富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は 第7代 孝霊天皇の時 富士山の噴火で国内が荒れ果てた この山霊を鎮祭する為 第11代 垂仁天皇が 浅間大神を山足の地に祀ったのが創祀 第12代 景行天皇の時には 日本武尊が 山宮の地に大神を祀り 大同元年(806)には 坂上田村麿が勅命に依り 社殿を現在の大宮の地に造営し 神霊を遷座した東海最古の名社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
富士山本宮浅間大社(Fuzisanhongu Sengentaisha)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
静岡県富士宮市宮町1-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
〈別称:浅間大神(あさまのおおかみ)〉
《相殿神》
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・火難消除・安産・航海・漁業・農業・機械等の守護
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 駿河國一之宮
・ 旧 國幣中社
・ 全国の浅間神社の総本宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
富士山本宮浅間大社
御祭神
主 神 木花之佐久夜毘賣命(このはなのさくやひめのみこと)
配 祀 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)御由緒
人皇第七代 孝霊天皇の御代、富士山が噴火し、人民が難散し国内が荒れ果てたので、第十一代垂仁天皇は、富士の神霊を山足(やまあし)(山麓)の地に鎮祭した。これが浅間大社の創祀である。
第十二代 景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、浅間大神の神助を畏み、山宮の地(現在地の北方六キロ)に篤く大神を祀られた。
その後、平城天皇の大同元年(八〇六)坂上田村麿が勅命に依り、神霊を山宮より大宮(現在地)に遷し奉った。以来実に一千二百余年、全国一千三百余社に及ぶ浅間神社の総本宮として、全国的に篤い崇敬をあつめている東海最古の名社である。古来、朝廷の尊崇極めて篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国の一宮として崇められた。武家時代に入ってからは、源頼朝をはじめ、北条義時、武田信玄、同勝頼、等の各武将は、それぞれ神領や神宝を献納して篤く崇敬した。
特に徳川家康は、天下を平定した奉賛のため、慶長九年(一六〇四)に本殿以下の諸社殿を奉建し、更に富士山八合目以上を社地として寄進した。
本殿は二層の楼閣をなし、浅間造と称し重要文化財に指定されている。
富士山信仰
霊峰富士山は、古来浅間大神の鎮まり坐す神体山として、全国の登拝者の最も尊崇するところである。
頂上には奥宮、久須志神社の二社が鎮座しているが、共に浅間大社の奥宮で、八合目以上はその聖域にして境内地である。祭礼 神事
例 祭 十一月四日
流鏑祭 五月五日
御田植祭 七月七日
開山祭 七月七日
閉山祭 九月七日湧玉池(わくたまいけ)
神社の東側神苑にある。富士山の雪解け水が溶岩を浸透し、神立山(かみたちやま)の山裾から こんこんと湧出している。
湧出量毎秒三・六キロリットル(約二〇石)、水温は年間を通じ十三度で、特別天然記念物に指定されている。
この池は古来、富士登拝者が沐浴潔斎をしたところである。現地案内板より
【由 緒 (History)】
御由緒
当大社は、第11代垂仁天皇が、富士山の噴火を鎮めるため、浅間大神を富士山麓に祀られたことに始まります。その後、大同元年(806)に、平城天皇の勅命により、坂上田村麻呂が現在の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷し祀られました。以来、全国1300余社に及ぶ浅間神社の総本宮、駿河国一の宮として全国的な崇敬を集める東海最古の名社です。(旧官幣大社)
静岡県神社庁HPより
由緒
第七代、孝霊天皇の御代 富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し 年久しく国中が荒れ果てたので 第十一代 垂仁天皇は 其の3年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。
ついで 第十二代 景行天皇の御代 日本武尊が東夷御征伐の時 駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。
其の後 第五十一代 平城天皇の大同元年 坂上田村麿 勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。
爾来1100余年 全国1300余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。
古来 朝廷の御尊崇極めて厚く 延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は 神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。
慶長9年 徳川家康は 戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し 更に同11年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来 徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。
又 室町時代に始まった富士登拝は 江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め 以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。
明治に及んでは其の4年5月14日国幣中社に、同29年7月8日官幣大社に列せられた。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・本殿
・拝殿・幣殿・透塀
・楼門
〔摂社〕
・三之宮浅間神社《主》浅間第三御子神〈本殿向かって左〉・浄砂(きよめずな)
・七之宮浅間神社《主》浅間第七御子神〈本殿向かって右〉
〔末社〕
・天神社《主》菅原道真朝臣
・水屋神社《主》御井神,鳴雷神
・稲荷神社《主》宇迦之御魂神,大宮能売神,猿田毘古神
・厳島神社《主》市杵島姫命
・桜の馬場
・流鏑馬の像
流鏑馬祭縁起
社伝によれば建久四(1193)年五月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき当浅間大社に参詣し 流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である
当大社所蔵の天正五(1577)年の富士大宮御神事帳や 慶安三(1650)年の富士本宮年中祭礼之次第にも 五月五日の条に 五月会流鏑馬 と記載されている 又その当時の古文書 朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料 豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印地の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる
現在は五月四・五・六日の三日間にわたり行なわれ四日が前日祭 五日が本祭 六日が後日祭になっている
五日の本祭はこの祭の中心で 拝殿で祭典を行い ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職 弓武者 槍武者 鎧武者 射手代官 射手 氏子代表 稚児等が市内を練り歩いた後 桜の馬場に参入して 鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行なわれる
当日は端午の節句でもあり近郷近在から二十万余の参詣者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない
平成七年五月五日
・鉾立石〈楼門前の石段上にある自然石〉
鉾立石
その昔四月・十一月両度の大祭に山宮へ御神幸の際鉾を立てた石です。
・駿州赤心隊之碑
駿州赤心隊
富士亦八郎重本 文政9年(1826年)~明治30年(1897年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した。
富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ15歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。
20歳で帰郷第44代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。
東征軍に参加、駿州赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。
この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿州赤心隊顕彰の碑である。
現地立札より
・忠魂碑《主》護国の英霊
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・元宮
・〈元宮〉山宮浅間神社(富士宮市山宮)
・御神幸道首標の碑
御神幸道首標の碑
明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された神幸道に起点に碑である。御神幸は、春秋の大祭年実に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復するもので、祭神は鉾に移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。
御神幸道の50丁(1丁は約109m)の間には、一丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大部分は確認することができない。
現地案内板より
・奥宮 &〔末社〕・久須志神社《主》大名牟遅命,少彦名命
・〈奥宮〉富士山本宮浅間大社 奥宮(富士山頂上)
・湧玉池
国指定特別天然記念物
湧玉池(わくたまいけ)
この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので、水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間に三.六キロリットル(約二〇石)年中殆ど増減がありません
昔から富士導者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております
つかふべき数にをらむ
浅間なる御手洗川の
そこにわくたま
平兼盛現地案内板
・禊所
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
853年7月4日に地震が発生 5日に神階の奉授が記され 13日に特別に神階が加えられている 7月13日にも地震があったので この間 余震も含めてかなりの地震があったであろうと推測が出来ます
貞観大噴火(864~866年)は 864年(貞観6年)富士山の北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火が起こりました この10年前の記録ですので 何らかの異変を感じたものなのか 富士山に対する畏怖が現れています
【抜粋意訳】
卷五 仁寿三年(八五三)七月癸巳〈四日〉の条
○癸巳 地震
卷五 仁寿三年(八五三)七月甲子〈五日〉の条
○甲子 以て 駿河國 淺間神 預くに於て 名神
卷五 仁寿三年(八五三)七月辛丑〈十二日〉の条
○辛丑 加 尾張國 多天神 從五位上
卷五 仁寿三年(八五三)七月壬寅〈十三日〉の条
○壬寅 特加 駿河國 淺間大神 從三位
卷五 仁寿三年(八五三)七月甲辰〈十五日〉の条
○甲辰 地震
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神と共に 神階奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申の条
○廿七日甲申 京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授 淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命 一品
・・・・
・・・・
駿河國 從三位 淺間神 正三位
・・・
【原文参照】
六国史以後 『駿河国神名帳』 表記は「浅間大明神」正一位
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
淺間神社 一座 駿河國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)富士郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 淺間神社(名神大)
[ふ り が な ](あさまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asama no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
富士山本宮浅間大社の かつての・摂社・末社 『駿河国神名帳』に記される「浅間御子明神」18座について
『駿河国神名帳』〈『日本三代実録』貞観5年(863)9月25日付の太政官符 諸国に対して神社帳を作成してその写しを式部省に提出するように命じている〉
『駿河国神名帳』には 「浅間御子明神」として 第一御子明神から第十八御子明神まで 18座が記されていて それぞれ古くは 浅間大社の摂社でした
・浅間第一御子明神 坐 富士郡〈若之宮浅間神社〉
・第二御子明神 坐 同郡〈二之宮浅間神社〉
・第三御子明神 坐 同郡〈本宮 境内 摂社・三之宮浅間神社〉
・第四御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第五御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第六御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第七御子明神 坐 同郡〈本宮 境内 摂社・七之宮浅間神社〉
・第八御子明神 坐 同郡〈米之宮浅間神社〉
・第九御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十一御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十二御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十三御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十四御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十五御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十六御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十七御子明神 坐 同郡〈所在不明〉
・第十八御子明神 坐 同郡〈米之宮浅間神社〉
本宮境内には
摂社・三之宮浅間神社《主》浅間第三御子神
摂社・七之宮浅間神社《主》浅間第七御子神
境外には
第一御子神〈・若之宮浅間神社(富士宮市元城町)〉
第二御子神〈・二之宮浅間神社(富士宮市光町)〉
第八御子神・第十八御子神〈・米之宮浅間神社(富士市本市場)〉説あり
その他の御子神は 所在不明
其の他の かつての摂末社
富士山 村山口の登山道の起点に鎮座する村山浅間神社(富士宮市村山)
・村山浅間神社(富士宮市村山)
富士山本宮浅間大社の かつての摂末社のうち 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社
駿河国 富士郡 富知神社(ふぢの かみのやしろ)
・富知神社(富士宮市朝日町)
・富知六所浅間神社(富士市浅間本町)
駿河国 富士郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)
・倭文神社(富士宮市星山)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の淺間神社について
全国に三ヶ所記載があります
駿河國 富士郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮
・〈奥宮〉富士山本宮浅間大社 奥宮(富士山頂上)
・〈元宮〉山宮浅間神社(富士宮市山宮)
甲斐国 八代郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・浅間神社 (笛吹市) &・山宮神社(旧鎮座地)
・河口浅間神社(富士河口湖町)
・一宮浅間神社(市川三郷町)
・青沼浅間神社(甲府市)
但馬國 養父郡 淺間神社(あさまの かみのやしろ)
・ 浅間神社(養父市八鹿町浅間)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR身延線 富士宮駅から西北へ約900m 徒歩10分程度
境内の湧玉池(わくたまいけ)を水源としている神田川が 境内の脇を流れています
社号標には 富士山本宮浅間大社
富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)に参着
一礼をして 大鳥居をくぐり抜けます
石畳の参道を進みます 境内には 清らかな湧水が流れている水路があります
神橋を渡ると楼門が建っています
一陽来福の絵馬があり 富士山本宮の扁額の架かる楼門をくぐり抜けます
正面の拝殿にすすみます
拝殿には 奉献の御神酒 扁額は 淺間大社
賽銭箱には 御神紋 天狗羽団扇
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 二重の楼閣造で棟高45尺 浅間造りと称する本殿が鎮座します
境内から湧き出でる 富士登拝者が沐浴潔斎をしたと伝わる 湧玉池(わくたまいけ)へ参拝します
湧玉池にある神橋を渡り 東の鳥居から戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『東海道名所図会(tokaido meishozue)』寛政9年(1797)に記される伝承
富士山は 美しい山容で 豊な湧き水をもって山麓を潤し 農業のみならず 多くの恵みをもたらしてきました
【抜粋意訳】
富士川と富士山の図
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
雑事に 富士山の噴火〈・延暦大噴火(800年)・貞観大噴火(864~866年)〉 を記しています
【抜粋意訳】
淺間神社
淺間は阿佐末と訓べし
〇祭神 木花開耶姫命 頭注
〇富士山麓大宮に在す 駿河志 本宮と称す
〇式三 名神祭 二百八十五座 中略 駿河國 淺間神社 一座
〇当国一宮なり 一宮記
〇日本紀神代巻下 一書曰 天孫又問曰「其於秀起浪穗之上、起八尋殿、而手玉玲瓏、織經之少女者、是誰之子女耶。」答曰「大山祇神之女等、大號磐長姫、少號木花開耶姫、亦號豐吾田津姫。」云々。皇孫因幸豐吾田津姫、則一夜而有身。皇孫疑之、云々連胤云 当社は万国に比類なき富士山を領し給える也 さて富士山の事は 国史及び本朝文粋 都良香富士山記 万葉集の歌等擧るに遑なし 故に今其一二を載せて自餘は略す
類社
甲斐国八代郡 但馬國養父郡 淺間神社 各一座神位 名神
日本文徳天皇実録
仁寿三年(八五三)七月甲子〈五日〉○甲子 以て 駿河國 淺間神 預くに於て 名神
仁寿三年(八五三)七月壬寅〈十三日〉○壬寅 特加 駿河國 淺間大神 從三位日本三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日○廿七日甲申 京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授 駿河國 從三位 淺間神 正三位国内神名帳云 正一位 淺間大明神
官幣
日本三代実録 仁和三年四月六日己酉 分遣使者 奉に幣 駿河國 淺間明神社社領
当代御朱印高四百五十石雑事
日本紀略
延暦十九年(800)六月六日《癸酉》駿河國言、自二去三月十四日一、迄二四月十八日一、富士山巓自燒、晝則烟氣暗暝、夜則火光照レ天、其聲若レ雷、灰下如レ雨、山下川水皆紅色也
延暦二十一年正月八日《乙丑》(中略)是日、勅、駿河相模國言、駿河國富士山、晝夜〓燎、砂礫如レ霰者、求二之ト筮一、占曰、干疫、宜レ令下兩國加二鎭謝一、及讀レ經以攘中災殃上本朝文粋十二 都良香富士山記曰
富士山者。在駿河國。峯如削成。直聳屬天。其高不可測。歷覽史籍所記。未有高於此山者也。其聳峯欝起。見在天際。臨瞰海中。觀其靈基所盤連。亙數千里間。行旅之人。經歷數日。乃過其下。去之顧望。猶在山下。蓋神仙之所遊萃也。承和年中。 從山峯落來珠玉。玉有小孔。蓋是仙簾之貫珠也。又貞觀十七年十一月五日。吏民仍舊致祭。日加午天甚美晴。仰觀山峯。有白衣美女二人。雙舞山巓上。去巓一尺餘。土人共見。古老傳云。山名富士。取郡名也。山有神。名淺間大神。此山高。極雲表。不知幾丈。頂上有平地。廣一許里。其頂中央窪下。體如炊甑。甑底有神池。池中有大石。石體驚奇。宛如蹲虎。亦其甑中。常有氣蒸出。其色純靑。窺其甑底。如湯沸騰。其在遠望者。常見煙火。亦其頂上。匝池生竹。靑紺柔愞。宿雪春夏不消。山腰以下。生小松。腹以上。無復生木。白沙成山。其攀登者。止於腹下。不得達上。以白沙流下也。相傳。昔有役居士。得登其頂。後攀登者。皆點額於腹下。有大泉。出自腹下。遂成大河。其流寒暑水旱。無有盈縮。山東脚下。有小山。土俗謂之新山。本平地也。延暦廿一年三月。雲霧晦冥。十日而後成山。蓋神造也。【富士山は、駿河國に在り。峯削り成せるが如く、直(ただ)聳えて天に屬(つづ)く。其の高さ測りかねず。史籍の記せる所を歷(あまね)く覽(み)るに、未(いま)だ此の山より高きは有らざるなり。其の聳ゆる峯欝(さかり)に起(おこ)り、見るに天際に在りて、海中を臨(のぞ)み瞰(み)る。其の靈基(れいき)の盤連(ばんれん)する所を觀るに、數千里の間に亙(わた)る。行旅(かうりよ)の人、數日を經歷して、乃(すなは)ち其の下(ふもと)を過ぐ。之(ここ)を去りて顧(かへり)み望めば、猶(なほ)し山の下(ふもと)に在り。蓋(けだ)し神仙の遊萃(いうすゐ)する所ならむ。承和年中に、山の峯より落ち來(きた)る珠玉あり、玉に小さき孔(あな)有りきと。蓋(けだ)し是(こ)れ仙簾(せんれん)の貫(つらぬ)ける珠(たま)ならむ。又貞觀十七年十一月五日に、吏民(りみん)舊きに仍(よ)りて祭を致す。日午(ひる)に加へて天甚だ美(よ)く晴る。仰ぎて山の峯を觀るに、白衣(はくい)の美女二人(ふたり)有り、山の巓(いただき)の上に雙(なら)び舞ふ。巓を去ること一尺(ひとさか)餘(あまり)、土人(くにひと)共に見きと、古老傳へて云ふ。
山を富士と名づくるは、郡(こほり)の名を取れるなり。山に神有り、淺間大神(あさまのおほかみ)と名づく。此の山の高きこと、雲表(うんぺう)を極めて、幾丈(いくつゑ)といふことを知らず。頂上に平地有り、廣さ一許里(いちりばかり)。其の頂の中央(なから)は窪み下りて、體(かたち)炊甑(すゐそう)の如し。甑(こしき)の底に神(あや)しき池有り、池の中に大きなる石有り。石の體(かたち)驚奇(きやうき)なり、宛(あたか)も蹲虎(そんこ)の如し。亦(また)其の甑(こしき)の中に、常に氣有りて蒸し出(い)づ。其の色純(もは)らに靑し。其の甑の底を窺(うかが)へば、湯の沸き騰(あが)るが如し。其の遠きに在りて望めば、常に煙火(えんくわ)を見る。亦其の頂上に、池を匝(めぐ)りて竹生(お)ふ、靑紺(せいこん)柔愞(じうぜん)なり。宿雪(しゆくせつ)春夏消えず。山の腰より以下(しもつかた)、小松生(お)ふ。腹より以上(かみつかた)、復(また)生ふる木無し。白沙(はくさ)山を成せり。其の攀(よ)ぢ登る者(ひと)、腹の下に止(とど)まりて、上に達(いた)ることを得ず、白沙の流れ下るを以(も)ちてなり。相傳(あひつた)ふ、昔役(え)の居士(こじ)といふもの有りて、其の頂に登ることを得たりと。後(のち)に攀(よ)ぢ登る者、皆額(ひたひ)を腹の下に點(つ)く。大きなる泉有り、腹の下より出づ。遂に大河(だいか)を成せり。其の流(ながれ)寒暑水旱(すゐかん)にも、盈縮(えいしゆく)有ること無し。山の東の脚(あし)の下(もと)に、小山有り。土俗(くにひと)これを新山(にひやま)と謂(い)ふ。本(もと)は平地なりき。延暦廿一年三月に、雲霧晦冥(うんむくわいめい)、十日にして後(のち)に山を成せりと。蓋(けだ)し神の造れるならむ。】日本三代実録
貞觀六年(八六四)五月廿五日庚戌○廿五日庚戌。霖雨。京師隱居飢病者特加賑恤。駿河國言。富士郡正三位淺間大神大山火。其勢甚熾。燒山方一二許里。光炎高廿許丈。大有聲如雷。地震三度。歴十餘日。火猶不滅。焦岩崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所燒岩石。流埋海中。遠卅許里。廣三四許里。高二三許丈。火焔遂屬甲斐國堺貞觀六年(八六四)七月十七日辛丑○十七日辛丑。頒下五畿七道諸國。班幣境内大小諸神。爲穀祈也。甲斐國言。駿河國富士大山。忽有暴火。燒碎崗巒。草木焦殺。土鑠石流。埋八代郡本栖并兩水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。與海共埋。或有宅無人。其數難記。兩海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖等海。未燒埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難辨。然後有此災異焉
貞觀六年(八六四)八月五日己未○五日己未。下知甲斐國司云。駿河國富士山火。彼國言上。决之蓍龜云。淺間名神禰宜祝等不勤齋敬之所致也。仍應鎭謝之状告知國訖。宜亦奉幣解謝焉
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
淺間(アサマノ)神社
祭神 木華開耶姫(コノハナサクヤヒメノ)命
神位
日本文徳天皇実録
仁寿三年(八五三)七月甲子〈五日〉○甲子 以て 駿河國 淺間神 預くに於て 名神
仁寿三年(八五三)七月壬寅〈十三日〉○壬寅 特加 駿河國 淺間大神 從三位日本三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日○廿七日甲申 京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授 駿河國 從三位 淺間神 正三位国内神名帳云 正一位 淺間大明神
官幣
日本三代実録 仁和三年四月六日己酉 分遣使者 奉に幣 駿河國 淺間明神社祭日 十一月初申日
社格 國幣中社
所在 富士山麓大宮町(富士郡大宮町 官幣大社 淺間神社)
【原文参照】
富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)