日倉神社(ひぐらじんじゃ)は 天平時代(729~749)掛合村の日倉山にあったとされ その後 御笠山 鼓ヶ段(つづみだん)に勧請され日倉八幡宮の摂社となる 明治五年(1872)八幡宮と合併し日倉社と改称した 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 不在神祇官社「日倉社(ひぐら)のやしろ」とされます
目次
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記733 AD.』
➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳927 AD.』
➂最後に『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社(現在の神社)となっています
①【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 飯石郡(iishi no kori)
不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)
【社名】日倉社
【読み】(ひぐら)のやしろ
【How to read】(higura no) yashiro
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➁【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
官社ではない為 該当しません
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➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
日倉神社(Higura shrine)
【通称名】(Common name)
日倉八幡宮(ひぐらはちまんぐう)
【鎮座地】(location)
島根県雲南市三刀屋町乙加宮2206
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《主》天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)
《配》八幡大神(はちまんおおかみ)
【御神格】(God’s great power)
・五穀豊穣・不老長寿
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』所載社
【創建】(Beginning of history)
『出雲国風土記考証〈大正15年(1926)〉』より抜粋意訳
「今は鍋山村 宮内(みやうち)に日倉神社と称へ、天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)を祀り、合殿に八幡宮を祀るが、天平時代(729~749)には掛合村の日倉山にあった。
八幡宮については、保元三年(1158)の石清水(いはしみず)古文書に、日蔵別宮を石清水八幡宮寺領としてある。(江戸時代に)十四村の総社として尊ばれたのは、八幡宮の方であって、その時、天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)を、現今の社地より西北六町余の御笠山 鼓ヶ段(つづみだん)に勧請して、八幡宮の摂社として居たものと見える。
明治五年(1872)に八幡宮と合併し、村社に列し、日倉社と改称し、天造日女命を主なる祭神とした。天造日女命とはどんな由緒のかみであるかわからぬ。」
【由緒】(history)
由緒
風土記に日倉社とある。
継体天皇の頃、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を八幡大神として合併相殿、
用明天皇の御代日倉八幡宮と改称する。
八所八幡として古来14ヶ村の大産土神であり。鼕取・社人・物申文次等多人数が所属し盛大な祭祀がなされたが、明治5年日倉神社として
島根県神社HP庁より
【境内社】(Other deities within the precincts)
本殿向かって左手に祀られる
・未祷神社《主》武内宿禰命・社日碑
本殿向かって右手
三扉合殿社に祀られる
〈左扉〉・天王神社《主》素戔嗚尊
〈中央扉〉・粟島神社《主》少彦名命・若宮神社《主》伊邪那岐命・稲荷神社《主》宇迦之御魂神
〈右扉〉・火守神社《主》軻遇突智命
石碑として祀られる
・寄荒神《主》素戔嗚尊・大山大神《主》大山大神
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
御祭神 天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)について
御祭神 天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)が 何故 この地に祀られているのかは謎です
天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)ついては 『先代旧事本紀』〈平安初期(806~906)頃の成立〉巻第三「天神本記」には 饒速日尊(にぎはやひのみこと)の天降りに随伴した32人の防衛の一人〈14番目〉として 又 綿積神の後裔 阿曇連等の祖と 記されています
一般的に『古事記』等では 天孫降臨をされたのは 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とされますが
『先代旧事本紀』では 天孫降臨をなされたのは 饒速日尊(にぎはやひのみこと)〈天押穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の御子〉である と記されています
この時 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は「瑞宝十種〈十種の神宝〉」を授かり 三十二人の防衛 五部人 五部造 天物部等二十五部人 船長という多数の随伴者を従えて 天磐船(あまのいわふね)で天降ったと記しています
詳しくは 下記の【神社の伝承】に記しています
天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)を祀る『延喜式神名帳927 AD.』所載の神社について
饒速日尊(にぎはやひのみこと)の天降りに随伴した32人の防衛として 物部氏に深く関わる神社に祀られます
紀伊國 名草郡 日前神社 名神大
・日前神宮・國懸神宮(和歌山市)境内 日前宮末社 三十座
近江國 伊香郡 乃伎多神社
・乃伎多神社(長浜市高月町東阿閉)《主》誉田別命・天造日女命
讃岐國 多度郡 大麻神社
・大麻神社(善通寺市大麻町)《主》天太玉命《相殿》天津彦々火瓊々杵尊 及び 供奉三十一神
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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
JR木次線 木次駅から 西へ斐伊川を渡り R54号を三刀屋川を遡るように西南へ約7.1km 車15分程度
殿河内トンネルを過ぎて 三刀屋川の対岸〈西岸〉に鎮座します
日倉神社(雲南市三刀屋町乙加宮)に参着
石垣に植込みの廻された社頭には 鳥居が建ちます
鳥居の前には 水道の繋がる手水鉢があり 清めてから 一礼をして鳥居をくぐります
正面には 社殿が建ち その左右には境内社が祀られています
拝殿へと進むと 扁額には「日倉神社 天穂日命孫従四位 出雲國造 北島貴孝敬書」と刻字されています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
それぞれの文献では 次のように伝承しています
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
天孫降臨 饒速日尊(にぎはやひのみこと)の段に
御祭神 天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)は 『先代旧事本紀』〈平安初期(806~906)頃の成立〉巻第三「天神本記」には 饒速日尊(にぎはやひのみこと)の天降りに随伴した32人の防衛の一人〈14番目〉として 又 綿積神の後裔 阿曇連等の祖 と記されています
一般的に『古事記』等では 天孫降臨をされたのは 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とされますが
『先代旧事本紀』では 天孫降臨をなされたのは 饒速日尊(にぎはやひのみこと)〈天押穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の御子〉である と記されています
この時 饒速日尊(にぎはやひのみこと)は「瑞宝十種〈十種の神宝〉」を授かり 三十二人の防衛 五部人 五部造 天物部等二十五部人 船長という多数の随伴者を従えて 天磐船(あまのいわふね)で天降ったと記しています
【意訳】
先代旧事本紀 巻第三
天神本記
正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
天照太神(あまてらすおおみかみ)が仰せになります
「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほの)国は わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の治めるべき国である」と仰せになり 命じられ 天からお降しになられたときに
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子 思兼神(おもいかねのかみ)その妹 万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃とし 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたま にぎはやひのみこと)をお生みになられたこのとき 正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が 天照太神に奏して申しあげるに
「私が まさに天降ろうと思う束の間に生まれた子がおります これを天降すべきです」
そこで 天照太神は これを許されました
天神御祖(あまつかみの みおや)は 詔して 天璽(あまつみしるし)として瑞宝十種(みずのたから とくさ)を授けた
①瀛都鏡(おきつかがみ)一つ
➁辺都鏡(へつかがみ)一つ
➂八握剣(やつかのつるぎ)一つ
④生玉(なるたま)一つ
➄死反玉(まかるがえしのたま)一つ
⑥足玉(たるたま)一つ
➆道反玉(ちがえしのたま)一つ
⑧蛇比禮(おろちのひれ)一つ
➈蜂比禮(はちのひれ)一つ
⑩品物比禮(しゃぐのもののひれ)一つこれなり
天神御祖(あまつかみの みおや)は 教えて仰せられるに
「もし痛むところがあれば この十宝(とくさのたから)を云いて
一つ 二つ 三つ 四つ 五つ 六つ 七つ 八つ 九つ 十と ふるへ
ゆらゆらとふるへ このようにすれば 死人も生き返るなり」これが 布留之言(ふるのこと)の起源
高皇産霊尊が 勅して云われて
「もし 葦原中国(あしはらのなかつくに)の敵を拒み 神人を待ち受け 戦うものがいるならば よい方策 計略をもうけ平定せよ」三十二人を命じ 並びに防衛の人として天降しお仕えさせました
1天香語山(あめのかごやまの)命 尾張連(おわりのむらじ)等祖
2天鈿賣(あめのうずめの)命 猿女君(さるめのきみ)等祖
3天太玉(あめのふとたま)命 忌部首(いむべのおびと)等祖
4天児屋(あめのこやねの)命 中臣連(なかとみむらじ)等祖
5天櫛玉(あめのくしたまの)命 鴨県主(かものあがたぬし)等祖
6天道根(あめのみちねの)命 川瀬造(かわせのみやつこ)等祖
7天神玉(あめのかむたまの)命 三嶋県主(みしまのあがたぬし)等祖
8天椹野(あめのくぬの)命 中跡直(なかとのあたい)等祖
9天糠戸(あめのぬかとの)命 鏡作連(かがみつくりのむらじ)等祖
10天明玉(あめのあかるたまの)命 玉作連(たまつくりのむらじ)等祖
11天牟良雲(あめのむらくもの)命 度会神主(わたらいのかんぬし)等祖
12天背男(あめのせおの)命 山背久我直(やましろのくがのあたい)等祖
13天御陰(あめのみかげの)命 凡河内直(おおしこうちのあたい)等祖
14天造日女(あめのつくりひめの)命 阿曇連等(あずみのむらじ)等祖
15天世平(あめのよむけの)命 久我直(くがのあたい)等祖
16天斗麻弥(あめのとまねの)命 額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)等祖
17天背斗女(あめのせとめの)命 尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)等祖
18天玉櫛彦(あめのたまくしひこの)命 間人連(はしひとのむらじ)等祖
19天湯津彦(あめのゆつひこの)命 安芸国造(あきのくにのみやつこ)等祖
20天神魂(あめのかむたまの)命 葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)等祖
21天三降(あめのみくだりの)命 豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)等祖
22天日神(あめのひのかみの)命 対馬県主(つしまのあがたぬし)等祖
23乳速日(ちはやひの)命 広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)等祖
24八坂彦(やさかひこの)命 伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)等祖
25伊佐布魂(いさふたまの)命 倭文連(しどりのむらじ)等祖
26伊岐志迩保(いきしにほの)命 山代国造(やましろのくにのみやつこ)等祖
27活玉(いくたまの)命 新田部直(にいたべのあたい)等祖
28少彦根(すくなひこねの)命 鳥取連(ととりのむらじ)等祖
29事湯彦(ことゆつひこの)命 取尾連(とりおのむらじ)等祖
30天表春(あめのうわはるの)命 八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の兒・ 信乃阿智祝部(しなののあちのほふりべ)等祖
31天下春(あめのしたはるの)命 武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)等祖
32月神(つきのかみの)命 壱岐県主(いきのあがたぬし)等祖五部人(いつとものひと)が 副(そ)い従い天降り お仕えした
1物部造(もののべのみやつこ)等祖 天津麻良(あまつまら)
2笠縫部(かさぬいべ)等祖 天曽蘇等(あめのそそ)
3為奈部(いなべ)等祖 天津赤占(あまつあかうら)
4十市部首(とおちべのおびと)等祖 富々侶(ほほろ)
5筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)等祖 天津赤星(あまつあかぼし)五部造(いつとものみやつこ)が伴領となり 天物部(あめのもののべ)を率いて天降りお仕えした
1二田造(ふただのみやつこ)
2大庭造(おおばのみやつこ)
3舎人造(とねりのみやつこ)
4勇蘇造(ゆそのみやつこ)
5坂戸造(さかとのみやつこ)天物部(あめのもののべ)等 二十五部人が 兵杖を同じく帯びて天降り お仕えした
1二田(ふただの)物部 2当麻(たぎまの)物部
3芹田(せりたの)物部 4鳥見(とみの)物部
5横田(よこたの)物部 6嶋戸(しまとの)物部
7浮田(うきたの)物部 8巷宜(そがの)物部
9足田(あしだの)物部 10須尺(すさかの)物部
11田尻(たじりの)物部 12赤間(あかまの)物部
13久米(くめの)物部 14狭竹(さたけの)物部
15大豆(おおまめの)物部 16肩野(かたのの)物部
17羽束(はつかしの)物部 18尋津(ひろきつの)物部
19布都留(ふつるの)物部 20住跡(すみとの)物部
21讃岐三野(さぬきのみのの)物部 22相槻(あいつきの)物部
23筑紫聞(つくしのきくの)物部 24播麻(はりまの)物部
25筑紫贄田(つくしのにえたの)物部船長(ふなおさ)が 同じく共に梶をとる人たちを率いて 天降りお仕えした
船長(ふなおさ)跡部首(あとべのおびと)等祖 天津羽原(あまつはばら)
梶取(かじとり)阿刀造(あとのみやつこ)等祖 天津麻良(あまつまら)
船子(ふなこ) 倭鍛師(やまとのかぬち)等祖 天津真浦(あまつまうら)
笠縫(かさぬい)等祖 天津麻占(あまつまうら)
曽曽笠縫(そそかさぬい)等祖 天都赤麻良(あまつあかまら)
為奈部(いなべ)等祖 天津赤星(あまつあかぼし)饒速日尊(にぎはやひのみこと)は 天神の御祖神のご命令で 天磐船(あまのいわふね)に乗り 河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られ坐(まし)ます さらに 大倭国の鳥見白庭山(とみのしらにわのやま)にお遷りになられた
天磐船(あまのいわふね)に乗り 大虚空(おおぞら)を翔(か)け行き この地をめぐり見て天降られた すなわち“虚空見つ日本(やまと)の国”とは このことである
【原文参照】
『雲陽志(unyo shi)1835AD.』飯石郡 宮内 にある伝承
『雲陽志(unyo shi)』では
宮内「八幡宮」と記され
「この所を日倉といふ
本社五間 隋神門 天文二十二年 国主 源誠久 上棟の札あり 祭禮 毎年八月十五日 近隣の社司群衆して 七座の神事あり 往古 兵火にかかり本社神寶焼亡す 鎧一領 太刀一腰 矢一手 大塚土佐守の寄進なり と記しています
【原文参照】
『出雲国風土記考証(Izumonokuni fudoki koshiyo)〈大正15年(1926)〉』に記される伝承
【意訳】
日倉社(ひぐら)のやしろ
今は鍋山村 宮内(みやうち)に日倉神社と称へ、天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)を祀り、合殿に八幡宮を祀るが、天平時代(729~749)には掛合村の日倉山にあった。
八幡宮については、保元三年(1158)の石清水(いはしみず)古文書に、日蔵別宮を石清水八幡宮寺領としてある。
又、源頼朝の下文にも「日蔵別宮は八幡宮寺 往古ノ神領也」とある。この日蔵別宮とは、掛合にあったものか、今の宮内村にあったものか、明らかでないが、言い伝えによると、八幡宮と日倉社とを、掛合から宮内村へ移したといふ。それから、天文二十二年(1553)には、尼子誠久が日蔵八幡宮を宮内村に造営した。その造営の棟札に「奉造立八幡宮 雲州飯石郡多根郷 宮内村 日倉別宮御造営成就砌、大檀那源誠久同敬久云々」とある。
それから、二十九年後、天正八年には、出雲は悉く毛利氏の所領となり、多賀與四郎藤原道定の造営棟札がある。
而して、宮内(みやうち)、加食田(かじきた)、乙多田(おつただ)、阪本、須所(すご)、掛合(かけあひ)、吉田、民谷(みんだに)、松笠、多根、根波(ねは)、里坊(さとぼう)、殿河内(どのがうち)、粟谷(あはたに)の十四村の総社として尊ばれたのは、八幡宮の方であって、その時、天造日女命(あめのみやつこひめのみこと)を、現今の社地より西北六町余の御笠山 鼓ヶ段(つづみだん)に勧請して、八幡宮の摂社として居たものと見える。
明治五年(1872)に八幡宮と合併し、村社に列し、日倉社と改称し、天造日女命を主なる祭神とした。天造日女命とはどんな由緒のかみであるかわからぬ。
【原文参照】
日倉神社(雲南市三刀屋町乙加宮)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)