出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
出雲伊波比神社(Izumo Iwai shrine)
【通称名(Common name)】
明神さま(みょうじんさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大名牟遅神(おほなむちのかみ)
天穂日命(あめのほひのみこと)
《相殿》品陀和気命(ほんだわけのみこと)
《別宮を合祀》息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)
《配》須勢理比売命,豊受姫命,菅原道真,迦具土神,素盞嗚命,建御名方命,大国主命,少彦名命,上筒之男命,伊弉諾尊,伊弉冉命,大雷神
《合》大山咋命,大日孁貴命,天鈿媛命,高龗神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全・病気平癒・開運招福・商売繁昌の神〈出雲伊波比神社(御祭神 大己貴神、天穂日命)〉
・厄除開運、必勝祈願、技芸上達〈八幡宮(御祭神 品陀和気命)〉
・子育て、安産〈飛来大明神(息長帯比売命)〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
出雲伊波比(いずもいわい)神社
埼玉県入間郡毛呂山町岩井二九一五鎮座
祭神
大名牟遅神(おおなむちのかみ)・天穂日命(あめのほひのみこと)・品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) 他出雲を中心として国土経営、農業・産業・文化を興(おこ)され、全ての災(わざわい)を取り除かれた 大名牟遅神、天孫のために出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに奔走され 大名牟遅神が杵築宮(きずきのみや)(出雲大社)に入られたのち そのみたまを斎(いわ)い祀(まつ)る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で、家内安全・病気平癒・開運招福・商売繁昌の神としてあがめられる。
社地
古く出雲臣(いずものおみ)が祭祀する社であった。景行天皇五十三年(一二三年)に倭建命(やまとたけるのみこと)が東征凱旋の際 侍臣 武日命(たけひのみこと)(大伴武日)に命じて社殿創設、神宝として比々羅木の矛(ひいらぎのほこ)をおさめられたと伝えられ、現に東北を向いて鎮(しず)まり坐(ま)す。神名
出雲伊波比の神名 初見は宝亀三年(七七二年)の太政官符においてで当社はそれによってその証拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝七年(七五五年)には官幣に預る預幣社(よへいのやしろ)となり延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社よよばれるゆえんがここにある。本殿建築
流造(ながれづくり)一間社で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)型式、大永八年九月二十五日 毛呂三河守(みかわのかみ)藤原朝臣顕繁(ふじわらのあそんおきしげ)再建によるもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永八年・宝暦十二年(一七六二年)の棟札(むなふだ)二面とともに国指定重要文化財。
昭和三十二~三十三年文部省は解体修理をおこなった。例祭
十一月三日 県無形文化財民俗資料選択の「古式 流鏑馬(やぶさめ)」が奉納される。九百二十年の歴史をもつ。
昭和六十一年八月 宮司 紫藤 啓治 撰文並書
現地掲示板より
【由 緒 (History)】
出雲伊波比神社
古式ゆかしい「やぶさめ」で有名な神社。
毛呂山町のほぼ中央、小高い独立丘陵である臥龍山の上に位置しています。
神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の53年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を成し遂げ、凱旋した際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲の大己貴命(オオナムチノミコト)をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄多毛比命(エタモヒノミコト)が、出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされています。
奈良時代の宝亀3年(772年)の大政官符によると、天平勝宝7年(755年)に朝廷から幣帛(ヘイハク・神前に供えるもの)を受けたという記載があり、出雲伊波比神社が官弊社であったことが明らかにされました。
平安時代には、醍醐天皇の勅命で編さんされた延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられており、古来より格式の高い神社であったことが解ります。鎌倉時代以降、武士の信仰をも集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、大永7年(1527年)の焼失後、翌亨祿元年(1528年)には、毛呂顕繁が再建しました。
現在の本殿はこの再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築であり、棟礼二面と併せて国の重要文化財に指定されています。
※『日本書紀』景行天皇の段によれば 即位五十三年 景行天皇は 日本武尊の死を深く嘆き悲み 日本武尊を追慕して東国巡幸に出られ まず伊勢に入り東海を巡って十月に上総国に着かれ 十二月に東国から戻って伊勢に滞在 翌年九月に纒向宮に帰られた ことが記されています
もしかすると 日本武尊の死を深く嘆き悲まれた景行天皇が 日本武尊の功績を称え 凱旋の地に゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀ったのかもしれませんね
出雲伊波比神社由緒
創立
景行天皇53年8月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり、平国治安の目的が達成せられたことをおよろこびになられ、天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝とし、侍臣武日命に命じて創立された社である。歴朝御崇敬
成務天皇の代、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に崇敬祭祀され、また孝謙天皇の代天平勝宝7年(755)官幣にあずかり、光仁天皇の宝亀3年(772)には勅により幣を奉られ、以後歴代天皇御崇敬厚く御祈願所とされていた。醍醐天皇の御代[延喜7(907)]の頃延喜式内武蔵国入間郡五座の中に列せられた。武士崇敬
康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。
義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる(やぶさめの起こり)。(県指定民俗資料)。それ以後、例年この神事を執行し、山鳥の尾羽の箭一本を慶応3年まで幕府に献上したのである。
建久年間(1190ごろ)源頼朝は秩父重忠に奉行させて檜皮葺(ひはだぶき)に造営し、神領をも寄附した。なお重忠も陣太刀・産衣(うぶぎぬ)の甲(よろい)を寄進したと伝える。
後花園天皇の代永享年中(1430ごろ)に足利持氏が社殿を瓦葺に造営、それも大永7年(1527)6月社殿炎上、[また文禄年中(1590ごろ)社家が兵火にあい古文書などを失ったのである]
大永7年に消失はしたものの翌八年、正しくは享禄元年9月25日に、毛呂三河守顕繁が再建した棟札が現存している点から、再建にすぐ着手されたと考えられ、県内最古の神社建築である(檜皮葺)。
天文2年(1533)屋根檜皮葺大破のため瓦葺にし、天正2年(1574)北条氏政は大板葺(柿葺-こけらぶき)に修営、社領10石を附せられた。天正16年北条氏の乞により、鍾を寄進した(文書北条氏鍾証文)。
寛永年間、幕府に神符献上の際白銀2枚を寄進せられ、以後7ケ年毎に神符を幕府に献上することを永例とした。寛永10年(1633)三代将軍家光修営、同13年には社殿を筥(はこ)棟造にし、棟上前面に葵の紋を附し、五七の桐の紋と共に現存、また慶安元年(1648)8月社領10石並に境内10町9反5歩を先規により寄進せられ永く祭祀修営の料としたのである。また寛永年中、代官高室喜三郎の時から元禄15年(1702)代官井上甚五右衛門、河野安兵衛にいたるまで毎年御供米1俵ずつ下附され、後、その例にならって毛呂郷中の地頭所から明治2年まで毎年御供米を附せられた。文政8年9月「臥龍山宮伝記」の著者斎藤義彦が神主幼少のため補佐して社殿解体修理。明治以後
明治4年には社領を奉還し、逓減禄を賜わり明治6年毛呂郷中の惣鎮守の故をもって郷社に列し、明治22年8月20日内務省より保存資金100円を下賜され、同38年5月18日上地林1町9反8畝24歩境内編入許可、39年4月勅令により神饌幣帛料供進することを指定され、同41年9月会計法適用指定、大正3年9月建物模様換認可をえて本殿を往古倭建命創立及び武蔵国造崇敬当時の旧地に遷殿し、中門祝詞屋を新築し、拝殿再営、透塀増延、大正5年10月模様換工事落成、千家男爵参向された。
昭和13年7月4日当社本殿国宝指定、戦後文化財保護法制定により重要文化財建造物として指定され、昭和25年9月5日境内地譲与、測量、調査等に1年余日を費やして報告書作成大蔵省に提出中央審査を経て、9185坪4勺を譲与許可された。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・御本殿
・本殿 国宝標柱
・神饌殿〈本殿の手前 透垣の内〉
・中門
・天神地祇社〈本殿向かって 右隣〉
・透垣・出羽三山参拝記念塔
・拝殿
・二の鳥居・旗立石
・手水舎
・神楽殿
・参集殿
・一の鳥居
・一の鳥居・狛犬
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲伊波比神社
[ふ り が な ](いつもの いはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumono Ihahi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に記される 出雲伊波比神社
宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉には 入間郡の正倉が火災に遭ったため 武蔵国内四社〈・多磨郡 小野社・加美郡 今城青八坂稲實社・横見郡 高負比古乃社・入間郡 出雲伊波比神社〉に奉幣したことを記しています
太政官は、二宮八省の頂点に位置づけられ、すべての行政事務を総括した役所である。
符とは、上級官庁から下級官庁へ出された文書をいう。太政官符には執行官と書記官とが署名するが、この官符には藤原百川(ももかわ)の自署が見られる。百川は藤原氏式家宇合(うまかい)の子で不比等の孫にあたる。
当時衰微しつつあった藤原一族の再起を図り、光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)の擁立に奔走するなど、かなりの策士家だったと言われている。
この官符には、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市付近)で起きた、租税である米を貯蔵する正倉が焼亡した事件と、それへの対応が記されている。
こうした火事騒ぎは「神火事件(しんかじけん)」と呼ばれ、奈良時代の半ばすぎから各地で度々発生した。初めは、天の神が怒って火をつけたと信じられていたが、国家の財政の損失が大きいことから政府の調べが進み、その真相が次第に明らかになっていった。一つは、古くからの郡司と新興豪族との争いで、互いに相手をけおとすために放火し、罪をなすりつけるものである。
もう一つは、郡司だけでなく国司の悪事もさかんで、正倉から稲を横取りしていたが、中央からの役人が調べに来る前に証拠隠しのために焼くのである。このように神火は、農村での新旧二つの実力者の争いと、政治の乱れを物語っている。奈良時代の太政官符が伝存するのは大変珍しく、奈良正倉院にさえ残っていない。現存は四通のみ知られている。
(天理図書館 三村 勤)天理図書館「陽気」2008年6月号より抜粋
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延喜式内社 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の類社について
『延喜式神名帳927 AD.』の所載社に 同じ゛伊波比神゛の名を持つ神社が 武蔵國に三社あります
一つは 入間郡に 出雲伊波比神社
二つは 男衾郡に 出雲乃伊波比神社
※この二社は ともに゛出雲゛を社号に冠していて 出雲の神を祀るものです
三つは 横見郡に 伊波比神社〈伊波比神社(吉見町黒岩)〉があり ここも元々は 出雲系の神であったとされています
それぞれの゛伊波比神゛を参照ください 式内社とその論社について載せています
延喜式内社 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)
・伊波比神社(吉見町黒岩)
延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)
・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
・出雲祝神社(入間市宮寺)
・川越氷川神社(川越市宮下町)
・北野天神社(所沢市小手指元町)
延喜式内社 武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社(いつものいはひの かみのやしろ)
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR八高線 毛呂駅から東へ約100m 徒歩1分程度で 小高い独立丘陵である臥龍山の麓まで そこから かなり上がりますので 脚が気になる方は 車で山頂まで
臥龍山の麓には 案内看板があります
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐります
石畳みの参道には 旗立石があり その先の二の鳥居の所で 玉垣が廻されて 一段高い社檀となっています
一礼をして 二の鳥居をくぐり 参道を
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には 出雲伊波比神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透垣が廻されていて 内には・神饌殿と 国宝の御本殿が祀られています
本殿の向かって右手に並ぶように 境内社 天神地祇社が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 天穂日命は 出雲臣 武蔵国造の遠祖 入間宿祢は天穂日命の系統
所在は 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
書紀 天穂日命 此 出雲臣 武蔵国造等 遠祖也
姓氏 入間宿祢 天穂日命十世孫 天日古曽乃日命之後也
式考 北野村 祭神 スサノヲノミコト
〇信友云 上ノ伊波比神 同神也
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)について 八幡社・飛来明神社の両社を記していて 特に式内社 出雲伊波比神社については 何も記されていません
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻一七二 入間郡 巻之十七 未勘 前久保村
八幡社
社地を臥龍山と號す 此所を遠望すれば 山の形状恰も臥龍の如き故なりと云
寛永年中造營のことにつき公へ上りし案に云 入西之郡毛呂郷 石清水八幡之宮は 建久年中 源賴朝 社を修造あり 又 大永八年九月 毛呂三河守顯槃再建あり 其後 天正二年三月 北條氏政の再び修造あり かかる古社の由来もあれば 猶又この頃願ひ上しと云々
これによりて時の御代官 市川孫右衛門・彦坂平九郎へ命ぜられ 材木若干を賜はるの旨 大河内金兵衛・伊奈半十郎達せしと云傳ふ 本社七尺五寸四方 棟上に葵の御紋を彫る
例祭八月十五日 社傍の馬場に於て流鏑馬を興行す飛来明神社
八幡宮と並びたてり 或は毛呂明神とも唱へり
社領十石の御朱印を賜はる よりて考るにこの明神 地主神なるべし
寛永年中 大河内金兵衛・伊奈半十郎・連署の材木御寄附の状にも 毛呂の神主望申に付而 八幡宮造營の爲と云々
この飛来と號することは社傳に 古季綱親王 當國下向の時 氏の神 其迹を慕ひて飛来りににより飛来と號すと もとより取に足ざる説なり
季綱は則 毛呂太郎季綱が事にて 親王と稱すべきいはれなし
天正年中 小田原北條氏より寄附の證文 今社人のもとに傳ふ 其文に毛呂大明神とのす これによればそのかみ 毛呂氏 代々の氏神なることは論なし 又 堂山村 最勝寺所蔵 大般若經の奥書に 延徳四年六月廿八日於 臥龍山蓬莱神書幟之とあり 飛来 恐くは此蓬莱を誤り傳へしにや 是も棟に御紋を彫り 前に拝殿を設く
例祭 年々九月廿九日 流鏑馬を興行なせり石鳥居 神楽殿 祈祷所
末 社 太神宮 神明社 春日社 松尾社 熊野社 稲荷社二 雷電社
季光社 毛呂太郎季綱の父 豊後守季光の靈を祀ると云
観音堂神主
紫藤蔵人 吉田家の配下なり 家系は傳へざれど 小田原役帳を閲るに紫藤新六が知行十八貫七百六十三文 入西郡大類卯検地六貫三百四十五文 同大類丗貫文 御蔵出以上五十五貫八文とあり 蔵人も此地の舊家なれば 新六が一族の末流などにや 役帳に云る大類も 此地より纔かへだたりし村名也社寶
大般若經殘缺
小田原北條氏文書一通(文面省略)
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 北野郷 小手指原 物部天神社内〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉とした上で 当國 横見郡 伊波比神社〈現 出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)〉もあるとも記しています
又 此辺の同称三社〈・横見郡 伊波比神社・入間郡 出雲伊波比神社・男衾郡 出雲乃伊波比神社〉についても ことごとに祭神が違うが もっとよく考証すべきとも記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
出雲は伊豆毛と訓べし、伊波比は假字也、
〇祭神 素戔鳴尊、(地名記)
○北野郷 小手指原 物部天神社内に在す、(同上)
例祭 月 日、
旧地 廃亡して 後爰に祀るか、
〇当國 横見郡 伊波比神社もあり、
日本紀 神代巻上、一書曰、天穂日命、此 出雲臣 武蔵國造等遠祖也 と見え、
姓氏録云、入間宿禰も此神之後とあれば、当社恐らくは天穂日命の裔を祭れる、所謂 氏神なるべきに、此辺の同称三社、ことごとに祭神の違へるは、中古よりの謬ならんとは思へど、其証いまだ見ず、猶よく考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 今 物部天神の合殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比(イヅモノイハイノ)神社
今 物部天神の合殿に坐す、神社覈録、神社取調帳、
蓋 大己貴命を祭る、掛酌延喜式、神名帳頭注大意、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 宮寺郷 字寄木森〈現 出雲祝神社(入間市宮寺) 〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 天穂日命とあるは古傳なるべし
古事記に 天天菩比命の子 建比良鳥命 此は出雲国造 无邪志国造 云々
国造本紀に 成務朝の御世に 出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世孫の兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた とあるに由を聞こえり祭日 九月二十九日
社格 村社所在 宮寺郷 字寄木森(入間郡宮寺村大字宮寺)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)について 飛来明神と称し 舊称は毛呂明神である 社伝には 式内社 出雲伊波比神社とされているが 学者たちの多くは 物部天神の合殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉だとしている と記しています
【抜粋意訳】
〇埼玉縣 武蔵國 入間郡 毛呂村大字前久保
郷社 出雲伊波比(イツモイハイノ)神社
祭神 大名牟遅(オホナムチノ)神
合祀 須勢理比賣(セリビメノ)命 息長足姫(オキナガタラシヒメノ)命
天穗日(アメノホヒノミコト)命本社は一に飛来明神と称し、舊称は毛呂明神と號せり、創立年代詳ならすと雖も、
社伝、景行天皇の御宇、日本武尊の創立に係り、次いで成務天皇の御宇 武蔵国造 兄多毛比命、先跡に就いて崇敬の誠を致す、爾来 歴朝の御崇敬厚かりしと称す、
御神体は「比比羅木矛 及 御樋代壹箇上段斜に対座、御樋代二箇下段相双鎮座す」と社記に見えたり、
社記当社を以て 延喜式内 出雲伊波比神社と称すと雖も、学者多く、出雲伊波比神社は物部天神の合殿云々と称す、是非詳ならす、
建久年間 源頼朝 社殿を再営し神領を寄進し、後ち 幕府修営の社と為る、爾来 国主地頭の崇敬厚く、寛永十年徳川氏修営を加へ神領を寄進し、以て永く祭祀の料とせられしか、明治六年三月郷社に列す、二十二年内務省より保存資金百圓下賜せらる、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神庫、御饌所、神樂殿、齋殿、社務所、観祭殿等あり、内本殿は享禄元年九月、毛呂河内守顕繁の再建に係り、寛永十年、徳川幕府修営を加へて銅瓦とせるものなり、
境内は八千八百八十坪(官有地第一種)郷の中央に位せる一丘陵たり、称して臥龍山とす、蓋し山形に依る、老樹亭々として天に参し、しかも眺望に富み、東、筑波山、西、秩父の群峯を仰ぐ、蓋し眺望快活四時遊覧の勝地たり、当社寶物としては、神功皇后尊像壹躯(建久三年 毛呂季綱の寄附)を始め鎧冑、古字経、其他材木寄進状、鐘証文あり、鐘証文、新編武藏風土記稿に見ゆ、小田原北条氏の寄する所なり、
「依ニ天下之御弓箭達、当社之鐘御借用に候、速可有進上候、御世上御静謐之上、被鋳立可有御寄附間、為先此証文、其時節、可被遂披露旨、被仰出者也、仍如件
天正十六年戊子正月五日 茂呂大明神」
境内神社
八幡神社 廣田社 春日社 神明社 若宮八幡社
南宮社 三輪社 八柱社 松尾社 熊野社
山神社 稲荷社 雷電社 琴平社 住吉社
諏訪社 少宮社 季光社 神明社 稲荷社
【原文参照】
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)