見高神社(みたかじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内「多祁伊志豆伎命神社」の論社です その創建は 聖武天皇 天平5年(733)9月23日であるとも 光仁天皇 天慶3年(940)三島より奉遷とも伝わります
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 5 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 6 伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
見高神社(Mitaka Shrine)
(みたかじんじゃ)
[通称名(Common name)]
耳高神社(みみたかじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
静岡県賀茂郡河津町見高624
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》多祁伊志豆岐命(Takiishitsuki no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
見高神社 舌餅の由来
太古 当村字役間野と申すところに 天をも磨する老松あり、この松の根本に夜々不可思議なる牛鳴を聞く。村翁立ち寄り見れば 一頭の白牛現れ その背に白装束の御神体またがる。
村翁かしこみひれ伏すに 神は その白牛の舌にて 村翁の手をなで 次に足をなで終りて 村翁に告げて曰く「われは耳高大明神なり 汝等自ら 難思し内徳を証し得れば 妙用無窮の神力を現すべし」とさとしたまいて その松の木伝いに昇天す。
村翁 この有難き神宣に打ちふるえ 山を下りて 村中に神徳を披露す 即ち 村民こぞってこゝに一祠を建立 郷土の守護神 氏神様と仰ぎ奉り 子孫末世に至るまで大明神昇天の日9月23日(新歴で10月23日を祭日と定め 御供物に牛の舌餅と称する舌型の餅をそなえ、氏子及び崇敬者にその神徳を頒りものなり
見高神社創立 聖武天皇 天平5年(733)9月23日
祭神 多祁伊志豆岐命見高神社々務所
境内掲示板より
【由 緒 (History)】
見高神社の三番叟と神楽殿
見高神社では毎年10月22日夜と23日の午前に神楽殿で三番叟(さんばんそう)が奉納されている。江戸時代末頃 嘉永3年(1850)に 見高の青年たちは 当時江戸歌舞伎の名優として名高かった四代目市川小団次(見高村に縁があった)を頼って江戸に出向き、歌舞伎の見物をした。そのためか、ここの三番叟は歌舞伎の影響が強いといわれている。
三番叟が奉納される神楽殿は、は問口六間(約11m)、奥行三間半(約6.4m)、その後ろに幅四間(約7.3m)、奥行一間半(約2.7m)の楽屋がつく。床は全部板張で中央に直径22.75尺(約6.9m)の廻り舞台が仕組まれている。廻り舞台は、床下に人が入り、人力で回した。かつては この舞台で地区の人たちにより歌舞伎が上演されていたという。
現在 三番叟奉納の際使用される引幕は、江戸歌舞伎で使用された引幕で、六枚が保存されている。三枚は市川小団次の寄附によるもので、残り三枚は庁屋(神楽殿)落成の祝儀として小団次の養子市川左団次から見高若者連に贈られたものである。東京の歌舞伎座は何回か火災で焼けているため、当時使用された引幕で現存するものは数少なく、芸能に関する非常に責重な文化財である。
河津町教育委員会境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・浜川稲荷
・三社覆屋〈淡島大権現 厄神大権現 亜仲大権現〉
・水神社
水神社
本 水神社は 長年に渡り萩原考司宅前に鎮座し講中の方々が祭こしおりましたが昭和34年に現在地に鎮守をお願い申し萩原考司個人がその後営理お祭りする
平成13年10月吉日 外社殿大修理平成13年12月吉日 内社殿を萩原考司68才時自分にて日数も掛け新築する
・二社覆い屋〈天王神社 一社不詳〉本殿向かって左手
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 多祁伊志豆伎命神社
[ふ り が な ](たきいしつきのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takiishitsuki no mikoto no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
式内社「伊豆國 賀茂郡 多祁伊志豆伎命神社」の論社について
・竹麻神社(下田市高馬)
・見高神社(河津町見高)
・三島神社(南伊豆町蝶ヶ野)〈参考〉
・姫宮神社〈姫宮大明神〉(南伊豆町一色)〈合祀の三島神社〉
・三島神社(南伊豆町青野)
・瀧山神社(河津町川津筏場)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊豆急 今井浜海岸駅から海沿いに東へ約1km 徒歩15分程度
美しい今井浜海岸を眺める東岸の見高地区に鎮座します
海岸から集落の細い道を進み 民家と民家の間を抜けるような参道の先に石段があります 石段から振り返ると良くわかります
石段を上がると 僅かに平らにならされた地があり「見高神社」と扁額の架かる鳥居が建っています
見高神社(Mitaka Shrine)に参着
一礼をして鳥居をくぐり抜けます 左手にある住宅は宮司宅でしょうか
参道の脇の階段上には「書院」が建っています
一の鳥居の先には 二の鳥居へと石段があり 踊り場のような平地に二の鳥居が建っていて そこから社殿迄 再び石段を上がる そんな参道です
二の鳥居をくぐると 伊豆地方で見られる石垣があり 神聖な海岸の玉石を積み上げたものです
上の境内地に上がると 脇には三番叟(さんばんそう)が奉納されている「御神楽殿」が建っています
更に一段高い檀に社殿や境内社が祀られています
拝殿にすすみます
拝殿には 見事な龍神の彫刻が施してあり 淵に龍神の彫刻があしらわれた見事な扁額には「見高神社」と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の横「外陣の広縁」にも 素晴らしい彫刻があるのを見つけました
社殿廻りの境内社にお詣りをして 本殿を拝すと覆い屋で囲われています
参道を戻ります 参道石段からは 左手下方に 木陰から海が見え美しい 写真では伝わらないのが残念
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承
耳高明神(みみたかみょうじん)と称しています 天慶3年(940)三島より奉遷した 大山祇命と記しています
【意訳】
耳高明神 見高村
寛文2年(1662)の上梁文に云う
光仁天皇 天慶3年(940)三島より奉遷 大山祇命なり 末社2
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『豆州志稿』選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
神社の名称のみ記されます
【意訳】
多祁伊志豆伎(タケイシツキ)命神社
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
所在については不明と記しています
【意訳】
多祁伊志豆伎命神社
多祁伊志豆伎は 仮字なり
〇祭神 明らかなり
〇在所 詳らかならず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』➂
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社の論社として 4所を挙げているが 決定できない と記しています
【意訳】
多祁伊志豆伎(タケイシツキノ)命神社
祭神
祭日
社格所在
今按〈今考えるに〉
式社考證に 神階帳 従4位上 たけしの明神と有り この社未定
賀茂郡本郷村 高馬鎮座 八幡社ならんか 此の社は 豆志に竹麻神社三座の内として云う一座 在 本郷村高馬 今 八幡と称す云々とありて所由有る社と聞こえが 旧社地は 今の社の後ろ岩壁上にて 旧蹟ものこりたるが 伊志豆枝の称に適い 高馬の称のタケシに近く通じて聞こえる所縁あるを以ってなり
亦 同郡 見高村 見高明神ならむか 豆志に云う 見高明神 見高村 寛文2年 上梁文に云う 光仁天皇 天慶3年 三島より奉遷 大山祇命なり 末社2とみえ 社記に熟考 人皇45代 聖武天皇 天平5癸酉年 三島大明神 始興洲現所謂 大山祇命なり云々とある如く由ある神と聞こえるが 何の所見もなしと いえども この社にやと思われ神階帳に たけしの明神とある たけし即ち 多祁伊志の約にて地名となりしと思われるに この見高の称の近く通いて 縁由ありけに聞こえればなり
又 同郡一色村に三島明神あり 村称の一色は 伊志都伎に通じて聞こえるは拠あらむも知るべからず
又 同郡 青野村 三島神の妹なりと然らば2社共に必ず式内なるべし云々 と見え 社伝に 祭神 石突命と伝えて所由りて聞こえれど 考えるべき証蹟なしと云える
以上の4所 何れとも決めては云いがたし 姑附て後考を待つ
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』➂
見高神社(Mitaka Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)