穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
穗高神社 奥宮(Hotaka shrine Okunomiya)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
長野県松本市安曇上高地4468
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》穗高見命(ほたかみのみこと)
別名〈宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・交通安全、登山安全の守り神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
穗高神社奥宮
御祭神 穗高見命(ほたかものみこと)
(別名 宇都志日金折命 うつしひかなさくのみこと)日本アルプスの総鎮守であり、交通安全、登山安全の守り神として、広く信仰されています。
鎮座地 中部山岳国立公園の中心地で山紫水明の明神池畔に鎮座。神域は明神池を含む五万三千平方メートル (一万六千坪 )で春夏秋冬おもむきを異にする自然の浄地です。
元禄六年 (一六九三年 )に書かれた「穗高三之宮」は、穗髙大明神は穂高岳に鎮座し、幣帛(へいはく)の如くその麓には鏡山と宮川の御手洗があり、その所を神合地 (上高地)と記しています。
例祭 毎年十月八日斎行「御船神事」は明神池に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の二艘の船を浮かべ、山の安全を感謝します。
神社配布紙より
【由 緒 (History)】
穂高神社 奥宮 由緒
一、御祭神 穂高見神 (神武天皇の御叔父神)
一、例 祭 十月八日 (紅葉祭りともいう)
同日 (日本アルプス遭難者慰霊祭)一、神 域 一六、〇〇〇坪 (五万二千八百平方米)
一、鎮座地 松本市安曇上高地明神池畔
由緒
太古 奥穂高岳に天降(あまくだ)ったと伝えられる穂高見神(ほたかみのかみ)は、海神(かいしん)綿津見神(わたつみのかみ)の御子神で、海神の宗族として遠く北九州に栄え信濃の開発に功を樹てた安曇族(あづみぞく)の祖神(おやがみ)として奉斎され、日本アルプスの総鎮守(そうちんじゅ)として明神池畔に鎮座する。
松本藩主 水野忠恒 大成の信府統記(しんぷとうき)(一七四二)には、
「皇御孫尊(すめみまのみこと)穂高嶽ニ鎮座マシマスト云ヘリ、此嶽清浄ニシテ其形幣帛(へいはく)ノ如ク麓ニ鏡池、宮川、御手洗(みたらし)、河水アル所ヲ神合地ト云フ、大職冠(たいしょくかん)鎌足公(かまたりこう)モ此神ヲ敬(うや)ミ祭リ給ヘリ…」
とあり、すでに江戸時代中期には松本藩からも厚く崇敬されて、鎮座の昔を仰ぎみることが出来る。上高地は古くから神降地、神合地、神垣内、神河内とされ、神々を祀るに最も相応しい神聖な浄地である。
善光寺名所図会(一八四三)に霊湖とされている明神池 は鏡池、神池ともいわれ、明神岳(穂高岳の一峯)の直下にして一の池・二の池からなり、奇石奇樹の島影は神秘ただよい、十月八日神池に浮かぶ龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の御船は碧潭(へきたん)に映えて美しく平安朝の昔を偲ばせる。
嶺 宮 奥穂高岳に鎮座
本 宮 安曇野市穂高に鎮座
現地境内案内板より
穗髙神社奥宮
神降地(かみこうち)でねがいがかなう 明神の祈り
「神主が神様に願い事をお伝えする御祈祷を致します」
穗髙神社は日本アルプス総鎮守と崇められ、中部山岳国立公園である上高地の明神岳の直下にたたずむ明神池の畔に鎮座します。明和七年(一七七〇)に「穗髙嶽御造営奉加帳」が記されており、それ以前には既に建立がなされていたと考えられます。同年「雨乞三齋日記」が記されており、奥宮では雨乞いが盛んに行われていたことが読み取れます。また明神池は古くは「鏡池」とも称され、神秘的な池として現在でも多くの人々が参拝します。
明神池(明神池はパワースポット)
穗髙神社奥宮の奥にあるのが荘厳なムード漂う明神池。ここは穗髙神社の神域です。この針葉樹林に囲まれた神秘的な池はひょうたんの形をしていて、手前を一之池、奥を二之池と呼び、かつてはその奥に三之池がありました。池にはイチョウバイガモという珍しい水草が見られ、岩魚やマガモの姿も見られます。伏流水や湧水を集めた明神池は、氷結しないことで知られ、四季折々の風景が水面に映し出されます。また、強い霊気、パワーの源といわれるパワースポットと言われております。 明神池のいたる所にパワースポットがあるとされ、自分なりのパワースポットを決めて写真に取り込み運気パワーをいただいて下さい。
穂高神社公式HPより
https://www.hotakajinja.com/okumiya.html
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内図
・本殿
・神門拝所
・狛犬
・明神池
明神池
針葉樹林にかこまれた穗高神社の神域です。ひょうたんのような形で、手前が一之池(いちのいけ)、奥が二之池 (にのいけ)と呼ばれます。イチョウバイカモという珍しい水草や岩魚、マガモが生息しています。
穗高神社奥宮例祭(御船神事)
毎年10月8日に穗高神社奥宮で行われる山の安全と神の恵みに感謝するお祭りです。雅楽を奏で、龍の頭と鶴(ゲキ)の首をあしらった2艘の船を池に浮かべて繰り広げられます。
配布パンフレットより
・明神池〈御舟に乗り〉
・明神池の水は透明
・明神池から見る 明神岳
・明神二之池
・明神二之池から見る 明神岳
・明神池 嶺宮遥拝所
嶺宮遥拝所(みねみやようはいじょ)の御案内
明神池畔に「嶺宮遥拝所(みねみやようはいじょ)」を設けて居ります.明神池の拝観と併せ、お参りください.
遥拝所・・・遠くにあり、自分で足を運ぶことの難しい寺社を拝むための場です。参拝作法は二礼・二拍手•一礼となります。(当社の場合)
現地案内より
・龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)
龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)
龍(りゅう)と鷁(げき)は いずれも想像上の動物です。龍はよく水を渡り、鷁はよく飛んで風に耐えるとされ、開運吉祥を招く象徵として古くから用いられてきました。穗高神社奥宮例大祭「御船神事」(毎年10月8日斎行)では、この龍頭鷁首を舳先(へさき)に取り付けた二艘(にそう)の船が、楽人の音色と共に明神池を一周します。
現地案内より
・御神橋
・鳥居
・参道
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
穂高神社は 本宮 奥宮 嶺宮からなります
・本宮 穗髙神社(安曇野市穂高)
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
・嶺宮〈奥穂高岳の山頂〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・南方刀美神社二座 穂高神社一座 生嶋足嶋神社二座〈已上 信濃国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃國 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安曇郡 2座(大1座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 穗髙神社(名神大)
[ふ り が な ](ほたかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hotaka no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
信濃國と阿曇族について
酒井春人氏の研究に詳しいので ご紹介します
〔酒井春人 1949年 長野市生まれ 早稲田大学第一文学部卒 1993 年龍鳳書房を設立現在代表取締役〕2015年7月
知られざる日本古代史②『海人族安曇族と古代日本列島』安曇族研究会会員 酒井春人 より抜粋
【抜粋意訳】
安曇族の祖神は綿津見神
前号で福岡県の志賀海神社の祭神が、綿津見三神 (表津•仲津・底津 )の海神であることをご紹介した。安曇族はこの綿津見神を祖神とすると言われている。
・・・
・・・全国に刻された安曇族の足跡
安曇族の痕跡は、日本全国に三十数か所あると言われている。今のところ、地名あるいは綿津見系の神社の鎮座地、苗字、地域の伝説などからその関係地を割り出す作業が行われている。
・・・
・・・
その成果を紹介すると、安曇族の本拠地は福岡県の玄界灘を望む志賀島。前号で紹介したように、中国春秋時代の呉国の人々が、紀元前五世紀後半に越との戦争に負けて、海に逃亡し、北部九州、あるいは対馬、毫岐、さらには朝鮮半島の南部にたどり着いたと考えられる。この時、大海を渡る操船の技術を持つ海人族である呉の人々 (安曇族)は、呉の農民や各種技術者を古代日本列島に入植させ、生活の面倒をみたと前述した。
安曇族は、巧みな操船の技術を駆使して、日本海側を北上、日本各地にその痕跡をとどめる。前記米子市の上下安曇、石川県羽咋郡志賀町安津見、滋賀県高島市安曇川町、新潟県岩船郡関川村安角、山形県鶴岡市温海などがその関係地ではないかと考えられる。いずれもこれら関係地には、近くに大きな河川があり、日本海に注いでいる。
長野県の安曇族
こうした全国の安曇族関係地の中でも長野県は、本拠地福岡を凌ぐ第二の安曇族の故郷ではないかと言われているほど、その痕跡が色濃いところである。
まず、穂高神社のある安曇野市は多くの人が知るところだが、以外と知られていないのが、川中島平と佐久平。・・・
すると、安曇族はどのルートを使って、信州に入ってきたのだろうか。考えられるのは信濃川ルー卜である。信濃川から千曲川を経由して入り込むことは、そうむずかしいことではない。・・・
・・・【原文参照】詳しくは原文をお読みください
『千曲川地域の人と文化 2015年7月』より抜粋
https://ueda.zuku.jp/journal/2015.7.pdf
『小学国史教授用郷土史年表並解説』〈昭和12年(1937)〉に記される「阿曇氏の祖 早くより信濃に入る」より
信濃國に入った阿曇氏が 祀つた神社について記されています
【抜粋意訳】
阿曇氏の祖早くより信濃に入る。
阿曇氏は元來海部の頭梁であるから海岸にばかり榮えたやうに思はれるにも拘はらず、この信濃のやうな山國にも住したことが部名以外、地方神社名に依って想像することが出來る。
卽ちこの氏又は此の氏の率ゐし海部 若しくは其部曲である阿曇部の住したことは、安曇郡の明神大社、穂高神社が安曇氏の祖神として仰がれる穂高見神を祀つてゐること、同じく式内社である川會神社が亦海神を祀ってゐることに依っても明である。本郡内の式内社 氷鉋斗賣神社は阿曇氏の祖 宇都志日金拆命を祀ってゐる。これ又 阿曇氏の住したことを證するものであらう。又地名にも氷飽、斗賣二郷がある。これは二郷に住した阿曇族が其の奉齋神の名稱を二分して地名としたのであらう。本郡の隣 埴科都には阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命を祀ってゐる處の玉依比賣神社が東條村にある。小縣郡には海部郷がある。兎に角 阿曇氏の族は早くから阿曇・更級・埴科・小縣に分布したのであろう。(更科郡誌、)
【原文参照】
安曇族の氏神とされる 志賀海神社について
古来 綿津見三神を奉斎してきた神裔「阿曇族」は志賀島を一大拠点として 国内・大陸との交易を広く行い 経済的•文化的に高い氏族であったとされます
志賀海神社は 式内名神大社です 別記事を参照してください
延喜式内社 筑前國 糟屋郡 志加海神社三座(並名神大)(しかのうみの かみのやしろ みくら)
・志賀海神社 沖津宮(志賀島 勝馬)
・志賀海神社 中津宮(志賀島 勝馬)
・志賀海神社(志賀島)
その他 神裔「阿曇族」の足跡は 長野県安曇野市穂高・対馬・兵庫・石川県志賀町・愛知県渥美半島などに 「しか」「あっみ」と称した地名が見られます
対馬 和多都美神社(対馬 仁位)には 阿曇磯良の墓であるとの伝説が残る゛磯良恵比寿゛が祀られています
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 和多都美神社(名神大)(わたつみの かみのやしろ)
・和多都美神社(対馬 仁位)
信濃國に残る阿曇族の伝承の 式内社
延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる穗高見命(ほたかみのみこと)(別名 宇都志日金拆命 うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・穗髙神社(安曇野市穂高)
・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)
延喜式内社 信濃國 安曇郡 川會神社(かはあひの かみのやしろ)
海神として 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀られています
・川会神社(北安曇郡池田町)
延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)
安曇氏の祖神として仰がれる 宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)が 祀られます
・氷鉇斗賣神社(長野市稲里町下氷鉋)
・更級斗女神社(長野市川中島町御厨)
〈参考論社〉・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)
〈参考論社〉・川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)
〈参考論社〉・氷鉋神社(長野市稲里町中央)
延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)
阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命が 祀られています
・玉依比賣命神社(長野市松代町東条)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
上高地バスターミナルから 東へ約4km 徒歩60~80分程度
さわんど駐車場より 出発して 上高地のバスターミナルまでタクシー
上高地のバスターミナルから出発します
河童橋が見えてきます
河童橋/kpa-bashi Bridge
上高地のシンボルとなっているのが、河童橋です。明治43(1910)年に、それまでのはね橋から、つり橋に架け替えられました。当時のつり橋には欄干がなく、基礎は丸太で固定しただけのものでした。現在の河童橋は、平成9(1997)年に架け替えられた5代目です。
日本を代表する文豪の一人である芥川龍之介は、昭和2(1927)年に上高地と河童橋を舞台とした小熊「河童」を発表し、河童橋の名が広く知られるようになりました。
環境省
現地案内板より
河童橋を渡り 梓川の右岸を進みます
遊歩道を歩きながら゛クマベル゛を皆さんが鳴らしています
梓川の清流の対岸には 六百山が聳えています
立ち枯れた木々が横たわります
明神池から流れ出ている清流を渡ります
明神橋の手前に出ました
ここで左側〈北方向〉に 奥宮への参道があります
穗高神社 奥宮(松本市安曇上高地)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり抜けて 参道を進むと御神橋があり その先が境内です
向かって左手にあるのが社務所で 正面が本殿となります
特別参拝を受けます
拝殿にすすみます
正式参拝 玉串を奉り お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参拝を終えて 明神池で御船に乗船します
明神池への道から見る本殿
御船から見た 明神池の嶺宮遥拝所です
明神池の中央辺りから
明神岳の麓あたり
明神岳の全景 お祈りをします
明神池から見た 本殿の裏側
御舟をおりて 二之池へ
二之池から見る明神岳です
明神池に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 穗高神社 名神大について 所在は゛穂高村に在す゛〈現 穗髙神社(安曇野市穂高)〉と記しています
【抜粋意訳】
穗高神社 名神大
穂高は保多加と訓べし
○祭神 穂高見命
○穂高村に在す
○式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕信濃國 穂高神社一座、
〔連胤〕按るに、穂高見命は 安曇宿禰之租也、〔姓氏録の文郡の下に見ゆ〕今猶 安曇氏の輩奉仕す、
雑事
朝野群載云、康和五年六月十日、奏亀卜、御体御卜、〔中略〕坐に信濃國 穗高神云云、社司等、依過に穢神事崇給、遣使科に中緩祓、可令に稜清奉仕事、〔下略〕宮主從五下行少裕卜部宿禰兼良、中臣從五位上行権少副大仲臣朝臣輔清
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 穗高神社 名神大について 所在は゛穗高山の下穂高村にあり゛〈現 穗髙神社(安曇野市穂高)〉と記しています
【抜粋意訳】
穗髙神社
今 穗高山の下穂高村にあり、〔神名帳考、信濃地名考、信濃國圖〕〔〇按 本郡仁科村の北に海あり、青木海中網海海口などてふ、青木海 廣三十餘町と云り 本國に此神を祭るは蓋又 此故也姑附て考に備ふ、〕
盖 海神 穗高見命を祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式、〕
清和天皇 貞観元年二月丁酉、從五位下 寶高神に從五位上を授け、〔三代実録〕〔〇按 本書、寶高を守高と作るは誤れり、故今 神階記に據て之を訂す〕醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕
堀河天皇 康和五年六月、穗高神社司に中祓を科す、神事を穢す御祟、御卜に出るを以て也、〔朝野群載〕
凡 其祭正月十七日、奉射神事あり、七月二十七日、氏子の村々船形を造り、人をして曳しむるを例とす、〔筑摩縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 穗高神社 名神大について 所在は゛穂高村 穂高(南安曇郡東穂高村大字東穂高)゛〈現 穗髙神社(安曇野市穂高)〉と記しています
【抜粋意訳】
穗高神社 名神大
祭神 穂高見ノ命
今按 新撰姓氏録に安曇ノ宿彌 海神 綿積豊玉彦ノ神ノ子 穗高見ノ命之後也とみえたるを 本郡に穗高ノ神社あるいと由あり
祭日 七月二十五日
社格 郷社 縣社所在 穂高村 穂高(南安曇郡東穂高村大字東穂高)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇長野縣 信濃國 南安曇郡東穂高村大字穂高
縣社 穗高(ホタカノ)神社
祭神
(奥社)穗高見(ホタカミノ)命
(里社)穂高見(ホタカミノ)命 綿津見(ワタツミノ)命 瓊々杵(ニニギノ)尊創立年代詳ならず、
口碑に云ふ、上古は穂高嶽に鎮座せしを、大化年間里社を造立して遷座すと、即ち延喜式内名神大社に列せらる、
神祇志料に「今穂高村にあり、〔神名帳考、信濃地名考、行賽鈔、信濃国圖〕盖海神穂高見命を祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式〕
清和天皇 貞観元年二月丁酉従五位下 寶高神に從五泣上を授け云々、
堀河天皇 康和五年六月、穂高神社司に中祓を科す、神事を穢す御崇、御トに出るを以て也、〔朝野群載〕凡其祭正月十七日、奉射神事あり、七月二十七日、氏子の村々船形を作り、人をして曳しむるを例とす〔筑摩縣神社誌〕とあり。信濃地名考に曰く「安曇郡穂高神社は保高のむらにいます〔神名式名神大〕當郡西の方飛騨國に坂合(サカフ)、仰げば保高嶽雲に聳えて連山左右に兒立す、神號も爰に據る歟、古事記、舊綿津見神者阿曇連等之祖神云々、」
姓氏録、同安曇宿根海神綿積豊玉彦神子穂高見命後云々、又海神ノ後 海犬養(ワタイヌカヒ)の姓も見えたり、加茂翁曰あつみは海てふことそ綿積たつの約つ也、わあ通じて阿曇なり、あつを約ればうとなれり、今大町の奥に海猶残れり(中略)この地草創の水を治めたる氏神の勲功仰ぐべき也、」
信府統記に、穂高大明神は火瓊々杵尊を祀れるものなり、往古 當國神合地(カミカフタ)穂高岳に垂跡ありて、其後 此處に鎮座せし故、在號をも穂高と称するものにゃ云々」と、
神紙志料にも「按本郡仁科村の北に海あり、青木海中綱海海口などと云ふ、青木海廣三十余町と云り、本国に此神を祭るは蓋此故也、妬附て考に備ふ」など見ゆれば、穂高の神たる。蓋し水徳の神たるや知るべきなり、
されど信濃奇勝録に、信府統記を引きて、穂高の岳は雲にそびえて連山左右に兒立す、穂高村にいます、
又信府統記に光仁天皇の御宇、中房山の悪賊此邊を暴乱し、神社佛閣を破却す、桓武帝の御字 坂上田村丸これを退治す、文徳帝の御字 信濃の中将と聞えし人、當社を造営の事有、按に此中將は其頃 當國の國司にや、仁明天皇の孫とかや、又俗に物草太郎と称するは此人なりといへり、物草太郎物語に昔二位の中將にて在せし入の信濃に左遷し玉ひしが、子なき事を憂へて善光寺の如来に祈り、一子をまうしうけて、三とせといふ年に二親みまかりければ、世にはふれて筑摩郡あたらしの郷といふ所の里人に養れて成長、其名を物草太郎と號く、かくて其里のながぶといふにやとはれて都にのぼり、ながぶの期果てかへるさに、清水の邊に徘徊、侍從の局といへる女房に懸想して、其夜七條のすゑ、から橘の紫の門のやかたへ忽び入りし事など作り、又信濃の中将となりて筑摩の郷にやかたし、百二十年の齢をたもちて榮え、後に殿はおたかの明神、(ほたかの誤か)、女房は朝日の権現とあらほれ玉ふと云々、今当社頭の末社 若宮明神の祠は 此中将を祭ると祠司の説也、本社の後背に塚あり。これを物草太郎が塚といひ傳ふ。
「松本の西南一里餘へだちて新村と云ふ地あり、上新村、下新村其外東南北の五つに又属邑有り、此地むかし物草太郎が住居の所といひ傳ふ、あたらしの郷名転じて新村と唱ふるにや、又もとより新の郷なりしを他にて推量に新の郷と訓しにや。」大日本地名辞書に、「穂高(ホタカ)神社、俗説に仁明帝の王子物草太邸本社を建て、太郎の墳墓神域に存するもの是なりと云ひ、又穂高神は皇極天皇の王子にて、白雉四年伊勢國より下向、又此神は初め穂高嶽に天降りたまふ、即火々瓊々杵尊なり等種々に談ず云々」など云へれば、又其論の多き知るべき也、
降つて神裔安曇比羅夫 当地穂高村に宮殿を建立するに当り、祖宗徳高見命を穂高嶽より此処に奉遷し、庁含を建てて代々祭政を統治す大寶三年八月勅使奉幣の儀あり、神護景雲二年二月 安曇氏禁中に召され、内膳司に奉仕せしかば、箭原庄司高明親王に代りて祭政を統一す、爾来交も領主の祀る所となる、
文明年間 仁科少輔盛知領主たる時、二十一年毎に本殿を造営し、七年毎に本殿以下を修繕し、其費額は郡内五十余郷に賦課して之を出さしむ、〔其書類数通 今寶庫に存す〕
尋いで慶長年間 小笠原秀政、黒印地十石及び籾二十五俵、並に祭免として年々六俵づつを附す、爾来領主代々寄付の社領ありしが、維新の際上地す、然れども、祭儀典禮の如きは、総て先躍に從ひ 舊例を存じ、今尚二月二十七日の春季祭には、奉射の神事とて射的の儀あり、又九月二十七日の秋季には、氏子中にて家格あるもの裃を着し、両刀を帯し、竹の杖を持ちて警固す、此等皆古例に拠るものなりと云ふ、本社穂高嶽の社殿を奥社と称し、本殿の西南にあり、今旧穂高村、旧等々力村、旧穂高町村、旧等々力町村等の産土神だり、明治五年十一月郷社に列し、同十五年縣社に昇格す、
社殿は奥社本殿、里社本殿三宇、鎮齋殿、勅使殿、神樂殿、寶蔵、社務所等を具備し、境内坪数壱萬六千六十二坪(官有地第一種)あり、三十七年中上地林三千九百餘坪を編入許可せらる境内神社
皇太神宮 子安社 若宮社 保食社 八坂社 四神神社
【原文参照】