諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)〈『延喜式』中山神社〉

諏訪神社(すわじんじゃ)は 岐阜県美濃加茂市下米田町に鎮座 延喜5年(905)「中山社」として創祀 延喜式内社 美濃国賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の後身と伝わります 戦国時代の兵火で焼失後 同じ場所で再建したと伝わり 信州諏訪明神を勧請して諏訪社と称し 現社名に改めたと云う 明治6年郷社に列せられました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

諏訪神社(Suwa shrine)

【通称名(Common name)】

【鎮座地 (Location) 】

岐阜県美濃加茂市下米田町山本入会地5番地

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》建御名方命(たけみなかたのかみ/大国主神の御子神)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・戦中は軍神として、平時には五穀豊穣の神として崇敬されてきた
〈境内の由来碑に記載あり〉

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

・ 明治6年(1873年)郷社 のち銀幣社 昭和56年(1981年)金幣社(岐阜県神社庁の社格)に列せられました

【創 建 (Beginning of history)】

境内「諏訪神社の由来碑」に刻まれた由緒

【抜粋(原文のまま)】

諏訪神社の由来碑

鎮座地美濃加茂市下米田町山本、入会地五番地

御祭神

 建御名方神(大国主神の御子神)

 八坂刀売命(妃神、下諏訪社に祀る)

御祭神は戦中軍神として平時には五穀豊饒の神として崇敬されてきた。
本社は醍醐天皇の延喜五年(905年)式内社として中山社と称されていた。
永禄年間火災に遭い同十二年(1560年)福島城主肥田長寿丸、神主山田左近右衛門が再建した。此の時信州より諏訪明神を迎え 併せ祀り是より諏訪神社と称し奉る。
明治六年郷社となり戦後間もなく銀幣社に、昭和五十六年金幣社となる。

氏子は上飯田、下飯田、福島、山本、東栃井を北方、為岡、信友、西脇、則光、今を南方として十ヶ町村に及ぶ。祭は元、四月六日七日、山車に囃子方を乗せ賑やかに曳く、別に下飯田区が獅子と拝翁、山本区が相撲を奉納する。
祭り囃子は市の民族無形文化財である。

 ※永禄12年は西暦1569年ですが 碑文には「(1560)」と表記されていて ずれがありますが、原文のまま紹介しています。

【原文参照】 境内建立「諏訪神社の由来碑」

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【現代語訳(要旨)】

鎮座地は美濃加茂市下米田町山本、入会地五番地。御祭神は建御名方神(大国主神の御子神)と八坂刀売命(妃神、下諏訪社に祀られる)で、戦時には軍神として、平時には五穀豊穣の神として崇敬されてきました。当社はもと醍醐天皇の延喜5年(905年)に式内社「中山社」として創祀されたと伝わります。永禄年間の火災に遭い、(碑文の年代表記のままに記すと)同12年(1560年)、福島城主・肥田長寿丸と神主・山田左近右衛門によって再建されました。この時、信州から諏訪明神を迎え、あわせて祀ったことから、以後「諏訪神社」と称するようになりました。明治6年に郷社となり、戦後まもなく銀幣社に、昭和56年に金幣社となりました。氏子域は、上飯田・下飯田・福島・山本・東栃井を北方、為岡・信友・西脇・則光・今を南方とする十ヶ町村に及びます。祭りはもと4月6日・7日に行われ、山車に囃子方を乗せて賑やかに曳き、下飯田区が獅子と拝翁を、山本区が相撲を、それぞれ奉納してきました。この祭り囃子は市の無形民俗文化財に指定されています(碑文の表記は「民族無形文化財」)。

【由 緒 (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

諏訪神社の由緒については、明治神社誌料編纂所編『明治神社誌料 府県郷社 中』(明治45年〔1912年〕刊、国立国会図書館デジタルコレクション所収)に、「岐阜県美濃国加茂郡下米田村大字山本 郷社 諏訪神社」の項としてまとまった記載があります

【抜粋意訳】

〇岐阜縣 美濃國 加茂郡下米田村大字山本

郷社 諏訪(スハノ)神社

祭神 建御名方(タケミナカタノ)命

創建年代詳ならず、社傳によれば、舊名古屋藩式社取調書に「中山神社、加茂郡米田郷十ケ村入會の地、字中山と云所に諏訪大明神と称する社あり、是ならん歟、按ずるに諏訪神社は米田十村の産土神にして、往昔より土民 中山神社と云傳へ、古くは今の地より丑寅の方、水上と呼ぷ地に在りしを、焼亡して永禄年間 今の地に遷座し、信州諏訪神社を配せ享り、夫より村民 諏訪社と稱し奉るとなむ、是によりて考ふれば、此社 中山社かとも思はるれど、信友村の支村 中山と云地に天神社ありて、是ならんかと云ふ説あれば、今容易に定めまつらんこと難し」とありと云ひ、尚 神輿内の銅製幣帛の面には、中山神諏訪大明神と二行に彫鎸(ちょうせん)し。他の木札の面には、從三位中山天神と記し、額面には中山神社と肩書して、中央に諏訪宮とあり、また吉田家 玉田主計の著はせる舊名古屋社寺帳に、「加茂郡下飯田村字 中山諏訪大明神一社、同村社人山田信濃扣 境内山林之内(東西八十間 南北六十間)祭禮場(長八十間 巾十二間)袖島村、上飯田村、下飯田村、信友村、朽井村、西脇村、今村、山本村、為岡村、則光村、右十ケ村と」あるが故に、之を式内 中山社に引付けんとするが如くなれども、右に擧げたるのみにては、未だ確證とするに足らざるが如し、尚考ふべし、古来 本社の祭禮には氏子等車楽を出し、観者また遠近より堵の如く群集し、其殷賑なること近村稀に見る所にして、里俗これを米田祭と云ふ由、今尚行はるるや否や、明治六年二月郷社に列せらる。

社殿は本殿、拝殿の二宇を備へ、外に社務所あり、境内坪数四千三百坪(官有地第一種)あり、寶物は神剱二口(一は長三尺六寸七分、一は長三尺三寸、何れも無銘にして永禄年間火災に罹りしを以て焼身となる)其他数種あり。

境内神社 下諏訪(シモスハノ)神社

例祭日  八月二十七日

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料には、注目すべき記載が三点あります。

第一に、当時すでに「信友村の支村・中山にある天神社」を中山社の候補の一つとして挙げ、判断を保留していたことです。この天神社は、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)にあたります。

第二に、当社の神輿の幣帛や木札・額に「中山神」「中山天神」「中山神社」「諏訪宮」の文字が併記されており、当社が「中山」と「諏訪」二つの社号を伝えてきた物証となっています。

第三に、『名古屋社寺帳』という別史料に、下飯田村字中山の「諏訪大明神一社」が十ヶ村にかかわる社と記されていますが、この十ヶ村の顔ぶれは由来碑の氏子十ヶ町村と少し異なります。史料自身も「確証にはならない」としており、比定の難しさがうかがえます。

祭礼は古来「米田祭」とも呼ばれ、氏子が山車を出して賑わったとされ、郷社への列格は明治6年2月と記されています。境内には本殿・拝殿と社務所があり、境内坪数は四千三百坪、宝物として永禄年間の火災で焼身となった神剣二口が伝わっていたこともわかります。境内神社「下諏訪神社」・例祭日8月27日という記載は、由来碑にある妃神・八坂刀売命の「下諏訪社に祀る」という記述と対応しています。なお、明治期の例祭日は8月27日とありますが、現在の例大祭は4月に行われています。

境内の由来碑によれば、当社はもと醍醐天皇の延喜5年(905年)に「中山社」として創祀され、式内社「中山神社」にあたる社であったと伝えられています。永禄年間の兵火で焼失した後、碑文にいう「福島城主・肥田長寿丸」と「神主・山田左近右衛門」が再建し、その際に信州から諏訪明神を迎えて社名を「諏訪神社」と改めたとされます。碑文の再建年「同十二年(1560年)」は、永禄12年(西暦1569年)とは1年ずれています(この点は後述する『式内社調査報告』との対照とあわせてご覧ください)。明治以降は、明治6年郷社、戦後まもなく銀幣社、昭和56年(1981年)に金幣社という岐阜県神社庁独自の社格に列せられています。

『式内社調査報告 第十三巻』〈昭和59年(1984年)刊、式内社研究会編〉に記される「中山神社」の由緒

この史料が伝える再建者「肥田長寿丸」・再建年「永禄十二年己巳(1569年)」は、境内の由来碑が伝える「福島城主・肥田長寿丸」による永禄年間の再建と対応しますが、細部には違いも見られます。由来碑は再建時の神主を「山田左近右衛門」、肥田長寿丸を「福島城主」としますが、この史料は神主家を「山田右近右衛門」家、肥田長寿丸を福島村在住で兼山城主・肥田玄蕃の弟とします。また、この史料が伝える「毛利勘右衛門の圧政と討伐祈願」という由緒は、由来碑にも神祇志料・特選神名牒・明治神社誌料にも見られない独自の内容です。

【抜粋(原文のまま)】

【由緒】

 美濃國神名帳には従三位中山大神とすることを前述の通りで、『美濃國加茂郡誌』には明治六年二月米田郷十三ヶ村の郷社に定められ、同十二月兼ねて第十大區五小區の郷社となつたが、翌年十二月廢せられたと記してゐる。又、明治四十年三月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定された。

 創祀年代は不詳であるが、神職山田家には明治三十九年八月六日附の氏子總代及び社司連署の『郷社延喜式內の有無、創立年代由緒ノ取調書』が保存されてゐる。これは同年七月二十三日附甲第一、〇七七號によつて照會されたものに對する回答で、當時の下米田村村長馬場兼太郎宛であるが、かなり詳しく由緒が記されてゐる。明細帳に記されてゐない内容が多いので、以下その概略を記さう。

 

 諏訪明神は往古、下飯田村内水上といふところに僅かな祠としてあつたが、丁度その頃、西脇村に郷士毛利勘右衛門といふ大惡の地頭がゐて、諸事恣に取扱ひ、我が意に叶はざる庄屋百姓等は、頭に油をかけ松明で焼く等の残酷無道の責をもつて死に至らせ、庶民の難澁は言語に絕するものがあつた。そこで下飯田・上飯田・福島・山本・信友・今・西脇・則光・爲岡・東栃井等 十ヶ村の住民が擧つて諏訪神社へ、毛利勘右衛門を亡ぼし給はば 右十ヶ村の惣氏神として奉齋する旨 專心祈願をしたところ、その御神力にて勘右衛門は忽ち公儀の刑罰を受け、同人が使用してゐた劍は神社に奉納されることになつた。米田庄 十ヶ村の惣氏神とされた所以は ここにあつて、神社も水上より十ヶ村の惣入會野に遷され、下飯田村の山田右近右衛門家が神主として奉齋することになつた。

 然し、永祿年間火災によつて舊記 寶物類すべて燒失し、その頃までの年暦も不明となつてしまつたが、僅かに勘右衛門誅伐の折奉納した劍のみ燒身として殘つた。その後 隣村 福島村 加茂山城主 肥田玄蕃の弟で今村に住む肥田長壽丸が、永祿十二年己巳(一五六九)九月二十四日に再建したとの棟札が神主山田家に殘つてゐる。肥田玄蕃は可兒郡兼山村中井戸之庄鳥加城城主 森武藏守長一に攻められて、天正十年(一五八二)秋に落城した。

 以上が」概略で、その也祭禮のことについても記してゐるが、その點は後の祭祀の項に譲ることにしよう。さて、この由緒によれば十ヶ村の總氏神となる前の中山神社は「水上ミと云所ニわすかのほこら壹社」と記されてゐて、美濃國神名帳に從三位中山大神とあるのと餘りにも似つかはしくない感じがする。事實とすれば或は式內撰定以後の一時的衰微を示すものであらうか。肥田長壽丸再建の棟札は現存してゐて、而も既に「諏訪大明神」と記されてゐるので、もうこの頃には信州の諏訪明神を合祀してゐて、再び武將や庶民の崇敬を集めたのであらう。又、神佛習合の事實は棟札にも窺ひ知ることはできるが、神主山田家の系圖には「靈璽」と共に「居士」の稱號が同一人物に記されてゐて一層明瞭である。然し その實態は明らかではない。

 尚、前掲『取調書』には基本財産として、境內の山林以外に「加茂郡下米田村大字山本地內字コタ山四百番 一、山林貳段參畝貳拾貳歩、地価壹圓六拾壹錢」「加茂郡上米田村大字下飯田地內字諏訪坂 一、田壹畝貳拾六歩 地価参圓参拾六錢」と記されてゐる。寄進者については明らかでないが、山林は現存してゐる。

【現代語訳(要旨)

 諏訪明神はもともと下飯田村内「水上」という所にわずかな祠として鎮座していましたが、当時西脇村にいた郷士・毛利勘右衛門という地頭が、意に沿わない庄屋・百姓を頭に油をかけ松明で焼くなどの残酷な仕打ちで死に至らしめており、庶民の苦しみは言葉に尽くせないほどであったといいます。そこで下飯田・上飯田・福島・山本・信友・今・西脇・則光・為岡・東栃井の十ヶ村の住民がこぞって諏訪神社に、毛利勘右衛門を滅ぼしてくださるなら十ヶ村の惣氏神として奉斎する、と一心に祈願したところ、神威によって勘右衛門はたちまち公儀の刑罰を受け、彼が使っていた剣が神社に奉納されることになりました。

米田庄十ヶ村の惣氏神とされたのはこれが由来で、神社も「水上」から入会野へ遷され、下飯田村の山田右近右衛門家が神主として奉斎することになったと伝えます。その後、永禄年間の火災で旧記・宝物類はすべて焼失しましたが、勘右衛門誅伐の際に奉納された剣だけが焼身となって残りました。

隣村・福島村の加茂山城主・肥田玄蕃の弟で今村に住んでいた肥田長寿丸が、永禄12年己巳(1569年)9月24日に再建したとの棟札が、神主・山田家に残っているといいます。同書は、十ヶ村の惣氏神とされる以前の中山神社が「わずかな祠一社」であったことと、美濃国神名帳の「従三位中山大神」という格式との落差を指摘し、式内社選定後の一時的な衰微を示すのではないかと考察しています。

【原文】『式内社調査報告第13巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

このように、
①神祇志料・特選神名牒(いずれも1876年、中山神社=中山天神は信友村にあり、これは中山神社(美濃加茂市下米田町信友)にあたる)、
②明治神社誌料が引く「旧名古屋藩式社収調書」(もとは丑寅の水上の地にあった中山神社が、焼亡して現在地に遷座)、
③境内の由来碑(当地そのものが延喜5年創祀の中山社である)、
④式内社調査報告(毛利勘右衛門の圧政とその討伐祈願をきっかけに、水上の小祠が入会野に遷り十ヶ村の惣氏神となったとする、独自の由緒)という、
少なくとも4通りの由緒・比定が伝わっており、鎮座地の連続性についての説明が資料ごとに異なっています。どちらが史実に近いかを断定する材料は今回そろわなかったため、本記事では諸説を併記するにとどめます。

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

私が参拝した折の境内の様子を、項目ごとにご紹介します。本殿・拝殿の建築様式や規模については、後述の『式内社調査報告』の記載から判明した点は記すようにします。

・ 諏訪神社 本殿

拝殿の奥、石垣の上に組まれた高い木造の基壇には本殿が据えられています。桁行の妻側には反り返った起り屋根が架けられ、頂部には社紋のような飾りが見られます。

『明治神社誌料』(1912年刊)が伝える社殿構成や宝物(神剣二口)などの詳細は、【由緒】の項でご紹介した通りです。式内社研究会編『式内社調査報告 第十三巻』(皇學館大学出版部、昭和59年〔1984年〕刊)が伝える棟札のうち最古の年「永祿十二年(1569年)」は、境内の由来碑や同書の由緒部分が伝える再建年(永禄12年己巳)と一致しており、社殿の記録の上でも裏付けとなっています。現存する社殿がこの棟札のうちどの年代の造営にあたるかは確認できていません。また、神剣二口は明治期には焼身のまま伝えられていたことが記録から分かりますが、現在も境内に保管されているかどうかまでは確認できていません。

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本殿の側面には彫刻を施した木鼻や組物が配され、壁面には、馬のような顔立ちと、甲羅のような文様のある背を持つ生き物が、波間を跳ねる姿を彫った板がはめ込まれています。中国の伝説に「体は馬、牛の四肢と尾を持ち、背に亀の甲羅、額に角を持つ」と伝わる幻獣「犀(水犀)」の姿とよく似ており、この彫刻もそれを表したものとみられます。社寺建築では、水に関わる意匠が火除けの願いを込めて用いられる例(懸魚など)が知られていますが、この彫刻についてその意図までは確認できていません。その脇には格子状の窓があり、本殿に向かって右手には瓦葺きの幣殿が屋根続きに接続しています。

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・ 諏訪神社 幣殿

幣殿は石垣で囲まれた一段低い敷地に建ち、四方が開放された造りで、柱には筋交い状の木材が渡されています。屋根の棟には鴟尾状の飾りが見られます。周囲は杉などの木々に囲まれ、紅葉した広葉樹も背景に見られます。本殿に向かって左脇には境内社・下諏訪神社が鎮座しており、詳細は次の項でご紹介します。

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・〈境内社〉下諏訪神社《主》八坂刀賣命

本殿に向かって左脇、石垣で囲まれた一角には小さな社殿があります。切妻の屋根を架けた木造の小祠で、しめ縄と紙垂が掛けられています。これが、由緒の項でもご紹介した「下諏訪神社」(由来碑にいう「下諏訪社」)にあたります。

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・ 諏訪神社 拝殿

参道を進んだ正面には拝殿があります。切妻造・瓦葺きの建物で、しめ縄と紙垂が渡されています。壁面は格子戸になっており、破風には彫刻が施されています。『式内社調査報告』によれば、拝殿は幣殿と同じ木造瓦葺きの様式で、間口・奥行とも五間(25坪)の規模と記録されています。

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・ 拝殿の扁額

拝殿の軒下には「金幣社 諏訪神社」と記された扁額が掲げられています。この扁額は、由来碑にある「金幣社」の社格を現地でも確認できる物証といえます。

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・ 狛犬(拝殿前)

拝殿の入口の左右には、阿吽一対の狛犬が控えています。渦を巻くようなたてがみを彫り込んだ石造で、全体に苔や地衣類が付いています。

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・ 社務所(拝殿横)

拝殿の脇には、社務所と見られる横長の建物が接しています。白漆喰の外壁に下見板張りの腰壁を持ち、瓦葺きの大きな屋根を架けた造りで、正面には注連縄を掛けた小さな庇付きの入口があり、雨戸で仕切られた窓が並んでいます。前庭には玉砂利が敷かれ、石灯籠も置かれています。『式内社調査報告』によれば、社務所は間口四間・奥行三間(12坪)の規模で、明治43年(1910年)に改築されたと記録されています。

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・ 手水舎(つがいの丹頂鶴の置物)

参道の途中には手水舎があり、屋根を支える柱にしめ縄と紙垂が渡され、玉石を敷いた一角に据えられた石造の水盤に、竹製の柄杓掛けと水口が設けられています。水盤の両脇には、一対の鶴(丹頂鶴を模したもの)の置物が向き合うように配されています。手水舎は、「禊(みそぎ)」の作法を簡略化した施設です。本来、参拝者は参拝前に清流で身を清めていました。清らかな水辺に生きる鶴は、古来「鶴は千年、亀は万年」とされる長寿の吉祥でもあり、この一対の鶴にも、身を清めるとともに無病息災・延命長寿を祈る意味合いが込められているのであろうと思われます。

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・ 鳥居

社殿へ向かう石段の上には、石造の鳥居が建っています。柱間にはしめ縄が渡され、紙垂と紙の御幣が下げられています。笠木・貫とも反りのない直線的な形で、『式内社調査報告』が伝える「石造神明型」の様子と一致します(造立年の大正4年〔1915年〕を示す刻銘は確認できていません)。鳥居の左右には石灯籠が配され、鳥居の柱の下脇には美濃加茂市指定文化財を示す標柱が2本「諏訪神社の大杉」(天然記念物)、「米田の祭りばやし」(無形民俗文化財)が立てられています。

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・ 社頭(大杉・社号標・土俵)

石段の下、鳥居のかたわらには、ひときわ太い幹を持つ杉の大木がそびえています。美濃加茂市指定天然記念物「諏訪神社の大杉」の標柱がこの木のすぐそばに立っており、この杉がその指定木にあたります。石段の脇には「金幣社 諏訪神社」と刻まれた石造の社号標も建てられています。また、境内の一角には土俵があります。土俵の四隅には四本柱が立てられ、切妻屋根が架けられています。祭礼時には盛り砂が施されて使われている様子がGoogleマップ上の写真で確認できます。由来碑にある「山本区が相撲を奉納する」という記述の土俵にあたります。

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・ 由来碑と大杉・参道

石垣を背にした一角に「諏訪神社の由来碑」が据えられ、参道は石段になっており、手すりが設けられています。

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・ 〈境内社〉社名不詳の2祠

社殿の西側、奥まった一角にも境内社が2祠あります。一つは石垣を積んだ高い基壇の上に建つ、千木・鰹木を備えた社殿ですが、社名・御祭神とも確認できていません。その向かって左脇にはより小さな祠があり、狐の像が納められており、稲荷神系の祠であることはわかりますが、社名や御祭神は確認できていません。

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・ 境内参道

社頭の鳥居に至るまでには、桜の木々に縁取られた広い参道が続いています。道の左手には枝を大きく広げた桜の木が、道沿いにも葉を落とした桜並木が連なっています(2022年11月12日撮影のため落葉した姿です)。奥にはひときわ高くそびえる社頭の巨杉と、境内背後の森を背景に、白壁の倉庫や木造の建物が点在しており、境内が広大な敷地にわたっていることがうかがえます。

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

 

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃國 39座(大1座・小38座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 9座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 中山神社
[ふ り が な ](なかやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakayama no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 美濃國賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社

式内社「中山神社」をめぐっては、当社が後身とも、あるいは論社とされる他の神社が存在します。延喜式内社「美濃國賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)」の論社は、次の3社です。

・諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)※当記事でご紹介している神社です。
URL: https://shrineheritager.com/suwa-shrine-4/

・中山神社(美濃加茂市下米田町信友)
URL: https://shrineheritager.com/nakayama-shrine-4/

現在も「中山神社」の名を伝える神社で、当記事の主題(下米田町山本の諏訪神社)とは別の神社ですのでご注意ください。江戸時代には「天神社」とも呼ばれていたと伝わります。

・天神社(美濃加茂市下米田町西脇)
URL: https://shrineheritager.com/tenjinsha-3/

下米田町西脇に鎮座する天神社も、中山神社の論社の一つとして挙げられています。

三社三様の伝承が並び立つ中で、当社の由来碑は「延喜5年(905年)創祀の中山社が、そのまま同じ場所で諏訪神社になった」という、鎮座地の連続性をはっきりと主張している点が特徴的です。

式内社「中山神社」の論社問題は、江戸末期から明治にかけての史料にはすでに扱われています

明治3年(1870年)成立の『神社覈録』は、中山神社について「考証によれば中山祇、国帳には仲山明神と云う」という短い注記を載せるのみで、比定地には触れていません。

ところが明治9年(1876年)に成立した『神祇志料』と『特選神名牒』は、いずれも中山神社を米田庄信友村にあると記し、「中山天神」と称すると伝えています(これは 中山神社(美濃加茂市下米田町信友)にあたります)。

特選神名牒はさらに、信友という地名が鍛冶職人の伝承に由来するとし、祭神を金山毘古命(同社の御祭神・金山彦命の異表記)ではないかとする説も紹介しています。

そして明治45年(1912年)刊『明治神社誌料』は、「この諏訪神社こそ式内・中山社ではないか」としつつも、「信友村の支村・中山という土地にある天神社こそがそれではないか、という説もあり、今にわかには定めがたい」と、両論を併記して判断を留保しました。ここに云う天神社(「信友村天神一社」「中山天神」とも呼ばれた)も、同じく中山神社(美濃加茂市下米田町信友)です。

一世紀半近く前から続く比定の難しさが、そのまま現在まで持ち越されている格好です。加えて明治神社誌料には、当社の神輿に納められた銅製幣帛に「中山神」「諏訪大明神」の二行が彫られ、木札には「従三位中山天神」、額には「中山神社」を肩書きとして中央に「諏訪宮」と記されていた、という記録も残されており、当社自身が「中山」と「諏訪」という二つの社号を重ねて伝えてきた痕跡がうかがえます。

また、当社が勧請したと伝わる信濃国一之宮・諏訪大社(『延喜式』神名帳所載の名神大社「南方刀美神社二座」に比定)については、以下の記事で詳しくご紹介しています。あわせてご覧ください。

・諏訪大社 上社 本宮(諏訪市)《主》建御名方神

URL: https://shrineheritager.com/suwataisha-kaminoyashiro-honmiya/

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR高山本線 古井駅から北東方向へ約4.7km 車での所要時間8~10分程度

古井駅から東へ飛騨川を渡り 県道64号を北上してから 下米田町山本の集落方向へと右折(東へ)すすむと 参道の入口があります
「式内社 金幣社 諏訪神社」の社号標があります

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坂道を上がって行くと溜池があります

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さらに上がって行くと 神社への分岐路があり「金幣社 諏訪神社」の社号標が建てられています

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神社の広い境内参道に出ます

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諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)に参着

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太い幹を持つ杉の大木 美濃加茂市指定天然記念物「諏訪神社の大杉」がそびえ 石段の脇には「金幣社 諏訪神社」と刻まれた石造の社号標も建てられ 境内の手前には土俵があります

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石段の上には 鳥居が建ち 玉垣に囲まれた神域があります

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鳥居をくぐり抜けると すぐ右手には「手水舎」正面には「拝殿」拝殿の向かって左に「社務所」が建てられています

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「手水舎」には 一対の丹頂鶴の置物があります

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拝殿にすすみます

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拝殿に掲げられた扁額には「金幣社 諏訪神社」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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大きな拝殿の奥には 幣殿 本殿がありますので 拝殿の脇を抜けて行きます
本殿 幣殿の脇には〈境内社〉下諏訪神社が祀られています

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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鳥居の先には美濃加茂市指定天然記念物「諏訪神社の大杉」があります

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先程には気が付きませんでしたが 戻る際に 境内の社殿の西側 奥まった一角にも境内社が2祠ありました

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

祭神・位階・類社などについての具体的な記載はなく、鈴鹿連胤の考証段階では、この社がどの現存社にあたるかを特定するには至っていなかったことがうかがえます。

【抜粋(原文のまま)】

中山神社

考證、云中山祇、國帳云、仲山明神

【現代語訳(要旨)】

式内社「中山神社」について、考証によれば「中山祇」と呼ぶとされ、美濃国内神名帳(国帳)には「仲山明神」と記されている、という短い注記のみが載せられています。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

※神社覈録(1870年)は比定地を明示していませんが、神祇志料(1876年)は中山神社の所在地を信友村と明記しています。
後の明治神社誌料(1912年)も、信友村の支村・中山にある天神社を式内「中山社」の候補の一つとして挙げています。
これは、当社(諏訪神社)の由来碑が伝える「当地こそが中山社である」という由緒とは異なる比定であり、資料によって見解が分かれていることを示す一次資料です。

なお、ここに云う信友村の中山神社(中山天神)は、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)です。

【抜粋(原文のまま)】

中山(ナカヤマノ)神社、

今 米田庄中山郷信友村に在り、中山天神と云ふ、『尾張藩申出書』

【現代語訳(要旨)】

中山神社は、現在の米田庄中山郷信友村(現在の美濃加茂市下米田町信友にあたる)にあり、「中山天神」と呼ばれている、としています。この記述は『尾張藩申出書』という史料に拠るものと注記されています。

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

神祇志料には「尾張藩申出書」、特選神名牒には「旧尾張藩神社取調帳」という、いずれも尾張藩に由来する書名が典拠として挙げられていますが、両者が同一の史料を指すかどうかは確認できていません。

なお、ここに云う中山神社は、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)であり、「金山毘古命」はその御祭神「金山彦命」の異表記です。

【抜粋(原文のまま・試読)】

中山(ナカヤマノ)神社

祭神
祭日
社格

所在

 今按、舊今尾張藩神社取調帳に、米田ノ庄信友村にあり、中山天神と稱す、東は和知村中山の郷、西は信友村中山の郷にして 其中間にあり、里老の口碑に、古へ中山邨と稱し 中世 紀村となりしとき 東郷は和知に属して和知中山と云ひ 西の郷を信友邑に属して信友中山と云と云り、又、昔一人の鍛工あり、信友と云 中山金神に誓ひて 太刀を鍛ふの精妙を得たり 仍て村名とすと云り、もしくは祭神 金山毘古命ならんと云る由ありて聞ゆれば 此と定めて記せり

【現代語訳(要旨)】

中山神社は、旧尾張藩神社取調帳によれば米田庄信友村にあり、「中山天神」と称する。
もとは東を和知村中山の郷、西を信友村中山の郷とする、その中間にあった。古老の言い伝えによれば、古くは「中山邨」と呼ばれていたが、中世に村が分かれた際、東郷は和知に属して「和知中山」と呼ばれ、西郷は信友邑に属して「信友中山」と呼ばれるようになったという。

 また、昔ひとりの鍛冶職人がおり、信友という人物が「中山金神」に誓いを立てて太刀を鍛え、その技を極めたことから、これを村名にしたとも伝える。あるいは、祭神は金山毘古命ではないかという説が聞こえることから、それをもってここに定めて記す、としています。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

※碑文の年代表記「同十二年(1560年)」については、永禄12年は西暦1569年にあたるため、年と西暦の対応にずれが見られます。原文の記載をそのままご紹介していますが、前掲の『式内社調査報告』は同じ再建を「永禄十二年己巳(1569年)」と記しており、干支の「己巳」も1569年と一致することから、1569年が正しく、碑文の「(1560年)」は誤記の可能性があります。

『式内社調査報告 第十三巻』(昭和59年〔1984年〕刊、式内社研究会編)に記される、より詳しい由緒については、上記【由緒】の項でご紹介した通りです

諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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