青麻神社(あおそじんじゃ)は 社伝によれば 仁寿2年(852)現社家の祖 穂積保昌が 都よりこの地に来て 土民に麻の栽培を教え 一族の尊崇する日月星の三光神を窟中に奉祀したのが青麻岩戸三光宮の創始で 天和2年(1682)に常陸坊海尊(長寿伝説)が下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し中風病退除の神として 各地に青麻神社が広まりました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
青麻神社(Aoso shrine)
[通称名(Common name)]
・青麻岩戸三光宮(あおそいわとさんこうぐう)
・青麻権現社(あおそごんげんしゃ)
【鎮座地 (Location) 】
宮城県仙台市宮城野区岩切字青麻沢32
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大御神(あまてらすおほみかみ)
月読神(つきよみのかみ)
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
《配》常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)(清悦仙人・伊豆伎翁)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)
・陸海上安全(穂積一族が水運に携わっていたことに因む)
・開運招福
【格 式 (Rules of dignity) 】
・各地の・青麻神社・三光神社の総本社
【創 建 (Beginning of history)】
青麻神社(あおそじんじゃ)青麻岩戸三光宮 青麻権現社
一、鎮座地
仙台市宮城野区岩切青麻山(県民の森内)一、祭 神
天照大御神、天之御中主神、月読神、常陸坊海尊一、由緒
社伝によれば、五十五代文徳天皇の仁寿二年(八五二年)山城国より穂積保昌この地に来り土人に麻の栽培を教え且つ一族の尊崇する 日、月、星 の三光神を窟中に奉祀せしに始まり、社名、又地名も麻の栽培より起る。
天和二年(一六八二年)常陸坊海尊この地に霊験を現し給いしにより併祀す。古来より中風病退除、眼病平癒、海陸安全の特殊信仰があり、三度詣でれば生涯中風にならないと伝えられる。延享三年仙台藩主伊達宗村を始め、藩主の参詣も度々あり、崇敬者は東北全般信越まで及ぶ。一、祭 日
例大祭 五月一日~三日 青麻神楽奉納
秋祭 十一月二十三日
詳細は社務所に御問合せ下さい現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
元禄11年(西暦1698年)、山火事により古記録等を焼失せるにより不詳なれども、社伝によれば、第55代文徳天皇の御世の仁寿2年(西暦852年)、現社家の遠祖穂積保昌が山城国(現京都府)よりこの地に来たり、里人に麻の栽培を教え、且、一族の尊崇せる日月星の三光神即ち天照大御神、天之御中主神、月読神の三神を清水湧く山峡の岩窟中に奉祀せしが本社の創始と伝える。
社名・地名も麻の栽培より起り、神紋も又麻の葉を用いる。仙台藩封内風土記(西暦1772年成立)にも、「岩切邑 本邑山中青麻と号する地あり 往古この地麻を植う 故に以て地名と為す 岩窟あり高さ一丈余・・・」と記している。
天和2年(西暦1682年)源義経家臣なりし常陸坊海尊(清悦仙人とも称する)下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し給いしにより併祀する。
古来より中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)・海上安全(穂積一族が水運に携わっていたことに因む)等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難よりのがれる」と伝えられ、各地青麻神社の総本社である。
古くは、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称し、中世から近世の古図や文献にも記載が見える。安永5年(西暦1776年)、現社家を遡る十代祖鈴木儀衛門は神祇伯白川家より神主許状と對馬の称号を賜る。その子対馬保義に至り、彌々青麻神社の奉斎と社地の整備さらに神徳の普及と講中の組織化と拡充をすすめ、傍ら、社入を以て青麻・入菅谷付近の山地に40万本余の植樹造林事業を起こして国用を助け、その功労は寛政13年(西暦1801年)・文化5年(西暦1808年)の二度にわたり仙台藩より褒賞に與っている。
延享3年(西暦1746年)伊達宗村公を始め、宝暦8年(西暦1758年)重村公、文政元年(西暦1818年)斉村公、慶応3年(西暦1867年)慶邦公等藩主の御崇敬と御参詣もあり、崇敬者は東北全域関東信越さらには北九州にも及んでおり、今も各地に青麻信仰の石碑や御分社を見ることができる。
享和年間に社殿を再興し、明治8年5月郷社に列格。大正5年より、大正御大典記念事業として社殿の大増改築を行い、神域荘厳を加える。
昭和43年不慮の火災に遭い、社殿・随神門・神楽殿を失うも、同45年に現社殿等を完成する。昭和58年4月27日、泉市(現仙台市泉区)山林より出火の山林火災は、折からの強風に煽られ3300ヘクタールの山林を焼失する未曾有の災害にも、神威の御加護により社殿及び神楽殿は類焼をまぬがれた。現社務所は昭和59年4月、現随神門は平成12年9月の再建になる。昭和42年、県の明治百年記念事業として、付近の丘陵地一帯が「宮城県民の森」に指定整備され、大都市近郊にありながら人々の憩いの森として保護育成されるに至るは、真に御神縁の発露と畏むものである。宮城県神社庁HPより抜粋
https://www.miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310010013
由緒
元禄11年山火事により古記録を焼失せるにより伝記河不詳なれ共、
社伝によれば、五十五代文徳天皇の仁寿2年(852)、現社家の遠祖都人穂積保昌この地に来り、土民に麻の栽培を教え且穂積一族の尊崇する日月星の三光神、即ち天照大神・天之御中主神・月読神の三神を窟中に奉祀せしが本社の創始で、社名・地名も麻の栽培より起り、社紋も又麻の葉を用いる。仙台藩封内風土記にも、<岩切邑本邑山中青麻と号する地あり、古この地麻を植う故に以て地名となす。岩窟あり。高さ丈余。>と記してある。
天和2年(1682)源義経家臣なりし常陸坊海尊この地に霊験を現し給いしにより併祀す。古来より中風退除、海上安全の特殊信仰があり、三度詣でれば生涯中風にかからないと伝えられ、各地青麻神社の総本社である。延享3年の伊達宗村を始め、宝暦8年重村、文政元年斉村、慶應3年慶邦等藩主の参詣あり。崇敬者は東北全域関東信越にまで及んでいる。古くは青麻岩戸三光宮又青麻権現と稱した。昭和43年社殿焼失するも、同45年現社殿完成す。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・御井神社
・七福神祠
・山神社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
社伝には 仁寿2年(852年)の創祀
社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に下向し 一族が尊崇していた日月星の三光の神を山峡の岩窟の中に祀ったのが始まり
安永五年(1767)現社家を遡る十代祖 鈴木儀衛門は神祇伯白川家より神主許状と對馬の称号を賜る
この32代神主・鈴木対馬が 京都において神祇官総領・白川神祇伯王家より相伝されたのが 榊流青麻神楽(さかきりゅうあおそかぐら)です
榊流青麻神楽(さかきりゅうあおそかぐら)について
神楽殿
青麻神社は,仙台市と利府町との境,「県民の森」内の谷あいに鎮座する神社で,社殿によれば仁寿2年(852)の創建といわれている。この神社に伝わる神楽は,文化4年(1807)11月青麻神社32代神主・鈴木対馬が,京都において神祇官総領・白川神祇伯王家より相伝され,神楽道具類一式も調達してきたと伝えられている。仙台市とその周辺より南の仙台藩領内に伝来してきた十二座神楽の一系派で,青麻神社では「榊流(さかきりゅう)」を称しているが,その演目・芸態・装束などには木下白山神社丹波神楽(仙台市登録無形文化財)などの「丹波流」と呼ばれてきた流派との相似性が多く見られる。以前は隣町の利府町入菅谷(いりすがや)の12家により伝承されてきたが,昭和50年(1975)からは岩切青年団を主体として伝承されている。特に「諏訪の舞」別名「力だめしの舞」は,非力な男が「宣命」(「勅命」と記した白紙を折りたたんだ託宣様の文書)の霊力により大力を得て,大石を軽々と持ち上げ,得意げなしぐさをみせるストーリーで,黙劇の筋立てを軽妙に演じている。(演じられる時期と場所:5月1・3日 青麻神社春季例祭)
仙台市教育委員会 文化財課HP
https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c02536.html
榊流青麻神楽(さかきりゅうあおそかぐら)
仙台市無形民俗文化財指定
江戸吋代の文化四年(西暦1807年)に、京都神祇伯白川家より習い伝えられました。
主に神話を題材に14の演目がありますが、一部欠落しているものもあります。各演目ごとに、ゆったりしたらんじょう(濫觴・乱序)と、リズミカルな舞、の二節の所作から成っています。お囃子(伴奏)は、太鼓・大拍子・神楽笛で奏でられ。発声や唄いはありません。
内容は、清純な乙女による御子舞で舞台を祓い清め、奉幣の舞で神様に捧げ物をした後、日本の国生み、神様の事蹟や恵み、厄災悪疫退散、五穀豊穣。大漁満足、などの演目が演じられます。今は、演じ手のそろい具合によって、ランダムに演じられる事が多くなっています。
かつては、利府入菅谷地区の人たちが伝えてきました。戦後、後継者難で継承の危機にありましたが、岩切青年団の有志が習い伝えて、平成3年、仙台市無形民俗文化財に指定されました。それにあわせて榊流青麻神楽保存会が結成され、現在に至っています。
興味のある方は、男女問わず練習参加を歓迎します。神社大広間にて2月~4月‘10月~11月の毎水曜日の午後8時から2時間程度稽古しています。
神社での奉納公演は、5月1日・5月3日・11月23日です。
座 名 称 配 役
第一座 御子舞 八乙女
第二座 奉幣舞 太玉命
第三座 剱 舞 大久米命
第四座 鉾 舞 伊邪那岐命
第五座 神招舞 天宇受女命
第六座 小弓舞 彦火火出見命
第七座 釣 舞 事代主命 御伴神
第八座 千歳舞 大国主命
第九座 追灘舞 八衢彦命
第十座 種蒔舞 天村君
第十一座 諏訪舞 建甕槌命 建御名方命
第十二座 肥川上舞 須佐之男命 櫛稲田姫命 足名槌命 手名槌命 八岐大蛇
第十三座 海津宮舞 綿津見命 塩土翁 彦火火出見命 火須勢理命
第十四座 岩戸開舞 天照大御神 天児屋根命 太玉命 天宇受女命 手力雄命現地案内板より
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
社伝には 仁寿2年(852年)社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に下向し 一族が尊崇していた日月星の三光の神を山峡の岩窟の中に祀ったのが創祀
社家の穂積一族の尊崇せる日月星の三光神とは
日月星の三光神 即ち
・日神〈天照大御神(あまてらすおほみかみ)〉(大日如来)
・月神〈月読神(つきよみのかみ)〉(不動明王)
・星神〈天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)〉(虚空蔵菩薩)
三光信仰の基となる 北辰妙見信仰(北辰信仰)とは
北辰信仰とは 北辰(北極星)を崇拝する中国の信仰が渡来して 日本では陰陽道と密教系の妙見信仰から 北極星を神格化した信仰となります
北半球に住む人々にとっては 夜空は北極星を中心に回転していて 天空にあって不動が故に 自分の今いる位置を知る北極星 この北極星を古代人が神と崇めたのが北辰妙見信仰(北辰信仰)です
『妙見(みょうけん)』は 仏教では菩薩とされ 天の中心にあって星々を従えているので 神道では『天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)《北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)》』とされます
中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)の各地青麻神社の総本社について
社伝には
天和2年(西暦1682年)源義経家臣なりし常陸坊海尊(清悦仙人とも称する)下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し給いしにより併祀する。
古来より中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)・海上安全(穂積一族が水運に携わっていたことに因む)等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難よりのがれる」と伝えられ、各地青麻神社の総本社である。
美和神社(長野市三輪)の境内社
青麻神社(あおそじんじゃ)《主》天照大神,天之御中主神,月読神,常陸坊海尊
・美和神社(長野市三輪)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR東北本線 岩切駅から県道270号を北上 約6.6km 車15分程度
グランディ・21(宮城県総合運動公園)から西へ宮城県県民の森に向かうと鎮座
青麻神社(仙台市宮城野区岩切)〈青麻岩戸三光宮〉に参着
社号標は二つあります
青麻岩戸三光宮
青麻神社
御神橋を渡ると 日の丸の提灯がかかげられた鳥居が建ち 一礼をしてくぐります
隋神門が建ち その奥が拝殿となります
拝殿にすすみます
青麻神社の名の通り 神紋は 麻の葉を用いています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
御本殿は 拝殿の背後の山の巌窟にあり 良く見ると 拝殿の奥の少し高い所に鎮座
山の巌窟に鎮座する本殿の様子は 絵図を参照すると良くわかります
境内には 綺麗な湧き水が豊富で 手水もこの湧き水で清めます
ここで水を汲むために訪れる方が沢山おられますが 是非しかっりとお賽銭もおさめ お詣りをされてから 水を酌まれる事をお薦めします
境内の西側には 榊流青麻神楽(さかきりゅうあおそかぐら)の神楽殿があります
社殿の向かって右側〈東側〉には 社務所があり お札など授与
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
由緒と穂積保昌がこの地に来て 野生の麻があり 里人に製法を伝え ここに留まり 社を創建した やがて 参拝者が増え 保昌の子孫が神職家となったと記されています
【抜粋意訳】
○宮城縣陸前國宮城郡岩切村大字岩切
郷社 青麻(アヲソノ)神社
祭神
天之御中主(アメノミナカヌシノ)神
天照(アマテラス)大神
月讀(ツキヨミノ)大神本社は元禄十一年二月四日の火災に罹り、縁起古記録は更なり、社家の系譜に至るまで悉く焼失したれば、傅記は詳ならざれど、社傳によれぱ、仁壽二年四月穂積保昌と云ふもの、故ありて流離して此地に来りしが、野生の麻苧多きを見て、土人に其製作の法を敢へしに、年餘功あり、土人の請により遂に此地に滞留して帰らず、大に麻苧の製作に熹痒せしかぱ、其名遠近に振ひ、郷曲も亦其名を冒すに至る、保昌亦一社を創めて尊信せしが、賽するもの日に多く、天和中に至りては諸国より参詣するもの漸く増加せしかぱ、保昌の子孫は神職となり、白川神祇伯王の配下となり奉祀するに至れり、享和年中神殿の再興あり、明治八年五月遂に郷社に列せらる、
封内記に「岩切邑北、有號青苧地往古、此地植麻苧、故以為地名、有岩窟高一丈餘、古来相傳祭大日不動虚空蔵、天和年中、邑民久作者、祈之得霊験、其窟高峻不易登、縋鐡鎖而上下、地僻去邑氏之居五六里、人跡常稀、而来拝者少矣、近歳崇信之者多、設階梯於岩窟、造営宮社及拝殿云々」とあるは当社を指せるものなるべし如く記して後の考証を俟つ、
社殿は、本殿、拝殿、唐門、隋神門、神楽殿、絵馬殿、神饌所等を具備し境内五百坪、ありて、境内は宮城黒川の郡界にして、三面は山を凝らし、老松古杉鬱蒼々たる間に梅櫻は春暁に艶を競ひ、楓櫨は秋夕に孵を街ふ、若し夫れ芳草烟る漱緑の下、枯木華咲く降雪の夕に至りては、閑雅縹渺恍として仙境にあるの想あらしむ。
【原文参照】
青麻神社(仙台市宮城野区岩切)〈青麻岩戸三光宮〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)