宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)は 社伝には第12代 景行天皇〈日本武尊の父〉が 征西の際に速津媛に迎えられ 勅をして創祀させたと伝り 又 由布院の盆地の開拓神話として゛蹴破伝承゛〈太古には湖であったとする伝説〉もあります 『六国史』には神位の奉授が記される『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の豊後國 速見郡 宇奈岐日女神社(うなきのひめの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宇奈岐日女神社(Unagihime shrine)
【通称名(Common name)】
・六所宮(ろくしょのみや)
・六所様(ろくしゃさま)
・木綿神社(ゆふじんじゃ)
・木綿山ノ神社(ゆふさんのじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
大分県由布市湯布院町川上2220
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》國常立尊(くにとこたちのみこと)
國狹槌尊(くにさつちのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 (ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
宇奈岐日女(うなぎひめ)神社
鎭座地
湯布院町〔大字川上字六所二、二二〇番地〕
御祭神
國常立尊
國狹槌尊
彦火火出見尊
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
神倭磐余彦尊
神渟名川耳尊御由緒
創祀は人皇第十二代景行天皇の御守、十二年冬十月。
嘉祥二年(八四九年)六月『從五位下』(続日本後記)。
元慶七年(八八三年)九月二日『正五位下』(三代実録)に叙されている。
延長五年(九二七年)『延喜式』の『神名帳』に列記された式内社である。明治六年郷社。大正十二年県社に列せられた。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)
金鱗湖と由布岳、そして由布院の自然に囲まれたこの神社は、「六所様」や「六所宮」と呼ばれ地元の人々にとって重要な寺院のひとつです。由布院盆地の南側、ちょうど倉木山の麓にあります。歴史は古く、約千年前、日向国霧島神社での神のお告げにょり、由布岳の山腹にて庵を結び観音像を刻し、祀ったのがはじまりです。宇奈岐日女は美人な神で、力自慢の権現に命じてこの由布院を干拓したという伝説があります。
宇奈岐日女神社は、元来、由布岳の山霊神を祀る神社です。つまり、御神体は由布岳そのものなのです。やがて由布郷内にも稲作が始まり、人々はーカ所に定住し、部落を形成すると、集団の統率者が出てくるようになります。その初期に現れた偉大な統率者が宇奈岐日女だったのではないかと考えられます。そして、部落住民の祖先崇拝の気持ちと山霊神を祀る精神が混然一体となり、こんこんと湧く水源の注ぐ池に、宇奈岐日女神社が創建されたのでしょう。
「うなぎ」というのは古語の「うなぐ」という動詞から出た言葉で、「首にものをかける」意味を表します。宇奈岐日女は、首に勾玉などで作られた首飾りをしている女神と解釈できます。この山深い由布郷で、そのような美しい宝物を首にかけて社の森に住んでいる女神は、村人から大きな信仰を集めたの ではないでしょうか。
宇奈岐日女神社は、平安初期になって、朝廷から官位をもらい、式内社に列せられました。その後、天台系の山岳仏教と結びつき、六所六観音の霊地として、修験僧の活躍する舞台となりました。天神地蔵・皇祖に関係のある神々が祭神として祀られるようになったのは、それから後の時代のようです。
境内は一万坪を超え、杉の古木に囲まれていましたが、平成 3年の台風 19号で大きな杉のほとんどが倒されてしまいました。その中には、樹齢 6 0 0年を越えると推察されるご神木もあり、今では倒れた御神木の切株を祀っています。過去に何度も伐採の経緯があリ戦国時代の末期、大友義統の時代に、大分市に鎮座する豊後一の宮「杵原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」造営用の材木をこの六所宮から伐採したことがあったという古文書が残されています。
一般社団法人 由布院温泉観光協会HPより抜粋
https://www.yufuin.gr.jp/content/temple.html
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・幣殿・拝殿
・拝殿
・〈社殿の向かって右 境内社〉厳島神
《主》市杵島姫命
・〈社殿の向かって左 境内社〉政正社
《主》天津児屋根命,天種子命,菅原道真公
・〈社殿の周囲〉湧水の堀池
・御神木の切り株
・〈御神木の切り株の隣〉〈境内社〉御年神社
《主》御年神
・神門
・参道
・狛犬
・社務所
・社頭・鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・大杵社(おおごしゃ)
宇奈岐日女神社と同時期の創設と伝わります
・蹴裂権現社(けさきごんげんしゃ)
蹴裂権現由来
大古 由布院盆地は周囲を山々にかこまれ満々と水をたたえ 秀麗な由布山の姿をきれいに逆さに映し出していた大さな湖だった 人々はその周辺の斜面や丘陸地でつつましく生活していたと言われる
ある日 由布山の山麗神の化神で碧宇奈岐日女が湖の縁にある 倉木山からじっと湖を眺めていたが力自圈の従者権現に「この湖の水をなくせば底から肥沃な土地があらわれ住民が豊かな生活をすることが出来るよう 権現お前は力持ちゆえ岸辺の一部を蹴破って湖の水を干してみよ。」と命じになった
権現は日女神の前にびざまずいて「これは権現にとって一生一代の大仕事」あらん限りの力を出して湖の壁のうちで一番薄いところを見つけてよしここぞと心を決め満身の力をこめ「エイッ」と気合もろとも縁の一角を蹴とばした
さすがに堅い岸辺の山肌も見事に崩れ落ちて大さな谷問がてき湖の水はとうとうと凄まじい音を立てて大川となって流れはじめた 湖は みる見るうちに滅水しはじめそのうち湖底の土が あちこち姿をあらわして来たやがて現在のすばらしい盆地が出来上がった日女神は里人に農耕の技法を教えて見事な五穀が実り由布院盆地は豊かな平和郷となった 後に里人は由布院盆地開拓の恩人としてあがめ 枝温湯の霊地に 宇奈岐日女神社 を創建してまつった
一方力持ちの権現は中川字 なべくら すなわち蹴破った谷間を真下に見下ろせる所に里人は 蹴裂権現社 をつくり永く信仰の対象として崇拝している
昭和の中頃まで 堰の元祭り といって 宇奈岐日女神社の御輿が年一回この地に降りし 三日間とどまり盛大な祭が行われていた
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
゛宇奈岐比咩神(ウナキヒメノカミ)゛として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十九 嘉祥二年(八四九)六月癸未朔
六月癸未朔
遣を使を巡に検し京城飢民 開に倉廩を以て賑恤せしむ 縁に霖雨に也
奉授に
豐後國 宇奈岐比咩神(ウナキヒメノカミ)火男火咩神(ホノヲホノメノカミ)に 並に從五位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
゛宇奈支比咩神゛として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷四十四 元慶七年(八八三)九月二日乙丑
○九月甲午朔〈二日乙丑〉
奉に幣を於 賀茂御祖・別雷・松尾・貴布禰・稻荷・乙訓・丹生河上神社 祈止雨也
是日 巳時有鷺集に大極殿東の楼上に 未時 又集に大極殿東の鵄尾 夜春華門の南の大木無め故自切仆焉授に
豐後國 從五位上 建雄霜起神 早吸咩神 宇奈支比咩神に 並に正五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊後國 6座(大1座・小5座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)速見郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宇奈岐日女神社
[ふ り が な ](うなきのひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Unakinohime no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
゛宇奈岐日女神社゛の創建や祭神の伝説には 諸説あります
①社伝には
第12代 景行天皇(けいこうてんのう)〈日本武尊の父〉が 征西の際に速津媛に迎えられ 土蜘蛛誅滅の時 速津姫に勅を命じて 祭を営み゛天神地祇皇祖゛を祀り創祀させたと伝
②由布院の盆地の開拓神話゛蹴破伝承゛
゛宇奈岐日女神゛による蹴破伝承〈太古には湖であったとする伝説〉
『市報ゆふ』2011.5Vol.68 「由布市文化財探訪 その62」
今回は湯布院地域の「蹴裂権現社(けさきごんげんしゃ)」について紹介します
湯布院町川西の川西公民館横にある登り口を上がっていくと、蹴裂権現社があります。蹴裂権現社の縁起は宇奈岐日女(うなぐひめ)神社の古文書で伝えられ、次のような説話があります。
太古、由布院盆地は周囲の山々に囲まれて満々と紺碧(こんぺき)の水をたたえ、由布山の姿をきれいに映し出す大きな湖でした。人々はその周辺のなだらかな斜面や丘陵に、小さな部落をつくって生活をしていました。
ある日、由布山の山霊神の化神である宇奈岐日女の神が、いつものように力自慢の「権現」を従えて湖を眺めていましたが、一つの名案を思いつきました。
そして、権現にむかい「この湖の水をなくせば、底から肥沃な土地が現れ、多くの住民がより豊かな生活をすることができよう。権現お前は力持ちゆえ、岸辺の一部を蹴破って、湖の水を干してみよ。」と命じます。
この大きな任務を受けた権現は、「これは、権現にとって一生一代の大仕事、あらん限りの力を出して大任を果たしましょう。」と、湖の周りを一周し、前徳野あたりが湖の壁が一番薄いことを発見します。
「よし、ここぞ!」と心に決めて、右足を高くあげ、満身の力を込めて「エイッ!」と気合もろともに壁の一角を蹴飛ばすと、堅い岸辺の山肌も見事に崩れ落ちて、大きな谷間がぽっかりあいて、湖の水が大川となって流れはじめます。そして、みるみる減水し湖底が姿を現して、やがてすばらしい盆地ができあがりました。
日女神は人々を盆地に集め、農耕の技法を教え、里人たちは教えを守り、五穀を実らせ、由布院盆地は豊かな平和郷になりました。
後に里人達は 日女神を由布院盆地の開拓の恩人として宇奈岐日女神社を創建します。同時に力持ちの権現のために、蹴破った谷間を真下に見下ろす位置に、蹴裂権現社をつくって感謝の気持ちをあらわすとともに、永く信仰の対象として崇拝するようになりました。
ちなみに、蹴裂権現社へと続く登り口には宇奈岐日女神社の御旅所があり、この地は「なべくら」と呼ばれています。
【宇奈岐日女神と権現】
湯布院町の口頭伝承を編集・著書された阿武豊氏は、「宇奈岐日女神とは、名前から言って宇奈岐日女神社の祭神であることは間違いない。この神社は、元来由布山の山霊神を祭る神社である。つまり、御神体は由布山そのものである。
自然崇拝の原始宗教時代、由布郷に住む人々が、容姿端正な一際高い由布山に山霊神がまします、と考えたのは当然のことであろう。
やがて 由布の郷にも稲作がはじまり、人々が定着した住居を構えるようになって、部落を形成し、集団の統率者が出てくるようになる。
その初期の偉大な統率者が宇奈岐日女であったと見ることができる。そして、住民の祖先崇拝の気持ちと山霊神を祭る精神が混然一体となって宇奈岐日女神社が創建されたものであろう。宇奈岐日女の【うなぐ】とは、首に物をかけて下げるという意味で、常に勾玉などで作られた首飾りをしている女神ということで集団の統率者に対する呼称だと言える。」と記述しています。
権現について同氏は、「蹴裂社の祭神は道臣命となっている。(中略)日女神の指示で湖の縁を蹴破った権現は、勇猛大力の道臣命ということになる。
権現とは如来・菩薩が衆生を救うために、人間の世界に現れた化身を意味する仏教語である。普通名詞であるから、筋論から言えば○○権現と名詞を冠することによって固有名詞となる。この伝説では、湖の縁を蹴破ったので、蹴裂権現と言われている。」と記しています。
なお、阿武豊氏の書には多くの伝承が掲載されていますので、順次紹介したいと思います。
参考文献:阿武豊『湯布院町の口頭伝承』より
金鱗湖(きんりんこ)の伝説
金鱗湖
由布院盆地は昔、大きな湖であった。という 蹴裂権現社(けさきごんげんしゃ)のお話の後に、金鱗湖ができたお話があります。
蹴裂権現が蹴り裂いた湖の壁。みるみる水が流れ、土地が現れました。この湖の底に一匹の龍が棲んでいました。急に湖の水が減ったので、神動力を失い、身を悶えながら由布山麓、岳本の地まで来て、そこの天祖神社に訴えました。「湖の全ては望みません。ゆえ、この地に安住の地を与えてください。さすれば、永くこの地を守りましょう。」龍の願いは神様に聞き入れられ、岳本の池が残されました。
そして、金鱗湖を源にして盆地の中央を曲がりくねって流れている大分川の上流は、湖の水が少なくなったとき、龍がのたうちまわって由布山麓の地まで登って行った跡が一本の水流となって残ったものだと言われています。
岳本の池は大きな池でしたが、慶長の大地震で埋まリ、小さくなりました。
明治 17年 ( 1 8 8 4年 )に儒学者の毛利空桑(もうりくうそう)がこの地に遊び、湖の魚の鱗が夕日に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたと伝えられています。一般社団法人 由布院温泉観光協会HPより抜粋
https://www.yufuin.gr.jp/content/temple.html
③社名の由来として゛鰻゛を精霊として祭ったという説
太古 湖であった由布院を盆地へと変えた゛宇奈岐姫(うなぎひめ)゛の伝説もある由布院の湖 その精霊として゛鰻゛を祭ったという説
④大分県で発見された古文書『ウエツフミ』〈鎌倉時代に豊後国主の大友能直公が書き著したとする〉による説
゛ウナギヒメ゛は 綿花の栽培を司る神様のことであると記されています
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR久大本線 由布院駅から東南へ約1.2km 車5分程度
由布院の盆地には朝霧がかかります
宇奈岐日女神社(湯布院町川上)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
鳥居の扁額には゛縣社 宇奈岐日女神社゛と刻字
社名は゛宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)゛
石畳みの参道の左手には゛手水舎゛鮮烈な水で清めます
その奥には゛由緒書き゛
石畳みの参道の右手には゛社務所゛
その隣にある高床の建物は゛神蔵゛であろうか
゛鎮守の杜゛は 大木もあります
参道を進みます
味のある゛狛犬゛が座します
その先 参道の両脇には゛御神木の切り株゛に瓦屋根が施されています
続いて゛神門゛をくぐります
神門をくぐり抜けると 正面には 杉の大木を背にして社殿が建ちます
社殿向かって左手の境内には゛神饌所゛だろうか?
社殿向かって右手の境内には゛平成3年の台風で倒れてしまった御神木の切株゛が 三本並び瓦屋根が施されています
その切り株の横には 〈境内社〉御年神社
社殿の周囲には 湧水による堀池が巡らせてあり 神橋を渡って
拝殿にすすみます
拝殿の手前 左右に堀池の中に境内社が祀られています
〈社殿の向かって右 境内社〉厳島神
〈社殿の向かって左 境内社〉政正社
拝殿の扁額には゛宇奈岐日女神社゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には゛幣殿゛本殿゛が続いています
一礼をして 境内をでます
駅に続く 参道を戻ると 駅前の大鳥居に戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 宇奈岐日女神社について 所在は゛油布郷に在す゛〈現 宇奈岐日女神社(湯布院町川上)〉と記しています
【抜粋意訳】
宇奈岐日女神社
宇奈岐日女は假字也
〇祭神 明ら也
〇油布郷に在す、〔社家注進〕
例祭
神位
續日本後紀、嘉祥二年(八四九)六月癸未朔、奉授に豐後國 宇奈岐比咩神(ウナキヒメノカミ)に從五位下を、
日本三代實録、元慶七年(八八三)九月二日乙丑、授に豐後國 從五位上 宇奈支比咩神に正五位下を
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 宇奈岐日女神社について 所在は゛由布郷 由布山に在り゛〈現 宇奈岐日女神社(湯布院町川上)〉と記しています
【抜粋意訳】
宇奈岐日女(ウナキヒメノ)神社
今 由布郷 由布山に在り、〔神名帳考証、神名帳内開、〕
仁明天皇 嘉祥二年六月癸未朔、宇奈岐比咩神(ウナキヒメノカミ)に從五位下を授け奉り、〔續日本後紀〕
陽成天皇 元慶七年九月二日乙丑、從五位上より正五位下を授く、〔日本三代實録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 宇奈岐日女神社について 所在は゛溫湯村 (速見郡北由布村大字川上)゛〈現 宇奈岐日女神社(湯布院町川上)〉と記しています
【抜粋意訳】
宇奈岐日女神社
祭神 宇奈岐日女神
今按 本社祭神 明細幾に國常立命 國狭槌命 火々出見命 神倭磐余彦命 彦波瀲武 淳名川耳命とあれど 式帳に宇奈岐日女神とあろときは姫神にます事著きを 此七神 何れも男神なるは疑はし故 今とらず
神位
仁明天皇 嘉祥二年六月癸未朔、宇奈岐比咩神(ウナキヒメノカミ)に從五位下を授け奉り、〔續日本後紀〕
陽成天皇 元慶七年九月二日乙丑、從五位上より正五位下を授く、〔日本三代實録祭日 九月十五日
社格 郷社(縣社)所在 溫湯村 (速見郡北由布村大字川上)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
宇奈岐日女神社(湯布院町川上)について 式内社 宇奈岐日女神社であるとして 諸書の伝えを記しています
【抜粋意訳】
〇大分縣 豊後國速見郡北由布村大字川上
郷社 宇奈岐日女(ウナギヒメノ)神社
祭神
國常立(クニタチトコノ)尊
國狹槌(クニノサヅチノ)尊
彦火火出見(ヒコホホテミノ)尊
彦波瀲武(ヒコナギサタケノ)尊
神倭磐余彦(カムヤマトイハレヒコノ)尊創建年代詳ならずと雖も、
神名帳考証に、「字奈岐日女神社、在由布郷、宇那比姫命、阿波國宇奈爲神社、陸奥國字奈己呂和気神社、按己呂反切岐也、出雲国風土記云、奴奈宜置波比売命と見え、
神社覈録に、「宇奈岐日女は假字也、祭神明か也、油布郷に在す、神位、続日本後紀、嘉詳二年六月癸未朔、奉授豊後國宇奈岐比咩神從五位下、三代実録、元慶元年九月二日乙丑、授豊後國從五位上宇奈岐比咩神正五位下」とあり、
又神祇志料に「今油布郷油布山に在り云々」と載せ、
大宰管内志に、「延喜式に速見郡宇奈岐日女神社大とあり、宇奈岐日女は紆那芸比賣と訓むべし、(木綿山にます神なれば、木綿山の神社とも云ふなり、名寄に、左兵衛督教定、神垣に誰手向とはしらねども卯の花さける木綿の山かげ)御名の義未だ考へず」と云ひ次に神位のことを叙べて後、更に「旧記に曰、速見郡宇奈岐日女神社、在由布郷温湯村、中古巳來、祭國常立尊国狭槌尊、豊斗淳尊、彦波険武鵜草葺不合尊、彦火々出見尊、磐土彦尊、號六所権現、或號木綿山神社」などあり、
又亀山随筆に「木綿山ノ神社は、杉群の中にあり、南 磴口(サカグチ)に鳥居有て、其榜額に木綿大明神とあり、又其両ノ柱には火ノ男火ノ賣ノ神と彫付たり、是は火ノ男火ノ賣ノ神のます山、度々災ある由にて、此神社に移し奉りしを、神官等の猥にかくは物したると聞ゆ、御祭は九月十五日なり、其日神輿を出して、十七日に還幸なし奉る、此社地、今は日向ノ國延岡内藤家、領内なれど、公領ノ民ともに此神を祭る事なり、神官は立川氏なりとあり」と見ゆ、
社伝に記する所と大同小異なり、此く由緒ある名祠なるを以て、往古は祭田数百因を有し、爾來代々の領主亦許多の社領を寄附せられ、維新の際に至るまで数反歩を有せしと云ふ、
明治六年郷社に列す。
社殿は本殿、渡殿、拝殿、神樂殿、廻廊、楼門等具備し、境内七千三十四坪(官有地第一種)を有す。
境内神社 多々須社 嚴島神社 御年神社
【原文参照】