大己貴神社 (筑前町弥永)〈延喜式内社 於保奈牟智神社〉

大己貴神社なむちじんじゃは 創建の伝承について『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』神功皇后の段〈仲哀天皇9年〉大神社大三輪社〉(おおみわのやしろ゛と記される古社です 邪馬台国九州説によれば゛日本で最も古い神社゛とされます 延喜式神名帳927 AD.所載 筑前國 夜須郡 於保奈牟智神社をほなむちの かみのやしろです

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大己貴神社Wohonamuchi shrine

通称名(Common name)

・オンガサマ

【鎮座地 (Location) 

福岡県朝倉郡筑前町〈旧三輪町〉弥永697-3

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(おなむちのみこと)
   天照皇大神(あまてらすおかみ)
   春日大明神(かすがだいみょうじん)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

大己貴(おおなむち)神社

 式内社で『延喜式(えんぎしき)神名帳』に「於保奈牟智(おおなむち)神社」と記載されている。『日本書紀』によると「仲哀(ちゅうあい)天皇九年秋九月 庚午朔日己卯(こうごついたちきぼう)、神功皇后(じんぐうこうごう)諸国に令して、船舶を集め、兵甲(つわもの)を練(ね)らる。時に軍卒(いくさびと)つとひかたし。皇后の(いわく)、必神の心ならんとて、大三輪社を立て、以て刀矛(ほこ)を奉り玉ひしかは、軍衆いくさびとども自聚る(おのずとあつま)」と神功皇后とこの神社との説話が記されている。また、江戸時代の『筑前国続風土記(ちくぜんこくぞくふどき)』の中に「九月二十三日祭禮(さいれい)あり。此日 神輿御神幸(みこしごじんこう)あり。御旅所は村の西十町許(ばかり)にさやのもとと云う所あり。(中略)然(しか)れ共(ども)夜須郡東部の惣社なれは、其敷地広く、産子殊(うぶことく)に多くして、人の尊敬浅からず。」現在、十月二十三日の秋季例祭の記載がある。

 同じく江戸時代の『太宰管内志』の中の「筑前神社志に皇后(神功皇后)より後に嵯峨(さが)天皇弘仁(こうにん)二年勅願(ちょくがん)有て御建立

(こんりゅう)あり其後六百六十一年を経て後(のち)土御門院(つちみかどいん)文明三年勅願として御建立あり其間数度建替ありといへども詳(つまびらか)ならず 伝われる縁起記録類は天正(てんしょう)年中兵火にかかりて尽(ことごと)く焼失す 天正十五年より九十六年の間かり殿に居ましける寛文十二年石鳥居建立祭禮神幸の儀式同十三年に再興す 本社貞享(じょうきょう)四年改造す 拝殿は元禄(げんろく)五年建立同六年社領少黒田甲斐守(かいのかみ)寄附し給へり。神職松木氏先祖より寛永(かんえい)二年まで六十二代相続せり」とある。

 また、『筑前国続風土記附録』に「此村及甘木・隅江・楢原・甘水(あもうず)・持丸・菩提寺(ぼだいじ)・千代丸・牛木・馬田(まだ)・高田・野町・依井(よりい)・大塚すへて十四村の産神(うぶがみ)にして、夜須郡の惣社也。」とある。

平成二十六年十二月 筑前町

現地案内板より

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【由  (History)】

大己貴神社(おおなむちじんじゃ)

所在地 朝倉郡筑前町弥永(いやなが)字大神屋敷

祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)・天照皇大神(あまてらすおおかみ)・春日大明神

例祭日 二月十一日・七月二十二日・十月二十三日

 地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。
このお宮は神功皇后(じんぐうこうごう)の伝承地で、皇后が新羅(しらぎ)(大陸)との戦のとき、兵が集まり難(にく)かったので、兵が集まるように社(やしろ)を建てて祈願したとのことです。このときの社が、この神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています。

 社殿(しゃでん)・拝殿(はいでん)は町の重要文化財に指定され、江戸時代末期から明治初頭の建造物で、原型は八幡造(はちまんつくり)でしょう。二棟の切妻造(きりづまづくり)、平入りの建物が前後に接続した形をしています。全面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。拝殿には唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)がついています。

平成二一年三月 筑前町教育委員会

現地案内板より

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大己貴(おおなむち)神社

 筑前国続風土記によれば、「大神(おおが)大明神は弥永(いやなが)村にあり、<延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)>に「夜須郡 於保奈牟智(おほなむち)神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。
今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせ祭る。宮所(みやところ)神さびて、境地ことに勝れたり」

<日本書紀>に「仲哀天皇9年秋9月・庚午朔己卯(の日)、(神功皇后)諸国に令して船舶(ふね)を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し、皇后曰く必ず神の心(みこころ)ならんとて、大三輪社を立て、刀矛(たち)を奉りたまいしかば、軍衆自ずと聚る」とあり、二十三日(旧暦ゆえ、現在の月)祭礼ありて、この日神輿(みこし)御幸あり。御旅所は村の西・十町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。
然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。

太宰管内志(国学者・伊藤常足編)によれば「<筑前神社志>に、(神功)皇后より後に嵯峨天皇弘仁年(八一一)勅願ありてご建立あり。その後、六百録十一年を経て御土御門院文明年(一四七二)、勅願としてご建立あり。その間、数度造り替えありといえども詳らかならず、伝われる縁起・記録類は天正十五年(一五八七)より九十六年の間、仮殿に居ましける。寛文十二年(一六七二)石鳥居建立。祭礼神幸の儀式は同十三年に再興す。本社、貞享年(一六八七)改造す。拝殿は元禄年(一六九二)建立。同年社領少々、黒田甲斐守寄付し給えり。神職松木氏(本姓大神)先祖より宝永年(一七〇五)まで六十二代相続せり」とある。

さらに、筑前国続風土記附録にも次の記録がみられる。「神殿一間半・二間半、拝殿二間半・四間、(中略)この村(弥永)及び甘木・隈江・楢原・甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛水・馬田・野町・高田・依井・大塚すべて十四村の産土神にして、夜須郡の惣社なり。頓宮地は本社の西南、八町ばかりにあり。東南十間余り、周りに松杉植わり、中に礎石あり。神幸の時は、ここに仮殿をも葺く。また町の中に浮殿の地あり。切り石ありて里人は神輿林と云う。社内に祇園社・黒殿社・八幡宮・現人社・水神・神池あり」

  • 大己貴命は大国主命のことで古代日本の国づくりをされた神である。
  • 大神大明神の「おおがみ」が訛って「おんが」となり氏子の人々は、お宮を「おんがさま」とお呼びしているとおもわれる。
  • 筑前国続風土記は貝原篤信(益軒)が元禄元年(一六八八)編纂に着手し、宝永年(一七〇九)に完成した記録である。
  • 延喜式神名帳とは平安初期の国家の法制書の施行細則で、醍醐天皇の延長年(九二七)に奏進され、康保年(九六七)に施行された延喜式の「巻第九・十神名上下」が、いわゆる神名帳である。
  • 頓宮地は、御旅処すなわち神幸に際して仮に神霊を安置する神輿宿・頓宮のある地を言う。

平成 筑前町教育委員会

現地案内文より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・境内案内図

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・本殿

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・社殿

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・拝殿

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・狛犬

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〈境内社〉・須賀神社・八幡宮

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・おんがさま・〈境内社〉天満宮

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・社務所

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・絵馬堂

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・注連柱

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・神橋

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・芭蕉の句碑

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芭蕉(ばしょう)の句碑(くひ)

所在地  筑前町弥永字大神屋敷696番地

「 川上(かわかみ)と この川下(かわしも)や 月(つき)の友(とも) 」

 この句は、芭蕉が江戸深川の五本松で詠んだものですが、弥永(いやなが)の大己貴神社の境内にこの句碑があります。

 願主(がんしゅ)は弥永の柳絮庵五滴(りゅうじょうあんごてき)といい、文化年(1805)に建てられました。

 世話人は、弥永の蘭稲、扇路、芝風、下淵の淵魚、天民の5人で、柳絮庵五滴とは柳絮庵で人の弟子が(五滴 ごてき)が育ったという意味でしょうか。

 このころ、当地方にも俳句をたしなむ文化人が集い、芭蕉を俳聖とあがめていたのでしょう。

 芭蕉は、江戸時代の正保元年(1644)に伊賀上野で生まれ、江戸に下って桃青と号しました。

 芭蕉は人生を旅にたとえ、十七文字に生涯をささげた不世出の俳人です。

平成二十三二十五日  筑前町教育委員会

現地案内板より

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・二の鳥居

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・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)夜須郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 於保奈牟智神社
[ふ り が な ]をほなむちの かみのやしろ
[Old Shrine name]Wohonamuchi no kaminoyashiro

【原文参照】

立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される大神社おおみわのやしろ〈現 大己貴神社の創建の伝承

仲哀天皇9年〔西暦200年頃〕神功皇后が 現在の朝倉市(秋月)あたりで勢力を持っていた豪族羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐後 新羅征討にあたり兵を募ったが集まらず困っていた 大神社おおみわのやしろ(または大三輪社と記載)〈現 大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永を建て 刀矛を奉納すると 兵が集まったと記載されます

【抜粋意訳】

日本書紀 巻第九 氣長足姫尊 〔神功皇后〕(仲哀天皇即位9年)秋九月庚午朔己卯十日

諸国に令(ミコトノリ)して 舩(フネ)を集めて兵甲(ツワモノ)を錬(ネ)られた
その時 軍卒(イクサトトドモ)が集まりにくかった
皇后は言いました。

必ず 神の心(ミココロ)ならん

そこで 大三輪社(オオミワノヤシロ)を立て 刀(タチ)と矛(ホコ)を奉りました
すると 軍衆(イクサトドモ)は自然と集まりました

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

大己貴神社筑前町弥永の社頭にある゛歴史の里公園゛に残る゛神功皇后と羽白熊鷲(説話)゛について

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神功皇后(じんぐうこうごう)と羽白熊鷲(はじろくまわし)(説話)

所在地 筑前町弥永字谷口459―1番地(歴史の里公園)

 昔、羽白熊鷲(はじろくまわし)という在地の豪族が本拠を朝倉市秋月の「荷持(のと)」(野鳥)に構え、筑前町一帯を支配していました。

 熊鷲(くまわし)は白い鳥の羽根を付けて鷺舞いを演じ、「まつりごと」を行う鳥装の司祭者です。

 ある年、ヤマトの国から神功皇后(じんぐうこうごう)が九州にやって来て、香椎(かしい)(福岡市東区香椎)に宮を定めました。そして、皇后は朝鮮半島の新羅(しらぎ)と戦うため、各地の豪族に命令を出し、多くの兵士を集めさせました。しかし、熊鷲はこの命令に従いませんでした。

 皇后はたいそう怒り、新羅出兵の前に熊鷲を征伐することにし、軍隊を香椎の宮から朝倉地方へ進軍させました。皇后軍は筑前町の砥上(とかみ)方面から熊鷲の領地へ侵攻し、森山峠を越えて、栗田(くりた)に到着したと想定されます。
しかし、皇后は栗田で行軍を一旦停止させ、「松峡(まつお)」(筑前町栗田字松尾)に宮を定めました。決戦は「層増岐野(そそぎの)」(注ぎ野・・新町・高上(たこえ)付近)で行われました。そして、皇后は熊鷲を征服し「我が心安(こころやす)し」(私は安心した)と語りました。この「安(やす)」が当地方の郡名起源とされ、後に「夜須(やす)」(郡)の二文字に改められました。

 熊鷲平定後、新羅出兵の兵士はなかなか集まらず、皇后は「大己貴神社」(大神屋敷、おんがやしき)に社を建て、矛(ほこ)をささげました。これは、勝者が打ち込んだ楔、あるいは熊鷲への鎮魂だったのでしょうか。いずれにしても、熊鷲という在地豪族がヤマト(中央)政権に組み込まれていく過程を物語るのでしょう。

 弥永(いやなが)周辺は、広い扇状地(せんじょうち)の要(かなめ)に位置し、古代の雲堤(うなで)(溝うなで)郷に想定されています。

かつて、草場川から依井(よりい)~上高場(かみたかば)にかけて「千間溝(せんけんみぞ)」(千八百メートル)があったといいます。ただ、何時、誰が掘らせたのか、既に江戸時代にはわからなくなっていました。
皇后が四方に目を配ったという「目配山(めくばりやま)」(山頂に皇后腰掛け石)は「水分山(みくまりやま)」の転訛(てんか)とも考えられ、そうであれば水利権を掌握する権力機構の存在も想定できます。

 仮に、この「千間溝(せんけんみぞ)」を古代の造営とすれば、その築造者は、弥永(いやなが)の大己貴神社の大神(おんが)さま(羽白熊鷲と同一人物か)、あるいは久光(ひさみつ)にある仙道古墳(せんどうこふん)世紀後半)の被葬者が想起されます。

 また、吹田(ふきた)に「鷲尾塚古墳(わしおづかこふん)」(世紀)、朝倉市の矢の竹に「熊鷲塚(くまわしづか)」などの伝承地があります。

参考文献『古事記』・『筑前国風土記逸文』・『日本書紀』および『筑前国続風土記』の伝承等

平成二十三二十五日 筑前町教育委員会

現地案内文より

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

甘木鉄道 甘木駅から北へ約4.0km 車約8分程度

大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永に参着

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社頭には一の鳥居・二の鳥居と鳥居が二連となっていて 一礼をしてくぐり抜けると神橋があります

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿が鎮座します
その後ろには 境内社が祀られています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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社頭には歴史の里公園゛があり 神功皇后(じんぐうこうごう)と羽白熊鷲(はじろくまわし)の伝承の昔から続くてあろう 穏やかな風景が続きます

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 於保奈牟智神社について 所在は゛彌永村に在す゛〈現 大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永〉と記しています

『日本書紀』神功皇后の段「新羅征伐の軍勢が集らなかったが 大三輪神の社を建てたところ 自然と軍が集り 新羅を平定できた」が記されている

【抜粋意訳】

於保奈牟智神社

於保奈牟智は假字也

〇祭神明か也

〇彌永村に在す

〇日本紀、神功皇后卷に、仲哀天皇九年九月庚午朔己卯、令諸国、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣
〔釋日本紀、頭注等に、大己貴命也、筑紫風土記云、氣長足姫命欲伐ニ新羅、整理軍士発行之間、道中頓亡、占ニ求其由有ニ祟神、名曰ニ三輪神、所以樹ニ此神社、遂平ニ新羅、

續風土記に、彌永村にあり、祭る所の神は大己貴命也、今ハ大奈大明神と稱す、御社は南に向へり、東間天照大神、西間春日大明神をも合祭り奉る、宮所神さびて境地殊に勝たり云々、夜須東郡の惣社なれば、其敷地廣く産子殊多して、人の崇敬浅からずといへり、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 於保奈牟智神社について 所在は゛今 彌永村にあり、大神大明神と云ふ、夜須の總社也゛〈現 大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永〉と記しています

『日本書紀』神功皇后の段「新羅征伐の軍勢が集らなかったが 大三輪神の社を建てたところ 自然と軍が集り 新羅を平定できた」が記されています

【抜粋意訳】

於保奈牟智(オホナムチノ)神社

また大神社とも申す、〔新鈔格勅符〕

今 彌永村にあり、大神大明神と云ふ、夜須の總社也、〔筑前續風土記、和爾雅、八幡本記、〕

貴神を祀る、初息長帯姫命、新羅を伐給はむとして軍士を整ひて発行時に軍士道より逃亡て、集難かりしを以て、其由を卜求るに、此は大三輪神の御心也と申しき、故此社を建て、刀矛を奉りしかば、軍士自ら集て、終に新羅を平給ひき、〔日本書紀、筑前風土記、〕

平城天皇大同元年、神封六十二戸を大神神に充奉る、即是也、〔新鈔格勅符〕

凡毎年六月廿二日、九月廿三日祭を行ふ、〔筑前風土記、福岡縣式社考証、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 於保奈牟智神社について 所在は゛彌永村 (朝倉郡三輪村大字彌水)゛〈現 大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永〉と記しています

『日本書紀』神功皇后の段「新羅征伐の軍勢が集らなかったが 大三輪神の社を建てたところ 自然と軍が集り 新羅を平定できた」が記されています

【抜粋意訳】

於保奈牟智神社(大己貴

祭神 大己貴

今按 神功紀に九年九月庚午朔己卯 令諸國集船船練兵甲時軍卒難集皇后曰 必神心焉 則立大三輪社以奉刀矛軍衆自聚また釋日本紀に引る筑前風土記に氣長足姫尊欲伐新羅 整理軍士発行之間道中逃亡占求 其由卽有崇神名 曰大三輪神所以樹此神社遂平新羅とある時に祭られ玉へる神なり

祭日 六月廿二日 九月廿三日
社格 郷社(縣社)

所在 彌永村 (朝倉郡三輪村大字彌水) 

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永ついて 式内社 於保奈牟智神社であると記しています

【抜粋意訳】

〇福岡縣 筑前國朝倉郡三輪大字彌永(イヤナガ)

縣社 大己貴神社

祭神 大己貴命 天照大神 春日大神

社は、延喜式神名帳に「筑前夜須郡一座小 於保奈牟智神社」とあるに當り、

和漢三才曾に「筑前国大己貴神社在夜須郡彌永村云々」と見えたり、その創立は神功皇后紀に「元年(仲哀天皇9年秋9月庚午朔己卯、令諸國集船舶練兵甲時軍卒難集、皇后曰必神心焉、則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚」と記されたるは、即ち当社の事にして、

又釈日本紀に「筑前風土記に曰く、気長足姫尊、欲伐新羅整理軍士、発行之間道中逃亡、占求其由、即有崇神名曰大三輪神、所以樹此神社遂平新羅」とある即ち当祭神の事なり、
而して当社は、往昔より特に朝廷の崇拝あつく、平城天皇大同元年、神封六十二戸を當大神に充て給ふ由見ゆ、(新鈔格符 神祇志料)

次いで嵯峨天皇弘仁年、勅願ありて社殿御建立あり、共後六百録十一年を経て、後上御門天皇文明年勅願所として御建立あり、其間数度造営ありといへども詳ならず、
傅はれる縁起記録は、天正年中兵火にかかりて悉く焼失し、天正十五年より九十六年の間殿にましまし、寛文十二年石鳥居建立、同十二年に祭礼神幸の儀式を再興す、
本殿は霊元天皇貞享年に改造し、拝殿は東山天皇元禄年建立せり、(当村神社誌に拠る)現今のもの即是なり、

祭神は大己貴神を主神とする事明かにして、他の二神は後に合せ祀りたるものなるが、其年月等未だ明かならず、(和漢三才図会、和爾雅などには三輪大明神とし相殿に東天照大神、西春日明神とせり)
社領は、往古三十六町余を有したりと伝ふ、牛木、大塚、依井、甘木等に、上大神田、下大神田、島巡りなどの地名あるは、其旧跡なり、秀吉公の時没収せらる、後元禄年社領六石、黒田甲斐守より寄附せられしが、維新の際(続風土記筑前神社志社記等を参照す)廃せられたり、
と大神社又大三輪大明神と称し、当郡の惣社たり、明治十一月郷社に列し、同二十九月縣社に昇格す。

社殿は本殿、拝殿、中殿、文庫等の建物を有し、境内九百よん十八坪(官有地第一種)社地頗る幽閑にして諸木欝蒼たり。

境内神社
八幡神社 須賀神社 天満神社〔二社〕 八幡

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』下,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088313

大己貴神社筑前町〈旧三輪町〉弥永 (hai)」(90度のお辞儀)

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筑前国 式内社 19座(大16座・小3座)について に戻る

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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