地志〕

現代語訳(要旨)

神埼郡(神崎郡)には2座の式内小社が記載されており、そのうち一座は「乎加神社」・・・〈中略〉

もう一座が「川桁神社」で、

「川桁」には古くから「かわけた」と訓む点(古點)があるとしながらも、祭神については詳らかでない(不明である)とし、(当時)現に犬上郡川瀬荘川瀬村に鎮座するとしている(『輿地志略』による)。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

※『神祇志料』は 式内社「川桁神社」について 萱尾村の鎮座「大瀧大明神」としており、これは論社のひとつ 現「大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)」です。
なお、当社の祭神のひとつ「天湯河桁神」は、まさにこの『神祇志料』が引く、鵠を追って天湯河桁命が近江・越国にまで至ったという『古事記』『日本書紀』の説話(前述「予備知識」参照)に由来するものです。

【抜粋意訳】(原文)

川桁神社

今 萱尾村にあり、大瀧大明神と云ふ、
〔山上縣伺書、〇按神前を流るる愛知川南淵 大岩聳立る上に、桁の如く横はれる石上を、水瀧なして落る故に、川桁の名あり、又 神崎愛知二郡田に灌く水を、湯川と云ふ、近隣 百五十餘村の田畝、皆其水利を被るを以て、民人豐熟を祈り、秋稻を神社に納むるを例とすと云り、姑附て考に備ふ、〕

盖 鳥取部連の祖 天湯河桁命を祀る、〔參取古事記、新撰姓氏錄、〕

垂仁天皇御世、皇子 譽津別命 八拳鬚胷前に至るまで、眞事とはす、高往鵠が音を聞して、始て阿藝登比し給ひき、故 湯河桁命をして、其鳥を捕しめき、故其鵠を追尋て東方に追廻りて、近淡海國に至り、遂に高志國に至て捕て献りき、即是也。〔古事記參取、日本書紀、〕

現代語訳(要旨)

川桁神社は、今は萱尾村にあり、大瀧大明神と呼ばれている。
〔『山上縣伺書』によれば、神前を流れる愛知川の南の淵に大岩がそびえ立ち、その上に桁(横木)のように横たわる石があって、水がそこを瀧のように落ちるために「川桁」の名があるという。また、神崎・愛知の二郡の田を灌漑する水を「湯川」と呼び、近隣百五十余村の田畑はみなこの水の恩恵を受けているため、村人は豊作を祈り、秋の稲を神社に納めるのを例としているという。ひとまず書き添えて考察の参考とする。〕

当社は、鳥取部連の祖である天湯河桁命を祀るものと思われる。〔『古事記』『新撰姓氏録』を参照〕垂仁天皇の御代、皇子の誉津別命は、あごひげが胸元に至る年齢(成人)になっても、まともに物を言うことができなかった。ところが空高く飛ぶ鵠(くぐい、白鳥)の鳴く声を聞いて、初めて片言を発せられた。そこで天皇は湯河桁命に命じてその鳥を捕えさせた。湯河桁命はその鵠を追いかけて東方をめぐり、近淡海国(近江国)に至り、ついに高志国(越国)にまで至ってこれを捕え、献上した。これがすなわち当社の祭神である。〔『古事記』『日本書紀』を参照〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

※『特選神名牒』は、神崎郡神田村の御河辺神社を式内社とする決め手がなく、犬上郡河瀬村説(『輿地志略』)も郡が異なるとして退け、独自に愛知郡出路村(愛知郡愛知川町大字金田)現・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)を式内社「川桁神社」の所在地に定めています。
これにより、式内社「川桁神社」の論社所在については、
・河桁御河辺神社(東近江市神田町)
・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)犬上郡川瀬荘川瀬村説(『輿地志略』『神社覈録』)
・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)犬上郡萱尾村説(『神祇志料』)
・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)愛知郡出路村説(『特選神名牒』)

と、少なくとも四つの説が紹介されています。

ただし『特選神名牒』自身も、出路村説の根拠を「祭神の名にゆかりがあるように思われる」という状況証拠にとどめており、確たる決め手とまでは述べていません。

【抜粋意訳】(原文)

川桁(カハタナノ)神社

祭神 天ノ湯河板擧(アメノユカハタナノ)命
祭日 二月二酉日

社格 村社(明細帳になし)

所在 出路村〔今属 愛智郡〕(愛知郡愛知川町大字金田)

今按 縣の注進に神田村 出路村の二所に川桁ノ神社ある由を記して 何れが是なるを詳かにせずと云り
 されど輿地志略を考ふるに神田村御川邊明神 祭神 大己貴命 愛智川の水上にますに由て御川邊ノ神社と號すとありて 式社なる事を云はず 同社由緒書にも河桁御河邊大明神と云ひ 氏子十八村あり神宮寺古より別當にてありし趣を記せれば由ある古社なるべけれど 川桁神社なるべき證なし
又 輿地志略に川桁ノ神社 犬上ノ郡河瀬村にありと云へど 郡隔れば從がたし
 さて出路村由緒書に神社古より出路村 成亥の方 字神田代(ミトシロ)と云地に鎭座あり 毎年 神輿神幸の時の祭場を本庄村イワノキと云 其南方に河田湯河添湯と云湯水あり 近郷樞要の水道なりと云る 祭神の名にも由ありて聞ゆれば此地と定めて記せり

現代語訳(要旨)

川桁神社(かはたなの)。祭神は天湯河桁命(原文は「天ノ湯河板挙命」、フリガナは「ユカハタナノ」)。祭日は2月の二の酉の日(原文「二月二酉日」)。社格は村社(ただし明細帳には記載がない)。

所在は出路村(現在は愛知郡に属し、愛知郡愛知川町大字金田にあたる)。

今考えるに、滋賀県からの注進(報告)には、神田村・出路村のいずれか2か所に川桁神社があるとしながら、どちらが正しいのか詳らかにしないとある。しかし『輿地志略』によれば、神田村の御川辺明神は祭神を大己貴命とし、愛智川の水上に鎮座することから「御川辺神社」というとあるが、これを式内社であるとは述べていない。同社の由緒書にも「河桁御河辺大明神」と称し、氏子十八村があり、神宮寺が古くから別当であった旨が記されているので、由緒ある古社ではあろうが、これが式内「川桁神社」であるという証拠はない。
また『輿地志略』には「川桁神社は犬上郡河瀬村にある」ともいうが、郡が隔たっているので従いがたい。 そこで出路村の由緒書によれば、当社は古くから出路村の亥(北西)の方角にあたる「神田代(ミトシロ)」という地に鎮座しており、毎年の神輿渡御の祭場を本庄村イワノキと称し、その南方には「河田湯・河添湯」という湯水があって近隣にとって重要な水源であるという。
祭神の名(天湯河桁命)にもゆかりがあると考えられるので、この地(出路村)をもって式内社の所在地と定めて記した。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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