神津嶽本宮(かみつだけほんぐう)は 枚岡神社 創祀の斎場であり 太古の聖地です 神武天皇の即位 三年前 勅命を奉じて天種子命が 天児屋根命・比売御神の二神を霊地・神津嶽に祀り創建されました その後 白雉元年(六五〇)神津嶽の霊地より現社地〈枚岡神社〉に社殿を造営〈中臣氏の平岡進等により〉奉遷しました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神津嶽本宮(Kamitsudaka Hongu)〈枚岡神社 創祀の地〉
[通称名(Common name)]
神津嶽(かみつだけ)
【鎮座地 (Location) 】
大阪府東大阪市出雲井町7-16
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天児屋根大神(あめのこやねのおほかみ)
比賣大神(ひめのおほかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の元宮
【創 建 (Beginning of history)】
此処は枚岡神社創祀の地なり その昔 神武天皇御東征の砌 浪速から大和に進み給はむとす その時 天種子命 勅命を奉じ生駒山西方の霊地 神津嶽の頂上に一大磐境を設け 国土平定祈願のため天児屋根大神 比売大神の二神を奉祀す ときに神武天皇 即位紀元前三年 即ち枚岡神社の起源なり その後 孝徳天皇 白雉元年 神津嶽の霊地より現社地に社殿を造り奉遷す
現地由緒石碑より
【由 緒 (History)】
元宮 神津嶽(かみつだけ)
初代 神式天皇が大和の地で即位される三年前に、平国を祈願して天児屋根命・比売御神の二神がこの神津嶽に祀られました。
枚岡神社の創祀の斎場であり、太古の聖地です。
枚岡神社掲示板より
神津嶽本宮
枚岡神社創祀の地です。ここ神津嶽に一大磐境を築き、天児屋根命・比売御神を祀って国の平定が祈られました。古くは柵が設けられ禁足地でありましたが昭和56年に石碑が建てられ、平成5年に石の社殿が築かれました。
神津嶽の周りには、たくさんの古代祭祀跡と考えられる場所が存在し、太古を偲ばせるとても神聖な場所です。大阪平野を始め、瀬戸内海、淡路島をも一望できるところでもあり、枚岡大神の広大無辺なる御稜威御神徳を感じることができます。
枚岡神社HPより
http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/#kamitsu
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
現在の枚岡神社〈河内国一之宮〉は 白雉元年(六五〇)神津嶽の霊地より 遷座しました
・枚岡神社(東大阪市出雲井町)
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 平岡神四座祭
二月祭祈年祭(十一月も准じる)
〈祈年祭 年の始めの二月 穀物とくに稲作の豊穣と皇室 国家の隆盛 安泰を祈る祭儀〉
主なる諸神に農作物を奉献していることが記載されています
平岡神(河内国河内郡)には 祭神料として白米六斗四升 糧米一斗二升 大小豆各四升 稲四束等
【抜粋意訳】
巻1神祇 四時祭上 二月祭 平岡神四座祭
祭神料
五色絹(かとり)各二丈四尺、絲四絇、曝布四端、安芸木綿八斤、麻八斤、裹(つつむ)幣帛を料の交易(けうやく)の商布一段一丈七尺、明櫃二合、筥形一具、朸(あつこ)一枝、〈已上幣料、官物、神祇官所請、〉布四端、〈封物、〉白米六斗四升、糯米一斗二升、酒七斗、大小豆各四升、鮨一斗、腊四斤、烏賊、堅魚各四斤、雑盛一篭、海藻四斤、滑海藻(あらめ)二斤、生鮭一隻、塩四升、菓子一斗五升、稲四束、韓竈、由加各二具、箕一枚、埦形(ももかた)四口、叩戸(たたいへ)二口、盆四口、堝五口、酒壷二口、洗盤、片盤各四口、覆坏(をほひつき)廿口、酒盞八口、杯卅口、杓二柄、水桶二口、匏四柄、置簀四枚、食薦十二枚、籮一口、柏三俵、薪五擔、〈已上用河内国正税、〉解除料
五色絁各二尺、凡木綿三斤、麻二斤、鍬四口、交易商布二段、庸布一段、〈已上官物、神祇官所請、〉酒一斗、鮨三升、腊二升、烏賊、堅魚各四斤、海藻四斤、塩二升、稲二束、瓫三口、堝三口、缶四口、坏六口、杓二柄、水桶二口、匏二柄、食薦二枚、籮一口、黄蘗十二枚、〈已上用河内国正税、〉散祭料
五色絁各二丈、絁一疋、絲一絇四両、凡木綿二斤、麻一斤、紙廿張、曝布一端、色紙卅張、五色玉二百丸、五色木綿一百枚、〈已上神祇官所請、〉神殿装束料
五色絁各二丈四尺、絁四尺、麻二斤、綿一屯、黒葛十斤、桧榑一村、〈已上官物、神祇官所請、〉醸神酒(かもし みわ)竈神祭料〈前祭請之〉
五色絁各二尺、倭文一尺、木綿八両、鍬二口、〈已上官物、神祇官所請、〉醸神酒解除料〈前祭請之〉
五色絁各四尺、絁四丈、絲四絇、木綿、麻各二斤、庸布四段、鍬四口、黄蘗八枚、祝詞軾料布一端、〈已上官物、神祇官所請、〉白米五斗、〈用河内国正税、〉盛酒雑用料庸布一段、覆醸酒■【瓦+長】口料布五尺、〈官物、神祇官所請、〉韓竈一具、〈醸酒料、用河内国正税、〉雑色人食料
白米一斛三升二合、鮨一斗八升、腊十一斤四両、和布十一斤四両、塩一升八合、酒三斗五升、〈並用河内国正税、〉斎服料
物忌一人装束、絹四疋九尺、夾纐絁三丈五尺、綿三屯六両、錦九尺五寸、紗七尺、紅花一斤三両、攴子五升、錦鞋一両、紫絲四両、韓櫛二枚、神主一人当色一具、装束料絹二疋、細布二端、綿二屯、布二端、〈神祇官人一人料准此〉軾料絹二疋、絲三絇、布二端、弾琴(みことひき)一人装束料絹一疋三丈、綿三屯、庸布二段、膳部八人料布六端二丈八尺、〈別三丈五尺、〉紅花一斤四両、卜部二人料交易商布二段、〈別一段、並官物、神祇官所請、〉祝、祢宜各一人料布十二端、〈封物、〉同祭禄料
調布卅八端、〈幣帛使、神主各八端、物忌二端、祢宜、祝各八端、弾琴、笛工各一端、卜部二人各一端、〉庸布十六段〈膳部八人各二段、〉
右春二月 冬十一月上申日祭之 官人一人率て雑色人を 供奉祭の事
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
【抜粋意訳】
巻2神祇 四時祭下 十一月祭 相甞祭神七十一座
枚岡社(ひらをかのやしろ) 四座
絹(キヌ)八疋、絲(イト)十二絇、綿十二屯、調布十二端、庸布六段、木綿六斤八両、鮑二斤八両、堅魚八斤八両、腊(きたい)〈干し肉〉二斗、海藻、凝海菜各八斤八両、塩四斗、筥四合、瓼(サラケ)、缶、水瓫(ホトギ)、山都婆波、小都婆波、筥瓶【瓦+并】、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、筥坏、小坏、酒盞、陶臼各八口、酒稲二百束、〈正税、〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・・・・
恩智神社 二座
枚岡(ヒラヲカノ)神社 四座
杜本神社
飛鳥戸神社 已上 河内國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河内郡 10座(大4座・小6座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 枚岡神社 四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)
[ふ り が な ](ひらをかの かみのやしろ しくら)
[Old Shrine name](Hirawoka no kamino yashiro shikura)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
天児屋根命・比売御神の二神を霊地・神津嶽に祀った天種子命(あめのたねこのみこと)について
天種子命(あめのたねこのみこと)は 『日本書紀』の神武東征の段で登場し 中臣連の祖で 別名を天多禰子命 天多禰伎命とも呼ばれます
神津嶽本宮(かみつだけほんぐう)は 枚岡神社 創祀の斎場であり 太古の聖地です 神武天皇の即位 三年前 勅命を奉じて天種子命(あめのたねこのみこと)が 天児屋根命・比売御神の二神を霊地・神津嶽に祀り創建されました
天児屋根命と比売御神は 中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ) と その妃ですので 天種子命(あめのたねこのみこと)が祖先を祀ったことになります
古代 枚岡神社の神職 平岡連(ひらおかむらじ)
勅命を奉じて天児屋根命・比売御神を祀った天種子命(あめのたねこのみこと)は この地に留まった神武天皇の皇軍の一部であったとされます
その子孫は その後も 祭祀を代々司り 天児屋根命を祖とする者が代々祀職についたと伝わり このことを平岡連(ひらおかむらじ)と云います
枚岡神社は 第36代 孝徳天皇 白雉元年(六五〇)神津嶽の霊地より現社地に社殿を造営し奉遷されました この時の人が 中臣氏である平岡連(ひらおかむらじ)の平岡進等です
平岡連(ひらおかむらじ)の伝統祭 注連縄掛神事(通称 お笑い神事)
新年の幸運を願う伝統神事「注連縄掛神事(通称 お笑い神事)」は しめ縄の起源をも伝える
「神代の昔 天照大神が岩戸にお隠れになられた時 枚岡神社の御祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)の美しい祝詞(のりと)と 神々の笑いにより 天照大神が天の岩戸を開かれた もう戻られまいと しめ縄を張り渡した」
この岩戸隠れの神話 故事に習い 日の短い冬に 人々が大きく笑うことで 太陽を呼びさまし 幸せを願うと云う 平岡連(ひらおかむらじ)の氏人の伝統神事です
・注連縄掛神事(通称 お笑い神事)の注連縄〈枚岡神社〉
スポンサーリンク
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神津嶽(かみつだけ)は 案内によれば 枚岡神社の社務所横から 約40分間の山登りのようです
登りは苦手なので なるかわ園地休憩所から 下ることにしました
なんと雨も降り出し 凄い下り坂で 帰りを考えると枚岡神社から登れば良かったかなと想い始めたり
しかし だいぶ下って来ると 青空が見えて 眼下に大阪の街並みがあり 足元はぬかるみますが ハイキングコースには 私一人だけ 行き交う人もなく ゆっくりと楽しみながら進むことにしました
神津嶽ふれあい広場に着くころには すっかり晴れてきて 気分も爽快です
神津嶽ふれあい広場のすぐ下に こんもりとした神津嶽が見えてきました
社号標「枚岡神社神津嶽」「枚岡神社 創祀の地」が立ちます
神津嶽本宮〈枚岡神社 創祀の地〉(東大阪市出雲井町)に参着
社号標の間を 参道が続いています
つづら階段を上がって行きます
頂上には 鳥居が建ち 玉垣が廻されています
近づくと 玉垣が廻された境内 鳥居の扁額には 枚岡神社 その先に 石祠が祀られています
鳥居の正面に立つと 鳥居は南を向き 祠はわずかに東向き おそらく南南東を向いているのだろうと想います もしかすると石祠を設けた時に 神武天皇の橿原宮辺りを向けたのかはわかりません
一礼をして鳥居をくぐります
すぐ右手には 枚岡神社創祀之地と刻まれた石碑 と 由緒石碑があります
石祠にすすみます
石祠の前には 平成5年7月に社殿・鳥居・玉垣・敷石が奉献されたと記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
石祠には 御神紋の 下がり藤 が刻まれています
振り返ると 明るい日差しの中 遥か眼下に大阪が見えています
境内の端まで行って 大阪平野を見下ろします
社殿の横には 御神木があります
一礼をして 境内を出ます
境内の西側にも降りられるように道が付けられています
西側から境内を見ると
一礼をして 神津嶽を下ります
スポンサーリンク
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天児屋根命・比売御神の二神を霊地・神津嶽に祀った天種子命(あめのたねこのみこと)について 神武天皇の東征の段で 東征を始めたばかりの10月の条であり 天皇家と中臣氏の密接な関係が記されています
【抜粋意訳】
神武天皇の東征の段 太歳甲寅冬十月の条
筑紫国(ちくしのくに)の菟狹(うさ)に着いた
菟狹(ウサ)は地名で宇佐(ウサ)と云うこの時 菟狹国造(うさのくにのみやつこ)の祖先である菟狹津彦・菟狹津媛(ウサツヒコ・ウサツヒメ)という者があった
菟狹の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って奉り 饗宴をなされた一柱騰宮は阿斯毗苔徒鞅餓離能宮(アシヒトツアガリノミヤ)と云う
この時 勅(みことのり)により 菟狹津媛(ウサツヒメ)を侍臣(ししん)〈家臣〉の天種子命(あめのたねこのみこと)に娶あわせた
天種子命(あめのたねこのみこと)は中臣氏(なかとみうじ)の遠い先祖である
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
神代 天照大御神の段で 天の岩戸開きの祭祀を司った 太玉命〈斎部氏の祖神〉天児屋命〈中臣氏の祖神〉の それぞれの孫が 神武天皇の段に 天富命(あめのとみのみこと)と天種子命(あめのたねこのみこと)として登場し 各々の氏の職務について 記しています
【抜粋意訳】
また
天富命(あめのとみのみこと)〈太玉命の孫〉は 物を作る諸氏を率いて 大幣(おほみてくら)を作らせた
天種子命(あめのたねこのみこと) [天児屋命の孫]は 天罪国罪(あまつつみ くにつつみ)の解除(はらへ)をしました
[所謂 天罪(あまつつみ)とは 上記に すでに説明し終わっています
国罪(くにつつみ)とは 国中の人民(おほみたから)の犯した罪の事です そのことは詳細に中臣禊(なかとみのはらえ)の詞(のりと)にあります]即ち鳥見山(とみのやま)の山中に 祭り所が立ち 天富命(あめのとみのみこと)が 幣(みてくら)を陳列し 祝詞(のりとごとまをして)皇天(あめつかみ)を祀り 遍(あまね)く 群望(もろもろのまつり)をもって 神祇(あまつやしろ くにつやしろ)の恩(みうつくしみ)に答えます
是をもって 中臣(なかとみ)・斎部(いんべ)の二氏はともに 祠祀(いはいまつる)の職を掌っておりました
猿女君氏さるめのきみのうじ)は 神楽の事に供(そな)え このほかの諸氏も各々の職がありました
【原文参照】
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
初代天皇の神武天皇の段に・物部氏〈軍〉・斎部氏〈祭祀(祭祀創作)〉・中臣氏〈祭祀(祝詞奏上)〉・久米氏〈宮中近衛〉の各氏の役割と実施した事柄が記されています
天種子命(あめのたねこのみこと)は 神代から続く 大切な天神寿詞(あめのかみのよごと)を奏(まうす)と記されています
【意訳】
巻第七 天皇本紀 神武天皇 辛酉為 元年 春正月 庚辰朔の条
辛酉を元年と為して 春正月一日に 橿原宮(かしはらのみや)に都をつくり はじめて皇位(あまつひつぎにしろしめす)に即かれた尊(みこと)にして
媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を正妃(むかひめ)立て 皇后とされた 即ち大三輪大神(おほみわのおほかみ)の女(むすめ)〈娘〉である宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は 天瑞寶(あまつみづら)の堅(たて)神盾(かみだて)を以て 斎(いつき)祀った
また 今 木を立て 五十櫛(いそくし)を刺しめぐらし 布都主剱大神(ふつぬしのつるぎのおほかみ)を殿内に崇め祀った
そして 十寶(とくさのたから)を以て 侍(はべらしむ)近(ちかき)宿因(とのいにより)とした そのため 足尼(そこね)と号した その号は このときから始まった天富命(あめのとみのみこと)は 諸々の忌部(いんべ)を率いて 天璽(あまつしるし)の鏡(かがみ)と剱(つるぎ)を捧げ 正殿(みあらな)に安(おき)〈置〉奉った
天種子命(あめのたねこのみこと)は 天神寿詞(あめのかみのよごと)を奏(まうす) 即ち 神世(かみよ)の古事(ふるごと)の類(たぐい)がこれである
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は 内物部(うちのもののべ)を率いて 堅て矛盾を巌増威儀(いつくしくすよそほひ)であった
道臣命(みちのおみのみこと)は 来目部(くるめべ)の師て 宮門(みかど)を護衛(まもり)その開閉(あけたて)を掌(つかさど)った
それから 四方之国(よものくに)を 天位(たかみくら)の貴(とうとき)を以て 又 俾率土之民(天下の民が従う)朝廷(みかど)は 重き者であると示された
【原文参照】
神津嶽本宮〈枚岡神社 創祀の地〉(東大阪市出雲井町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)