度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度會大國玉比賣神社(わたらいおくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受神宮(外宮)摂社です

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

度會乃大國玉比賣神社(Watarahi ohokunitamahime shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市豊川町279

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大玉命(おくにたまのみこと)
   弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
〈豊受神宮(外宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『伊勢参宮名所図会』に記される内容

【抜粋意訳】

度會乃大國玉比賣神社(ワタラヒオオクニタマヒメノジンジャ)

高神山に有

祭神 大國玉命・佐々良比賣命二座

外宮攝社十六座の内也

此所を大黒ヶ谷と云。大国の誤りならん。

【原文参照】

蔀関月 著『伊勢参宮名所図会』巻之上,大日本地誌大系刊行会,大正4-5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/952764

【由  (History)】

『神宮綜覧1915』に記される内容

【抜粋意訳】

度會大國玉比賣(ワタラヒオホクニタマヒメ)神社

大國玉比賣命・彌豆佐々良比賣(ミヅササラヒメ)命と鎭祭す。

本宮攝社の一にして、宮域内、高神山の麓、伊我利神社の北方に鎭り坐す。
此の神は、度會地主の神にして、神武天皇の御宇、天日別命、國覓(くにまぎ)の時に功績あうし神等なり。
殿舎、正殿(神明造、板葺、南面)玉垣御門(猿頭門、扉付)玉垣(連子板打・・・壹重)鳥居(神明造)

【原文参照】

神宮司庁 編纂『神宮綜覧』,国史研究会,1915.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1907594

スポンサーリンク

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈参道左手斜め上の神社〉伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

・伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》伊我利比女命(いがりひめのみこと)
・御同座 井中神社〈豊受⼤神宮(外宮)末社〉《主》井中神(いなかのかみ)

スポンサーリンク

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

度會乃大國玉比賣神社は 豊受神宮(外宮)の摂社です 

・豊受神宮(外宮)

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 度會大國玉比賣神社
[ふ り が な ]わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ
[Old Shrine name]Watarahino wohokunitamahime no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

大國玉比賣命(おほくにたまひめのみこと)について

度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉の御祭神は 現在2柱の神〈大國玉命(おほくにたまのみこと)弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)〉とされていますが 社号の神名は゛大國玉比賣神(おほくにたまひめのかみ)゛であります

『大日本女性人名辞書』に記される内容

【抜粋意訳】

大國玉比賣命(おほくにたまひめのみこと)

度會の地主神。神武天皇の時、天日別命國覓(くにまぎ)に當り、この神、彌豆佐々良比賣命とともにこれを土橋郷岡本村に迎へられた。
豊受大神宮攝社度會大國玉比賣神社に祀られる。

『伊勢風土記』逸文に「夫れ度會郡と號る所以は、畝傍の橿原宮に御宇めす神日本磐余彦天皇、天日別命に詔りたまひて、國を覓(ま)ぎたまふ時、度會の賀利佐の嶺に火の氣たてり。天日別命視さけて、ここに小佐(をさ)をるかと曰ひて 禮使を遣はして見せしかば、使者還り來て、大國玉神有りと申しき。賀利佐に到れる時に、大國玉神使を遣はして、天日別命を迎へ奉る。因りて、其の橋を造らしむるにいまだ造り畢へざるに到りければ、梓弓を以て橋と為して度らしめき。爰に大國玉神、彌豆佐々良比賣命を資けて参ゐ來て、土橋郷岡本村に迎へ相ひき。天日別命歓びて、地主に参り會ふ日、刀自に度り會ひぬと申しき。因(か)れ以て名と爲せり。」と見える。 (採諸國風土記 )

【原文参照】

高群逸枝 著『大日本女性人名辞書』,厚生閣,1939. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879750

大國玉比賣神゛が 二つ所載延喜式神名帳 927.AD伊勢國 度會郡 

『延喜式神名帳』伊勢國の度會郡には 二つの゛大國玉比賣神゛が所載されています
それは 伊勢の両宮〈・皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉各々の摂社として祀られています

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社

皇大神宮(内宮)の摂社が論社となっています

①堅田神社の説

度会延経や伴信友は 堅田神社を比定する見解を述べ
薗田守良は 堅田神社の西方に大國玉比賣神社があったのではないかと述べています

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

②宇治山田社の説

近世になると御巫清直が『二宮管社沿革考』で「本社大國玉比賣社ハ宇治山田社ノ一名トシ、神名帳ニ榎村社トアルヲ堅田社ノ異名トシテ」と記述して 宇治山田神社を大國玉比賣神社であると述べています

・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)

豊受大神宮(外宮)の摂社が論社となっています

・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊勢市駅から県道201号経由で南下 約750m 徒歩12分程度

旧豊宮崎文庫の敷地の西側に表門があり そのすぐ前が社頭になります

Please do not reproduce without prior permission.

国指定史跡 旧 豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ) 大正二年三月七指定 については 現地の史跡旧豊宮崎文庫説明碑 碑文によれば

旧 豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)

豊宮崎文庫は慶安元年 (一六四八 )豊受大神宮 (外宮 )祠官修学の道場として設立主唱者出口延佳與村弘正岩出末清および同志七十名の金をもって外宮宮域東隣豊宮崎の地に創立された  文庫および講堂を設け每月日を定めて同志あい会し講師を招いて神典儒書等の講義を開きまた出資者は籍中と称し保管経営にあたった
寛文元年 (一六六一 )時の山田奉行八木但馬守は幕府に請うて米麦二十石の采地を購入して文庫に寄付し永代の修理料にあてさせることとしまた文庫式条を制定した  その後文庫講堂大観社天神社霊社表門等を修築あるいは建設してその規模の充実を計った  爾来公卿諸候学者等より貴重な書籍が寄せられあるい    は著名な学者の来って書を講ずる者多く室鳩巣貝原益軒伊藤東涯井澤長秀谷重遠大塩中齋藤森大雅齋藤拙堂などの大家もその中にあった  その後一進一退はあるが籍中の協力によってよく維持し明治に至った。
明治元年 (ー八六八 )山田奉行の廃止度会府の設立に伴い文庫も廃され一時宮崎学校となった  しかるに明治四年 (ー八七ー )廃校となり文庫は再び籍中へ引渡されたが明治十一年 (ー八七八 )講堂が焼失し籍中も非常に少なくなりついに協議のうえ西田貞助一人の所有に帰した  明治四十三年 (ー九一〇 )神苑会は書籍什器の散を慮りこれを神宮文庫および徴古館に納めたがその中の蔵書は二万七百余冊の多きにのぼり學術的価値も高い  大正十二年 (一九二三 )三月七日教育学術史上重要なものとして史跡にされたがその時の敷地約九八六坪遺構としては表門築地霊社文庫創設碑孝経碑等をはじめ補修を経ているが文庫大観社等があった  また敷地内にはいわゆる御屋桜があり花時の一名勝地となっていた
この地は古くからとかく湿潤の嫌いがあったが昭和三十五年 (ー九六〇 )十月新所有者覚田嘉蔵によって敷地は盛土されそれに伴って表門築地碑等の地上げ修復が行われ桜樹も再び植栽された  なお現在唯一の建物である表門は創建当初のもので寛文二年 (一六六二 )および文政二年 (ー八一九 )の修理を経て慶應四年(一八六八 )屋根葺き替えを行なっている  大正十二年三月七日史跡指定  文化財保護委員会

昭和三十八年一月 覚田嘉蔵建之川合東荒木石材株式会社刻

Please do not reproduce without prior permission.

度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして 境内参道を進むと右手に石段があり その上に社殿が建ちます

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます

古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉
参道の石段もそれぞれの敷地用に2つあります
やはり度會乃大國玉比賣神社は 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わっていて 古式のままなのかもしれません

Please do not reproduce without prior permission.

殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道に戻ります
この境内地には さらに奥があり 参道左手斜め上には 伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉が祀られています

伊我理神社へ向かう 石段から度會乃大國玉比神社の社殿を振り返り一礼

Please do not reproduce without prior permission.

伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉へ

〈参道左手斜め上の神社〉

・伊我理神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》伊我利比女命(いがりひめのみこと)
・御同座 井中神社〈豊受⼤神宮(外宮)末社〉《主》井中神(いなかのかみ)

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 度會乃大國玉比神社について 所在は継橋郷宮山高神山南尾崎 俗云大國谷 に在す〈現 度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

度會乃大國玉比神社

度會は郡名に同じ、大國玉比は前に同じ、

○祭神大國玉命、佐々良比命、神名略記

○継橋郷宮山高神山南尾崎 俗云大國谷 に在す、同上

○式四、伊勢大神宮 度曾宮所摂十六座の第五に載す、
○倭姫世記云、風土記曰、大國玉神遣使、奉迎天日別命、因令造其橋、不堪造畢、于時則令以梓弓爲橋而渡焉、爰大國玉神資美豆佐々良姫命参來、迎相土橋郷岡本村、

連胤云、当社は内宮所摂の大國玉比神社に相対して祭れるなるべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 度會乃大國玉比神社について 所在は継橋郷高神山南大國谷にあり〈現 度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

度會乃大國玉比賣(ワタラヒノオホクニタタマヒメノ)神社

今 継橋郷高神山南大國谷にあり、神祇本源、神名秘書、神鏡紀談、神名帳考

大國玉命 彌豆佐々良比賣命を祭る、参取倭姫世紀、引伊勢風土記、神祇本源、神名秘書、

神武天皇御世、天日別命に詔て、國覓し給ふ時、度會賀利佐嶺に火氣発起を見て、茲に長(サチ)居る乎と云て、禮使な遣して見するに、大國玉神在りと云り、故加利佐に到る時、其大國玉神使を遣して、天日別命を迎奉り、又其神及彌豆佐々良比賣命参来て、土橋郷岡本村に迎逢き、故天日別命歓びて、地を出て恭相日(マサリアフヒ)、刀自にも度會ぬと申しき、即此神也、伊勢風土記
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 度會乃大國玉比神社について 所在は三重縣橋郷宮山大國谷 (外宮域内 )〈現 度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

度會乃大國玉比賣神社

祭神 大國玉比賣神

祭日 二月十二月並中申日
格 外宮所十五所之一 (外宮攝社) 

所在 三重縣橋郷宮山大國谷 (外宮域内 )

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-, , ,

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.