沖津宮(おきつぐう)は 現在 志賀海神社の摂社です 古くは 志賀島北部の勝馬に・沖津宮〈底津綿津見神〉・仲津宮〈仲津綿津見神〉・表津宮〈表津綿津見神〉の三社が別々に鎮祭されていました 沖津宮の御祭神は 綿津見三神の中でも誕生が早く上位とされる゛底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)゛を祀っていました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
沖津宮(Okitsugu)〈志賀海神社 摂社〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県福岡市東区志賀島勝馬〈沖津島〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈志賀海神社 摂社の為 現在の御祭神〉
《主》表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
〈元来の御祭神〉
《主》底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈志賀海神社 摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
当神社の創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で綿津見三神が奉斎されていた。凡そ1800年前、神功皇后の三韓出兵に際し舟師を率い御舟を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したとも伝えられている。
志賀海神社パンフレットより抜粋
志賀海神社 略記
御祭神
左殿 仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
中殿 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
右殿 表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)御由緒
古来、玄界灘に臨む交通の要衡として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。御祭神は、伊邪那岐が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(ミソギハラヒ)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されている。
御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪を祓い清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。
当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。二世紀(遅くとも四世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝馬山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられている。
往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石を有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元寇の役など国家の非常の際に嚇々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(一九ニ七年)には官幣小社の殊遇をうけている。
御例祭
御神幸祭 十月第ニ日曜日前後(隔年斎行)
国土祭 十月第ニ月曜日(流鏑馬奉納)特殊神事
歩射祭、御神幸祭、山誉(種蒔)漁獲祭
(福岡県無形民俗文化財)志賀海神社の案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
古事記上巻に「此三柱 綿津見神者 阿曇連等之祖神以 伊都久神也 阿曇連者 其綿津見神子 宇都志日金拆命之子孫也」
旧事記に「底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者 阿曇連等所祭 筑紫斯香神也」
即ち 神代の昔 伊弉奈岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ 身心の清浄に帰り給ひし時 生れ給ひし御神にして 海神の総本社として 鴻大無辺の神護を垂れ給ひ 諸々の海の幸を知食し給ふ 故に神功皇后 御征韓に際しては 神裔 阿曇連磯良丸命をして 舟師を導かしめ給ひ 又 元寇の役 その他国家非常に際し 赫々たる御神威を顕はし給へり、されば しばしば勅使の奉幣あり 延喜の御代には 名神大社に列せられ 或は 封戸奉り 神階を賜ふ等 上下の尊崇深厚を極め 神領等も頗る多く、中津宮、沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが 其後 久しく兵乱打続き 神領等も次第に失せびて 漸次衰微するに到れり 然るに豊臣秀吉 九州出陣に際し 朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相についで 社殿の造営神領の寄進等ありて 凡そ面目を改めるも 尚到底昔日の比にあらず、明治5年僅かに村社に指定せられたる状態なりしが 大正15年官幣小社に昇格仰出されたり。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
沖津宮(おきつぐう)は 現在 志賀海神社の摂社です
・志賀海神社(志賀島)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神と共に 神階の奉授が 記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道諸神、進 階及新叙。惣二百六十七社
奉授
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品・・・
・・・筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位 下竈門神
從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神 並從五位上
无位 住吉神 從五位下・・・
・・・
【原文参照】
賀津萬神(かつまのかみ)として 正六位上から従五位下を授かっています
賀津萬神(かつまのかみ)は (志賀島勝馬の祭神)勝馬明神〈摂社・仲津宮〉とされます【抜粋意訳】
巻卅七 元慶四年(八八〇)三月廿二日〈乙亥〉
○廿二日乙亥
授 筑前國 正六位上 賀津萬神 大歳神 託神 咩神 肥前國 正六位上
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
志加海神社 三座
住 吉 神社 三座
宗 像 神社 三座
八 幡 神社 一座
筑 紫 神社 一座
竈 門 神社 一座
美奈宣神社 三座 巳上 筑前國・・・
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
筑前國 糟屋郡 志加海神社 三座(並名神大)(しかのうみの かみのやしろ みくら)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)糟屋郡 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 志加海神社 三座(並名神大)
[ふ り が な ](しかのうみの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Shika no umi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 志加海神社 三座(並名神大)の゛三座゛について
社傳には゛三座゛について・底津少童命・仲津少童命・表津少童命とし
古代の志賀海神社(福岡市東区志賀島)は
①沖津宮(おきつみや)②仲津宮(なかつみや)③表津宮(うわつみや)の三社が 志賀島〈北側〉の勝馬(かつま)に鎮座していたとされます
〈勝馬(かつま)は かつて入江であったとされています〉
それぞれの祭神として①底津少童命②仲津少童命③表津少童命の三座を祀っていました
その後 2〜4世紀頃 その内の③表津宮(うわつみや)が遷座しました
遷座先が 勝山の麓に鎮座していた(御祭神を阿曇磯良神とする神社)の場所〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉 併せて②仲津少童命③表津少童命が奉祀されて 三座を祭神として 阿曇族が代々奉斎してきたと伝わります
現在は
①沖津宮と②仲津宮は 志賀海神社の摂社となっています
③表津宮は 表津宮跡として祭祀されています
それぞれについて
①・志賀海神社 沖津宮(志賀島 勝馬)
《合》表津少童命・天御中主神
※本来の祭神は゛底津少童命゛ですが 現在は 志賀海神社の摂社となり 本社と同神と出来ないため 合祀神を祀る
②・志賀海神社 仲津宮(志賀島 勝馬)
《主》仲津少童命
③・表津宮跡
《主》表津少童命
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛底津少童命・中津少童命・表津少童命゛の伝承
別の言い伝え(第六)によれば
黄泉の国から戻られた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が 筑紫日向小戸橘之檍原で水中で禊がれた時 ゛底津少童命・中津少童命・表津少童命゛の海神三神の誕生した その後に三貴神〈天照大神・月読尊・素戔嗚尊〉が生まれたと記されています
【抜粋意訳】
日本書紀 神代上 第五段一書(第六)
別の言い伝え(第六)によれば
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 共に大八洲国(おほやしまのくに)を生みましたすると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は言われた
「我らの生んだ国は まだ朝霧がかかっていて 良い香りに満ちている」そして 息を吹き発して 神を成した その神の名は 級長戸辺命(しなとべのみこと)と云う 亦の名は 級長津彦命(しなつひこのみこと)と云う これは風の神です
また 飢えているときに生んだ子は 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と号す
また 生んだ海神(わたつみ)たちを 少童命(わたつみのみこと)と号す
山神たちを 山祇(やまつみ)と号す
水門(みなと)の神たちを 速秋津日命(はやあきつひのみこと)と号す
木神たちを 句句廼馳(くくのち)と号す
土神たちを 埴安神(はにやすのかみ)と号す
そして のちに 萬物が生まれた
そして 火神 軻遇突智(かぐつち)が生まれました
その母 伊奘冉尊(いざなみのみこと)は 身を焼かれてお隠れになった
そのとき 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 恨んで言われた
「ただこの一人の子のために 我が愛する妹〈妻〉と引き替えにしてしまった」そして 伊奘冉尊(いざなみのみこと)の頭のあたりで腹ばいになり 足のあたりで腹ばいになり 涙を流し泣かれた
その涙が堕ちて 神と成した
これが 畝丘の木の下に居る神 啼澤女命(なきさわめのみこと)と号す伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 腰に帯びた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて 軻遇突智(かぐつち)を三段に切った
この各々が神を成した
ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた これが 天安河(あまのやすかわ)のほとりにある たくさんの磐石となった すなわち これが経津主神(ふつぬしのかみ)の祖です
ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた 激しく超えて神を成した
甕速日神(みかはやひのかみ)と号す次に 熯速日神(ひのはやひのかみ)が生まれた
その 甕速日神(みかはやひのかみ)は 武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖先ですまたは云うには
甕速日命(みかはやひのみこと) 次に熯速日神(ひのはやひのみこと) 次に武甕槌神(たけみかづちのかみ)とも云うふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた 激しく超えて神を成した
磐裂神(いわさくのかみ)と号す
次に 根裂神(ねさくのかみ)
次に 磐筒男命(いわつつおのみこと)
一説には 磐筒男命(いわつつおのみこと)と磐筒女命(いわつつめのみこと)とも云う
ふたたび 剣の鍔(つば)から血が垂れた 激しく超えて神を成した
闇龗(くらおかみ)と号す 次に闇山祇(くらやまつみ)次に闇罔象(くらみつは)が生まれた
その後 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追い 黄泉国(よみのくに)に入られて 共に語り及びました時
伊奘冉尊(いざなみのみこと)が 話されるには
「わが夫の尊よ なぜに 来られるのが遅すぎました
わたしはもう 黄泉国(よみのくに)の竈(カマド)の食物を喰らいました
そして 私は 寝息となります どうか 見ないでください」伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 聞き入れず 髪に陰くれていた湯津爪櫛(ゆつまくし)を手に取り その端の雄柱〈櫛の太い歯〉を折り 手に乗せて灯し その者〈伊奘冉尊〉を見た
すでに 膿(うみ)蛆虫(うじむし)が 湧き流れている
今の世の人が 夜に一つの火を灯すことを忌み また夜に櫛を投げることを忌むのは これがその起こりですこのとき 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 驚いて云われた
「私は 汚く穢れた国に 不意に到ってしまったのだ」急ぎ走り回帰されたそのとき 伊奘冉尊(いざなみのみこと)が恨んで云われた
「どうして 約束〈覗き見をなさるなという〉を守らず 私に恥をかかせた」そして 8人の泉津醜女(ヨモツシコメ)を遣わし及ばせた
一説によると 泉津日狭女(よもつひさめ)が 追うのを留めたとも
そこで 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 剣を抜き 背後を振り払い逃げた また 黒い鬘(かづら)〈髪留め〉を投げると これが葡萄(ぶどう)となり 醜女(しこめ)は これを見て採り食べた 食べ終わると更に追いかけた
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 湯津爪櫛(ゆつつめくし)を また投げた これが筍(たけのこ)となった
醜女(しこめ)は またそれを抜いて食べた 食べ終わると更に追いかけた
あとから 伊奘冉尊(いざなみのみこと)も追いかけた
このとき 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 泉津平坂(よもつひらさか)に到りました
一説では 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 大樹に向かい放尿をされた これが大きな川となり 泉津日狭女(よもつひさめ)が その水を渡る間に 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は 泉津平坂(よもつひらさか)に到っていた
故に 千人所引磐石(ちびきのいわ)〈千人が引っ張ってやっと動くような大きな石〉で その坂路を塞ぎ 伊奘冉尊(いざなみのみこと)と相向かい 妻に絶縁の誓いをたてた
そのとき 伊奘冉尊(いざなみのみこと)が言われた
「愛するわが夫の君 あなたがそのように〈別れると〉おっしゃるならば
私は あなたが治める国の民を 一日に千頭〈千人〉を殺そう」伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が それに答えた
「愛するわが妻 そのように言うなら 私は一日に千五百頭〈千五百人〉を生ませよう」そして云われるには「これより入ってはならぬ」そして その杖を投げた これが所謂
この杖が 岐神(ふなとのかみ)ですまた その帯(おび)を投げられ これが 長道磐神(ながちわのかみ)です
また その衣(ころも)を投げられ これが 煩神(わずらいのかみ)です
また その褌(ふんどし)を投げられ これが 開嚙神(あきくいのかみ)です
また その履(くつ)を投げられ これが 道敷神(ちしきのかみ)ですその泉津平坂(よもつひらさか)は いわゆる泉津平坂(よもつひらさか)というもので 不復別有處所〈復ならず別れ有る所〉 但し 死ぬ気絶の際 これをそう云うのだろうか
塞がっている磐石(いわと)の所 これを泉門塞之大神(よみどのさえのおほかみ)といい 亦の名を 道返大神(ちかえしのおほかみ)と云うすでに還られていた 伊奘諾尊(いざなぎのみこと)は 追ってしまったことを 悔いて云われた
「私は 汚く穢れた所に行ってしまった 我が身の濁り穢れを浄化しよう」すぐに 筑紫日向小戸橘之檍原(ちくしのひむかのおどのあわきはら)に往(いか)れて 秡除(みそぎはらえ)をされた
ついに汚い所を濯おう 声をあげられた
「上の瀬は 大いに流れが疾(はやい) 下の瀬は 大いに流れが弱い と想われ 中瀬で濯ぎをされた」これに依り生まれた神は 八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と号す
次に その汚れを直そうと生まれた神は 神直日神(かんなおひのかみ)と号す
次に 大直日神神(おほなおひのかみ)また 海の底に潜り濯いだ よって生まれた神は 底津少童命(そこつわたつみのみこと)と号す
次に 底筒男命(そこつつをのみこと)また 潮の中に潜り濯いだ よって生まれた神は 中津少童命(なかつわたつみのみこと)と号す
次に 中筒男命 (なかつつをのみこと)また潮の上に浮いて濯いで生まれた神は 表津少童命(うわつわたつみのみこと)と号す
次に 表筒男命(うわつつのをのみこと)合わせて 九柱の神であります
その
底筒男命(そこつつをのみこと)中筒男命(なかつつをのみこと)表筒男命(うわつつをのみこと)は 住吉大神(すみのえのおおかみ)です底筒少童命(そこつわたつみのみこと)中津少童命(なかつわたつみのみこと)表津少童命(うわつわたつみのみこと)は 阿曇連(あずみのむらじら)が お祭りされる神です
それから後 先に左の眼を洗われると 生まれた神は 天照大神(あまてらすおほみかみ)と号す
次に 右の眼を洗われると 生まれた神は 月読尊(つくよみのみこと)と号す
次に 鼻を洗われると 生まれた神は 素戔嗚尊(すさのをのみこと)と号す皆で三柱の神であります
伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が 三柱の子に勅されて
天照大神は 高天原(たかまのはら)を治めよ
月読尊 は 蒼海原(あおうなばら)の潮を治めよ
素戔嗚尊は 天下(あめのした)を治めよこのとき 素戔嗚尊は齢もたけ 長い髭が伸びていた
けれども 天下を治めず 常に泣き恨んだそこで 伊奘諾尊は尋ねた
「お前は なぜいつもこんなに泣いているのか」対して答えは
「私は 母の根国(ねのくに)に行きたいと思い ただ泣く」伊奘諾尊は これに情けなく
「望み通りにすべき」といって 素戔嗚尊を追いやった
【原文参照】
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
誕生した〈底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神〉の三神を「綿津見神」と称し 「阿曇連(あずみのむらじ)らが祖神ともちいつく神なり」と記しています
【抜粋意訳】
伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)は 仰せられた
「わたしは なんと穢れた國に行っていたのだろう
わたしは 身体を清め 禊(みそぎ)をしよう」
筑紫日向橘小門阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはら)に行き 禊(みそぎ)をされた
その
投げ捨てた杖から成った 衝立船戸神(ツキタツフナトノカミ)
投げ捨てた帯から成った 道之長乳歯神(ミチノナガチハノカミ)
投げ捨てた袋から成った 時量師神(トキハカシノカミ)
投げ捨てた衣から成った 和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)
投げ捨てた袴から成った 道俣神(チマタノカミ)
投げ捨てた冠から成った 飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシノカミ)
投げ捨てた左の御手の腕輪から成った 奥疎神(オキザカルノカミ)
次に奥津那芸左毘古神(オキツナギサビコノカミ)
次に奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラノカミ)
投げ捨てた右の御手の腕輪から成った 辺疎神(ヘザカルノカミ)
次に辺津那芸左毘古神(ヘツナギサビコノカミ)
次に辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラノカミ)以上の船戸神(フナト神)から辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラノカミ)まで 十二神は身につけていたものを脱ぎ捨てた物によって 成り生まれた神です
ここで 仰せられた「上の瀬が速い 下の瀬が弱い」
中の瀬に下りて 禊をなされた時 成りました神は 八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)次に大禍津日神(オオマガツヒノカミ)
この二神は 穢繁国(キタナキシキクニ)行かれた時の汚垢(けがれ)から生まれた神です次に その禍々しさをを直なおそうとして成った神は 神直毘神(カムナオビノカミ)
次が大直毘神(オオナオビノカミ)
次が伊豆能売神(イヅノメノカミ)
次に 水底で身体をお洗った時に成った神は 底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ) 次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)
中ほどで成った神は 中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ) 次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)
水の上で身体を洗ったときに成った神は 上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ) 次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)
この三柱の綿津見神(ワタツミノカミ)は 阿曇連(アズミノムラジ)などの祖神(オヤガミ)として祭っている神 つまり阿曇連は 綿津見神(ワタツミノカミ)の子(ミコ)宇都志日金拆命(ウツシヒカナサクノカミ)の子孫
その 底筒之男命(ソコツツノオノミコト)中筒之男命(ナカツツノオノミコト)上筒之男命(ウワツツノオノミコト)の三柱の神は 墨江之三前大神(スミノエノミマヘノオホカミ)〈住吉神社に祭られている神様〉
ここに
左の目を洗って成った神は 天照大御神(アマテラスオオミカミ)
右目を洗って成った神は 月読命(ツキヨミノミコト)
鼻を洗って成った神は 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)以上の件 八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)から速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)までの十四柱の神は 御身の禊をなされて生まれた神
伊邪那岐命(イザナギノミコト)はとても喜び
「私は子供を次々に生んだ 生み終わりに 貴い御子みこを得た」と仰せられて頸(くび)に掛けておいでになつた玉の緒をゆらゆらと搖ゆらして 天照大御神(アマテラスオホミカミ)に授けられ「あなたは高天原を統治なさい」と仰せられた
この御頸(おくび)に掛(かけ)た珠(たま)の名を 御倉板挙之神(ミクラタナノカミ)と云う次に 月読命(ツキヨミノミコト)に仰せられた「あなたは夜の食国を統治なさい」
次に 建速須佐之男命に(タケハヤスサノオノミコト)に仰せられた「あなたは海原を統治しなさい」
ゆえに
それぞれ命ぜられたままに治められる中 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)は 命ぜられた國を治めない 顎鬚(アゴヒゲ)が胸に届くほどになっても泣き喚いているばかりでしたその泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし
河や海は泣く勢いで 干上がってしまいましたそのために 悪ぶる神が さわぎはじめ その物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり あらゆる物の妖わざわいが悉く起りました
そこで 伊邪那岐大御神(イザナギノオホミカミ)が 速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)に尋ね「どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか」
答えて「わたくしは母上のおいでになる根の堅州国(ねのかたすくに)に行きたいと思い 泣いております」
伊邪那岐大御神(イザナギノオオミカミ)は 大変怒り「それならあなたはこの國には住んではならない」と仰せられ 追いはらつてしまいました
この伊邪那岐大御神は 淡路の多賀(たが)に坐します
【原文参照】
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR香椎線 西戸崎駅から 海の中道を経由して 志賀島へ約5.6km 車10分程度
現在 志賀島へは 砂洲で繋がっていて 海の中道が通っています
右側の外海〈玄界灘〉は 白波がたち 左側の内海〈博多湾〉は べた凪
志賀島へ渡り 東海岸を北上すると 海岸線迄 崖が迫り この崖の上に鎮座します
志賀海神社(福岡市東区志賀島)に参着
・志賀海神社(志賀島)
゛海の守護神゛゛龍の都゛゛海神の総本社゛として信仰される゛志賀海神社゛が鎮座する゛志賀島゛は 古代より大陸や朝鮮半島との交通拠点でした
゛志賀島゛の東側は玄界灘 西側は博多湾に面しています
東側を北上して 勝馬に向かいます
途中 志賀島独自の「浦島太郎」伝説がある゛二見岩゛があり ここは゛竜宮瀬(りゅうぐうせ)゛といわれます
゛昔 志賀島では
南側の志賀地区を「表」として 礎鹿(しか)と云い
北側の勝馬地区を「裏」として 浦島(うらしま)と呼んでいた゛
゛志賀島に伝わる浦島太郎伝説
ある日漁に出た浦島村の働き者の太郎は 浜辺で傷ついた亀を助け 薬草を塗り傷を癒やして海に返してやった
しかし 太郎は 大波に飲まれてしまった その後 村人が 浜に打ち上げられた太郎を見つけた 懸命な介抱の甲斐あって一命を取り留めたが 「助けた亀で竜宮に行った」などと空言を口走り 正気を失い よくなる様子がなかった村長(むらおさ)と村長の娘 姫子は心配し 太郎の空言を現実にしようと
海岸の島々を竜宮城のように飾りつけ 姫子自身も乙姫様のように着飾った
それを見た太郎は 正気に返り やがて2人はめでたく結ばれた゛
さらに北上して 勝馬に向かいます
勝馬の下馬ヶ浜 海水浴場に着きました
正面に ゛玄界島と柱島゛
その左に゛大机島と小机島゛
更に左に゛糸島半島(いとしまはんとう)゛
下馬ヶ浜の海岸沿いに進みます
3月の穏やかな日 べた凪の玄界灘でしたが やはり外海の荒い波は打ち寄せています
志賀島は 古くは万葉集にも詠まれた歴史あふれる島です
志賀の海人は 海藻刈り塩焼き いとまなみ
髪梳の小櫛 取りも見なくに
(巻3・278)現地 万葉歌 石碑文より
万葉歌碑(志賀島10号碑)
志賀の海人は海藻を刈ったり塩を焼いたりして暇がないので、髪をすく櫛を手にとっても見ないことよ。
毎日はげしい生業にたずさわって働き暮らす志賀の海人のなりふりを構う暇もない身の上を思いやった歌で、作者は石川少郎(君子)である。綿津見の神への信仰をよりどころとして、古代に生きた島人の姿はこのような歌に詠まれたが、特に志賀というこの島の名を詠み入れた歌は二十首をこえており、まさに志賀島は「万葉の島」というにふさわしいところである。なお、碑後のタブの木の茂みにおおわれた森は志賀海神社の中津宮であり、浅瀬の向こうの小島の上の社は沖津宮である。
2000年3月 福岡市教育委員会
現地案内板より
説明文中の゛碑後のタブの木の茂みにおおわれた森は志賀海神社の中津宮゛はこちら
・志賀海神社 仲津宮(志賀島 勝馬)《主》仲津少童命
波に洗われる沖津島が見えてきました
沖津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉に参着
綿津見三神は 次の三柱です
底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
元々は 勝馬に 三社別々に鎮祭されていて 沖津宮の御祭神は 綿津見三神の中でも上位とされる゛底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)゛を祀っていました
現在 沖津宮は〈志賀海神社 摂社〉とされていて 摂社に上位神を祀れない為 ゛表津綿津見神゛を祀る対応となっています
尊い神なので
大潮の時などは 潮が引くと沖津島へ渡れるようですが
基本的には 入らずの島〈聖域〉ですので こちらから遥拝をします
鳥居が建っているのが わかります
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 志加海神社 三座について 三座は〈底津少童命、仲津少童命、表津少童命〉とし
本社〈底津少童命〉の所在は 志賀嶋〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉
中津明神の社〈中津少童命〉の所在は 志賀島の西勝馬と云所の濱に、小高き山あり是なり〈現 勝馬宮〈中津宮古墳〉(志賀島 勝馬)〉
勝馬明神の社〈表津少童命〉の所在は 中津明神の社より北一町半ばかり(163m程度)にあり是なり〈現 表津宮〈沖津宮〉(志賀島 勝馬)〉
と記しています
【抜粋意訳】
志加海神社 三座(並名神大)
志加海は 斯香乃宇美と訓べし、和名鈔、郡名部 志加
〇祭神 底津少童命、仲津少童命、表津少童命、社傳
〇志賀嶋に在す、今那珂郡に属(ツケ)り、續風土記
例祭式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略 筑前國 志加海神社 三座
〇日本書紀、神代上 一書曰
號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣、古事記云、
此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。伊以下三字以音、下效此。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也日本書紀、景行天皇十二年八月乙未朔己酉、幸筑紫。十月、天皇、初將討賊、次于柏峽大野、云々、是時禱神、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。
〇姓氏録、河内國神別 阿曇連、綿積命兒高見命之後也、
績風土記云、那太濱よりつづきて、粕屋郡に属すべき所なるに、いつの比より那珂郡に属せしにや、いぶかし云々、此三神は、三所に跡をたれ給ふ、底津少童命は則今の志賀の本社なり、
社は志賀の里より北の方なる山の半腹にあり、宮所東の方海に臨める高岸にて、其左は則海なり、中殿 底津少童命、右殿 神功皇后、左殿 勝馬明神なり
中津少童命は、志賀島の西勝馬と云所の濱に、小高き山ありて中津明神と云社あり是なり、
表津少童命は、中津明神の社より北一町半ばかりに、勝馬明神の社あり、是なりと云へり、
連胤 按るに、本社を底津少童命とし、中津、勝馬両社を中津少童命、表津少童命としたるは、後世説なるべし、神代巻にて明らか也、また相殿に、神功皇后を祭るはさもあるべし、勝馬明神を祭るといふは通らぬここちす、猶考ふべし、
神位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉奉授 筑前國 從五位下 志賀海神 從五位上
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 志加海神社 三座について 所在について゛志賀島に在り゛〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉と記しています
【抜粋意訳】
糟屋(カスヤノ)郡三座、並大
志賀海(シガノアマノ)神社 三座、
今 那珂郡 志賀島に在り、筑前續風土記、一宮巡詣記、神名帳考証、
底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神を祀る、實に海原を掌り坐神也、故之を海神と云ふ、古事記、延喜式、
初伊邪那岐大神、筑紫日向の橘小門の阿波岐原に御禊し給ふ時、此三柱神を生坐き、即 阿曇連の祖神と以齋く神也、日本書紀、古事記、
因 又 阿曇神とも云ふ、 平城天皇 大同元年、神封八十戸を充奉り、新鈔格勅符、〇按本書、大寄神封の條に、八戸とあれど、八戸にては大寄と云ふべからず、十字を脱せる事著し、故今之を補ふ、
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉從五位下 志賀海神に從五位上を授け、三代実録
醍醐天皇 延喜の制、三座並に名神大社に列る、延喜式、
凡 毎年正月元日、神饌を供へ、十五日武射、
二月五日、禰宜海藻を執て香椎宮に献り、十五日漁猟の祭等を行ふ、
大宮司、神主、祝部あり、並 阿曇氏を用ふ、筑前續風土記、一宮巡詣記、即 神裔也、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 志加海神社 三座について 所在は志賀島村〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉として
考慮すると 三座は 別々の三か所に鎮座している
〈底津少童命〉の所在は゛志賀島の本社゛〈現 志賀海神社(福岡市東区志賀島)〉
〈中津少童命〉〈表津少童命〉の所在は゛枝村 勝馬神社 二所の神なり゛〈現 勝馬宮〈中津宮古墳〉(志賀島 勝馬)〉〈現 表津宮〈沖津宮〉(志賀島 勝馬)〉
と記しています
【抜粋意訳】
志加海神社 三座(並名神大)
祭神
底津少童命 中津少童命 表津少童命今按 此の神の此の地に祭られ玉ふは 上の住吉神社の條下に云るが如し
神位
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉奉授 筑前國 從五位下 志賀海神 從五位上祭日
正月二月十一月十五日 三月三日 五月五日 六月晦日 九月八日九日社格
村社(官幣小社)所在
志賀島村(今 那賀郡明細帳 粕屋郡志賀島村志賀明神とあり)
(糟屋郡志賀島村大字志賀島)今按〈今考えるに〉
福岡縣神社考証書に 三神各三所に鎮座あり
底津少童命は 即ち此の村の本社
中津少童命 表津少童命は 枝村 勝馬神社 二所の神なり神功皇后 新羅を伐玉ふ時 此の三神 御船の舵を守り 海上の風難なからしめ玉ふと云傳たりとあるが如く 三所に分かれて鎮座せしものとみえたり 姑く附て考に備ふ
【原文参照】
『筑前國続風土記拾遺』巻之8 那珂郡 下の勝間村の項
勝馬大明神
(神殿方1間・拝殿方2間・祭礼2月16日・11月16日・宮司志賀島村吉祥寺)
(前略)沖津宮ともいふ。(中略)やしろは勝馬の西、海中一顆の山上にあり。 石階97級を登る。 宮所神さひ木立物ふりて奇秀の山上なり。 (中略) まことに俗塵の汚けがれなければ、神威のおこそかなるは宜むべ也。 神代の古しへより跡をたれたまひ、香椎の廟三韓を征し給ふ時もあらはれ出たまひて、たすけ守り給へる事、国史に見え侍れは、最もたうとひうやまうへき御神也。 詣もうでて来る人心の穢けがれをあらひそゝき、誠の志を生するハかゝる所なるへし。つゝしんでおろそかにおもふへからず。
沖津宮(福岡市東区勝馬)〈志賀海神社 摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)