西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)

西寒田神社(ささむたじんじゃ)は 延喜式神名帳927 AD.所載の式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社です・『豊後国志』『太宰管内志』では こちらが本祠であって 応永15年(1408)3月に大友親世が現在地西寒多神社(大分市寒田)に遷座したと伝えています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

西寒田神社(Sasamuta shrine)

 [通称名(Common name)]

権現宮(ごんげんぐう)

【鎮座地 (Location) 

大分県臼杵市野津町大字西寒田

 [  (Google Map)]

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【御祭神 (God's name to pray)】

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

 『太宰管内志』には延喜式に大野郡西寒多神社あり、とあり。『亀山随筆』には西寒多紳杜は初大野郡野津ノ荘寒田村にあつたのを傅へによると、大友能直十世ノ孫式部大輔親世、応永七年、将軍義満により従四位下九州 節度便に補せられたとき、応永十年三月この神社を、居城の南に移して、この地を寒田と名づけたとある。その後大野郡寒田の方は衰へ、今は祭日の定めもなく、神官なども 絶え、僅かに一茅宇が残るだけになつたとある。しかし 〔稲生云〕として大野郡西寒田神社は社を再興して、鳥居 廻廊などを建立したとある。
『豊後國志』も大野郡寒田神社を西寒多神社とし、応永十五年大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた。とあり、今は一茅宇になつてゐるとある。

「社格昇進願」によると、延喜式などにふれ、中世 社運が衰へたが、江戸時代臼杵藩の崇敬をうけ延享(一七 四四~八)の頃鶴峰但馬を神職とし、文化九年(一八一二) 白川神紙伯の「鎮國一宮西寒田神社」の社号をうけてゐる。この年臼杵藩、十一月十日の祭礼を復し、岡藩等の領民も参加した。文化十二年社殿の建立を許され、文化十四 年(一八一七)神道長上より「西寒田神社」の社号をうけた。文政元年(一八一八)拝殿鳥居廻廊が造営され、以後 祭礼も盛になつたとある。明治六年村社、昭和十五年社格昇格運動を起したが、成就しなかつた。

『式内社調査報告』出版年1983 発行元 皇学館大学出版部〉より抜粋

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊後国 6座(大1座・小5座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)大野郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社 名称 ] 西寒多神社(延・大)
[ふ り が な ]ささむたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sasamuta no kamino yashiro) 

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

豊後国(ブンゴノクニ)の一之宮について

豊後国の一之宮は 当初は延喜式内大社の「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」でした 
その後 宇佐八幡宮から分祀され別宮となった「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」は 豊後国府に近くにあって 歴代の領主の崇敬を受けて勢力を増し 中世以降に 一之宮を称し始めました
①「西寒多神社(ささむたじんじゃ)
➁「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」それぞれの論社をご紹介します

この2社間で互いに 当代の豊後国 一之宮を主張する 論争が 近世までありました

別の理由としては

西寒多神社延喜式神名帳927 AD.豊後国 大分〈 西寒多神社 と記載され 豊後国 唯一の大社に列し 豊後国一宮として崇敬されてい
平安時代後期以降衰退し 西寒多神社中世に廃絶した あるいは大きく衰えていたらしい

『橘三喜 諸国一宮巡詣記』(1675年~1697年)にも次のような記載
「由原山(ゆすはらさん)〈柞原八幡宮へまかりて、西寒多の社西寒多神社を尋ねけれども、社人社僧いづれも知らざるよしを告げぬ 」

つまり 橘三喜が巡歴した江戸時代前期には由原山柞原八幡宮 西寒多神社の所在をたずねても 社僧は誰も知らず 西寒多神社は所在すら不明になっていたと伝えています

また
『豊後国志(ぶんごこくし)享和3年(1803)〉に 大野郡寒田神社を西寒多神社とし 応永十五年(1408)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた。とあり、今(1803)は一茅宇になつてゐるとあります

このため 平安時代~中世までは西寒多神社栄え やがて西寒多神社衰えて 中世以降~江戸時代までは 柞原八幡宮栄えていた 中世には実質的に 柞原八幡宮一之宮して機能していたのだと云われます 

①「西寒多神社(ささむたじんじゃ)
➁「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」それぞれの論社をご紹介します

①式内社「豊後國 大分郡 西寒多神社(延・大) の論社

・西寒多神社(大分市寒田) 

 

・本宮神社(大分市上判田)〈西寒多神社 奥宮〉 

 

・西寒田神社(臼杵市野津町西寒田) 

 

・西寒多神社(豊後大野市犬飼町西寒田) 

 

柞原八幡宮

・柞原八幡宮(大分市) 

 

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

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この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR豊肥本線 犬飼駅から大野川沿いに南下 大野川の支流 野津川へと国道10号を東へ 更に支流の西寒田川を遡るように進み 臼杵市野津町西寒田に向かいます

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西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)に参着

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石段があり 石燈籠の先に石鳥居が建ちます

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一礼をして 鳥居をくぐります
扁額には「権現宮」

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改築記念碑〈平成12年〉あり

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野津町 無形文化財指定塔 との石碑

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鳥居復元碑〈昭和六一年三月九日〉大正会の石碑

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鳥居の脇には 手水舎があり 清めます

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拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥に 本殿が格納されています

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拝殿内の寄附名板には 昭和拾貮年度 御神社 とあります

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社殿に一礼をして 参道石段を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承

西寒多神(ササムタノカミ)に神階の奉授が記されています

【意訳】

貞観11年(869)3月22日酉条)の


筑後国(チクゴノクニ)
2 高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)の神階(クワウル)に 1

(サズク)に
4位上 豊比咩神(トヨヒメノカミ)に 4位下

但馬国(タジマノクニ)5位上 養父神(ヤフノカミ)
石見国(イワミノクニ)5位上 物部神(モノノヘノカミ)
(ナラビ)に 5位下

豊後国(ブンゴノクニ)
(ムイ)西寒多神(ササムタノカミ)に 5位下

令(レイ) 下総国(シモオサノクニ)検非違使(ケンビイシ)〈律令制下の令外官の役職〉 帯る 劔(ツルギ)を 把笏(ハシャク)を

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

延喜式内社の論社として 臼杵西寒田神社は府会であるとしています
又 一之宮の論争にも言及していて 由原(ユスハラ)八幡を社僧など一之宮と称しているが 元々 西寒田神由原(ユスハラ)としていたとする説を挙げています 
大友氏の実録から 中世の様子を再現して 記しています

【意訳】

西寒多(ササムタノ)神社

〇写本 大とあり
三代実録 貞観11年(869)3月22日酉条)の・・5位下

〇サウブと云う
〇相模国 寒田神社

続日本後紀 大宰府言 云々 豊後国大分郡云々 寒川石上獲 白亀一枚 云々
〇国人云う 大分郡 早田(セラタ)村にあり 今 寒田(サムダ)八幡と云う 当社 今 延岡領に属する故 惑う人あり
又 臼杵は大野郡にあり因りて 臼杵に この神社 坐す由云えれど 付会の説なり
(延喜式)に大野郡とあるのは大分郡を誤りるなりさて
又 今世 由原(ユスハラ)八幡を社僧など一之宮と称し 祈祷などにも しか書けりりも 寒田神を八幡と云い伝うるも 甚だ近き事にはあらず
文亀3年(1503)吉田御本 町兼の御記にも 西寒田神名 柞原大明神 筥崎同体なりと載せられたり

信友 按
(弘安図田帳)に 由原宮 御神領246町とあるは これなるべし
(大友記)一名(九州治記記)大友家末世に書たる実録あり
曰く
豊後国の鎮守 由須原八幡宮の御神事は 毎年8月14日よりあくる15日まで放生会御祭とて 上古より取り行う
今年も この年号しれず忠議の代の事 恒例なればとて 8月14日午の刻にゆすはらより出し いくしのは またしたにの湊へ御幸をなし奉る
供奉の人々には 
先一番に 随兵の先陣にて 高崎 上野 牧橘 如来 宗像 以上6騎声花によろい その勢300余人めしくしてに行につらなり先行す 
二番に ちんとうとて鬼の面をかけ その様 鬼形のことと出立てつがひたり 
三番に 供僧衆120人御これの前後に供奉す
四番に 宮司 小宮司ぎだいぐうしさいしょなんどと云もの 我も われもと金銀をちりばめて打つつく 大行司は狭間30騎ばかりにて折々りけり いくしの濱の御警固には 田北紹鉄山下和泉守 色々の糸毛のよろひ着 太く逞しき馬にあつふさかくて乗りけり 相随うもの3000余騎てり かがやく 計に甲冑をたいし 濱の平をかためらるる見物の貴賤 巷に充満してゆゆしき壮観かなとささめきあえる処に 恐怖なりし事こそあれ
又 御輿 載に重くならせくまつ事 大磐石のことくにして 御輿たてまちに土埃に落たまう 貴賤きもをけし 供僧 玉輿りあけ奉らんとしけるとも 敢えてうごき 玉はず 如何せんとあきれたる所に 老僧一人 御輿の前に畏まり 三度首をかたむけ みくじをとりて御神事を ユスハラへ還幸せをなし奉りしはただごとならぬありさまなり」
宗麟(ソウリン)かねて 吉利支丹(キリシタン)を信じたりければ 大いに怒り 国中の寺社を残らず焼きはら 以下欠

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

祭神は不詳として 一宮は柞原八幡宮ではなく 西寒多神社であるとする説を記しています

【意訳】

西寒多神社 大

西寒多は 佐佐牟太と訓ずべし
〇祭神 詳らかならず
〇西寒多村に在す 社家注進
〇当国一之宮なり 一宮記
按るに
一宮記に 大分郡 号に 大分宮 筥崎同体 又の名に 柞原八幡
頭注に 名 柞原大明神 筥崎同体 但し 大野郡とすと云えり
啓蒙 本紀等 皆この説に従えり
抑この社は 大分郡 由原村に在って いと古くより 西寒多神社なりと云えど 叙位の事あるを思えば 然るべからず 祝や郡縣も違へるをや 故に今は社家の注進を証とす 依りて式外の部に 柞原八幡宮を載せたり 併せ考ふべし

神位
三代実録 貞観11年(869)3月22日酉条)の・・5位下

【原文参照】

"]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

西寒多神社は 一度 廃絶していて その論社は 色々とあり 本来は良く考慮して 比定すべきである しかし 國幣中社に列格しており 社伝に従うと記しています

【意訳】

大野郡一座 大 西寒多神社

祭神 不詳

神位
清和天皇 貞観11年(869)3月22日酉条)の・・5位下

祭日 11月中卯日
社格 國幣中社

所在(大分郡東植田村大字寒田)
今 按〈考えるに〉
一宮記に 西寒多神社 大分郡 号に 大分宮 筥崎同体 又の名に 柞原八幡
豊後大分郡神名帳頭注に 豊後大野郡 西寒多 名 柞原大明神 筥崎同体なりとあり 
神社啓蒙などの書も 亦之に従へり されど この柞原八幡は大分郡由原村にありて 郡名も違へれば信じがたし
明細帳に大野郡寒田村 西寒田神社は豊後国一之宮なりしが 朝廷の祭奠(サイテン)中絶せし後 大友親世 應永15年 同神を大分郡に勧請しつるに合わせて 当社は国守の祭奠(サイテン)も絶へて 今は僅かに一村の氏神となるとあるは正しき伝説ときこゆさるは 
豊州志に 大野郡 西寒多神 祠在(アル)は野津庄 寒田村 延喜神祇式 曰く 豊後国大野郡一座 西寒多神社これなり云々 今 既に荒廃 僅かに存一芽宇 
相伝云う 應永15年3月 大友親世 移祠 於いて大分郡植田為 その分祠所 祭 豊門別命者なり
延喜神祇式 曰く 西寒多神社一座 在 大野郡 今廃祠 仮在干三重郷 寒田村 貝原氏 曰く 大野尚 大分誤りなり 為 そ木如仮社 在干 大野郡故なりとあるにて 著しければなり 猶よく考ふべし 既に國幣中社に定められたれば 今姑くこれに従う

【原文参照】

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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