氣比神宮 土公(どこう)は 氣比之大神 降臨の地とされます 御祭神 氣比之大神(けひのおほかみ)は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)とも 笥飯大神(けひのおほかみ)御食津大神(みけつおほかみ)とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝わり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を今に留めています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
氣比神宮 土公(Doko)〈氣比大神降臨の地〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
福井県敦賀市曙町11
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》氣比大神(けひのおほかみ)降臨の地
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の古殿地
【創 建 (Beginning of history)】
氣比宮 古殿地の事
氣比神宮 境内東北部に位置し 当神宮鎮座にかかる聖地として 古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが 嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ 更に神籬磐境の形態を留める 現「土公」は 氣比之大神降臨の地であり 伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修したところとも伝えられる
土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ その期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公の参道はかろうじてそのままの形で残された
大宝二年(七〇二)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた
この聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である現地石碑より
【由 緒 (History)】
由 緒
伊奢沙別命は、筍飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年前、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。
上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。
神功皇后は勅命により御妹玉妃姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。
その時に筍飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。
文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮とし、後に、日本武尊を東宮殿に、應神天皇を総社宮に、玉姫命を平殿宮に、武内宿禰を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。・・・
・・・福井県神社庁HPより抜粋
https://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20151027_161953
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
現在の氣比神宮
・氣比神宮(敦賀市)越前国一之宮
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・氣比神社 七座 巳上 越前國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越前国 126座(大8座・小118座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)敦賀郡 43座(大7座・小36座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 氣比神社 七座(並名神大)
[ふ り が な ](きひの かみのやしろ ならび ななくら)
[Old Shrine name](Kihi no kamino yashiro Nanakura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
氣比神宮 主祭神 氣比大神神(けひのおほかみ)について
氣比神宮 主祭神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈別名 御食津大神(みけつおおかみ)〉とされます
さらに 異説伝承として
主祭神・氣比大神(けひのおほかみ)は ・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)説・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)説・天日槍(あめのひぼこ)説などがあります
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
古代朝鮮の加羅国王の王子とされ 角鹿(つぬが)〈角鹿から敦賀に転訛〉の語源とされる
天日槍(あめのひぼこ)と同一神とする説もある
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は
足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈第14代 仲哀天皇〉で 皇后は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は
地主神の伊奢沙別命です
“伊奢沙別”という名は 元は神功皇后の皇子 譽田別尊(応神天皇)の名であり “譽田別”という名は 元は伊奢沙別神の名であり 名(な)と魚(な)を交換したとされる
天日槍(あめのひぼこ)は
記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの渡来神
神功皇后の母は 天之日矛の子孫
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と同一神とする説もある
いずれも 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉に関連する神です
この天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社に 但馬國一之宮 出石神社 があります
神紋を同じくする 越前國一之宮 氣比神宮 と 但馬國一之宮 出石神社 について
双方とも 日本海側の大社であり 新羅からの渡来神 天日槍(あめのひぼこ)との関連があります
ともに・桐・三つ巴・十六八重菊を御神紋としているのは何故なのでしょうか
・越前國一之宮 氣比神宮〈神紋は 五七の桐 三つ巴 十六八重菊〉
・氣比神宮(敦賀市)
・但馬國一之宮 出石神社〈神紋は 五三の鬼桐 三つ巴 十六八重菊〉
・出石神社(豊岡市出石町)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR北陸本線 敦賀駅から北へ約1.1km 徒歩15分程度
氣比神宮 表参道には 旧国宝の氣比の大鳥居が建ちます
氣比神宮(敦賀市曙町)に参着
境内を抜けても良いのですが
そのまま車道を西へ進み 南参道口 さらに東参道口へと進むと最寄りの入口になります 境内案内図を参照願います
正安2年(1300年)まで 東口が境内表口であったと伝わります
東参道口には 社号標が立ちます
東参道を進みます
東参道の左手には 境内社〈・角鹿神社・兒宮・大神下前神社〉が鎮座します
〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ)
《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)《合》松尾大神(まつのおおおかみ)
・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
〈式内社〉摂社・大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《合》稲荷大神,金刀比羅大神
・大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
その更に東に 土公の遥拝所があります
氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)に参着
遥拝所の先に見えている山は 天筒山(てづつやま)
「嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ 更に神籬磐境の形態を留める 現「土公」は 氣比之大神降臨の地であり」とあります
遥拝所にすすみます
遥拝所には 鳥居が建てられていて 鳥居柱には「氣比宮 古殿地」と刻まれています
一礼をして 鳥居をくぐります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
遥拝所の先に見えている 天筒山(てづつやま)にも 改めて一礼をします
氣比神宮の境内へと向かいます
廻廊の東門から本殿に参拝します 氣比神宮の記事を参照ください
・氣比神宮(敦賀市)越前国一之宮
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
氣比神宮の神名「氣比大神(けひのおほかみ)」の由來として「皇太子(ホンダワケノミコト)と地主神(イザサワケノミコト)が 名(な)と魚(な)を交換したやり取り」が 記されています
【抜粋意訳】
仲哀天皇 の段 伊奢沙和気大神〈氣比大神(けひのおほかみ)〉
かくて 建内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)が 禊(みそぎ)をしようと
その太子〈ホンダワケノミコト 〉(後の第15代 応神天皇)をおつれ申し上げて
淡海〈近江〉から 若狹國(わかさのくに)を経歴した時 高志の前〈越前〉の角鹿(つぬが)〈敦賀〉に假宮を造くられました
その時 この土地に坐(ましま)す 伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)が 夜の夢にあらわれ「わたしの名 を 御子の御名 とかえたい」と仰せられた
その言にお答えして「恐れ多いことです 仰せの通り 御名をおかえ致します」と申しあげたまた その神が仰せになり「明日の朝 濱に出るがよい 名をかえたので 幣を献上しよう」と云われた
よって 翌朝 濱においでになつた時 鼻の毀(やぶ)れた入鹿魚(イルカ)が すでに或る浦に寄っていました
そこで 御子は 神に申された「神は わたくしに 御食の魚(みけのな)を給わられた」
それで この神の御名を稱えて 御食津大神(みけつおほかみ)と号〈名付け〉された その神は 今は 氣比大神(けひのおほかみ)と申し上げます
また その入鹿魚(イルカ)の鼻の血が臭かったので その浦を血浦(ちぬら)と言います 今は 都奴賀(つぬが)〈敦賀〉と言いますここに還ってお上りになる時 母君の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は 酒を造り待っていて 獻上された ここに母は歌を詠まれた
このお酒は わたくしのお酒ではございません
酒の神 常世(とこよ)においでになる 石に坐(まし)ます少名御神(すくなのかみ)の
神の寿〈神の祝〉寿き狂ほし〈祝い狂くるわせ〉て
豊寿き〈豊かに祝〉寿き廻ほし〈祝い廻り〉
献(たてまつ)り來(いらし)た 御酒です
さあ召しあがれ
そう歌われて お酒を献(たてまつ)りました ここに建内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)が 御子のために答え申し上げた歌は
この酒を釀(かも)した人は その鼓(つつみ)を 臼(うす)のように立て
歌いつつ釀(かも)したのか 舞いつつ釀(かも)したのか
この酒の 御酒の なんと楽しい酒
これは酒楽(さかくら)の歌でございます
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』仲哀天皇の段 に記される伝承
気長足姫尊〈神功皇后〉を皇后とし 角鹿(つぬが)〈敦賀〉にお出でになられ 行宮(かりみや)を建て 笥飯宮(けひのみや)と称したと記しています
【抜粋意訳】
仲哀天皇の段 二年春正月甲寅朔甲子〈春一月十一日〉の条
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉を皇后とされた
これより先に 叔父 彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘 大中媛(おほなかひめ)を娶り妃とされた
籠坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子(おしくまのみこ)を生まれた
次に 来熊田造(くくまたのみやつこ)の祖 大酒主(おほさかぬし)の娘 弟媛(おとひめ)を娶り 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生まれた二月癸未朔戊子〈二月六日〉の条
角鹿(つぬが)〈敦賀〉にお出でになられた
すぐに 行宮(かりみや)を建てて 居とされた
これを 笥飯宮(けひのみや)と言う
その月に 淡路屯倉(あわじのみやけ)を定められた
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』神功皇后の段 に記される伝承
【抜粋意訳】
神功皇后の段 十三年春二月丁巳朔甲子〈十三年春二月八日〉の条
武内宿禰(たけのうちすくね)に命じて 太子(ひつぎのみこ)〈応神天皇〉に従わせて 角鹿(つぬが)〈敦賀〉の笥飯大神(けひのおほかみ)に参拝された
癸酉〈十七日〉 太子は角鹿(つぬが)〈敦賀〉から戻られた
この日 皇太后は 太子のために 大殿(おほとの)で宴(とよあかり)〈宴会〉を催された 。
皇太后は觴(みさかずき)〈御盃〉を挙げて 太子に寿(さかほい)〈酒を呑み祝う〉をされた そして 歌を詠まれた此の御酒(ミキ)は 吾(ワ)が神酒(ミキ)ならず
神酒(クシ)の司(カミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す
いはたたす 少御神(スクナミカミ)の
豊寿(トヨホ)き 寿(ホ)き廻(モト)ほし
神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし
奉(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)そ
あさず飲(ヲ)せ ささコノミキハ ワガミキナラズ
クシノカミ 卜コヨニイマス
イハタタス スクナミ力ミノ
卜ヨホキ ホキモ卜ホシ
カムホキ ホキクルホシ
マツリコシミキソ
アサズヲセササ
〈歌の意〉
この神酒は 私だけの酒ではありません
神酒の司で常世の国に坐(まし)ます少名彦神が 祝いの言葉を述べながら そばで歌い狂い 天皇に醸し献上した御酒です
さあ 残さず お飲みなさい武内宿禰(たけのうちすくね)が 太子に変わり答えて歌った
此(コ)の御酒(ミキ)を 醸(カ)みけむ人は
その鼓(ツツミ) 臼(ウス)に立てて
歌ひつつ 醸(カ)みけめかも
この御酒(ミキ)の あやにうた楽しささコノミキヲ 力ミケムヒ卜ハ
ソノツツミ ウスニタテテ
ウタヒツツ 力ミケメカモ
コノミキノ アヤニウタタノシササ
〈歌の意〉
この神酒を醸した人は 鼓を臼のように立てて 歌い醸したからだろう
この神酒の 何ともおいしいことよ さあさあ
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』応神天皇の段 に記される伝承
ある伝として 笥飯大神(けひのおほかみ)と応神天皇とが名前を交換した と記しています
【抜粋意訳】
応神天皇の段〈誉田天皇(ほむたの すめらみこと)〉
誉田天皇(ほむたのすめらみこと)は 足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈仲哀天皇〉の第四子
母は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉という
天皇は 皇后が新羅(しらぎ)を討った歲次庚辰〈仲哀九年〉冬十二月に筑紫(ちくし)の蚊田(かだ)で お生まれになった
幼少から聡明 物事を深く遠く見通された
立居振る舞いに 聖人の兆しがあられた皇太后の摂政三年 皇太子に立たれた
時に 年三歳天皇が初め 孕まれておられる時 天神地祇(てんじんちぎ)は 三韓(みつのからくに)を授けた
生れた時すでに 腕の上に盛り上った肉があり その形が鞆(ほむた)(弓を射る革の防具)に似ていた
これは 皇太后〈神功皇后〉が雄装〈雄々しいなり〉をして 鞆(ほむた)を履いた様子に似られた肖は阿叡(ヘエ)と読みます
その名を称え 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)という
古の人は 弓の鞆(とも)のことを褒武多「ほむた」と言いました
ある伝によると
天皇が初め 太子となり 越国(こしのくに)〈北陸〉にお出ました角鹿(つぬが)〈敦賀〉の笥飯大神(けひのおほかみ)に拝祭(おがみ)奉りました
その時 大神と太子とが名前を交換した
それで 大神を名付けて 去来紗別神(いざさわけのかみ)と言うようになった
太子は 誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けたと云うすなわち 大神の元名は 誉田別神(ほむたわけのかみ) 太子の元名は 去来紗別尊(いざさわけのみこと)と云う
しかし 何も所見は無く 未だ詳らかではない摂政六十九年夏四月 皇太后が崩御された ときに年百歳
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』持統天皇の段 に記される伝承
越前国司(えちぜんのくにのつかさ)が 白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を捕らえ献上した これにより神封(〈気比神宮〉笥飯神(けひのかみ)に寄進された封戸)について 具体的に記されています
【抜粋意訳】
持統天皇の段 即位六年九月 癸丑(二十一日)の条
伊勢国司(いせのくにのつかさ)が 嘉禾(よきいね)二本を奉った
越前国司(えちぜんのくにのつかさ)が 白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を奉った戊午(二十六日)の条
詔(みことのり)して
「白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を角鹿郡(つぬがのこおり)の浦上(うらかみ)の浜で獲えた
よって 笥飯神(けひのかみ)〈気比神宮〉に 封(へひと)を二十戸を増し これまでの分の上に加える
【原文参照】