敢國神社(あえくにじんじゃ)は 社伝によれば第37代 斉明天皇(サイメイテンノウ)4年(658)に創建とされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に伊賀国の阿拝(アエ)郡の大社とされる古社です・阿閉臣(アヘノオミ)の祖神である大彦命(オオヒコノミコト)・古代に伊賀を拓いた渡来人の秦氏の信仰する少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀るとされる伊賀国の一之宮です
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 5 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 5.1 『日本書紀(nihon shoki)』養老4年(720)に記される伝承
- 5.2 『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承
- 5.3 『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』元慶3年(879年)完成 に記される伝承
- 5.4 『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立に記される伝承
- 5.5 『諸国一宮巡詣記抜粋(Shokoku Ichinomiya Jumpaikibassui)』著 橘三喜(Tachibana Mitsuyoshi)(1675年~1697年)に記される伝承
- 5.6 『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容
- 5.7 奈良県桜井市 阿倍(アべ)の地の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)所載 「大和國城上郡 若櫻神社(ワカザクラノカミノヤシロ)」の記事をご覧ください
- 5.8 「大和國城上郡 高屋安倍神社(タカヤアベノカミノヤシロ)三座 並名神大」の記事をご覧ください
- 6 「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
- 7 伊賀国 式内社 25座(大1座・小24座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
敢國神社(Aekuni Shrine)
(あえくにじんじゃ)
[通称名(Common name)]
一宮さん(いちぐうさん)
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊賀市一之宮877
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
中座《主》大彦命(Ohiko no mikoto)
右座《配》少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
左座《配》金山比咩命(Kanayamahime no mikoto)
本殿の左右に鎮座する社
左《配》九所社 祭神不詳
右《配》六所社 祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊・日神・月神・蛭子命・素盞鳴尊
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
大彦命(Ohiko no mikoto)
・交通安全
・健康長寿の神
少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
・医薬・酒造の祝神
・商売繁盛
・大魚豊穣の守護神
金山比咩命(Kanayamahime no mikoto)
・採鉱冶金機械工業などの守護神
・近代産業の霊験を垂れ給う守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(大)
・ 伊賀国一之宮(Iga no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代は 658年〈第37代 斉明天皇(サイメイテンノウ)4年〉
敢國神社の略史
当神社は 今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。
・・・・公式HPより
https://aekuni.jp/shrine/
【由 緒 (history)】
御神徳
大彦命は 第8代 孝元天皇の第一皇子にましまして 東北未開の地を教化の後、一族を率ゐてこの地に永住し給ひ、伊賀の国の開発に尽し給うた。
伊賀開拓教化の祖神と仰ぎまつる所以である。その後裔は 阿部・阿閉・敢・名張・伊賀等を氏として 諸国に繁栄し、世にアベ姓を称するものの総祖神にまします。
殊に交通安全、健康長寿、児童愛護等の御霊徳を有し給ふ神にまします。
少彦名命は
造化の三神である産霊神の御子神として神功の最も霊異なるによって 普く知られ、大国主命と力を協せて国土経営に当り給ひ 人畜救護の為に医薬・温泉・禁厭の法を創め酒造の道を開き給ふ等 其の恩沢に浴するもの万世に尽くることがない。
世に『ゑびす様』と称し 商売繁昌、大漁満足、五穀豊穣の守護神にまします。
だいこく様と共に福の神様として広く崇敬せられ 神助を仰がるるも亦斯る霊験ましますが故である。
又、縁結び、安産の守護神として神社に縁結社、桃太郎岩の霊巌が祭祀されている。金山比咩命は
御名の如く金の神にましまして 金銀銅鉄の本質及び其の運用を主宰し給ふ。
即ち採鉱・冶金・機械工業 其の他金属に関係ある一切の事柄に 霊験を垂れ給ひ、人類生活の幸福利益を守護し給ふ。
伊邪那美命の神々を産み給ひし時 火の神の次に成りませる神にまします。沿革
当社は古来 伊賀の一宮として、朝野の崇敬頗る篤く、殊に 当国の人々は総鎮守大氏神と仰ぎまつって 其の霊徳に浴して来た。
創立年代は詳でないが
貞観の頃 既に神階五位を授けられ、
延喜の制には大社に列せられた。
延長年間には 朝廷から社殿が修造せしめられ、
南北朝時代には、後村上天皇行幸ましまして 数日間御参篭あらせられ、社領の御加増もあった。
天正年間 兵燹に罹って 一時荒廃したが
徳川時代になって 藩主 藤堂家から社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興等が行はれ尊崇極めて深かった。
明治4年5月 国幣中社に列せられたが
昭和21年2月 官制廃止によって 国家の管理を離れ
現在は 宗教法人として神社本庁に所属し氏子崇敬者によって維持経営されることになってをる。丹塗の御殿は 朝日夕日に映じ 御神光燦として輝き 神域の尊重さと祭神の御加護にその霊徳の尊さを伺はせしめられます。
御祭典 毎月1日
月次祭 4月17日
春祭 11月23日
秋祭 12月4日
神幸祭 12月5日
例大祭 古来例祭は 伊賀のおんまつり と称し遠近からの参拝者が多く大祭中最も盛な御祭である。
獅子神楽 1月3日
初舞祭 4月17日
舞上祭史蹟名勝 南宮山
当社の前方にある高峰で伊賀富士ともいひ、頂上に末社 浅間社がある。金山比咩命の旧社地で四季共に眺望佳絶である。御墓山
当社の北方約壱粁佐那具町にあって 東西約45米南北約100米といふ広大な前方後円の古墳である。御祭神大彦命の御陵墓と伝へられてをる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
拝殿左の神饌所から続く 裏参道に 末社6社が鎮座
・若宮八幡社《主》仁徳天皇
・子授社《主》不詳
・神明社《主》天照大御神
・楠社《主》楠正成・藤堂元甫
・結社《主》高皇産霊尊・手間天神
・大石社《主》素盞嗚命・金山比古命・大山祇命・大日霊命
表参道沿いに鎮座
・市杵島神社《主》市杵島姫命
・浅間社 - 〈南宮山 山頂に鎮座する境外末社〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊賀国 25座(大1座・小24座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿拝郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 敢国神社(大)
[ふ り が な ](あへくにの かみのやしろ)(だい)
[Old Shrine name](Ahekuni no kamino yashiro)(Dai)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
敢國神社(Aekuni Shrine)は「あべ姓」の総祖神です
全国の・阿部・安倍(あべ)さん の祖神を祀ります
『日本書紀(nihon shoki)』にも
御祭神の大彦命(オオヒコノミコト)が ・阿倍臣(アベノオミ)・阿閉臣(アヘノオミ)・伊賀臣(イガノオミ)などの祖神(オヤガミ)として 記されています
下記「神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)」を参照
当神社のHPには 次のようにあります
当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。
又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ
「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝(あえ)氏を名乗るようになり、
後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。
「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に 伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
「アベ」の語源は 饗(アヘ)とも云われます
神をもてなす「饗(アヘ)」とは〈神に食物を供えることor神人共食の意味〉で この「アヘ」が 阿閉(アヘ)阿倍(アベ)の語源と云われています
阿部姓の発祥の地としては 大和国(ヤマトノクニ)「安倍文殊院」のある現 奈良県桜井市 阿倍(アべ)が 有力とみなされています
奈良県桜井市 阿倍(アべ)の地には
料理人の神様=饗神(アヘノカミ)〈大彦命の孫〉「伊波俄牟都加利命(イハカムツカリ)〈磐鹿六雁(イワカムツカリ)命〉の後裔」として若桜部朝臣が「伊波我加利命(イワカガリノミコト)」を祀る若櫻神社があります
奈良県桜井市 阿倍(アべ)の地に鎮座する 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)所載神社
「大和國城上郡 若櫻神社(ワカザクラノカミノヤシロ)」の記事をご覧ください
「大和國城上郡 高屋安倍神社(タカヤアベノカミノヤシロ)三座 並名神大」の記事をご覧ください
敢國神社(Aekuni Shrine)と 秦氏(ハタウジ)との関係性について
敢國神社(Aekuni Shrine)は
伊賀の地の中心的な氏族「阿倍(アベ)氏」「秦(ハタ)氏」の両氏に支えられ 伊賀国一之宮(Iga no kuni ichinomiya)として この地に盤石な基盤を根付いています
現在の祭神は
主祭神 大彦命(オオヒコノミコト)〈阿倍(アベ)氏の祖神〉
配祀神 少彦名命(スクナヒコナノミコト)〈秦(ハタ)氏の信仰神〉
当神社のHPには その関係性について 次のようにあります
古代 伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり 彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。
当時は 現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には 南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。・・・・・
・・・・・少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています。たとえば伊賀の組紐伊賀焼・酒造等があります。
又、芸能にもみられ、鎌倉時代に盛んになった能楽の祖と言われる観阿称は、伊賀の出身地であります。能楽が武士階級の娯楽に発展し、又、同じ頃に獅子神楽が庶民階級に発達していきました。
伊賀の郷は 忍者でも有名ですが
徳川幕府に仕えたとされる 有名な「服部半蔵(ハツトリ ハンゾウ)」も 服織(ハトリ)の名を継ぐ 秦氏の子孫とされています
『古事記(Kojiki)』和銅5年(712)第8代 孝元天皇(コウゲンテンノウ)〈BC214~bc 158年頃〉の条には 記される伝承
余談として述べますが
第8代 孝元天皇(コウゲンテンノウ)の第一子として 祭神の「大彦命(オオヒコノミコト)」が誕生しています
第二子の名前は「少名日子建猪心命(スクナヒコ タケイゴコロ ノ ミコト)」 といわれて 少彦名命(スクナヒコナノミコト)と瓜二つの名を持ちます
社伝によれば「大彦命率いる一族は 伊賀の国にお住みになり」とあって
かつて南宮山〈当神社の神体山とも云われる〉に祀られていたのは「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」と伝わります
これは偶然なのでしょうか
古事記の該当文を紹介します
意訳
この天皇〈孝元天皇(コウゲンテンノウ)〉は
穂積臣(ホズミノオミ)等の祖先 内色許男命(ウツシコヲノミコト)の妹
内色許売命(ウツシコメノミコト)を娶とり生んだ御子は大毘古命(オオヒコノミコト)
少名日子建猪心命(スクナヒコタケイゴコロノミコト)
若倭根子日子大毘々命(ワカヤマトネコヒコオホビビノミコト=開化天皇)
三柱です
【原文参照】『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊賀上野駅から 県道680号経由 東の方向へ約6.1km 車12分程度
駐車場は 境内の西側にあります
敢國神社(Aekuni Shrine)に参着
西から東側の社殿迄通じる2つの参道「表参道(南側)裏参道(北側)」が並行してあります
境内案内図を参照してください
裏参道(北側)には 古木が茂り趣きがありました
参道沿いに沢山の境内社が並び お詣りをしながら こちらより進みます
神輿庫 神饌殿 の前に来ると 裏参道は行き止まりになります
すぐ目の前には 拝殿があるのですが 一旦 下の境内に下りることになります
下の境内は 社殿に上がる階段の入り口があり狛犬が構えています
表参道から入口となっていて 朱色の鳥居が建ち すぐ脇に手水舎があり清めます
正面の拝殿にすすみます
「敢國大神」との扁額が掲げられています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の横から 瑞垣の中に鎮座する本殿を仰ぎます
階段を下りるとすぐに正面鳥居が見えています
階段の脇には
・桃太郎岩 南宮山頂から遷したとされる霊石があります
案内の立札には
桃太郎岩
古伝により この桃太郎岩は 今を去る550年前 南宮山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊石として 全国各地より信仰をあつめて居ります。御祈願を社務所の方にお越しくだされば 岩田帯及びお守りを授与いたします。
鳥居を抜けて 振り返り一礼をして 表参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』養老4年(720)に記される伝承
・阿倍臣(アベノオミ)・阿閉臣(アヘノオミ)・伊賀臣(イガノオミ)などの祖神(オヤガミ)として
第8代 孝元天皇(コウゲンテンノウ)〈BC214~bc 158年頃〉の第一皇子として 大彦命(オオヒコノミコト)が 記されています
意訳
第8代 孝元天皇(コウゲンテンノウ)〈BC214~bc 158年頃〉の条
即位7年 春2月2日
欝色謎命(ウチシコメノミコト)を皇后と立てました 后は二柱の男(ヒコミコ)と一柱の女(ヒメミコ)を生まれた第一子は 大彦命(オオヒコノミコト)と云う
第二子は 稚日本根子彦大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)〈第9代開化天皇〉と申す
第三子は 倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)です
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・大彦命(オオヒコノミコト)は これ
・阿倍臣(アベノオミ)
・膳臣(カシワデノオミ)
・阿閉臣(アヘノオミ)
・狹々城山君(ササキノヤマノキミ)
・筑紫国造(チクシノクニノミヤツコ)
・越国造(エツノクニノミヤツコ)
・伊賀臣(イガノオミ)
などの七族の始祖です
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承
阿閉氏(アヘノウジ)について いずれも 大彦命(オオヒコノミコト)を祖神(オヤガミ)として
・左京(サキョウ)・右京(ウキョウ)・山城国(ヤマシロノクニ)で
皇別(コウベツ)〈天皇家を先祖とした分流・庶流の氏族〉と記されています
・左京(サキョウ)皇別(コウベツ)の条
意訳
左京(サキョウ)皇別(コウベツ) 阿閉臣(アヘノオミ)
阿倍朝臣(アベノアソミ)同(オナジキ)祖(オヤ)
大彦命(オオヒコノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
・右京(ウキョウ)皇別(コウベツ)の条
意訳
右京(ウキョウ)皇別(コウベツ) 阿閉臣(アヘノオミ)
大彦命(オオヒコノミコト)の男(コ)
彦背立大稲輿命(ヒコセタツオオイネコシノミコト)
之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
・山城国(ヤマシロノクニ)皇別(コウベツ)の条
意訳
山城国(ヤマシロノクニ)皇別(コウベツ) 阿閉臣(アヘノオミ)
阿倍朝臣(アベノアソミ)同(オナジキ)祖(オヤ)
大彦命(オオヒコノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』元慶3年(879年)完成 に記される伝承
神階の授与が記されます
伊豆国の4神 と 伊賀国の2神が 並んで神階を従五位下を授かります
敢國神社の表記は「津神(ツノカミ)」です
意訳
嘉祥3年(850)6月庚戌(4日)の条
伊豆国 阿米都和気命(アメツノワケノミコト)
伊太豆和気命(イタツワケノミコト)
阿豆佐和気命(アヲリワケノミコト)
佐岐多麻比咩命(サキタマヒメノミコト)
伊賀国 佐々神(ササノカミ)
津神等(ツノカミ)〈敢國神社〉
並びに授くに 従五位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立に記される伝承
神階を上げていきます
貞観9年(867年)従五位下から従五位上へ 表記は「敢国津神(アヘクニツノカミ)」です
貞観15年(873年)従五位上から正五位下へ 表記は「敢国津大社神(アヘクニ ツノ オオヤシロノカミ)」です
意訳
貞観9年(867)10月庚午(5日)の条
授に
讃岐国 正五位下 田村神(タムラノカミ) 従四位下伊賀国 従五位下 敢国津神(アヘクニツノカミ)〈敢國神社〉
飛騨国 従五位下 水無神(ミナセノカミ)
荏神 槻本神 大津神 荒城神 栗原神 阿多由太神 高田神
越中国 従五位下 御田神(ミタノカミ)
等(ナド)並(ナラビニ)従五位上
意訳
貞観15年(873)9月己丑(27日)の条
授に
伊賀国 従五位上 敢国津大社神(アヘクニツノ オオヤシロノカミ)正五位 〈敢國神社〉
従五位下 佐々神 応感神 阿波神 宇奈根神 並従五位上正六位上 宇豆賀神 神鹿高神
遠江国 正六位上 伊古奈神 鋳銭司 黒山神 火山神 並従五位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『諸国一宮巡詣記抜粋(Shokoku Ichinomiya Jumpaikibassui)』著 橘三喜(Tachibana Mitsuyoshi)(1675年~1697年)に記される伝承
祭神を 敢国金山姫(アエクニカナヤマヒメ)としています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋 乾』(1675年~1697年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039344&ID=M2014090119552785625&TYPE=&NO=画像利用
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容
祭神は 「阿倍臣(アベノオミ)阿閉臣(アヘノオミ)伊賀臣(イガノオミ)の祖(オヤ)である 大彦命(オオヒコノミコト)を敢國神(アヘノクニノカミ)と称し奉れるものとみえる」 とあります
別説として 少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀るとして 三国地誌を紹介しています
「敢國」は 社号であり
「南宮」は 地名である
分けて 云う時は
敢国津神(アヘクニ ツノカミ)は 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
南宮(ナングウ)は 金山比咩命(カナヤマヒメノミコト)なり
意訳
敢國(アヘノクニツ)神社
祭神 敢國津神(アヘノクニツノカミ)
今按〈今考えるに〉
一宮に祀る祭神 金山姫命(カナヤマヒメノミコト) 総國風土記にも 一宮山 云々とあり 神号「敢國大明神」所祭 金山姫命なりとあれど信じがたし
又
一本風土記に玉綴山 この山あり 神奉り申して 敢國所に祀る 少彦名命(スクナヒコナノミコト)とあるは 大彦命(オオヒコノミコト)を誤れるものなるべし『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』に
「阿倍朝臣(アベノアソミ)大彦命(オオヒコノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)」また
「阿閉臣(アヘノオミ)大彦命(オオヒコノミコト)の男(コ) 彦背立大稲輿命(ヒコセタツオオイネコシノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)」とみえ『日本書紀(nihon shoki)』第8代 孝元天皇(コウゲンテンノウ)〈BC214~bc 158年頃〉の条に
「大彦命(オオヒコノミコト)は これ
・阿倍臣(アベノオミ)
・膳臣(カシワデノオミ)
・阿閉臣(アヘノオミ)
・狹々城山君(ササキノヤマノキミ)
・筑紫国造(チクシノクニノミヤツコ)
・越国造(エツノクニノミヤツコ)
・伊賀臣(イガノオミ)
などの七族の始祖です」とあるのを以って考えるに
大彦命(オオヒコノミコト)の御子孫の この国に蕃衍(ハンエイ)〈しげりはびこること〉して その氏人の多かりし故に
阿倍臣(アベノオミ)とも阿閉臣(アヘノオミ)とも伊賀臣(イガノオミ)とも 屓しなるべければ〈互いに力を出しているため〉その祖(オヤ)とある大彦命(オオヒコノミコト)を敢國神(アヘノクニノカミ)と称し奉れるものとみえる
神位 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・祭日 12月 初卯日
社格 國幣中社
所在 三重県大九区一宮村今按〈今考えるに〉
本社の祭神を
少彦名神(スクナヒコナノカミ)と云い 又
南宮明神 金山比咩命(カナヤマヒメノミコト)と云うによりて みな人の迷うことになれどもこれは伊賀名所記に 国分云う
人皇64代 円融天皇(エンユウテンノウ)貞元2年2月 告のこと有りて
この南宮山も一宮山となり侍る(ハベル)とみえ三国地誌に 本社のことを 一宮村に坐す 一宮明神と称す これなり
一宮と千歳の両村の総社とす
祭神2座 少彦名命(スクナヒコナノミコト)金山比咩命(カナヤマヒメノミコト)なり
「敢國(アヘクニ)」は 社号であり
「南宮(ナングウ)」は 地名である
分けて 云う時は
敢国津神(アヘクニ ツノカミ)は 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
南宮(ナングウ)は 金山比咩命(カナヤマヒメノミコト)なりとあるにて
南宮は もと本社の祭神にあらず 南宮山と云うも 旧名に非ざることを知るべし
姑附て考に備ふ
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
敢國神社(Aekuni Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)