比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社です 社傳には 第21代雄略天皇が「丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神 豊受大神をば 吾許に呼寄せたい」との夢の御告げがあり 大佐々命を丹波国に遣わし 現在の伊勢(外宮)に御遷座あらせらた跡宮であると伝えます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
比沼麻奈為神社(Hinumanai shrine)
【通称名(Common name)】
・真名井さん(まないさん)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京丹後市峰山町久次(ひさつぎ)字宮ノ谷661
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊受大神(とようけのおほかみ)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
天太玉命(あめのふとだまのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた、豊受大神を主神として、古代よりおまつり申しています。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。即ち此のお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。
多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。
その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に御鎮座になりました。その後、560余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給うて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御饌も安く聞召されぬ、ついては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御鎮座あらせられたのが、雄略天皇22年(西暦478)9月のことであり、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。
古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主命は、その御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦900)制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神社と載せられている古いお社で、此の地方では昔、「真名井大神宮」とか「豊受大神宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領3800石あったとも伝えられています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた事が、記録に見えています。
社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政9年の建立、外本殿及び拝殿は、大正9年から同11年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財により完成したもので、棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭々と聳える老杉の中に燦然と輝き、自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
比沼麻奈為神社
比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は「豊受大神」を主祭神としてお祀りしているお社です。天照大神が今の伊勢内宮に御鎮座になられた後、雄略天皇の夢枕に現れ、丹波国(現在の丹後国)の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神「豊受大神」を呼寄せたいと言う御告げがあったため、この地より現在の伊勢神宮外宮に遷宮されましたが、その元のお社で御分霊を留めてお祀りしているのがこの比沼麻奈為神社です。
現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈拝殿・幣殿・本殿を囲う覆屋〉
・社日社
〈天照大御神・大已貴命・少彦名命・倉稲魂命・埴安媛命〉
・稲荷神社
《主》倉稲魂大神
・参道石段・鳥居
・社務所・盛砂(もりずな)〈立砂(たてずな)〉
・手水舎
・白砂の参道
・佐田神社
《主》猿田彦命
・祖霊社
《主》氏子の祖霊
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・秋葉神社《主》火産霊大神
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)丹波郡 9座(大2座・小7座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 比沼麻奈為神社
[ふ り が な ](ひぬまなゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hinumanai no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社
現在 式内社 比沼麻奈為神社の論社は 三つあります
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
豊受大神宮(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 豊受大神宮(伝承地)について 遷幸順に
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 比治真奈井 | 与佐之小見比治之魚井原 | 比沼麻奈為神社 (京丹後市峰山町久次字宮ノ谷) |
(与謝郡比冶山頂麻奈井原) | 奈具神社 (京丹後市弥栄町船木) |
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真名井神社〈籠神社摂社〉 (宮津市字中野) |
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豊受大神社 (福知山市大江町天田内) |
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藤社神社 (京丹後市峰山町鱒留) |
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摂津国 | 大神木神社〈假宮・姫宮〉(吹田市山田市場) (旧:摂津国三島郷大神木) |
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伊勢国 | 度会宮 | 山田原宮 | 豊受大神宮 (伊勢市豊川町) |
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受⼤神宮(外宮)
詳しくは
元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 京丹後大宮駅から府道659号とR482号経由で西へ約8.5km 車17分程度
R482号沿い峰山二箇郵便局の手前に あと1kmと右折の案内があります
公民館の手前に「元伊勢 豊受宮 比沼麻奈為神社→200m」の案内板
案内石碑には「是ヨリ右一丁」と刻字があります
比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 白砂が敷き詰められている参道を進みます
正面は 社務所
白砂が敷き詰められている参道の突き当り右手に 社号標と狛犬の座す鳥居があり 石段を上がると社殿になります
拝殿にすすみます
拝殿内の扁額には゛比沼麻奈為神社゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の周囲には 白い玉石が敷かれていて 拝殿の奥に幣殿 本殿の覆い屋が続いています
社殿に一礼をして参道の石段を下がります
綺麗に箒の目が入った白砂の参道を社頭の鳥居へと戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 比沼麻奈為神社について 所在は゛久次村に在す゛〈現 比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)〉と記しています
【抜粋意訳】
比沼麻奈為神社
比沼麻奈為は假字なり
〇祭神 豊宇賀能賣神
〇久次村に在す〔舊事記〕
〇神名秘書云、酒殿神者、伊弉冉尊子、和久産巢日神子、豊宇賀能賣神、〔中略〕丹波國與謝郡比沼山頂有井、其名號ニ麻井、此處居神也、同竹野郡奈具社亦同神也、
〇倭姫世紀云•雄略天皇廿一年丁巳十月、倭姫命夢数覚給久、皇太神吾一所耳不坐、御饌安不ニ聞食、丹波國與佐之小見比沼之魚井原坐、道主子八乎止女乃齋奉、御僕都神止由氣太神乎、我坐國欲止調覚給支、爾時大若子命乎差使、朝廷仁令ニ参上、御夢狀令レ申給支、即天皇勅、汝大若子使罷往天、布理奉宣支、故率ニ手置帆負彦狹知二神之齋、以ニ齋斧齋鋤等、始採ニ山材、擢ニ立實殿、而明年七月七日、以ニ大佐々命天、從ニ丹波國余佐郡眞井原〔志天〕奉レ迎ニ止由氣皇太神、‘度會山田原乃下津磐根爾、大宮柱廣敷立、高天原爾千木高知、鎭定坐止、稱解竟奉利、奉饗利神賀告詞白賜
〇鎮坐傳記云、御問城入彦五十瓊殖天皇三十九歳壬戌、天照太神乎遷ニ幸但波乃與佐宮、積ニ四年奉斎、・・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 比沼麻奈為神社について 所在は゛此治山の麓 鱒留村にあり、藤社大明神といふ゛〈現 藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)〉と記しています
【抜粋意訳】
比沼麻奈為(ヒヌマナヰノ)神社
此治山の麓 鱒留村にあり、藤社大明神といふ、〔神社遺志流倍、考案記、久美縣神社調、〕
盖 豊宇可乃賣神を祀る、〔摂津國風土記、〕
〇按 摂津國風土記、比沼を比遅に作り、古事記裏書引丹波風土記、共に比治に作る、今猶 比治山あり、之に據に比沼疑は、比治の訛りなり、姑附て考に備ふ、
上古皇孫の命 天降坐時、天村雲命天上に参上りて、食國の水は熟(ニゴカ)らす、荒水に在けりと奏せば、神御祖命 天忍石(アマノオシハ)の長井の水を取り八盛(ヤモリ)て、誨給て、此水持下て、皇太神の御饌に八盛献て遺水は食國の水上に灌和て、朝夕御饌に献れと詔ひき、其時 日向高千穂宮の御井定め崇居奉り、又 但波眞井石井に鎭移し居ゑ、其後止由氣宮の御井に遷居て、二所皇太神の朝ダ大御饌に仕奉る、所謂但波眞井即是也、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 比沼麻奈為神社について 祭神と所在について考証にしています
所在は゛鱒留村 字大光田゛〈現 藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)〉と記しています
゛久次村なる眞名井明神を專ら比沼麻奈爲と云來れども゛〈現 比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)〉とあり 論社とみずからとなえているが 確証がないと記しています
【抜粋意訳】
比治麻奈為(ヒヂマナヰノ)神社
祭神 豊宇加能賣(トヨウカノメノ)命
今按等由氣大神宮儀式帳に天照シ坐皇大神云々 大長谷(オホハセツ)天皇ノ御夢・・・・・
祭日 九月二十八日
社格 村社所在 鱒留村 字大光田(中郡五箇村大字久次)
今按 道志流倍に池臣考るに伊勢五部書類 其外の書又本居氏平田氏の著書等を始 其外の書に至迄 悉比沼に作れり 皆誤なり堵養抄に比治山とあり云々 其證は攝津風土記に稻倉山昔シ上與吁可乃賣神居ニ山中以盛飯因以爲 名又昔宇可乃賣神常居ニ稲掠山而爲ニ膳厨之處後有ニ事故不可得止遂還ニ 於丹波ノ國 比遅乃麻奈韋とあり
扨今 比治山とて高き山あり 其麓に藤社大明神とて養蠶の守神なりと云が 卽麻奈奈爲神社なり 衰ては坐ども 社地廣く清らかにて 前に川流れて 式社の備紛れなし
又 久次村なる眞名井明神を專ら比沼麻奈爲と云來れども 其社は久比志ケ嶽の續にて峰山の奧なり 社地も藤社よりは狹く 其備も式社の形に非ず 安産の神なりと云も不都合なり 比治山は但馬出石郡の界にて 此遅神社も此山の南面藤ケ森村に山姥稲荷とて前に河ありて清らかなる社地なり 社は衰へて坐此神社も池臣出石郡巡村せし時に考出しなり
そは藤森とは 比治が森なり 藤社は比治社なり 共に藤と唱へ換たるなり云々とみえたる據ありて聞ゆるが 上に式社考にも鱒留村とし豊岡縣神社取調記にも同所とせり故今之に從ふ
【原文参照】