日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)は 『日本書紀』天石窟(あめのいわや)の段 一書に 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)記されます 三種の神器である伊勢の神「八咫鏡(やたのかがみ)」と同等とされる 2つの御神鏡「日像鏡(ひがたのかがみ)日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を祀る崇高な神宮です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
日前神宮・國懸神宮(Hinokuma Gingu・Kunikakasu Gingu)
[通称名(Common name)]
日前宮(にちぜんぐう)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市秋月365
[地 図 (Google Map)]
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【御祭神 (God's name to pray)】
・日前神宮
《主》日前大神(ひのくまのおほかみ)
〈御神体 日像鏡(ひがたのかがみ)〉
《相》思兼命(おもいかねのみこと)
《相》石凝姥命(いしこりどめのみこと)
・國懸神宮
《主》國懸大神(くにかかすのおほかみ)
〈御神体 日矛鏡(ひぼこのかがみ)〉
《相》玉祖命(たまおやのみこと)
《相》明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
《相》鈿女命(うづめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・人々のえにし(良縁)を結び
・うけい(結婚)の徳を授け
・生活の基本を守る家内安全の御利益を賜る
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 紀伊国一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
創建は 神武天皇二年(約2600年前)
御由緒
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。
日前神宮は 日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し
國懸神宮は 日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。
時を同じくして鋳造された天照大御神の二体の御鏡が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。
天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國 名草郡 毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
その後、崇神天皇五十一年、名草郡 濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡 萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。
爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治四年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。
大正八年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、大正十五年三月の完成をもって現在の姿となっております。
公式HPより
http://hinokuma-jingu.com/jingu.html
【由 緒 (History)】
日前神宮
祭神 日前大神
相殿 思兼命 石凝姥命國懸神宮
祭神 國懸大神
相殿 玉祖命 明立天御影命 鈿女命謹みて按するに日前大神國懸大神は天照陽乃大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからさるなり太古 天照大神の天の岩窟に幽居ましゝ時群神憂ひ迷ひ手足措く所を知らず諸神思兼神の議に從ひて種々の幣帛を備へ大御心を慰め和はし奉るに當り石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る
是れ 日前神宮奉祀の日像鏡 國懸神宮奉祀の日矛鏡にして二鏡斎き祀る例祭 九月二十六日
和歌山市秋月鎮座現地案内板より
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・天道根神社(あめのみちねじんじゃ)
《主》天道根命(あめのみちねのみこと)
・中言神社(なかごとじんじゃ)
《主》名草姫命(なぐさひめのみこと) 名草彦命(なぐさひこのみこと)
・深草神社(ふかくさじんじゃ)
《主》野槌神(のづちのかみ)
・邦安神社(くにやすじんじゃ)
《主》松平頼雄命(まつだいらよりかつのみこと)
※基壇のみ〈平成25年正月再興の以前〉
・市戎神社(いちえびすじんじゃ)
《主》蛭子神(ひるこのかみ)
・松尾神社(まつおじんじゃ)
《主》大山咋神(おおやまくいのかみ)中津島姫命(なかつしまひめのみこと)
・その他 境内社が祀られています
〈式内社 麻為比賣神社について『和歌山縣誌』に日前・国懸神宮 末社 菟佐神社に合祀と記載〉
※但し どれが境内末社 菟佐神社なのか不明
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座 …大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 麻為比賣神社
[ふ り が な ](まいひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Maihime no kamino yashiro)
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・旧鎮座地とれる名草郡 毛見郷 濱ノ宮
・濱宮(和歌山市毛見)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
相嘗祭(あひむへのまつりの)神 七十一座
日前社(ひのまえのやしろ)一座
絹(キヌ)4疋 絲(イト)3絇4銖 綿8屯5両 調布6端8尺 木綿2斤8両 酒稲100束 神統國懸社(くにかかすのやしろ)一座
絹(キヌ)4疋 絲(イト)3絇4銖 綿8屯5両 調布6端8尺 木綿2斤8両 酒稲100束 神統
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・日前(ひのまえの) 神社 一座
國懸(くにかかすの)神社 一座座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに 絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 日前神社(名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](ひのまえ〈ひのくま〉の かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hinomae no kamino yashiro)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 国懸神社(名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](くにかかすの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunikakasu no kamino yashiro)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
紀伊国造(きいのくにのみやつこ)〈日前神宮・國懸神宮の神官〉について
日前神宮・國懸神宮の神官家は 代々 紀伊国造(きいのくにのみやつこ)によって受け継がれてきました
「国造(くにのみやつこ)」は 古代 大和朝廷から任命された国の管理を行う役職〈概ね現在の県や郡の規模〉でしたが 大化の改新以後は 中央集権国家となり 多くが「郡司」などの役職へと移行していきました
しかし 2つの国造職「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」と「紀伊国造(きいのくにのみやつこ)」は 平安時代になってもその名称が用いられ 平安初期の『貞観儀式』には 宮廷儀式の説明として「任出雲国造儀」「任紀伊国造儀」の記述があります
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E9%80%A0
紀伊国造(きのくにのみやつこ、きいこくそう)は、紀伊国(現在の和歌山県)を支配した国造。国造族は神別の紀氏の長の流れをくむ一族で、古代には代々紀伊国の国造職とともに日前神宮・國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、律令制施行により国造制が廃された後も同神宮の宮司として「国造」を称した。
概要
『先代旧事本紀』「国造本紀」では紀伊国造と表記されるが、古くは『古事記』で木国造(きのくにのみやつこ)、『日本書紀』で紀国造とも表記した。祖先
『先代旧事本紀』「国造本紀」では、神武朝に神皇産霊命の五世孫の天道根命を国造に定めたとされる。『紀伊続風土記』においても神武天皇の畿内平定ののちに紀伊の国造に封じられた天道根命の嫡流であるとされる。実際に任命された最初の紀伊国造は、6世紀の紀忍勝(日本書紀敏達12年7月丁酉条、10月条)であると考えられている。
氏族
紀氏(きうじ、姓は君)で、後に庚午年籍で紀直に改姓したと見られ[3]、承和二年三月には紀宿禰を賜姓された。神話の時代を含めると2,000年以上もの長い歳月を経た今もなお日前国懸の神に仕えている。
これほどの古い家系を今に伝えているのは、天皇家を除くと、
出雲国造家の千家・北島の両家、
阿蘇神社の大宮司である阿蘇家(阿蘇国造)、
宇佐神宮の大宮司である宮成・到津(宇佐国造)の両家、
隠岐国造家であった億岐家、
籠神社の宮司である海部家、
熱田神宮の大宮司である千秋家(尾張国造)、
住吉大社の宮司である津守家、
諏訪大社の大祝である諏訪家(神氏)ぐらいともいわれ、
特に出雲国造とともにその就任には朝廷からの認可が必要とされていた
出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは
日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)〈御神体〉について
・日前神宮・國懸神宮の社伝によれば
「日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)〈御神体〉は
三種の神器である八咫鏡(やたのかがみ)(伊勢神宮の御神体として奉斎)と同等のものとされます
八咫鏡(やたのかがみ)に先立って造られたのが「日像鏡」と「日矛鏡」の二枚の鏡と伝えている〈日矛(ひぼこ)は矛(ほこ)ではなく日矛鏡であるとする〉天孫降臨の際 三種の神器とともに日前・國懸神宮の御神体も副えられ 神武天皇東征の後 紀伊國造家の肇祖に天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し 二つの神鏡を以て紀伊國 名草郡 毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています」つまり 天照大御神の御姿を型取った日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)の次に作ったのが三種の神器である八咫鏡(やたのかがみ)であるという」
・『日本書紀』天石窟(あめのいわや)の段の一書によれば
「思兼神(おもいかねのかみ)が 考えて言うには
かの〈日の神 天照大神〉神之象(かみの みかたち)を造り 祀り奉り 招きましょう」〈天照大御神の御姿を型取った日像鏡(ひがたのかがみ)の事か〉
すなわち 石凝姥(いしこりどめ)が鍛冶士となり 天香山(あめのかぐやま)から金を採って 日矛(ひぼこ)を作りました
また 真名鹿の皮を全剥ぎ〈立派な鹿の皮を丸剝ぎにして〉天羽鞴(あめのはぶき)〈火起しのフイゴ〉を作りました
これを用いて 造り奉る神は 紀伊国(きいのくに)に坐(まします)日前神(ひのくまのかみ)です」
『古語拾遺〈大同2年(807年)〉』によれば
石凝姥神が 三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)」に先立って造った鏡と記されています
「ここに 思兼神(おもいかねのかみ)の謀(はかりごと)通りに石凝姥神(いしこりどめのかみ)に 日像之鏡(ひがたのかがみ)を鋳造させました
初めに鋳造した鏡は 少(いささか)意に合わなかった
[これは 紀伊国(きいのくに)の日前神(ひのくまのかみ)である]次に鋳造した鏡は その形状が美麗(うるわし)かった
[これは 伊勢の大神である]謀(はかりごと)通りに設け備える事が終わった」
日前神宮の相殿に祀られている思兼命(おもいかねのみこと)について
境内案内板があります この神の思慮により 日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)〈御神体〉は造られたとされます
知恵の神様
日前神宮(ひのくまじんぐう)の相殿(あいどの)〈ご一緒〉にお祭りされております
思兼命(おもいかねのみこと)様は往古(おうむかし)天照大神(あまてらすおほかみ)様が天岩戸(あめのいわと)にお隠れになられた時、諸神等(もろもろのかみたち)に知恵を授けられ岩戸より大神様にお出ましいただきました おかげで世の中は再び太陽の恵みをうけられるようになりました
この思兼命様の知恵を仰ぎ尊び 古くより知恵の神様 学問の神様として深く崇められております現地案内板より
日前神宮・國懸神宮の神階について
神体の鏡は 伊勢大神と同等の扱いを受ける
日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)〈御神体〉は いずれも伊勢神宮内宮の御神宝 八咫鏡と同等のものとされます
八咫鏡(やたのかがみ)は 伊勢神宮での天照大神の御神体で 日前宮・國懸宮の神は これと同等の重要な神とされて 準皇祖神の扱いを受けていました
日前神という名称は 日神(天照大神)に対するものとされ 特別な神と考えられています
当時 朝廷の都であった大和国から見て 太陽の昇る東に伊勢国 対して 太陽の沈む西の紀伊国に当社が鎮座するので 伊勢神宮とほぼ同等の力を持つとされていたようです
神階について
日前神宮の祭神は 日前大神〈天照大神の別名〉であり 伊勢神宮〈天照大神〉と同様に朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した
朝廷が 畏れ敬い 神階を授けられることがなかったのは 伊勢神宮と日前・國懸両神宮のみです
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
和歌山電鐵貴志川線 日前宮駅から 北へ徒歩すぐ数十メートル
県道138号線を渡ると社頭になります
社号標には
「官幣大社 日前神宮
官幣大社 國懸神宮」とあります
日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)に参着
神橋を渡り 境内に進みます
一礼をして 鳥居をくぐります
右手には社務所 左手に神楽殿 祭り当日は「薪能(たきぎのう)」が演じられるようです
手水舎にて 清めます
ここから境内にすすみますが 1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり説明が難しく「紀伊国 諸国一の宮地図」をご覧ください
参道の正面で左右に別れます
向かって右〈東〉が「国懸神宮」
向かって左〈西〉が「日前神宮」
各々の
拝殿にすすみます
右手〈東〉「国懸神宮」
左手〈西〉「日前神宮」
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社にお詣りをします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天石窟(あめのいわや)の段の一書に 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)について記しています
【抜粋意訳】
第七段〈天石窟の段〉一書(第一)
ある書によるとこのあとに〈誓約の後〉
稚日女尊(わかひるめのみこと)が 齋服殿(いみはたどの)で神の御服を織っていました
素戔鳴尊(すさのをのみこと)は これを見て 斑駒〈まだら模様の馬〉の皮を逆に剥いで 殿内に投げ込みました
稚日女尊は驚いて 機織り機から転げ落ち 持っていた梭(ひ)〈機織道具〉で体を突いて死んでしまわれた
それで天照大神(あまてらすおほみかみ)は素戔鳴尊(すさのをのみこと)に
「お前には まだ黒心〈汚らわしい心〉がある もうお前とは会いたくない」
すぐに天石窟(あめのいわや)に入られて 磐戸(いわと)を閉じてしまわれた
天下は 暗くなり 昼と夜の境も無くなってしまいました
そこで 八十萬神(やおよろずのかみ)が天高市(あめのたけち)に集り話し合いました
そのとき 高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)の御子 思兼神(おもいかねのかみ)がおりました 思慮深く 知恵がある神です
思兼神(おもいかねのかみ)が 考えて言うには
「かの〈日の神 天照大神〉神之象(かみの みかたち)を造り 祀り奉り 招きましょう」〈天照大御神の御姿を型取った日像鏡(ひがたのかがみ)〉
すなわち 石凝姥(いしこりどめ)が鍛冶士となり 天香山(あめのかぐやま)から金を採って 日矛(ひぼこ)を作りました
また 真名鹿の皮を全剥ぎ〈立派な鹿の皮を丸剝ぎにして〉天羽鞴(あめのはぶき)〈火起しのフイゴ〉を作りました
これを用いて 造り奉る神は 紀伊国(きいのくに)に坐(まします)日前神(ひのくまのかみ)です石凝姥は 伊之居梨度咩(いしこりどめ)といいます
全剥は宇都播伎(うつはぎ)といいます
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天武天皇の病に際し 幣(みてぐら)を奉じた と記しています
【抜粋意訳】
天武天皇 朱鳥元年七月癸卯〈7月5日〉の条
幣(みてぐら)を紀伊国(きいのくに)国懸神(くにかかすのかみ)・飛鳥四社(あすかのしやしろ)・住吉大神(すみよしのおほかみ)に奉じました
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
天岩戸の段で 伊勢大神の鏡の前に造らせた日像之鏡(ひがたのかがみ)が 紀伊国(きいのくに)の日前神(ひのくまのかみ)と記しています
【抜粋意訳】
ここに 思兼神(おもいかねのかみ)の謀(はかりごと)通りに石凝姥神(いしこりどめのかみ)に 日像之鏡(ひがたのかがみ)を鋳造させました
初めに鋳造した鏡は 少(いささか)意に合わなかった
[これは 紀伊国(きいのくに)の日前神(ひのくまのかみ)である]次に鋳造した鏡は その形状が美麗(うるわし)かった
[これは 伊勢大神(いせのおほかみ)である]謀(はかりごと)通りに設け備える事が終わった
【原文参照】
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
『日本書紀』天石窟(あめのいわや)の段 一書とほぼ同じ内容で 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)について記しています
【意訳】
天照太神(あまてらすおほかみ)が 神衣(かんみそ)を織るために斎服殿(いみはたどの)へおいでになられた
そこへ素戔烏尊(すさのをのみこと)は 天斑馬(あまのふちこま)を生きたまま皮を逆に剥ぎ 御殿の屋根に穴をあけてその皮を投げ入れた
天照太神は たいへん驚き 機織の梭で身体をそこなわれた一説には 織女(おりめ)の稚日姫尊(わかひるめのみこと)が驚かれて機から落ち 持っていた梭で身体を傷つけられて亡くなった その稚日姫尊は 天照太神の妹である
天照太神は素戔烏尊に言われた
「お前はやはり黒心(きたなきこころ)がある もうお前と会いたいとは思わない」
そうして 天の岩屋に入り 磐戸を閉じ隠れられた
そのため 高天原は暗くなり また葦原の中国も暗くなって 昼と夜の区別も分からなくなった
あらゆる邪神の騒ぐ声は 夏の蠅のように世に満ち あらゆる禍いがいっせいに起こり 常世の国に居るようだ 諸神は憂い迷って 手も足もうち広げて 諸々のことを灯りをともしておこなった八百万神々(やおよろずのかみがみ)は 天八湍河(あまのやすかわ)の河原に集り どのようにお祈りを奉るべきかを相談した
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)は思慮深く智にすぐれて 深謀遠慮をめぐらせていった
「常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集め 互いに長鳴きさせましょう」そして集めて鳴き合わせたまた 日の神(ひのかみ)の像(かたち)を作り 招き祈り奉ることにした
また 鏡作の祖 石凝姥命(いしこりとめのみこと)を工とし 天八湍河(あまのやすかわ)の河上の天の堅石を採らせた
また 真名鹿(まなしか)の皮を丸剥ぎにし 天羽鞴(あまのはぶき)を作り 天金山(あまのかごやま)の銅を採り 日矛(ひぼこ)を作らせた
この鏡は 多少不出来だったが 紀伊国に坐(まします)日前神(ひのくまのかみ)がこれであるまた 鏡作の祖の天糠戸神(あめのぬかとのかみ)[石凝姥命の子である]に 天香山(あまのかぐやま)の銅を採らせて 日の像の鏡を作らせた そうして出来上がった鏡の姿は美麗だったが 岩戸に触れて小さな傷がついた その傷は今なおある
この鏡が 伊勢にお祀りする大神である いわゆる八咫鏡(やたのかがみ)
またの名を 真経津鏡(まふつのかがみ)がこれである
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
日前は 比乃久麻(ひのくま)と読むべし 國懸は 久爾加々須(くにかかす)と読むべし と記しています
【抜粋意訳】
日前神社 名神大 月次 相嘗 新嘗
日前は 比乃久麻と訓べし
この假字を式の印本はじめ、日本紀、旧事紀、古語拾遺等に、皆ヒノマエとあるはいかにぞや、こは本注の如く唱べきは、後世のものながら、風雅集神祇に、紀俊文朝臣「名草山とるや榊のつきもせず神楽しげき日のくまの宮、とあるぞ正しかりける、国造の常にいひ伝へしに、そばかくよみ待るめれ、」
和名鈔、郷名部 日前神戸
〇祭神 天懸神
〇宮郷秋月村に在す、國懸神社 名神大 月次 相嘗 新嘗
國懸は 久爾加々須と訓べし
〇祭神 國懸太神
〇日前宮同社地に在す右二座 式に 四時祭下 相嘗祭神七十一座、中略、日前社一座、國懸社一座、坐に紀伊国
同三、臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略、紀伊国 日前神社 一座、國懸神社 一座
〇当国一宮なり
〇永萬記云、日前、米十石時々召物、さて次に黒前とあり、こは國懸の竃ならん、猶考ふべし
〇日本紀、神代上 一書曰く
『天照大神謂素戔鳴尊曰「汝猶有黑心。不欲與汝相見。」乃入于天石窟而閉著磐戸焉。於是、天下恆闇、無復晝夜之殊。故、會八十萬神於天高市而問之、時有高皇産靈之息思兼神云者、有思慮之智、乃思而白曰「宜圖造彼神之象、而奉招禱也。」故卽、以石凝姥爲冶工、採天香山之金、以作日矛。又、全剥眞名鹿之皮、以作天羽韛。用此奉造之神、是卽紀伊国所坐日前神也』
旧事紀云『天金山(あまのかごやま)の銅を採り 日矛(ひぼこ)を作らせた
この鏡は 多少不出来だったが 紀伊国に坐(まします)日前神(ひのくまのかみ)がこれである』古語拾遺云
『於是 從思兼神議 令石凝姥神鑄日像之鏡 初度所鑄 少不合意 【是 紀伊国日前神也】 次度所鑄 其状美麗 【是 伊勢大神也】』
・・・・
釈日本紀云・・・・
野府記云・・・・・
紀伊国造伝云 考証所に引用
『日前宮 天照太神、國懸宮 日矛なり、太神宮司成胤按、旧事紀 令に鋳造 日矛、この鏡少不合意云々、上謂うに日矛、下謂うに此鏡、則知 日矛者鏡名なり』
倭姫世紀云
『崇神天皇五十一年甲戌、遷に木乃国 奈久佐宮、積三年之間斎奉り、干時紀国造進に舎人紀麻呂良地口御田』官幣 神財 神寶
日本紀、天武天皇朱鳥元年七月癸卯、奉幣於居 紀伊国 国懸神
文徳実録、嘉祥三年十月甲子、遣に左馬助従五位下 紀朝臣貞守、向に紀伊国 日前國懸大神社、策命曰、天皇我詔旨・・・・・・
三代実録、貞観元年七月十四日丁卯、・・・・
・・・・・
・・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
明文抄に載る大倭本記を引用して 天孫降臨の際 鏡は三面あって 一鏡は伊勢神宮(天懸大神) 一鏡は今 紀伊国 名草宮(日前大神・國懸大神)と記しています 三面とも天照大御神の亦の名〈天照大神の別名〉です
【抜粋意訳】
日前神社 名神大 月次 相嘗 新嘗
祭神 日前大神
今按〈今考えるに〉
日本紀 神代巻 天窟戸條 一書に
「乃入于天石窟而閉著磐戸焉。於是、天下恆闇、無復晝夜之殊。故、會八十萬神於天高市而問之、時有高皇産靈之息思兼神云者、有思慮之智、乃思而白曰「宜圖造彼神之象、而奉招禱也。」故卽、以石凝姥爲冶工、採天香山之金、以作日矛。又、全剥眞名鹿之皮、以作天羽韛。用此奉造之神、是卽紀伊國所坐日前神也」
また古語拾遺に
「於是從思兼神議令石凝姥神鑄日像之鏡初度所鑄少不合意(是紀伊國日前神也)次度所鑄其状美麗(是伊勢太神也) 云々」とある
日前神は即ち本社にして本国神名帳に日前大神宮とみえ玉へる是なり
而るに此神を世に天懸大神と申すは誤りなる事 明文抄に載る大倭本記に「天皇之始 天降来之時 共副護斎鏡三面 子鈴一合也」とある本註に「一鏡者 天照大神之御霊名 天懸大神 伊勢国 磯宮 崇敬拝大神也」「一鏡者 天照大神之前霊名 國懸大神 今 紀伊国 名草宮 崇敬拝大神也」とみえて
伊勢に斎き祭る大神におはします事 著きを釋紀に引る文に「今 伊勢磯宮 崇敬拝大神也」と云字の説たるに依りて誰しの人も日前神の事と思誤れるものなり 故 今 天懸大神とは記さずして日前大神と記せり國懸神社 名神大 月次 相嘗 新嘗
祭神 國懸大神
官幣
天武天皇 朱鳥九年七月癸卯 奉幣於坐 紀伊国 国懸神
文徳天皇 嘉祥三年十月甲子 遣に左馬助従五位下 紀朝臣貞守、向に紀伊国 日前國懸大神社、策命曰、天皇我詔旨・・・社格 並 官幣大社
所在 秋月村(海草郡宮村大字秋月)
【原文参照】
日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)