伊波比神社(吉見町黒岩)

伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え延喜式神名帳927 AD.所載 武蔵横見郡 伊波比神社いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮と呼ばれていました

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

伊波比神社(Iwai shrine)

通称名(Common name)

八幡様はちまんさま

【鎮座地 (Location) 

埼玉県比企郡吉見町黒岩347

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天穂日尊(あめのほひのみこと)
   誉田別尊(ほんだわけのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

当社は和銅年間(七〇八一五)の創建と伝え、『延喜式』神名帳に収載されている式内社である。

【由  (History)】

伊波比神社

吉見町黒岩三四七(黒岩字屋敷

吉見丘陵の東端部、旧荒川筋沿いに鎮座するのが当社である。
付近には、茶臼山古墳や古墳時代後期の黒岩横穴群があり、現在五〇〇基以上も確認されている一大古墳群の地である。また大化前代、屯倉が置かれるほどの要地であった。
 安閑天皇元年(五三四)紀に、武蔵国の国造・笠原直使主と一族とが国造をめぐり争った結果、朝廷が使主を国造とする裁断を下したことに感謝して、屯倉を奉ったとある。その時に置かれた「横渟屯倉」が吉見町に比定されている。これらのことから、大化前代以来の有力豪族が強大な支配権を有していたのは明らかである。

 当社は和銅年間(七〇八一五)の創建と伝え、『延喜式』神名帳に収載されている式内社である。
嘉祥二年(八四九)に伊波比神が従五位下に叙せられ、次いで貞観元年(八五九)に盤井神として官社に列格された。
平安時代においても、朝廷からの班幣の対象社として重んじられ、地方の有力社と認められていたことがわかる。

 中世の当社の様子は不明であるが、当地は平安時代末から鎌倉初期にかけて、源頼朝の弟の範頼の所領となり、その子孫が吉見氏として四代続いた。そして当社の東南約六〇〇メートルの地に吉見氏の城館跡があるところから、時の為政者により在地信仰の中心として重要視されていたと思われる。
それは社号からも推察されるが、かつて当社は岩井八幡宮と称しており、現在も社号額は旧社号のまま残されている。
『風土記稿』に「或は岩井八幡とも称す、村の鎮守にて村民の持、祭神誉田別天皇天太玉命、今の神体馬上に弓箭をとる像なり」と記されており、恐らく中世から範頼などの武将達が武運を願い八幡信仰をもたらしたのであろう。
 軍神として八幡神が勧請された後に誉田別尊が主祭神となった可能性が高いのである。元来の祭神は、外の出雲伊波比神社(毛呂山町・寄居町)との関連で、武蔵国造の遠祖を斎い祀る出雲系の神とする説が有力である。
 当社の祭神を『神祇志料』は大巳貴命、『比企郡神社誌』は天穂日尊・誉田別尊と載せており、出雲系の神を主祭神としている。

 現社地の西方の台地は八幡台と呼ばれる旧境内地である。その地続きの観音山にある観音堂には正観音像が安置されており、当社祭神の本地仏であった。
 観音山は吉見村の除地で息障院の所有であった。同院が応永初年(一三九四年ごろ)に現在の御所の地に移ったとされ、その際に当社も現在地に移転されたと考えられる。

 明治四十年には、字立石に鎮座していた岩崎大明神社が合祀されている。その旧地の荒藺崎は、名が示すとおり旧荒川に洗われた岩壁が残る。黒く切り立った岩石があるところから、黒岩の地名の由来となった。眺望が美しい所に石宮と石段がひっそりと残っている。

埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

社頭の「社号標」「朱色の両部鳥居」

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岩崎神社

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

応永初年(1394年頃)以前の旧鎮座地

応永初年(1394年頃)以前の旧鎮座地は現社地の西方の台地は八幡台と呼ばれる旧境内地である。その地続きの観音山にある観音堂には正観音像が安置されており、当社祭神の本地仏であった。とあるので 現地より西方で 吉見観音より手前となる 現在の黒岩配水場辺りか?

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

十九 嘉祥二年(八四九)二月庚寅日〉の条

庚寅 奉授に 武藏國 伊波比神に 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 伊波比神社
[ふ り が な ]いはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ihahi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 武蔵國 横見郡 伊波比神社いはひの かみのやしろ)の類社について

延喜式神名帳927 AD.』の所載社に 同じ伊波比神゛の名を持つ神社として 武蔵入間郡男衾郡に 出雲伊波比神社があります 両社ともに゛出雲゛を社号に冠していて 出雲の神を祀ります
当社〈伊波比神社(吉見町黒岩)〉も元々は 出雲系の神であったとされています

当地は 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり その子孫が吉見氏として四代続き 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られたと考えられています 当社は「岩井八幡宮と呼ばれていました 

武蔵入間郡男衾郡 それぞれの 出雲伊波比神社 を参照

その他 同じ武蔵国の延喜式内社で「イワイ」の文字を持つ神社を追ってみます

 『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)所載
「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比(イズモノ イハイ)神社」3つの論社について

 ・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

 

 ・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)

 

 ・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮 

 

 ・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地 

 

「武蔵國入間郡 出雲伊波比神社」 4つの論社 について
  武蔵國 入間郡には 同じく「出雲(イツモ) イハイ」の音をもつ式内社

・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西) 

 

 ・出雲祝神社(入間市宮寺) 

 

 ・川越氷川神社(川越市宮下町) 

 

 ・北野天神社(所沢市小手指元町) 

 

「武蔵國 横見郡 伊波比神社」の論社について
  武蔵國 横見郡には 同じく「伊波比 イハイ」の音をもつ式内社

・伊波比神社(吉見町黒岩)

 

「武蔵國 荏原郡 磐井神社」の論社について
  武蔵國 荏原郡には 「磐井 イハイ」の音をもつ式内社

・磐井神社(大田区大森北)

 

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

吉見丘陵の東端 丘陵中にと言うか上 兎に角 丘陵の下ではありません ゛八丁湖゛という大きな池沼があります 池沼の底から水が湧き出ているのと 丘陵のあちらこちらからの湧水を集めて出来ているので水質は良いです

やはり この場所が水が豊かであることを示しています

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この八丁湖から300m程 南へ下ると 丘陵の下に社頭があり 現在の鎮座地へと上がる参道があります
応永初年(1394年ごろ)以前の旧鎮座地は「現社地の西方の台地は八幡台と呼ばれる旧境内地である。その地続きの観音山にある観音堂には正観音像が安置されており、当社祭神の本地仏であった。」とあるので 現地より西方で 吉見観音より手前となる 現在の黒岩配水場辺りか?
岩井(いわい)と呼ばれた場所に 配水場があるのも縁があるのでしょう

Googleマップ

吉見丘陵の下〈東側〉に社頭があり 鳥居建ちます

江戸時代には「老松生ひしげり いかにも古き社と見えたりあります
現在は 老松は見当たらず 鳥居の前に二本 モミの木があります

伊波比神社(吉見町黒岩)に参着

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朱色の両部鳥居の扁額には 延喜式内 伊波比神社 と記されています
一礼をして 鳥居をくぐります

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細い参道の両脇に石灯籠があり その先に吉見丘陵の中腹まで石段が続いています

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の裏手は 丘陵の崖になっていて かなり ジメジメした感じなので 水が湧き出しているのかもしれません

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一礼をして 参道の階段を下ります

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東を向いている鳥居の先には田園が広がり その先には荒川が流れています

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吉見丘陵から下ってみると 丁度 水田の先に吉見丘陵の高台があります かつて横見郡の神々はこの高台から 横見郷を見守っていたのでしょう

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

伊波比神社(吉見町黒岩)について 式内社 伊波比神社であるとして 祭神は譽田別天皇 天太玉命の二柱と 記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之一九七 横見郡 巻之二 黒岩村

岩井神社

或は岩井八幡とも稱す 村の鎮守にて村民の持
祭神 譽田別天皇 天太玉命 今の神體 馬上に弓箭をとる像なり
按に 延喜式神名帳に 武蔵國 横見郡 伊波比神社と載せ
 續日本後紀に嘉祥二年三月庚寅 奉授 武蔵國 伊波比神 從五位下とあり 是當社のことなるべし

土人等は 式内の社なること云も傳へざれど 社地のさま老松生ひしげり いかにも古き社と見えたり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 伊波比神社について 所在は 黒岩村〈現 伊波比神社(吉見町黒岩)
類社として・入間郡 出雲伊波比神社男衾郡 出雲乃伊波比神社の二社を挙げていて これは皆 同じ神であろうと 記しています

【抜粋意訳】

伊波比神社

伊波比は假字也
○祭神 誉田別尊、天太玉命、(地名記)
〇黒岩村に在す、(同上)今 岩崎大明神と称す、(式社考)
例祭  日、

類社
当國 入間郡 出雲伊波比神社、男衾郡 出雲乃伊波比神社、

連胤按るに、こは都て同神なるべし、さるに、社別に祭神を違ひて傳へたるはいぶかしき事也、殊に他國に類社もなきは、当國に故ある事なるべし、

神位
続日本後紀、嘉祥月庚寅、奉授 武藏國 伊波比神 從五位下、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 伊波比神社について 所在は 黒岩村〈現 伊波比神社(吉見町黒岩)
祭神は 大己貴命 と記しています

【抜粋意訳】

伊波比(イハヒノ)神社

今、黒岩村にあり、岩崎大明神と云ふ、神名帳考土代、神名帳打聞、
蓋 大己貴命を祭る 掛酌延喜式、神名帳頭注大意、

仁明天皇 嘉祥二年二月庚寅、伊波比神從五位下を授く 続日本紀

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 伊波比神社について 所在は 黒岩村〈現 伊波比神社(吉見町黒岩)
祭神は 出雲伊波比神社の祭神 天穂日命と同じ と記しています

【抜粋意訳】

伊波比神社

祭神 天穂日

今按〈今考えるに〉
明細帳 祭神 誉田別天皇とあれど 伊波比神は当國 国造の氏人の其祖神を斎ひ祭れる由なる事 出雲伊波比神社の祭神 天穂日命と云にて明らかなり
故 今 祭神を定めて記せり

神位 仁明天皇 嘉祥二年二月庚寅 奉授 武藏國 伊波比神 從五位下

祭日 九月十五日
社格 村社

所在 黒岩村(比企郡西吉見村大字黒岩)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

伊波比神社(吉見町黒岩)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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