「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

目次

「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」の大略について

7月初旬 初午の日に 薦神社(komo shrine)の内宮とされている「三角池(misumi ike)」から始まります

ここで刈られた真薦(makomo)で造られた「薦枕(komo makura)」を 新たな八幡神の御神体「御璽(mi shirushi)」として神輿(mikoshi)にのせて行幸(gyoko)となります

『八幡宇佐宮御託宣集(hachiman usanomiya gotakusenshu)』に記されます

「薦枕(komo makura)」が 八幡神の御神体「御璽(mi shirushi)」となった訳として 八幡神の御神体「御璽(mi shirushi)」が 神輿(mikoshi)にのせられて行幸(gyoko)した経緯が記されています

要約
「 第44代 元正天皇(gensho tenno)養老3年(719)
大隅(osumi)・日向(hyuga)両国の 隼人(hayato)の反乱の報が朝廷に届きます

翌年 養老4年(720)朝廷は 宇佐宮(八幡神)に祈祷(kito)すると
「我 行きて 降伏すべし」と神託がありました 八幡神を奉ほうじて 隼人征伐に向かうことになります

神官の大神諸男(oga moroo)は 八幡神の御神体「御璽(mi shirushi)」を載のせる神輿の準備を進めますが
八幡神の御神体「御璽(mi shirushi)」をどのようにするのかを 神慮(shinryo)しますと 八幡大菩薩(hachiman daibosatsu)が かつて修行をされた宝池「三角池(misumi ike)」に至ります

そして この地で祈りを捧げると 三角池に青・黄・赤・白・黒の五色の波が立ちます 八幡大神が お姿を池に写されている 浄土(jodo)のようでした

池には 常人に有らざる 300余歳になる宇佐池守(usa no ikemori)が付き従っていて 八幡神の誓願(seigan)によって 霊池を守っていました
大神諸男(oga moroo)が 池に向かうと 宇佐池守(usa no ikemori)が 人の乗る船に変化して 頭を池の上に浮かべ 次のようにと歌いました

「大貞(osada)や 三角の池の 真薦草(makomo gusa )なにを縁えにしに 天胎(harami) 生むらん」

さらに三角池に霊波が満ちて

「我は 昔 この薦(komo)を枕と為なし 百王守護(hyakuo shugo)の誓をおこしき 百王守護(hyakuo shugo)とは 凶賊を降伏すべきなりてへり」
と神託を賜ります

大神諸男(oga moroo)は 三角の池の 真薦草(makomo gusa )を刈り「薦枕(komo makura)」を造りあげます
それを将軍の宇努首男人(unu no obito ohito)が 御神体とします
禰宜(negi)の辛嶋波豆米(karashima no yozume)を 御杖人(mitsue hito)として とうとう隼人の乱を制圧します ・・・」

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「行幸会(gyokoe)」の行幸順は 次のように伝わります

宇佐八幡→①田笛社→②鷹居社→③郡瀬社→④泉社→⑤乙咩社→⑥大根川社→(薦神社)→⑦妻垣社→⑧小山田社→宇佐八幡

かつては 宇佐八幡の境外8摂社とされていました

・薦神社(komo shrine)
最初に「薦枕(komo makura)」は 薦神社(komo shrine)の内宮「三角(misumi)池」で刈られた真薦(makomo)で造られます

《主》応神天皇(ojin tenno)
《主》比売大神(hime okami)[田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命(3女神)]
《主》息長帯比売命(okinaga tarashihime no mikoto)(神功皇后)

・薦神社(komo shrine) (大貞八幡宮 大分県中津市)
詳しくは 薦神社の記事もご覧ください

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「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」の巡行する順番に 各々の神社の記事をご覧ください

①・田笛神社(tabue shrine)

 《主》八幡大神(hachiman okami)

➁・鷹居神社(takai shrine)

《主》応神天皇(ojin tenno)
   仲哀天皇(chuai tenno)
   神功皇后(jingu kogo)

➂・郡瀬神社(korise shrine)

《主》応神天皇(ojin tenno)(八幡大神)
   仲哀天皇(chuai tenno)
   神功皇后(jingu kogo)
《配》田心姫神(tagorihime no kami)
   湍津姫神(tagitsuhime no kami)
   市杵島姫神(ichikishimahime no kami)
   大宮比咩神(omiyahime no kami)

④・泉神社(izumi shrine)

《主》応神天皇(ojin tenno)
   仲哀天皇(chuai tenno)
   神功皇后(jingu kogo)

   仁徳天皇(nintoku tenno)
《合》宇饌持神(ukemochi no kami)
   豊受姫神(toyokehime no kami)
   宮比神(miyahi no kami)
   須佐之男神(susanowo no kami)
   市杵島姫神(ichikishimahime no kami)

➄・乙咩神社(otome shrine)

《主》仲哀天皇(chuai tenno)(第14代天皇)
   神功皇后(jingu kogo)

   應神天皇(ojin tenno)(第15代天皇)
   比売大神(hime okami)(三女神)
   仁徳天皇(nintoku tenno)(第16代天皇)
   日本武尊(yamato takeru no mikoto)
   天児屋根命(ameno koyane no mikoto)
   別雷命(wakeikazuchi no mikoto)

⑥・ 大根川神社(onegawa shrine)矢立宮(yatate miya)

《主》誉田別命(homutawake no mikoto)(第15代 應神天皇)

➆・妻垣神社(tsumagake shrine)

《主》比咩大神(hime no okami)(玉依姫命(tamayorihime no mikoto)
   八幡大神(hachiman okami)(応神天皇(ojin tenno)
   神功皇后(jingu kogo)

《合》田心姫尊(tagorihime no mikoto)
   天忍穂耳尊(amano oshihomimi no mikoto)
   天穂日命(amano hohi no mikoto)
   活津彦根命(ikutsu hikone no mikoto)
   天津彦根命(amatsu hikone no mikoto)
   熊野樟日命(kumano kusubi no mikoto)

⑧・小山田神社(oyamada shrine)

《主》八幡大神(hachiman okami)

《配》高龗神(takaokami no kami)
   闇龗神(kuraokami no kami)

・馬木嶺(御許山)
・大元神社(omoto shrine)

《主》比売大神(hime okami)

   [多岐津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命(宗像3女神)]

・菱形辺(大尾山)
・大尾神社(oo shrine)

《主》八幡大神(hachiman okami)

中世になってからは
新たな御験「薦枕(komo makura)」を奉じた後に 旧「薦枕(komo makura)」は遷座させていったとも伝わります

⇒ 旧「薦枕(komo makura)」は 宇佐神宮の上宮から下宮に遷ります

⇒ 翌日 下宮から 奈多八幡宮(杵築市)から出迎えの神職等に奉じられて
⇒ 若宮八幡宮(豊後高田市)
⇒ 田染社・田原別府など 国東半島の神社にて一泊
⇒ 4日後 奈多八幡宮(杵築市)

奈多八幡宮に祀られていた 以前の古い旧旧「薦枕(komo makura)」は
⇒ 奈多八幡宮前の浜にある厳島の大石から海に流した(竜宮へ還す)

⇒ または 伊与国宇和 八幡浜の八幡宮に納め 海中に流したと伝わります

・総鎮守 八幡神社(八幡浜市矢野神山)

郡瀬神社(korise shrine)の境内 案内板に「行幸会(gyokoe)」について詳しくあります

尚 宇佐神宮には行幸会(ぎょうこうえ)と申す大事な祭儀があり、その行幸会(ぎょうこうえ)に 当社は深い関係のある由緒正しい神社であります。

行幸会(ぎょうこうえ)と申すは
称徳天皇 神護元年閏十月十八日の神託によりて 四年に一度づつ行われしが 嵯峨天皇 弘仁八年より六年に一度と改まり、
近古 戦乱の世久しく中絶せしを元和元年 細川忠興候 再興せらる。

其の大略は、
下毛郡大貞なる三角池の薦(こも)を苅り、御璽(みしるし)を封じ神輿(みこし)に乗り奉(たてまつ)り、
宇佐宮八箇社の内、先づ田笛、次に鷹居、次に 瀬社(せやしろ)(当社)に御泊り、次に泉社、次に乙咩に行幸(ぎょうこう)あり、次に大根川へ、此の社より大神宝を薦社(中津大貞)に奉(たてまつ)る。
上古は 此の社に勅使参宮あり。同夜復(また)当瀬社(せやしろ)に御泊りせり。翌日 妻垣社(安心院)に行幸(ぎょうこう)。
此の社より大神宝を辛川社(速見郡) に奉(たてまつ)る。翌日 小山田社に行幸(ぎょうこう)、同社より亀山の本宮へ御還幸(ごかんこう)あり、旧(ふる)き御璽(みしるし)は 下宮に遷座(せんざ)し、下宮の旧(ふる)き御璽(みしるし)は 国東郡奈多宮に行幸(ぎょうこう)せるなり。

そもそも八幡信仰は単に応神天皇のご聖徳をたたえるものでなく、海外文化や産業を始めて輸入され、新しい国づくりをされた実に英明幸運の方であると共に、神徳も強くあられたので 伊勢につぐ御先祖のお社として崇敬された八幡社であり、宇佐神宮の摂社としてお祀りされたが 明治五年郷社に列せらる。

郡瀬神社拝殿に掲げられた案内板より抜粋

「薦枕(komo makura)」の新造は「八幡神の再生」新たな八幡神の誕生 とされて 宇佐の霊地(八幡神の古社)を巡る聖地巡幸とされています

全国4万社余りの八幡社の総本宮
神仏習合時「八幡大菩薩(hachiman daibosatsu)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

宇佐神宮について 詳しくは 記事をご覧ください

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