河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)〈『延喜式』川桁神社〉

河瀬神社(かわせじんじゃ)は 大穴牟遅神・譽田別尊・大山咋神を祀ります 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です 『近江輿地志略』『神社覈録』は式内社 川桁神社を犬上郡川瀬村に鎮座すると伝え 江戸時代までは「川桁神社」「桁の宮」「気多大明神」とも称されていました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

河瀬神社(Kawase shrine)

【通称名(Common name)】

・江戸時代までは「川桁神社」「桁の宮」「気多大明神」と称されていた

【鎮座地 (Location) 】

滋賀県彦根市川瀬馬場町480-1

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ)〈大国主命〉
   譽田別尊(ほんだわけのみこと)〈第15代天皇・応神天皇〉
   大山咋神(おほやまくいのかみ)

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※式内「川桁神社」であれば 本来の祭神は「天湯川桁命」とする説あり

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

河瀬(カワセ)神社

御祭神

大穴牟遅神 譽田別尊 大山咋命

御由緒

創祀年代不詳。
滋賀県教育課編『神社由緒記』によると、「河瀬の荘旧領主河瀬壱岐守其孫河瀬隼人正延宝三卯年二月再興相殿二重勧請亦大破に付元治元甲子年九月氏子中再営」と記している。

明治五年正月十七日犬上郡第二十区郷社に列せられ同九年十月二十一日に北六郡郷社取り消し明治九年村社に列し、明治十四年二月一日に再び郷社に加列、明治四十一年四月二十九日神饌幣帛料供進指定となる。

境内社(摂社・末社)

五十樓波神社 八幡社 若松神社 八大神社 天寧神社 神ノ木神社 辻中神社 天満宮社 天満神社

【原文参照】滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=182

 

【由 緒 (History)】

『近江輿地志略 : 校定頭註』〈1915年〉に記される内容

式内社 川桁神社は この神社である と記しています

【抜粋意訳】

郷社 河瀬神社

祭神
 大穴牟遅神、品田別尊、大山咋神

〔川桁神社〕河瀬村にあり。【延喜式】神名帳に所謂 川桁神社 是なり。

【原文参照】

寒川辰清 編 ほか『近江輿地志略 : 校定頭註』,西濃印刷出版部,1915. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1875272

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋原文】

○滋賀縣 近江國 犬上郡河瀬村大字河瀬馬場

郷社 河瀬(カハセノ)神社

祭神 大名牟遲神 大山咋神 品陀別神

創立年代詳ならず、後小松天皇 明德三年二月十五日、在來の彌宜二家の外に大神主を置き、別當 長仙寺を建立する由 舊記に見えたれば、其以前よりの鎭座なるべし、元龜元年 領主 河瀬氏 拜殿、寶庫を改造し、供米田を寄進せらる。天正の兵亂に、本殿、拜殿を除き、其他一切烏有に歸せしを、靈元天皇 延寶三年 領主 河瀬郷慶(カハセ サトヨシ)再興す、藩主 井伊氏 亦 崇敬深く、大祭には奉行を特派し、祭事を警衞せらるゝを例とせり、
社殿は本殿、拜殿、神庫、水舎、社務所等あり、境内地千八百三十七坪(民有地第二種)、榊の古木多く繁茂し幽邃の境たり、御神體は木像なり、元治元年氏子社殿を修造し、明治五年正月 郷社に列せられ、同九年十月二十一日郷村社取消 更に村社に列し、同十三年 郷社に昇格せられたり。

例祭日 四月十六日 

會計法適用 明治四十二年九月二十八日
指定年月日 告示第四百二十一號

神饌幣帛料供進指定年月日 明治四十二年四月二十九日
告示第九十三號

氏子戸數 四百九十二戸
崇敬者員數 未詳

【現代語訳】

河瀬神社

所在地 滋賀県近江国犬上郡河瀬村大字河瀬馬場

社格 郷社 河瀬神社(かわせじんじゃ)

祭神
 大名牟遅神(おおなむちのかみ)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
品陀別神(ほんだわけのかみ)

河瀬神社の創建年代は明らかではありません。

しかし、後小松天皇の明徳3年(1392)2月15日、従来からあった禰宜二家のほかに大神主を置き、別当寺として長仙寺を建立したことが旧記に記されています。このことから、河瀬神社は少なくともそれ以前から鎮座していたものと考えられます。

元亀元年(1570)には、領主の河瀬氏が拝殿と宝庫を改造し、神前に供える米を収穫するための田を寄進しました。

その後、天正年間の戦乱によって、本殿と拝殿を除く建物などがすべて焼失しましたが、霊元天皇の延宝3年(1675)、領主の**河瀬郷慶(かわせ・さとよし)**がこれを再興しました。

彦根藩主の井伊氏も河瀬神社を深く崇敬しており、大祭の際には奉行を特別に派遣して、祭事の警護にあたらせることを恒例としていました。

境内には、本殿・拝殿・神庫・水舎・社務所などの建物がありました。境内地は1,837坪(民有地第二種)で、榊の古木が数多く生い茂り、奥深く静かな趣のある境内でした。御神体は木像です。

元治元年(1864)には氏子によって社殿が修造されました。

明治5年(1872)1月に郷社に列せられましたが、明治9年(1876)10月21日に郷社の指定を取り消され、改めて村社に列せられました。その後、明治13年(1880)に再び郷社へ昇格しました。

例祭日 4月16日

会計法適用 明治42年(1909)9月28日 告示第421号

神饌幣帛料供進指定 明治42年(1909)4月29日 告示第93号

氏子戸数 492戸
崇敬者員数 不詳

※語句について 

ここでいう「別当」は、神社に付属してその管理や祭祀に関与した寺院・僧侶を指します。「烏有に帰す」は「すっかり失われる」という意味で、この箇所では戦乱によって建物などが失われたことを表しています。

また、「神饌幣帛料供進指定」は、当時の制度において、例祭などに際して地方公共団体から神饌・幣帛に関する費用の供進を受ける神社として指定されたことを示します。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・河瀬神社 本殿

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・河瀬神社 中門

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・河瀬神社 拝殿〈神楽殿〉

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・河瀬神社 社殿

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・鳥居

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・社頭

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

滋賀県神社庁HPには 境内社(摂社・末社)として「五十樓波神社 八幡社 若松神社 八大神社 天寧神社 神ノ木神社 辻中神社 天満宮社 天満神社」が挙げられていますが 境内には見当たらなかったので 境外をみてみると 境外社(摂社・末社)として 見つかったもの〈・五十楼波神社・八幡社・若松神社・神ノ木神社・天満宮社〉がありましたので 地図にアップしました
不明だったもの〈・八大神社・天寧神社・辻中神社〈無格社 辻中神社(犬上郡川瀬村大字辻堂字辻中)〉・天満神社〉

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)神崎郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川桁神社
[ふ り が な ](かはけたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kahaketa no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『式内社調査報告 第十二巻』昭和59年に記される「式内社 川桁神社」内容

『式内社調査報告 第十二巻』には 延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社の論社としてA~Fの六社を挙げています

【原文抜粋】

【社名】

『延喜式神名考』は傍訓を「カハタナノ神社」とし、『神名帳考証』は傍訓を「カハラケタ神社」とする。
桁の字は音では「カウ」、訓では「ケタ」であるが、この訓みにしたずふと、『延喜式神名考』のカハタナとは訓みがたく、「カハケタジンジャ」と訓むべきだと考へられる。

【所在】

 川桁神社の所在は定かではなく、左記の六社が川桁神社であると傳稱されてゐる。この六社は、神崎、愛知、犬上の三郡にわたって散在してゐる。

Aの神社は、河桁御河邊神社と稱し、神崎郡八日市市神田町(舊神崎郡御園村大字神田三八五番地 )近江鐡道八日日市驛より東北へ約二キロメートル。

Bは、大瀧神社と稱され、大上郡多賀町大字宮ノ尾(舊神崎郡郡山上村大字萓尾 )近江鐵道多賀驛より南へ約四キロメートル。

Cは、河瀬神社と稱する。彦根市南川瀬町( 舊犬上郡川瀬村南川瀬)東海道線川瀬驛より南へ一キロメートル。

Dは、小幡神社と稱し、神崎郡五箇莊町大字中 (舊神崎郡五箇莊村大字中 )近江鐵道五箇莊驛より南へ約ー・五キロメートル。 

Eは、川桁神社と稱す。彦根市甲崎町(舊愛知郡稲枝村大字甲崎)東海道線稲枝驛より北へ約三キロメートル。

Fは、河脇神社と稱して、愛知郡愛知川町大字中宿(舊愛知川町大字中宿)近江鐡道愛知川驛より北へ〇・五キロメートル。

【原文】『式内社調査報告第 巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社(かはけたの かみのやしろ)の論社

A・河桁御河辺神社(東近江市神田町)

B・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)

C・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)

D・小幡神社(東近江市五個荘中町)

E・川桁神社(彦根市甲崎町)

F・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東海道本線〔琵琶湖線〕河瀬駅から東へ約1.1km 徒歩での所要時間15~16分程度

社殿 境内 社頭は南西方向を向いています

河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)に参着

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一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて 境内へ進みます

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拝殿〈神楽殿〉にすすみます

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拝殿の奥に 中門があり 拝所となっています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして境内を戻ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

※明治3年(1870年)成立のこの『神社覈録』は、式内社「川桁神社」について「祭神は不明」としたうえで、その所在地を犬上郡川瀬荘川瀬村(『輿地志略』による)としており、現・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)を論社としています。『明治神社誌料』(前掲)にも一説として『輿地志略』の説「輿地志略は犬上郡川瀬荘川瀬村に在りといふ」も紹介しています。式内社「川桁神社」については、江戸期以来の考証の時点ですでに神崎郡説と犬上郡説とが紹介されていました。

【抜粋意訳】(原文)

神埼郡二座 並小

乎加神社・・・〈中略〉

川桁神社

川桁は加波氣多と古點あり

〇祭神詳ならず

〇今 犬上郡川瀬荘川瀬村に在す〔輿地志〕

現代語訳(要旨)

神埼郡(神崎郡)には2座の式内小社が記載されており、そのうち一座は「乎加神社」・・・〈中略〉

もう一座が「川桁神社」で、

「川桁」には古くから「かわけた」と訓む点(古點)があるとしながらも、祭神については詳らかでない(不明である)とし、(当時)現に犬上郡川瀬荘川瀬村に鎮座するとしている(『輿地志略』による)。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

※『神祇志料』は 式内社「川桁神社」について 萱尾村の鎮座「大瀧大明神」としており、これは論社のひとつ 現「大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)」です。
なお、当社の祭神のひとつ「天湯河桁神」は、まさにこの『神祇志料』が引く、鵠を追って天湯河桁命が近江・越国にまで至ったという『古事記』『日本書紀』の説話(前述「予備知識」参照)に由来するものです。

【抜粋意訳】(原文)

川桁神社

今 萱尾村にあり、大瀧大明神と云ふ、
〔山上縣伺書、〇按神前を流るる愛知川南淵 大岩聳立る上に、桁の如く横はれる石上を、水瀧なして落る故に、川桁の名あり、又 神崎愛知二郡田に灌く水を、湯川と云ふ、近隣 百五十餘村の田畝、皆其水利を被るを以て、民人豐熟を祈り、秋稻を神社に納むるを例とすと云り、姑附て考に備ふ、〕

盖 鳥取部連の祖 天湯河桁命を祀る、〔參取古事記、新撰姓氏錄、〕

垂仁天皇御世、皇子 譽津別命 八拳鬚胷前に至るまで、眞事とはす、高往鵠が音を聞して、始て阿藝登比し給ひき、故 湯河桁命をして、其鳥を捕しめき、故其鵠を追尋て東方に追廻りて、近淡海國に至り、遂に高志國に至て捕て献りき、即是也。〔古事記參取、日本書紀、〕

現代語訳(要旨)

川桁神社は、今は萱尾村にあり、大瀧大明神と呼ばれている。
〔『山上縣伺書』によれば、神前を流れる愛知川の南の淵に大岩がそびえ立ち、その上に桁(横木)のように横たわる石があって、水がそこを瀧のように落ちるために「川桁」の名があるという。また、神崎・愛知の二郡の田を灌漑する水を「湯川」と呼び、近隣百五十余村の田畑はみなこの水の恩恵を受けているため、村人は豊作を祈り、秋の稲を神社に納めるのを例としているという。ひとまず書き添えて考察の参考とする。〕

当社は、鳥取部連の祖である天湯河桁命を祀るものと思われる。〔『古事記』『新撰姓氏録』を参照〕垂仁天皇の御代、皇子の誉津別命は、あごひげが胸元に至る年齢(成人)になっても、まともに物を言うことができなかった。ところが空高く飛ぶ鵠(くぐい、白鳥)の鳴く声を聞いて、初めて片言を発せられた。そこで天皇は湯河桁命に命じてその鳥を捕えさせた。湯河桁命はその鵠を追いかけて東方をめぐり、近淡海国(近江国)に至り、ついに高志国(越国)にまで至ってこれを捕え、献上した。これがすなわち当社の祭神である。〔『古事記』『日本書紀』を参照〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

※『特選神名牒』は、神崎郡神田村の御河辺神社を式内社とする決め手がなく、犬上郡河瀬村説(『輿地志略』)も郡が異なるとして退け、独自に愛知郡出路村(愛知郡愛知川町大字金田)現・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)を式内社「川桁神社」の所在地に定めています。
これにより、式内社「川桁神社」の論社所在については、
・河桁御河辺神社(東近江市神田町)
・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)犬上郡川瀬荘川瀬村説(『輿地志略』『神社覈録』)
・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)犬上郡萱尾村説(『神祇志料』)
・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)愛知郡出路村説(『特選神名牒』)

と、少なくとも四つの説が紹介されています。

ただし『特選神名牒』自身も、出路村説の根拠を「祭神の名にゆかりがあるように思われる」という状況証拠にとどめており、確たる決め手とまでは述べていません。

【抜粋意訳】(原文)

川桁(カハタナノ)神社

祭神 天ノ湯河板擧(アメノユカハタナノ)命
祭日 二月二酉日

社格 村社(明細帳になし)

所在 出路村〔今属 愛智郡〕(愛知郡愛知川町大字金田)

今按 縣の注進に神田村 出路村の二所に川桁ノ神社ある由を記して 何れが是なるを詳かにせずと云り
 されど輿地志略を考ふるに神田村御川邊明神 祭神 大己貴命 愛智川の水上にますに由て御川邊ノ神社と號すとありて 式社なる事を云はず 同社由緒書にも河桁御河邊大明神と云ひ 氏子十八村あり神宮寺古より別當にてありし趣を記せれば由ある古社なるべけれど 川桁神社なるべき證なし
又 輿地志略に川桁ノ神社 犬上ノ郡河瀬村にありと云へど 郡隔れば從がたし
 さて出路村由緒書に神社古より出路村 成亥の方 字神田代(ミトシロ)と云地に鎭座あり 毎年 神輿神幸の時の祭場を本庄村イワノキと云 其南方に河田湯河添湯と云湯水あり 近郷樞要の水道なりと云る 祭神の名にも由ありて聞ゆれば此地と定めて記せり

現代語訳(要旨)

川桁神社(かはたなの)。祭神は天湯河桁命(原文は「天ノ湯河板挙命」、フリガナは「ユカハタナノ」)。祭日は2月の二の酉の日(原文「二月二酉日」)。社格は村社(ただし明細帳には記載がない)。

所在は出路村(現在は愛知郡に属し、愛知郡愛知川町大字金田にあたる)。

今考えるに、滋賀県からの注進(報告)には、神田村・出路村のいずれか2か所に川桁神社があるとしながら、どちらが正しいのか詳らかにしないとある。しかし『輿地志略』によれば、神田村の御川辺明神は祭神を大己貴命とし、愛智川の水上に鎮座することから「御川辺神社」というとあるが、これを式内社であるとは述べていない。同社の由緒書にも「河桁御河辺大明神」と称し、氏子十八村があり、神宮寺が古くから別当であった旨が記されているので、由緒ある古社ではあろうが、これが式内「川桁神社」であるという証拠はない。
また『輿地志略』には「川桁神社は犬上郡河瀬村にある」ともいうが、郡が隔たっているので従いがたい。 そこで出路村の由緒書によれば、当社は古くから出路村の亥(北西)の方角にあたる「神田代(ミトシロ)」という地に鎮座しており、毎年の神輿渡御の祭場を本庄村イワノキと称し、その南方には「河田湯・河添湯」という湯水があって近隣にとって重要な水源であるという。
祭神の名(天湯河桁命)にもゆかりがあると考えられるので、この地(出路村)をもって式内社の所在地と定めて記した。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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