山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の時 山足の地〈山麓全体〉に祀られた浅間大神を 第12代 景行天皇の時 日本武尊が 当地 山宮の地に 磐境を設けて大神を祀り 大同元年(806)坂上田村麿が勅命により 現在の富士山本宮浅間大社の地に社殿を造営し 遷座した富士山の山宮斎場の元宮です 今でも本殿はなく 溶岩を用いた石列が原始的な祭祀形態を留めています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
山宮浅間神社(Yamamiya Sengen shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
静岡県富士宮市山宮740
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)
※祭神は浅間大社に同じ〈別称:浅間大神(あさまのおおかみ)〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の元宮
【創 建 (Beginning of history)】
山宮鎮座
最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。
社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。
富士山本宮浅間大社HPより
http://fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html#0301
浅間神社御由緒
當浅間神社は通称山宮と呼ばれ、往古霊峰富士を神として仰ぎ崇めた人々が山の頂から直接山体を礼拝した。神聖な霊域で始めから社殿が無く敷石は祭事執行の際神官参列者の配列を考慮したもので、最も古い形式の神社である。
一、御祭神
御祭神は木花之佐久夜毘売命であるが、古くは富士大神を申し上げ、後には浅間大神とも申し上げた。
二、御鎮座の由来
當浅間神社は現在富士宮市宮町に鎮座する元官幣大社浅間大社の元宮でその御鎮座は極めて古い。
浅間大社の社記によると人皇第十二代景行天皇の御代皇子日本武尊が勅命により東夷を征伐される途次、駿河国で賊の攻撃に遭われた際陣中で富士の神を祈念され無事、災難を免れられた。尊は深く富士の神の恩恵を感謝され神霊をこの山宮に祀られたと傳えている。更に、社記には平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麿が勅命により東夷を征討した帰途、浅間大神の神威を畏い奉って現在浅間大社の在る地(大宮と称した)に壮大な社殿を造し神霊を山宮から遷し奉ったと傳えている。その後、當社と浅間大社との間柄は山宮(元宮)里宮という密接不離な関係を保ちつつ悠久今日に及んでいる。
三、特殊神事
古くから當社と浅間大社との間には春秋二季に山宮神事と称する極めて神秘的な行事が傳承されてきた。この神事は里宮である大宮の浅間大社の大祭礼の行われる四月と十一月の初申日の前日である未日に行われた。當日未の刻(午後二時)大宮司以下神職等が神霊の宿る御鉾を奉じ行列を整えて山宮に詣で深更まで諸祭儀を厳修し一夜籠屋に参籠する。翌朝丑の刻(午前二時)神霊の宿った御鉾は木之行事という役職の左肩にかつがれ行列を整えて山を降る。
還幸の道中は深夜でも一切燈火を用いなかったという。大宮の浅間大社に着御された御鉾は本殿内陣に鎮め奉り神事は終わるのである。かくして申の刻(午後四時)から浅間大社の大祭礼が奉幣使を迎えて盛大に執り行われるのが慣例であった。因に浅間大社の大祭礼に当り御鉾が山宮に御神幸されるのは元の宮の神霊即ち富士の大神が永久に御安泰に鎮まりますように祈念するものであり、里宮の大祭礼は春秋一季農耕の安全を祈願し、豊作を感謝するための神事であったと考えられる。
四、御祭礼日、十月十九日現地石碑より
【由 緒 (History)】
山宮浅間神社
構成資産 No.3 やまみやせんげんじんじゃ
概要
山宮浅間神社には富士山を遥拝するための遥拝所がある。これは、古い富士山祭祀の形をとどめているものと考えられている。遥拝所は溶岩流の先端部に位置し、遥拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っている。遥拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いている。
「富士本宮浅間社記」には、浅間大社は山宮浅間神社の地から移転されたとある。山宮浅間神社の創建年代は不詳だが、発掘調査では祭事に使用されたと推定される12世紀の土器(カワラケ)が出土しており、文献史料では16世紀から確認できる。
また、かつては、浅間大社の祭神が春と秋に浅間大社と山宮浅間神社を往復する「山宮御神幸」が行われていた。山宮御神幸の道筋(御神幸道)50町(1町は約109メートル)には、元禄4年(1691)に1町毎に標石が置かれた。明治7年(1874)以降山宮御神幸は行われなくなり、標石の大半も失われているため、現在正確な道筋は不明である。遥拝所
富士山を直接遥拝し、祭儀を行うことを目的として築造されたと推定される施設。
南北約15m、東西約8mの長方形で、30~40cm程の溶岩を用いた石列によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・社僧席が設けられている。※現在、文化財保護のため遥拝所の玉垣内へは入ることは出来ません。
石塁
遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上げて構築されている。
石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた12世紀~15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定される。鉾立石
籠屋(社務所)をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための石が置かれている。
石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。籠屋(社務所)
山宮浅間神社で祭儀を執り行った大宮司以下の神職や社僧が一夜参籠した所。
現在の籠屋(社務所)は昭和8年に建てられたもので、それ以前の籠屋の実態は不明である。祭儀の際に仮屋が建てられた可能性もある。
富士宮市役所HP「世界遺産富士山」より
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b0000001lot.html
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈本宮〉里宮
・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
淺間神社 一座 駿河國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)富士郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 淺間神社(名神大)
[ふ り が な ](あさまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asama no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
山宮浅間神社の山宮斎場〈富士山遥拝所(ようはいじょ)〉
かつては 山宮斎場と呼ばれた祭祀場
天気が良ければ このように富士山を遥拝できます
山宮浅間神社
山宮浅間神社は、富士山そのものを祭神(さいじん)として祀られた場所と言われています。境内には社殿がなく、富士山を直接仰ぎ見る遥拝所(ようはいじょ)があります。
拝殿や本殿が存在しないのは、富士山体を遥拝(ようはい)する場所として、その祭祀(さいし)の形を留めているものと推定されています。遥拝所には、南北15.2m、東西8,4mにわたり30~40cm程度の溶岩で築かれた最上となる石列(せきれつ)があります。この石列は玉垣(たまがき)で囲まれ、さらにその周囲には約45m四方を区画する溶岩を積み上げられた石塁(せきるい)が見られます。
神社の創建年代は不詳ですが、富士山本宮浅間大社社伝によれば、山宮に遷(うつ)される前、山足の地に祀り、その後山宮に祀ったと伝えています。
かつては、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸(やまみやごしんこう)」が行われていました。この行事に使用された行路を「御神幸道(ごしんこうどう)」と呼び、道筋の50丁(1丁=約109メートル)の間には、一丁目毎に目安の石碑が建てられていました。(現在は4基だけが残されています。)
また、「山宮御神幸」の祭神は、鉾に宿り山宮へ向かったことから、御神幸の途中休憩する際に鉾を置く「鉾立石(ほこたていし)」が設けられました。鉾立石は道筋に幾つかあったといわれますが、現在は浅間大社楼門前と山宮浅間神社の参道に残っています。
拝殿や本殿が存在しない山宮浅間神社ですが、境内には籠谷(こもりや)と呼ばれる建物があります。かつて神事の際に浅間大社の神官(しんかん)らが参籠(さんろう)したとされるもので、現在の籠谷は、昭和8年に建築されたものです。遥拝所石列
遥拝所(ようはいじょ)の石列(せきれつ)については、江戸時代に書かれた「駿河記(するがき)」や「駿河志料(するがしりょう)」に、「(山宮浅間神社は)今は荒れ果て、社殿はないが、石壇や鳥居などがある。神の鎮座する所の中心には、榊(さかき)を植えてご神体の石を安置している。」とあります。
「浅間神社の歴史」によると「この石礎は、今も現存する並石(石列)をいう。」とあり、江戸時代より遥拝所には石列があったと考えられます。
また、ここには山宮御神幸(やまみやごしんこう)などの祭事に参列する本宮(富士山本宮浅間大社)の大宮司(だいぐうじ)以下の社人(しゃにん)(神官)や供僧(ぐそう)(社寺の僧侶)などが着座して並ぶ配置を区画したものだとも記されています。
この石列を囲む玉垣は、昭和5年(1930)に建設されたものですが、平成25年度(2013)に実施された発掘調査では、玉垣の西南(正面)側下部において、石列が2カ所(石列1・石列2)で確認されています。この2か所の石列は玉垣内の石列と同質の溶岩を使用しており、ほぼ同時期に配置されたものと考えられています。現地案内板より
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〈元宮〉山宮浅間神社と〈里宮〉富士山本宮浅間大社 の御神幸について
・農耕の神として信仰される 木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)
今 富士山本宮浅間大社に坐(まし)ます「木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)」は 農耕の神として 春4月(里の田植え)と秋11月(山の収穫)の年2回 山宮(山宮浅間神社)と里宮(浅間大社)との間を 社人(しゃにん)の担(かつ)ぐ神聖な鉾(ほこ)に乗り遷り 往復することを山宮御神幸(やまみやごしんこう)といいます
この御祭神の遷られた鉾(ほこ)を地面には置けませんので 鉾を安置したのが鉾立石(ほこたていし)です
・〈本宮〉富士山本宮浅間大社にある御神幸道首標の碑
御神幸道首標の碑
明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された神幸道に起点に碑である。御神幸は、春秋の大祭年実に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復するもので、祭神は鉾に移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。
御神幸道の50丁(1丁は約109m)の間には、一丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大部分は確認することができない。里宮(浅間大社)案内板より
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鉾立石〈御神幸の際鉾を立てた石〉について
・鉾立石〈富士山本宮浅間大社〉〈楼門前の石段上にある自然石〉
鉾立石〈富士山本宮浅間大社〉
その昔四月・十一月両度の大祭に山宮へ御神幸の際鉾を立てた石です。
・鉾立石〈山宮浅間神社〉〈遥拝所へ続く参道に二つ 入口 と 石段付近〉
参道の真ん中に鎮座する直径40cmほどの丸石の鉾立石 と その先にもう一つ
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR身延線 富士宮駅から 駅前通り~県道53号を経由して県道180号を北上 約6.3km 車20分程度
県道180号〈富士山スカイライン〉沿いに鳥居が建ち 駐車場があります
駐車場から進むと 先程の街道沿いの鳥居から続く参道があります
二の鳥居が建ち 扁額には「富士山元宮 山宮浅間神社」と記されています
山宮浅間神社(富士宮市)に参着
一礼をして 鳥居をくぐると
その先には石燈籠の連なる参道が続いています その先に建つのは 籠谷(こもりや)と呼ばれる建物 かつて神事の際に浅間大社の神官(しんかん)らが参籠(さんろう)したとされるもの
籠谷(こもりや)の手前には 手水舎があり 清めます
手水舎の横には「世界遺産 富士山」の案内板 「史跡富士山 山宮浅間神社」の記碑
籠谷(こもりや)にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
籠屋(こもりや)で祈りをすませてから 籠屋の中央を通り抜けて 山宮斎場〈遥拝所の磐境〉への参道を進めます 参道には「山宮御神幸」の際に鉾を置くます鉾立石が置かれていて 正面の石段を登ったところに山宮浅間神社の祭祀遺跡があります
玉垣で囲まれた山宮斎場は 南北15m 東西18mの長方形で 富士山を拝む方向に遥拝所(ようはいじょ)の石列(せきれつ)が置かれています
天気が良ければ ここから絶景の富士山を遥拝できます
本日は曇りで 富士山は肉眼では見えませんが 一礼をして 鉾立石が置かれる参道を下がります
籠屋(こもりや)には 授与品の案内があります
籠屋を抜けて 石燈籠の並ぶ参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『富士宮の昔話と伝説:ふじのみや再発見』〈出版年月2012.6〉に記される伝承
山宮浅間神社の本殿
山宮浅間神社には、本殿があるはずの所に、石が並べてあるだけで建物がありません。
いつのころか、「神社に神様を祀(まつ)る建物がないのはおかしい。」と思う人がふえてきました。そして、村の人々は、神社に本殿を建てようと思うようになりました。
ある年のこと、村の人々が寄り集まり、本殿を造る相談をしました。相談がまとまると、村中で富士山から木を伐り出して本殿造りに取りかかりました。村人の苦心の結果、やっと棟上げ式(むねあげしき)ができ、みんなで喜び合いました。
すると、その晩のこと、大風が起こって、せっかく棟上げ式まですませた本殿が吹き倒されてしまいました。村人は大変落胆しましたが、本殿造りをあきらめるのも口惜しく、再び富士山の木を伐り本殿造りを始めました。
ところが、棟上げ式をすませた晩に、ものすごい大風が吹いて、村人か苦労して造った本殿が、また吹き倒されてしまいました。そればかりか。今度は村人の家々も大風の被害を受けました。でも、村人は大風の被害にも負けず、その後何度も本殿を造ろうとしました。しかし、その度に本殿は大風に吹き例されてしまい、村人の家々も畑の作物も大きな被害を受けるようになりました。
そんなことが続いたので、村人は、「これは、きっと神の祟(たた)りだ。」と思うようになりました。それ以後、「山宮浅聞神社に本殿を造ろうとすると風の神の崇りがあるので、本殿を造ってはいけない。」といわれるようになりました。
それで。山宮浅間神社には今でも本殿がありません。
『富士宮の昔話と伝説:ふじのみや再発見』〈著者 渡井正二 採話・編集〉より
山宮浅間神社(富士宮市)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)