疋野神社(ひきのじんじゃ)は 玉名郡司〈大宝律令(701年)〉日置氏(へきうじ)の守護神〈氏神〉として゛へきの神社゛が゛ひきの神社゛となったとされます 平安時代(840年)官社となり 延喜式内社 肥後国 玉名郡 疋野神社(ひきの かみのやしろ)でしたが 日置氏の没落後には衰退・廃絶し 社殿の跡さえ不明となったものを江戸初期 熊本藩主細川氏が再興し 現在に至ります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
疋野神社(Hikino shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
熊本県玉名市立願寺457
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》波比岐神(はひきのかみ)
《配》大年神(おほとしのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
疋野神社は2千年の歴史を持つ由緒深い神社です。
県内最古の国史現在社である。六国史「続日本後記」に官社(官弊社)列格の年月日が銘記されている由緒格式高い神社である。(承和7年7月27日官社列格)貴重な式内社である平安時代の「延喜式」神明帳記載の神社を式内社という。日本で当時、特に著名であった神社を記載する。熊本県では現存三社のみ。玉名郡市では当社のみ。(現在熊本県神社総数約3200社、玉名郡市約430社)玉名地方最高の旧県社である。明治初年、玉名郡市唯一最高の県社となる。疋野長者伝説ゆかりの神社である。境内地に長者の御神陵があり、古くより、特に縁結び、商売繁盛、開運招福を願う参拝者が多い。すばらしい御社殿と県下にほこる大鳥居 現在の御社殿は、肥後藩主細川綱利公の御造営で、すでに300年を経る。参道正面には天をつくような堂々たる純白の大鳥居がそびえたつ。春の桜、秋の紅葉も見事である。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
疋野神社ご案内
- 御祭神は神代の尊い大神様です
主神 波比岐神(「古事記」「延喜式」に見え朝廷の崇敬厚い神様です)
相殿 大年神(素盞嗚尊の御子神様で波比岐神の御父神様です)
- ご社殿は荘厳で堂々たる流れ造りです
現在の社殿は、約300年前の延宝六年 藩主細川綱利公のご造営で、総けやきの素木つくりであり神殿の飛龍の彫刻も見事なものです。
- 式内社であり由緒深い神社です
平安時代の国の法律書「延喜式」神明帳 記載のいわゆる式内社であり、県下でも貴重な存在の神社です(熊本県三社、玉名地方では当社のみ)また、「続日本後紀」記載のいわゆる国史現存社であり、官社列格の年月日が明白にされています。(西暦840年7月27日)
- 旧県社であり格式高い神社です
明治初年には県下で真っ先に県社に列格されました(玉名地方では唯一の県社で最高の社格です)
- 疋野長者ゆかりの神社です
疋野長者伝説の長者御神陵が社殿の裏にあります。長者の如き幸と福を祈って数多くのご参拝があります。また近くの玉名温泉は、長者発見の出湯と伝えられ、すぐれた泉質と歴史の古さは全国でも有数のものです。
- すばらしい鳥居と境内地です
二の鳥居は肥後藩家老長岡筑後守寄進の三百年を経た石鳥居であり、参道正面の純白の一の大鳥居は国内外数千人の人々の奉納で、県下にほこる大鳥居です。また当神社は玉名地方を見はらす高台にあり、春の桜、秋の紅葉も参拝の人々を楽しませてくれます社頭掲示板より
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・疋野長者御神陵《主》疋野長者
・長者の泉(福授水)《主》水神様
・三宝荒神石祠《主》荒神様
・恵比須大黒
・猿田彦大神
・厄除鳥居・神牛〈撫牛〉
・手水舎
・池田神社《主》御年神
・三の鳥居
・二の鳥居
・一の鳥居
スポンサーリンク
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・菅原神社《主》菅原道真公
・拝高天神社《主》少彦名神
・菅原神社《主》菅原道真公
・立願寺温泉稲荷神社《主》稲荷大神
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
疋石ノ神と表記され 官社に預つたと記されています
【抜粋意訳】
卷九 承和七年(八四〇)七月庚子〈廿七〉
○庚子
以に 肥後國 玉名郡 疋石ノ神を預らしむ 官社に焉
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)玉名郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 疋野神社(貞)
[ふ り が な ](ひきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hikino no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
玉名郡(たまなのこおり)の起こりと日置氏(へきうじ)について
先土器時代 縄文時代から人々の生活は営まれていた地域で
大和朝廷が発令した大宝律令(701年)により 地方には国郡里(郷)制が敷かれました
肥後国には 玉名郡以下13郡(後に14郡)が置かれ 玉名郡には8郷(玉名郡 日置、為太、石津、下宅、宇部、大町、大水、江田)が置かれました
当時の玉名郡の役所を郡衙(ぐんが)と云い 玉名郡司は「日置(へき)氏」がその任にあたりました
玉名郡衙の造営にあたっては 国司 道君首名(みち の おびとな)と郡司 日置氏(へきうじ)との強力な結びつきがあったものと考えられます
玉名郡(たまなのこおり)の呼び方の変遷について
『日本書紀』〈養老4年(720)成立〉景行天皇18年の記事に 玉名は「玉杵名邑」(タマキナムラ)とあり
平安時代の『和名抄』に 「多萬伊名」(タマイナ)
太宰府天満宮の『天満宮託宣記』に 「玉井名」の文字があり
こうしたことから「タマキナ」から「タマイナ」に音が訛り変化 今の「タマナ」になったと推定されています
疋野神社を守護神として崇拝した日置氏(へきうじ)について
玉名郡衙(たまなぐんが)で 玉名郡司の任についた 日置(へき)氏は 最初は 玉杵名邑(たまきなむら)に郡衙(ぐんが)と同様の基盤を築きましたが 白村江の戦い(663年)以降 立願寺周辺に拠点を移したとされます
疋野神社は 玉名郡司の日置氏(へきうじ)の守護神〈氏神〉として崇拝されていました
日置氏の氏神として祀られていた疋野神社は゛へきの神社゛が゛ひきの神社゛となったものであろうと推測されています
8世紀はじめ 全国に一斉に完成した郡衙(ぐんが)は 9世紀末に終焉を迎えます 日置氏(へきうじ)の衰頽も同様です
疋野神社は 日置氏の没落後には衰退し 廃絶し社殿の跡さえ不明となってしまいました 近世になって 熊本藩主細川氏によって再興され厚い崇敬を寄せられて 現在に至ります
疋野神社(ひきのじんじゃ)
平安時代の『続日本後紀」には、承和7年(840)肥後玉名郡疋石神を「官社」としたとあり、また10世紀はじめの『延喜式』には阿蘇三社とともに「式内社」とされて長く朝廷の特別の尊崇を受けてきました。
付近一帯には、奈良・平安時代の玉名郡司を勤めた日置(へき)氏の関連遺跡(玉名 郡衛 ぐんが)があり、疋野社は同氏の氏神と考えられます。
その後、日置氏と共に衰微した同社は、江戸初期に細川綱利によって復興され、以後、歴代藩主の保護によって繁栄を取り戻しました。
本殿は元禄4年(1691)の造営といわれ、「疋野神社社領寄進状及び棟札」は玉名市の指定文化財です。
平成17年3月 玉名町校区まちづくり委員会案内板より
疋野(ひきの)長者伝説゛と日置氏(へきうじ)の共通性について
日置氏は 大和朝廷から派遣された かつての熊襲征伐の最高司令官として 菊池川流域に大きな勢力を張った豪族でした
その後 玉名郡司にまで 日置氏が力をつけていった背景には 経済的基礎として 近くの小岱山(しょうだいさん)に製鉄や須恵器の生産と拠点があったとみらます
現在でも 小岱山麓には゛製鉄遺跡(約50ヶ処)゛゛須恵窯遺跡(約30ヶ処)゛が残っています また 日置氏の貿易港として 大湊(JR玉名駅一帯)がありました 古代に菊池川流域を制圧した日置氏(へきうじ)の名残りは 現在も玉名のあちらこちらに見受けられ『疋野長者伝説』もその一つとみられています
疋野神社の社地一帯は奈良時代の玉名郡衛の一角で 疋野長者伝説の主人公 炭焼小五郎ゆかりの地でもあります 近くの小岱山の麓には多くのタタラ製鉄の跡地があり 疋野長者はこの製鉄(伝説に云う金塊)によって栄えたものと思われます
疋野長者伝説
千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。
小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、
また金貨を渡し米を買ってきて欲しいと頼まれました。しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。
傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きましたが、暫くすると元気になって飛び去って行きました。米を買わずに引き返した小五郎に姫君は「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。
「あのようなものは、この山の中に沢山あります」との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。
こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。
この疋野長者の御神陵には、金銀財宝が埋められているとも伝えられ、また毎年四月には長者祭りが行われています。
白さぎが元気になったいで湯は、現在では玉名温泉として栄え、また疋野神社は長者ゆかりのお宮として、多くのご参拝をいただいています。現地石碑文より
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR鹿児島本線 玉名駅から県道165号経由で北上 約1.6km 車5分程度
車で北側の鳥居から入ると 社殿の西側が駐車場になつています
疋野神社(玉名市立願寺)に参着
三の鳥居から
鳥居の扁額には゛疋野神社゛と刻まれています
一礼をして鳥居をくぐると 境内には 社殿の目の前に車が駐車されていますが これから お祓いをうける 車だと想います
拝殿にすすみます
参道向かって左手には 御神木があり その手前には゛手水舎゛があり 清めます 神牛(しんぎゅう)〈一般に云う撫牛〉も祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の裏手には疋野長者御神陵と長者の泉(福授水)があり
社務所で空のペットボトルを配布していただいて 飲んでみました
近所の方は 自前のボトルで水汲みをされています
社殿に一礼をして 二の鳥居まで参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 匹野神社について 祭神は不明 所在については 大野莊立願寺村に在す〈現 疋野神社(玉名市立願寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
匹野神社
匹野は 比岐乃と訓べし
〇祭神詳ならす
〇大野莊立願寺村に在す、〔社家注進〕
例祭官社
績日本後紀、承和七年七月庚子、以に肥後國玉名郡匹乃神預に官社社領
當代社領五十石
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 匹野神社について 祭神は記さず 所在については 立願寺村匹野原に在り 匹石野大明神と云ふ〈現 疋野神社(玉名市立願寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
匹野(ヒキヌノ)神社
今 立願寺村匹野原に在り、匹石野大明神と云ふ、〔神名帳考、和名鈔郡郷考、白河縣神社調〕
仁明天皇 承和七年七月庚子、疋石神を官社に預らしむ、蓋此神也〔績日本後紀、〕
凡毎年二月初丑日、九月十五日祭を行ふ、〔明細帳〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 匹野神社について 祭神は記さず 所在については 立願寺村〔天野原〕〈現 疋野神社(玉名市立願寺)〉と記しています
【抜粋意訳】
疋野神社
祭神
祭日 二月初巳日九月十五日
社格 村社 (明細帳に縣社とあり) (縣社)所在 立願寺村〔天野原〕(玉名郡彌富村大字立願寺)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
疋野神社(玉名市立願寺)について 中世に廃絶してしまったものであるが 延喜式内社 疋野神社として 國主 細川綱利公が再興したことを記しています
【抜粋意訳】
〇熊本縣 肥後國 玉名郡彌富村大字立願寺
縣社 疋野(ヒキノノ)神社
祭神 波比木(ハヒキノ)神
創立年代詳ならずと雖も、延喜式神名帳に、「肥後國玉名郡一座疋野神社」とある 神社にして、祭神は即ち「衝神曰先啓」(日本書記)との命を拝せられたる波比木神なり、「按、疋者、千人所曳磐石歟、亦導歟、續日木後紀曰、承和七年七月庚子、以に肥後國玉名庄疋乃神預に菅社焉(神名帳考証)と見えたり、
されど、覈録志料共に祭神を説かずして、唯「今立願寺村匹野原に在り、匹石野大明神と云ふ、匹野は比伎乃と訓む可し(神社覈録神祇志料)而して 當社何れの比よりか廃迹となり、舊社地 殆ど知る可からざりしを、國主細川綱利、絶えたるを継ぎ云々」(社記)と云へるのみにて、更に考據を得ざるも、肥後國志に、「当社は肥後國四社の其一にして、疋石野村に在り、延喜式には疋野と記し、續日本紀には疋石野と書し、當所にては疋石野と書す、所祀神不分明なり、或説 素盞鳴尊御孫 大歳御子 波比木神也と云ふ〔異本に大己貴の御子ハヒキの神なるや云々〕一説乃ち大歳神とも云へり、此社何れの比か廃迩となりたるを、綱利君、延賓六年玉名郡大野庄中村に於て、社産五十石寄附あり、且本社拝殿等造立の社地、二反四畝三歩の貢税あり、將た當社古来神職由緒ある者四人を選み、於京都吉田家、得裁許、社職と定めらる、貞享元年為祈祷料八木二十石を神納せらる」とあり、
事蹟通考編年考徴巻二「按疋石野神社は立願寺村に在り(寺廃して今村名となる、繁根木山寿福寺の末寺帳に、本疋石野神社の社務寺なり))祭神詳ならず云々、続紀及式に疋野と書す、皆字の脱漏なり」、
阿蘇山記に、「疋野大明神再興之件三社(式内の三座をなす)者阿蘇宮に奉鎮座、今一座者(当社を指す)右の疋野神社にて、御國中に神社多く御座候得共、此外は勧請の社にて候、疋野神者、天下泰平、國土豊饒、武運長久、五穀能成之御神にて、古者從禁中も被成御祭下者、萬民迄奉崇敬候処に、中古以来中絶仕、只今者社號を存候者も無之候間、嘆敷奉存候、先年於吉田御沙汰にも、私方より申上、致再興可然由に候処、当時迄遠慮仕居候得共、御國豊饒の神にて御座候得者、社の形許成共再興被仰付、少之社領被付置者、社人をも添置、年々神事致勤仕、御祈祷をも仕度奉存候、右之旨以御序、御家老中迄被仰上可被下候頼存候以上、
延宝四年正月廿一日 阿蘇宮内少輔
白木五兵衙殿木造五右衛門殿とあり、又、下玉名郡立願村疋野大明神社中之覚書にも、
一社中山籔へかけ、昔は一町四五反も御座候由、只今は右之通に壱反二畝餘にて云々、一九月分御祭御供田、二月五月両度の御祭 御供田、並しとぎ田、油田、土器田などなど申社領分、さて又、長者家敷にて御座候と申傳候分共に田畠にて、唯今は四町四反余に候事、延宝四年二月朔日、庄屋甚右街門」など見ゆ、富巷曰、「此記に依れば、再興以前にも、聊かばかりは社壇の形残れりと覚ゆ」とあるに由れば、略本社沿革の梗概を知るに足るべし、明治の初年縣社に列せらる、因に云ふ、社頭の石鳥居は長岡筑後直之の寄進なり。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、玉垣等にして、境千四十一坪(官有地第一種)を有し、社地は小代山の東麓に位し、遠く眺望の勝に富みて、境内一点の塵埃を見ず。
【原文参照】