石部神社 上社跡〈石部神社の御旅所〉(愛知郡愛荘町石橋)〈『延喜式』石部神社二座〉

石部神社 上社跡(いそべじんじゃ かみしゃあと) 石部神社は 元々は二座で 上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)に分かれていたが 応仁・文明の乱(1467~1477年)で上社は罹災(りさい) 下社現在地境内に移されたと伝わる 上社の跡地は磯部の小字善法寺方といわれ 現在は石部神社 下社の御旅所となっています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

石部神社 上社跡(Isobe shrine Kamishaato
〈現在は 石部神社 下社の御旅所〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

滋賀県愛知郡愛荘町石橋小字善法寺方

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

石部神社 上社跡〈現在は 石部神社 下社の御旅所〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『近江愛智郡志』巻4に記される内容

【抜粋意訳】

第十二節 愛智川町

石部神社

 石部神社は愛智川町大字沓掛に鎭座す。今磯部村土橋村の産土神なり。古へは沓掛 磯部 土橋三村の祖神たりしが中古 神輿渡御に祭し爭論を生し依て沓掛村は去て大領神社に附属す、社地 沓掛村領内に在る是れが爲なり。
明治七年六月磯部村と土橋村とを合稱して大字石橋と改む 村名の一字を採りしものなり。
當社は延喜式神名帳に加列する名神(小)なり今諸書に見ゆる文献を列記すれば左の多きあり。

・・・〈中略 【原文参照】のこと 〉・・・・

大日本史
愛智郡 有に 石部社 延喜式

 卽ち愛智郡石部神社二座とあり 磯部は卽ち石部にて地名は神名と其源を一にす。
舊 磯部村領に石部上社と稱する地あり 是れ石部二社中 上社の神境なり。現在の石部は下社なり 應仁文明亂 兵燹の災ありし以後 上社を下社境内に合祀す 然れども上社の古地は 爾後 神輿渡御の旅所として今に變ることなし。
當社の旅所は其也に二ヶ所ありて合計三所を有す然れども 特に石部上社の舊趾なる旅所を今に上社と稱する遺名を傳ふるは 古へ上下二社の神社各別なるを證明するものなり。

・・・〈以下 略 【原文参照】のこと 〉

【原文参照】

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

近江愛智郡教育会 編『近江愛智郡志』巻4,滋賀県愛智郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240306

【由  (History)】

石部神社

 石部神社は、延喜(えんぎ)五(九〇五)に醍醐(だいご)天皇の命により編纂(へんさん)された延喜式にその名がみられる。

 社伝の一つには神護景雲(じんごけいうん)元年(七六七)石部公行冨の創祀と記され、石辺公の始祖、久斯比賀多命(くしひがたのみこと)(天日方奇日方命 あめひがたくしひがたのみことが祭神に含まれることから、「石部」や「石辺君」などの古代氏族と関係が深い神社であるとされる。

 かつては上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)に分かれていたが、応仁の乱で上社は罹災(りさい)し、下社現在地境内に移されたと伝わる。上社の跡地は磯部の小字善法寺方といわれ、現在は石部神社の御旅所となっている。

 本殿の右奥に位置する境内社は上ノ社と呼ばれ、寛政(一七九一)の棟札が残る。もとは本殿であったが、新本殿造営のため昭和十八(一九四三)に現在地に移築された。

平成二十六 愛荘町教育委員会

石部神社 下社(愛知郡愛荘町沓掛)境内案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

石部神社 下社(愛知郡愛荘町沓掛)

 石部神社は 元々は二座で
上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)に分かれていたが 応仁の乱で上社は罹災(りさい) 下社現在地境内に移されたと伝わる 上社の跡地は磯部の小字善法寺方といわれ 現在は石部神社の御旅所となっている

・石部神社 下社(愛知郡愛荘町沓掛)の記事を参照

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 石部神社二座
[ふ り が な ](いそへの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name]Isohe no kaminoyashiro futakura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 近江國 愛智郡 石部神社二座(いそへの かみのやしろ ふたくら)の論社について

・石部神社 下社(愛知郡愛荘町沓掛)

・石部神社 上社跡(愛知郡愛荘町石橋)
〈現在は 石部神社 下社の御旅所〉

『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています

音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近江鉄道湖東東近江線 愛知川駅から線路に沿うように 北へ約1km 徒歩での所要時間13~15分程度

現地には「石部神社御旅所」の社号標が建てられています

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石部神社 上社跡(愛知郡愛荘町石橋)〈現在は 石部神社 下社の御旅所〉に参着

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現在は 更地となっていて 敷地には観音堂があります

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天平の頃に 当国の湖水の面に夜な夜な異光射して人々が怪しんでいる時 行基僧正がこの地に渡られて 観音像を彫刻されて その時に建てられた 観音堂であるとの 由緒書きが掲げられていました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 石部神社 二座について 所在は゛沓掛村に在す゛〈現 石部神社(愛知郡愛荘町沓掛)〉と記しています

【抜粋意訳】

石部神社 二座

石部は伊曾倍と訓べし

○祭神 公祖神歟

○沓掛村に在す、砥部 土橋 二村産土神なり、〔與地志
 姓氏録左京神別下公、大物主命男 久斯比賀多命之後也、

`類社
 (く)

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 石部神社 二座について 所在は゛今 沓掛村にあり゛〈現 石部神社(愛知郡愛荘町沓掛)〉と記しています

【抜粋意訳】

石部(イソベノ)神社 二座

今 沓掛村にあり、磯 土橋 二村産土神とす、

凡毎年三月初酉日、祭を行ふ、〔近江與地志略〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 石部神社 二座について 所在は゛石部村〔今 石橋村〕゛〈現 石部神社 上社跡(愛知郡愛荘町石橋)〈現在は 石部神社 下社の御旅所〉〉と記しています

【抜粋意訳】

石部(イソベノ)神社 二座

祭神

 今按 姓氏錄 石邊公 大物主命男 久斯比賀多命之後也とあるに據ば 大物主命 久斯比賀多命の二神を祭れるか 猶よく考べし

祭日 三月初酉日
社格 (合祀す)

所在 石部村〔今 石橋村

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

石部神社 上社跡(愛知郡愛荘町石橋)〈現在は 石部神社 下社の御旅所〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る

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