仲津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉

津宮(なかつぐう)は 現在 志賀海神社の摂社です 古くは 志賀島北部の勝馬に表津宮゛゛仲津宮゛゛沖津宮゛の三社が鎮座し それぞれに゛表津綿津見神゛゛仲津綿津見神゛゛底津綿津見神が祀られていました 2世紀4世紀の間に表津宮゛が 勝山の麓に遷座し 併せて仲津綿津見神゛゛表津綿津見神が奉祀され 現在の志賀海神社となったと伝わります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

津宮Nakatsugu)〈志賀海神社 摂社〉

通称名(Common name)

・勝馬宮(かつまぐう)
・中津宮古墳(なかつぐうこふん)

【鎮座地 (Location) 

福岡県福岡市東区勝馬1787−1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》仲津綿津見神(なかつ わたつみのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
志賀海神社 摂社〉

【創  (Beginning of history)】

当神社の創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で綿津見三神が奉斎されていた。凡そ1800年前、神功皇后の三韓出兵に際し舟師を率い御舟を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したとも伝えられている。

志賀海神社パンフレットより抜粋

志賀海神社 略記

御祭神
左殿 仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
中殿 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
右殿 表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)

御由緒
 古来、玄界灘に臨む交通の要衡として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。

御祭神は、伊邪那岐が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(ミソギハラヒ)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されている。

御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪を祓い清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。

当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。二世紀(遅くとも四世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝馬山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられている。

往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石を有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元寇の役など国家の非常の際に嚇々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(一九ニ七年)には官幣小社の殊遇をうけている。

御例祭
御神幸祭 十月第ニ日曜日前後(隔年斎行)
祭 十月第ニ月曜日(流鏑馬奉納)

特殊神事
歩射祭、御神幸祭、山誉(種蒔)漁獲祭
(福岡県無形民俗文化財)

志賀海神社の案内板より

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【由(History)】

中津宮古墳(なかつぐうこふん)

この古墳は、7世紀前半ごろ(古墳時代)に造られたもので、勝馬(かつま)を基地とした海人(あま)集団の首長の墓と考えられます。

 この古墳は円墳で、円丘の径7m、高さ1.5mの大きさをもち中津宮の前庭(ぜんてい)に位置しています。

 埋葬は、まず、長さ約3.8m、幅約2.8mの長方形の竪穴を掘り、その中に平たい石を用いて、4段以上に組み石室を造り(穴系石室)、少なくとも5体の埋葬が行われていたと考えられます。石室の床面には、須恵器の浅底のお椀のようなもの(杯身(つきみ)・杯蓋(つきぶた))、須恵器の壷(つぼ、鉄鏃(てつやじり)・鉄矛(てつほこ)・刀子(とうす)・鉄斧(てつおの)などの鉄器、表面に銀をはった金属製の耳環(じかん)、ガラス製管玉(くだたま)、小玉等が副葬されていました。

1977年3月福岡市教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・祠〈本殿向かって右側〉

龍神の置物あり 龍神か?) 

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・遥拝所

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・中津宮古墳

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・社頭の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

津宮(なかつぐう)は 現在 志賀海神社の摂社です

・志賀海神社(志賀島)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

京畿七道諸神と共に 神階の奉授が 記されています

【抜粋意訳】

 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申

○廿七日甲申

京畿七道諸神、進 階及新叙。惣二百六十七社

奉授
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品

・・・
・・・

筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位 下竈門神
從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神 並從五位上
无位 住吉神 從五位下

・・・
・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

賀津萬神(かつまのかみ)として 正六位上から従五位下を授かっています
賀津萬神(かつまのかみ)は (志賀島勝馬の祭神)勝馬明神摂社・仲津宮〉とされます

【抜粋意訳】

卅七 元慶四年(八八〇)三月廿二日乙亥

廿二日乙亥

 筑前國 正六位上 賀津萬神 大歳神 託神 咩 肥前國 正六位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

名神祭 二百八十五座

・・・

・・・

志加海神社 三座
  神社 三座
  神社 三座
  神社 一座
筑 紫 神社 一座
竈 門 神社 一座
美奈宣神社 三座 巳上 筑前

・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

筑前國 糟屋郡 志加海神社 三座(並名神大)(しかのうみかみのやしろ みくら

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前 19座(大16座・小3座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)糟屋郡 3座(並大)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 志加海神社 三座(並名神大)
[ふ り が な ]しかのうみかみのやしろ みくら
[Old Shrine name]Shika no umi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 志加海神社 三座(並名神大)の゛三座゛について

社傳には゛三座゛について・底津少童命仲津少童命表津少童命とし

古代の志賀海神社(福岡市東区志賀島)
 ①沖津宮(おきつみや)②仲津宮(なかつみや)③表津宮(うわつみや)の三社が 志賀島〈北側〉の勝馬(かつま)に鎮座していたとされます
〈勝馬(かつま)は かつて入江であったとされています〉
それぞれの祭神として底津少童命仲津少童命表津少童命の三座を祀っていました 

その後 2〜4世紀頃 その内の③表津宮(うわつみや)が遷座しました
遷座先が 勝山の麓に鎮座していた(御祭神阿曇磯良神とする神社)の場所 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉 併せて仲津少童命表津少童命が奉祀されて 三座を祭神として 阿曇族が代々奉斎してきたと伝わります

現在
沖津宮と仲津宮は 志賀海神社の摂社となっています
表津宮は 表津宮跡として祭祀されています

それぞれについて

・志賀海神社 沖津宮(志賀島 勝馬)

《合》表津少童命・天御中主神

※本来の祭神は゛底津少童命゛ですが 現在は 志賀海神社の摂社となり 本社と同神と出来ないため 合祀神を祀る

 

・志賀海神社 津宮(志賀島 勝馬)

《主》仲津少童命

 

③・表津宮跡

《主》表津少童命

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『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛底津少童命・中津少童命・表津少童命゛の伝承

別の言い伝え(第六)によれば
黄泉の国から戻られた伊弉諾尊いざなぎのみこと)が 筑紫日向小戸橘之檍原で水中で禊がれた時 底津少童命・中津少童命・表津少童命゛の海神三神の誕生した その後に三貴神〈天照大神・月読尊・素戔嗚尊〉が生まれたと記されています

【抜粋意訳】

日本書紀 神代上 第五段一書(第六)

別の言い伝え(第六)によれば
伊弉諾尊いざなぎのみことと伊奘冉尊いざなみのみこと 共に大八洲国やしまのくにを生みした

すると伊弉諾尊いざなぎのみこと言われた
我らの生んだ国は まだ朝霧がかかってい 良い香りに満ちている

そして を吹き発して を成した その神の名は 級長戸辺命(しなとべのみこと)と云う 亦の名は 級長津彦命(しなつひこのみこと)と云う これは風の神で

また 飢えてときに生んだ子は 倉稲魂命うかのみたまのみこと号す

また 生んだ海神(わたつみ)たちを 少童命わたつみのみこと号す

山神たちを 山祇やまつみ号す

水門(みなと)の神たちを 速秋津日命はやあきつひのみこと号す

木神たちを 句句廼馳くくのち号す

土神たちを 埴安神はにやすのかみ号す

そして のちに 萬物が生まれた

そして 火神 軻遇突智(かぐつち)が生まれました

その母 伊奘冉尊いざなみのみこと)は 身を焼かれてお隠れになった

そのとき 伊弉諾尊いざなぎのみこと 恨んで言われた
「ただこの一人の子のために 我が愛すると引き替えしてしまった」

そして 伊奘冉尊いざなみのみことの頭のあたりで腹ばいになり 足のあたりで腹ばいになり 涙を流かれた

その涙が堕ちて 神と成した
これが 畝丘の木の下に居る神 啼澤女命(なきさわめのみこと)と号す

伊弉諾尊いざなぎのみこと 腰に帯びた十握剣(とつかのつるぎを抜いて 軻遇突智かぐつちを三段に切った

この各々が神を成した

ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた これが 天安河あまのやすかわのほとりにある たくさんの磐石とな すなわち これが経津主神(ふつぬしのかみ)の祖です

ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた 激しく超えてを成した
甕速日神(みかはやひのかみ)と号す

次に 熯速日神(ひのはやひのかみ)が生まれた
その 甕速日神(みかはやひのかみ)は 武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖先です

または云うには
甕速日命(みかはやひのみこと 次に熯速日神(ひのはやひのみこと 次に武甕槌神(たけみかづちのかみ)とも云う

ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた 激しく超えてを成した

磐裂神(いわさくのかみ)と

次に 根裂神(ねさくのかみ

次に 磐筒男命(いわつつおのみこと

一説には 磐筒男命(いわつつおのみこと)と磐筒女命(いわつつめのみこと)とも云う

ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた 激しく超えてを成した

闇龗(くらおかみ)と号す 次に闇山祇(くらやまつみ)次に闇罔象(くらみつは)が生まれた

その後 伊弉諾尊いざなぎのみこと 伊奘冉尊いざなみのみことを追い 黄泉国(よみのくに)に入られて 共に語り及びました時

伊奘冉尊いざなみのみこと)が 話されるには
わが夫の尊よ なぜに 来られるのが遅すぎました
わたしはもう 黄泉国(よみのくに)の竈(カマド)食物を喰らいました
そして 私は 寝息となります どうか 見ないでください」

伊弉諾尊いざなぎのみこと 聞き入れず 髪に陰くれていた湯津爪櫛(ゆつまくし)を手に取り その端の〈櫛の太い歯を折り に乗せて灯し 者〈伊奘冉尊〉を見た

すでに うみ虫(うじむし) 流れている
今の世の人が 一つの火を灯すことを忌み また夜櫛を投げることを忌むのは これがその起こりで

このとき 伊弉諾尊いざなぎのみこと いて云われた
「私は く穢れた国 不意に到ってしまったのだ急ぎ走り回帰された

そのとき 伊奘冉尊いざなみのみことが恨んで云われた
「どうして 約束覗き見をなさるなというを守らず 私に恥をかかせた

そして 8人の泉津醜女(ヨモツシコメ)遣わし及ばせた

一説によると 泉津日狭女よもつひさめ 追うのを留めたとも

そこで 伊弉諾尊いざなぎのみこと 剣を抜き 背後を振り払い逃げた また い鬘(かづら)〈髪留めを投げると これが葡萄ぶどう)とり 醜女しこめ これを見て採り食べた 食べ終わると更に追いかけた

伊弉諾尊いざなぎのみこと 湯津爪櫛(ゆつつめくし)を またげた これが筍たけのこ)となった

醜女しこめ またそれを抜いて食べた 食べ終わると更に追いかけた

あとから 伊奘冉尊いざなみのみことも追いかけた

このとき 伊弉諾尊いざなぎのみこと 泉津平坂(よもつひらさか)に到りました

一説では 伊弉諾尊いざなぎのみこと 大樹に向かい放尿された これが大きな川なり 泉津日狭女よもつひさめ そを渡る間 伊弉諾尊いざなぎのみこと 泉津平坂よもつひらさか到っていた

故に 人所引磐石(ちびきのいわ千人が引っ張ってやっと動くような大きな石 その坂路を塞ぎ 伊奘冉尊いざなみのみこと向かい 妻に絶縁誓いをたてた

そのとき 伊奘冉尊いざなみのみことが言われた
愛するわが夫の君 あなたがそのように別れるおっしゃるならば
私は あなたが治める国の民を 一日に千頭〈千人〉を殺そう」

伊奘諾尊いざなぎのみこと それに答え
「愛するわが妻 そのように言うなら 私は一日に千五百頭〈千五百人を生ませよう」

そして云われるにはこれより入ってはならぬそして その杖を投げた これが所謂
この杖が 岐神ふなとのかみです

また そのおびを投げられ これが 長道磐神ながちわのかみ)です
また そのころもを投げられ これが 煩神わずらいのかみ)です
また その褌(ふんどし)を投げられ これが 開嚙神あきくいのかみ)です
また その履くつを投げられ これが 道敷神ちしきのかみ)です 

その泉津平坂よもつひらさか)は いわゆる泉津平坂よもつひらさかというもので 不復別有處所〈復ならず別れ有る所〉 但し 死ぬ気絶際 これをそう云うのだろうか
塞がっている磐石いわと)の所 これを泉門塞之大神(よみどのさえのおほかみ)といい 亦の名を 道返大神(ちかえしのおかみ)と云う

すでに還られていた 伊奘諾尊いざなぎのみこと)は 追ってしまったことを いて云われた
「私は 汚く穢れた所に行ってしまった 我がの濁り穢れを浄化しよう」

すぐに 筑紫日向小戸橘之檍原(ちくしのひむかのおどのあわきはら)に往(いか)れて 秡除(みそぎはらえ)された

ついに汚い所を濯おう 声をあげられた
「上の瀬は 大いに流れが疾(はやい) 下の瀬は 大いに流れが弱い 想われ 中瀬で濯ぎをされた

これに依り生まれた神は 八十枉津日神やそまがつひのかみ号す

次に その汚れを直そうと生まれた神は 神直日神(かんなおひのかみ号す
次に 大直日神神(なおひの

また 海の底濯いだ よって生まれた神は 底津少童命(そこつわたつみのみこと)と号す
次に 底筒男命(そこつつのみこと

また 潮の中濯いだ よって生まれた神は 中津少童命(なかつわたつみのみこと)と号す
次に 中筒男命 (なかつつのみこと

また潮の上に浮いて濯い生まれた神は 表津少童命(うわつわたのみこと)と号す
次に 表筒男命(うわつつののみこと

合わせて 九柱の神であります

その
底筒男命そこつつのみこと中筒男命なかつつのみこと表筒男命うわつつのみこと 住吉大神すみのえのおおかみ

底筒少童命そこつわたつみのみこと少童命なかつわたつみのみこと表津少童命うわつわたつみのみこと 阿曇連あずみのむらじら 祭りされる神で

それから後 先に左の眼を洗われると 生まれた神は 天照大神あまてらすおみかみ号す
次に 右の眼を洗われると 生まれた神は 月読尊つくよみのみこと号す
次に 鼻を洗われると 生まれた神は 素戔嗚尊すさののみこと号す

皆で三柱の神であります

伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が 三柱の子に勅されて

天照大神は 高天原(たかまのはら)を治めよ
月読尊 は 蒼海原(あおうなばら)の潮を治めよ
素戔嗚尊は 天下(あめのした)を治めよ

このとき 素戔嗚尊は齢もたけ 長い髭が伸びていた
けれども 天下を治めず 常に泣き恨んだ

そこで 伊奘諾尊は尋ねた
「お前は なぜいつもこんなに泣いているのか」

対して答えは
「私は 母の根国(ねのくに)に行きたいと思い ただ泣く」

伊奘諾尊は これに情けなく
「望み通りにすべき」といって 素戔嗚尊を追いやった

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

誕生した〈底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神〉の三神を「綿津見神」と称し 「阿曇連(あずみのむらじ)らが祖神ともちいつく神なり」と記しています

【抜粋意訳】

伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)は 仰せられた
「わたしは なんと穢れた國に行っていたのだろう
わたしは 身体を清め 禊(みそぎ)をしよう」

筑紫日向橘小門阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはら)に行き 禊(みそぎ)をされた

その
投げ捨てた杖から成った 衝立船戸神(ツキタツフナトノカミ)
投げ捨てた帯から成った 道之長乳歯神(ミチノナガチハノカミ)
投げ捨てた袋から成った 時量師神(トキハカシノカミ)
投げ捨てた衣から成った 和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)
投げ捨てた袴から成った 道俣神(チマタノカミ)
投げ捨てた冠から成った 飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシノカミ)

投げ捨てた左の御手の腕輪から成った 奥疎神(オキザカルノカミ)
次に奥津那芸左毘古神(オキツナギサビコノカミ)
次に奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラノカミ)

投げ捨てた右の御手の腕輪から成った 辺疎神(ヘザカルノカミ)
次に辺津那芸左毘古神(ヘツナギサビコノカミ)
次に辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラノカミ)

以上の船戸神(フナト神)から辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラノカミ)まで 十二神は身につけていたものを脱ぎ捨てた物によって 成り生まれた神です

ここで 仰せられた「上の瀬が速い 下の瀬が弱い」
中の瀬に下りて 禊をなされた時 成りました神は 八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)次に大禍津日神(オオマガツヒノカミ)
この二神は 穢繁国(キタナキシキクニ)行かれた時の汚垢(けがれ)から生まれた神です

次に その禍々しさをを直なおそうとして成った神は 神直毘神(カムナオビノカミ)

次が大直毘神(オオナオビノカミ)

次が伊豆能売神(イヅノメノカミ)

次に 水底で身体をお洗った時に成った神は 底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ) 次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)

中ほどで成った神は 中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ) 次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)

水の上で身体を洗ったときに成った神は 上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ) 次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)

この三柱の綿津見神(ワタツミノカミ)は 阿曇連(アズミノムラジ)などの祖神(オヤガミ)として祭っている神 つまり阿曇連は 綿津見神(ワタツミノカミ)の子(ミコ)宇都志日金拆命(ウツシヒカナサクノカミ)の子孫

その 底筒之男命(ソコツツノオノミコト)中筒之男命(ナカツツノオノミコト)上筒之男命(ウワツツノオノミコト)の三柱の神は 墨江之三前大神(スミノエノミマヘノオホカミ)〈住吉神社に祭られている神様〉

ここに
左の目を洗って成った神は 天照大御神(アマテラスオオミカミ)
右目を洗って成った神は 月読命(ツキヨミノミコト)
鼻を洗って成った神は 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)

以上の件 八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)から速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)までの十四柱の神は 御身の禊をなされて生まれた神

伊邪那岐命(イザナギノミコト)はとても喜び
「私は子供を次々に生んだ 生み終わりに 貴い御子みこを得た」と仰せられて

頸(くび)に掛けておいでになつた玉の緒をゆらゆらと搖ゆらして 天照大御神(アマテラスオホミカミ)に授けられ「あなたは高天原を統治なさい」と仰せられた
この御頸(おくび)に掛(かけ)た珠(たま)の名を 御倉板挙之神(ミクラタナノカミ)と云う

次に 月読命(ツキヨミノミコト)に仰せられた「あなたは夜の食国を統治なさい」

次に 建速須佐之男命に(タケハヤスサノオノミコト)に仰せられた「あなたは海原を統治しなさい」

ゆえに
それぞれ命ぜられたままに治められる中 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)は 命ぜられた國を治めない 顎鬚(アゴヒゲ)が胸に届くほどになっても泣き喚いているばかりでした

その泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし
河や海は泣く勢いで 干上がってしまいました

そのために 悪ぶる神が さわぎはじめ その物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり あらゆる物の妖わざわいが悉く起りました

そこで 伊邪那岐大御神(イザナギノオホミカミ)が 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)に尋ね「どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか」

答えて「わたくしは母上のおいでになる根の堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと思い 泣いております

伊邪那岐大御神(イザナギノオオミカミ)は 大変怒り「それならあなたはこの國には住んではならない」と仰せられ 追いはらつてしまいました

この伊邪那岐大御神は 淡路の多賀(たが)に坐します

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR香椎線 西戸崎駅から 海の中道を経由して 志賀島へ約5.6km 車10分程度

現在 志賀島へは 砂洲で繋がっていて 海の中道が通っています

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右側の外海〈玄界灘〉は 白波がたち 左側の内海〈博多湾〉は べた凪

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志賀島へ渡り 東海岸を北上すると 海岸線迄 崖が迫り この崖の上に鎮座します

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志賀海神社(福岡市東区志賀島)に参着

・志賀海神社(志賀島)

海の守護神゛゛龍の都゛゛海神の総本社として信仰される゛志賀海神社゛が鎮座する゛志賀島゛は 古代より大陸や朝鮮半島との交通拠点でした 古くは万葉集にも詠まれた歴史あふれる島です

この志賀島に゛漢委奴国王の金印が出土された場所に 金印公園があります

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金印公園

この地は後漢(ごかん)(現在の中国)の光武帝(こうぶてい)が奴国(なのくに)(現在の福岡市を中心とする地)の使者に授けたといわれる金印(国宝)が発見された場所としてわが国の歴史上、重要な地とされています。

 印綬伝来から1900余年を経過したいま、この地に立って博多湾、玄界灘を望みながら遠く中国大陸と交流があった当時をしのべば、私たちの心に新たな感銘を呼びおこすでしょう。
福岡市

現地案内板より

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金印公園 Kin-in-Park

天明4年(1784年)、『漢委奴国王』(かんのわのなのこくおう)と記された金印が出土したと思われる場所を記念して造られた「金印公園」は、昭和50年(1975年)に整備されました。「万葉集」「日本書紀」などに度々登場するここ志賀島(しかのしま)で、長い歴史に思いを馳せながら、のどかな自然に心和ませることができます。ここからの美しく穏やかな眺めは、海を越えて行われた大陸文化との交流を感じさせます。今では、福岡タワーや金印が収められた福岡市博物館のあるシーサイドももちなど、博多湾越しにぐるりと福岡市を一望でき、夕暮れ時もまた格別です。

 園内には、芝生広場などがあり、散策も楽しめます。春には「桜の丘」まで足を運んでみましょう。

現地案内板より

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金印って何でしょう? What is Kin-in?

実物の金印は、一辺の長さが2.3cm、高さが2.2cm、重さが108.7gの非常に小さなもので、ほぼ純金でつくられています。天明4年(1784年)に、この公園の付近で出土したと推定されています。中国の「後漢書(ごかんしょ)」によると57年に、後漢の光武帝(こうぶてい)」が、弥生時代に福岡地方の小国であったとされる「奴国(なこく)」の王に、この金印を与えたとされています。

 現在は国宝に指定され、福岡市博物館に常設展示されています。

現地案内板より

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実際にどんな風につかわれていたの?

金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われたそうです。手紙や文書を入れた箱を紐でしばり、その結び目に付けた粘土に金印を押して封をし、文書の秘密を守るカギの役目を果たしていました。1世紀という遠い昔に日本と中国との交流を証明する貴重な文化財です。どんな文書が入っていたかと思うと、ワクワクしませんか?

現地案内板より

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現地 金印の刻字 案内

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金印公園からは 博多湾に浮かぶ゛能古島゛や゛博多の街が見えます

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金印公園から 志賀島の西海岸を少し北上すると゛蒙古塚゛があります

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蒙古塚

この地は、文永11年(1274)及び弘安4年(1281)の二度にわたる元寇襲来の古戦場とされ、古くは『首切塚』とも呼ばれていました。この供養塔は、文永・弘安の襲来の際に戦死した元(モンゴル)軍の兵士のため、昭和2年(1927)に日蓮宗の僧高鍋日統の提唱で建てられました。昭和13年(1938)には蒙古連名自治政府の指導者である徳王も参拝され、現在は中央区にある勝立寺の飛び地境内として祭祀されています。

現地案内板より

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志賀島の西海岸を北上して〈志賀島 勝馬下馬ヶ浜海水浴場に着くと 志賀海神社 沖津宮(志賀島 勝馬)が沖津島に鎮座しています

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こちら側〈西 下馬ケ浜〉は 仲津宮と沖津宮とを繋ぐ参道で 表参道東側 の鳥居〉だったのですが 知らずに こちらから こんもりとした丘陵へ上がります

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参道に覆いかぶさる木立の中をくぐるように進んでいます

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海岸にある角のとれた濱石で 築かれた石段を上がります

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津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉に参着

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本社の覆屋があります

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社殿の向かって右手には 境内社が一宇

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遥拝所があり 向いている方向は ゛志賀海神社 沖津宮゛
しかも その遥か海上には゛宗像大社 沖津宮゛が鎮座する沖ノ島があります

海神(わたつみ)の遥拝所なのでしょうか?

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社殿に一礼をして 先程の参道を戻ります

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やはり こちら側の参道は海に通じていて 参道の先には゛玄界島と柱島゛

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海岸に出て 丘陵の周囲を歩きました

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東側には 鳥居が建ち 参道がありました

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扁額には゛勝馬宮゛刻字され 掲げられています

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参道の位置関係を表す図が現地にありましたので

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この位置から 真北には志賀海神社 沖津宮゛が鎮座しています

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 志加海神社 三座について 三座は〈底津少童命仲津少童命表津少童命〉とし

本社〈底津少童命〉の所在は 志賀嶋〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)

中津明神の社〈中津少童命の所在は 志賀島の西勝馬と云所の濱に、小高き山あり是なり〈現 勝馬宮〈中津宮古墳〉(志賀島 勝馬)
勝馬明神の社〈表津少童命の所在は 中津明神の社より北一町半ばかり(163m程度)にあり是なり〈現 表津宮〈沖津宮〉(志賀島 勝馬)

と記しています

【抜粋意訳】

志加海神社 三座(並名神大)

志加海は 斯香乃宇美と訓べし、和名鈔、郡名部 志加

〇祭神 底津少童命仲津少童命表津少童命、社傳

〇志賀嶋に在す、今那珂郡に属(ツケ)り、續風土記
例祭

式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略 筑前國 志加海神社 三座
日本書紀、神代上 一書曰
號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣

古事記云、
此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。伊以下三字以音、下效此。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也

日本書紀、景行天皇十二年八月乙未朔己酉、幸筑紫。十月、天皇、初將討賊、次于柏峽大野、云々、是時禱神、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。

〇姓氏録、河内國神別 阿曇連、綿積命兒高見命之後也、

績風土記云、那太濱よりつづきて、粕屋郡に属すべき所なるに、いつの比より那珂郡に属せしにや、いぶかし云々、此三神は、三所に跡をたれ給ふ、底津少童命は則今の志賀の本社なり、
社は志賀の里より北の方なる山の半腹にあり、宮所東の方海に臨める高岸にて、其左は則海なり、中殿 底津少童命、右殿 神功皇后、左殿 勝馬明神なり

津少童命は、志賀島の西勝馬と云所の濱に、小高き山ありて中津明神と云社あり是なり、
表津少童命は、中津明神の社より北一町半ばかりに、勝馬明神の社あり、是なりと云へり、

連胤 按るに、本社を底津少童命とし、中津、勝馬両社を中津少童命表津少童命としたるは、後世説なるべし、神代巻にて明らか也、また相殿に、神功皇后を祭るはさもあるべし、勝馬明神を祭るといふは通らぬここちす、猶考ふべし、

神位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申奉授 筑前國 從五位下 志賀海神 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 志加海神社 三座について 所在について゛志賀島に在り〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉と記しています

【抜粋意訳】

糟屋(カスヤノ)郡三座、並大

志賀海(シガノアマノ)神社 三座、

今 那珂郡 志賀島に在り、筑前續風土記、一宮巡詣記、神名帳考証、

底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神を祀る、實に海原を掌り坐神也、故之を海神と云ふ、古事記、延喜式、

初伊邪那岐大神、筑紫日向の橘小門の阿波岐原に御禊し給ふ時、此三柱神を生坐き、即 阿曇連の祖神と以齋く神也、日本書紀、古事記、

因 又 阿曇神とも云ふ、 平城天皇 大同元年、神封八十戸を充奉り、新鈔格勅符、〇按本書、大寄神封の條に、八戸とあれど、八戸にては大寄と云ふべからず、十字を脱せる事著し、故今之を補ふ、

清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申從五位下 志賀海神從五位上け、三代実録

醍醐天皇 延喜の制、三座並に名神大社に列る、延喜式、

凡 毎年正月元日、神饌を供へ、十五日武射、
二月五日、禰宜海藻を執て香椎宮に献り、十五日漁猟の祭等を行ふ、
大宮司、神主、祝部あり、並 阿曇氏を用ふ、筑前續風土記、一宮巡詣記、即 神裔也、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 志加海神社 三座について 所在は志賀島村〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉として

考慮すると 三座は 別々の三か所に鎮座している
底津少童命〉の所在は゛志賀島の本社゛〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)
〈中津少童命〉〈表津少童命の所在は゛枝村 勝馬神社 二所の神なり〈現 勝馬宮〈中津宮古墳〉(志賀島 勝馬)〉〈現 表津宮〈沖津宮〉(志賀島 勝馬)

と記しています

【抜粋意訳】

志加海神社 三座(並名神大)

祭神
底津少童命 中津少童命 表津少童命

今按 此の神の此の地に祭られ玉ふは 上の住吉神社の條下に云るが如し

神位
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申奉授 筑前國 從五位下 志賀海神 從五位上

祭日
正月二月十一月十五日 三月三日 五月五日 六月晦日 九月八日九日

社格
村社(官幣小社)

所在
志賀島村(今 那賀郡明細帳 粕屋郡志賀島村志賀明神とあり)
(糟屋郡志賀島村大字志賀島)

今按〈今考えるに〉
福岡縣神社考証書に 三神各三所に鎮座あり
底津少童命は 即ち此の村の本社
中津少童命 表津少童命は 枝村 勝馬神社 二所の神なり

神功皇后 新羅を伐玉ふ時 此の三神 御船の舵を守り 海上の風難なからしめ玉ふと云傳たりとあるが如く 三所に分かれて鎮座せしものとみえたり 姑く附て考に備ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『筑前國続風土記拾遺』巻之8 那珂郡 下の勝間村の項

勝馬大明神

(神殿方1間・拝殿方2間・祭礼2月16日・11月16日・宮司志賀島村吉祥寺)

(前略)沖津宮ともいふ。(中略)やしろは勝馬の西、海中一顆の山上にあり。 石階97級を登る。 宮所神さひ木立物ふりて奇秀の山上なり。 (中略) まことに俗塵の汚けがれなければ、神威のおこそかなるは宜むべ也。 神代の古しへより跡をたれたまひ、香椎の廟三韓を征し給ふ時もあらはれ出たまひて、たすけ守り給へる事、国史に見え侍れは、最もたうとひうやまうへき御神也。 詣もうでて来る人心の穢けがれをあらひそゝき、誠の志を生するハかゝる所なるへし。つゝしんでおろそかにおもふへからず。

津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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