堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと地主神 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ榎村神社(えむらの かみのやしろ〉の論社となっています 

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

堅田神社(Katada shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市二見町江堅田442-2

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》佐見都日女命(さみつひめのみこと)
〈倭姫命に堅塩(かたしお・焼き固めた塩)を奉った土地の神〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『大神宮叢書〈昭和7-9年(1932~1935)〉』に記される内容

【抜粋意訳】

堅田神社

 堅田は地名の如く聞えたり。建久行事記に(六月十五日)御贄海神態に、江神社祝・堅田神社祝等之所役也、と見えたれば、二見郷に在なるべし。此神態は、帳、(神田行事)に、湯貴御贄採海往、禰宜内人小内人及祝部等率 ,伊勢國與ニ志摩國堺戸島神祭云々(六月例、)以ニ祭之月十五日、退ニ入 志摩國神堺海、雜貝物爾満生御雜贄漁、とある祭なり。されど大神宮式には見えず。
 或説に堅田は三津村の字ならんといへど、其證見えず。試にいはば、行事記に江神社•堅田神社 竝ベ云、四至に北は大海とあるを思ふに、堅田といふば潟田にて水邊の地名なるべし。此社(近江の堅田てふ地も湖水の邊にあり。)
今は二見郷•三津村に在て、江神社の南方にあり。帳に、正殿ー區、玉垣一重、坐地一町三百步、四至(東山、南公田、西溝井百姓家、北大海)とあり。
 元祿勘文に、堅田神社(南向、在ニ三津村東、又稱ニ東方堅田神社、二見郷中百姓等廿一年一度造替、)社高八尺、博風四枚、鰹木四本、左右社高七尺八寸、 博風四枚・堅木四本、板垣東西四間一尺•南北二間半、鳥居三宇・といへり。今正殿ー區あれど、四至は古記に異なり。

稱に 東方堅田神社

 帳に、稱ニ東方堅田神社形石坐、同内親王定祝、(倭姫なり。)とあるは、いと異なる書ざま也。かく其方をさして神名を挙ざる例は二宮儀式帳に見えず。必ず神名をのすべき例也。されば是も後人の傍書の本文に混ひ入しなるべし。小朝熊社にいへる如く、櫻大刀自の傍書にあはせ考ふるに、是も近代の誤にはあらざるべし。神宮にて古よりあげつらひなきはいかなる事にかあらん。東方堅田といふを思へば、西方にも此同名の社在つる樣なるを帳に正殿ー區とありて、前社だになきはいかなろ事ぞや。(また前社ありとも西方堅田といふべくもあらず。)
或説に、一社二名にて、大國玉比賣社なるべし、といへど信がたし。
故考ふろに、大神宮式に所攝の内に大國玉比賣社、また神名式に江神社・榎村神社竝べ挙たり。されば、此堅田神社の西方に此社どもありて混ひ安ければ、後人の東方は堅田神社ぞと傍に注せしを本文に轉写して神名を脱せしにやあらん。さらずば聞えがたし。
 解に、或人云、堅田は地名に非ず。鹽堅田にて堅鹽を云、御鹽殿是也。それを鹽堅多殿といひ、鹽燒事を守り給ふなり。此殿の東方に祭りて東方堅田神社といふといへり。是は後人の帳の文によりさかしらに御鹽殿に附會せしなり。御鹽殿は二見郷庄村にあり。堅田神社は三津村に在て其地異なれば、かかる説は信がたし。(猶御鹽殿の事は殿舎の條に云べし。)
さて此神名見えざれば後世にては考難けれど、試にいはば倭姫世記に、皇女の大神を頂戴奉りて二見に幸行の時、佐見都比女参相云々、とあり。此は僞書ながら神名は僞り作れるとも見えざれば、古本にはかくありつるにや。(世記は四百年以前に記しつれば、しか思はるるなり。)さらば佐三津姫を祭るならんかと思へど定めがたし。(三津は此社の地名なれば、古へ似つかはしく作れるも知がだけれど、)士佛参詣記に、二見の浦に佐美明神とて古き神ます。又古人の註の如く、大國玉比賣ならんか、猶考べし。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

【由  (History)】

『神宮大綱〈明治45年(1912)〉』に記される内容

【抜粋意訳】

堅田(カタダ)神社 度會郡•二見町、大字江村鎮座

祭神
 佐見都日女(さみつひめ)命

殿舎
 正 殿  神明造、板葺、南面・・・壹宇
 玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
 玉  垣  連子板付・・・壹重
 鳥  居  神明造・・・壹其
右神宮司廳造替

本社は、皇太神宮儀式帳所載の攝社なり、此の神は、江神社の條に記せる佐美都日子命と同族なるべし、太神宮本記に、爾時其濱爾御船留給天座時、佐見都日女参相詩支、汝國名何止問給支、御詔託  乎毛 不聞、御答 毛 不白、以堅鹽奉支、倭比賣命慈給、堅多社定給支とありて、大若子命の御鹽濱を、二見の海濱に献進して、此に定められしも亦、故なきにあらざるなり、康永元年参詣記に、此浦に佐美明神とて古き神まします、大神宮御垂跡以前の神なり、と申し傳たり,とあるは卽ち當社の事なり、其の後殿舎中絶せしを、永享六年皇大神宮禰宜荒木田氏經再興せり、延喜式に、榎村神に作る、故に大日本史に、榎村神社古曰に堅田社、又稱に東方堅田社者蓋是也とあり、榎村は卽ち江村にて、本村に江神社あるを以て、混雜を避けんが爲に、榎村の字を宛てしなり、本社の祭神 佐見都日女は、上に見ゆる如く不聞不言なるを、慈給ひて定められし社なる故に、後世に至るまで、暗啞なる者の祈誓をかくるよし、倭姫命世記講述妙に見えたり、明治二十五年、上地官林参畝拾壹步を復舊して、現今の體裁をなせり、 

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮大綱』,神宮司庁,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815528

神宮司庁 編『神宮大綱』,神宮司庁,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815528

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

堅田神社は 皇大神宮(内宮)摂社

・皇大神宮(内宮)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】 

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】 

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座。

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社 右諸社,並預祈年、神嘗祭。

以下略

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

堅田神社は 二つの式内社〈①大國玉比賣神社榎村神社〉の論社です

大國玉比賣神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大國玉比賣神社
[ふ り が な ]おほくにたまひめの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohokunitamahime no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

榎村神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 榎村神社
[ふ り が な ]えむらの かみのやしろ
[Old Shrine name]Emura no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社

大國玉比賣神の論社について

①堅田神社の説

度会延経や伴信友は 堅田神社を比定する見解を述べ
薗田守良は 堅田神社の西方に大國玉比賣神社があったのではないかと述べています

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

②宇治山田社の説

近世になると御巫清直が『二宮管社沿革考』で「本社大國玉比賣社ハ宇治山田社ノ一名トシ、神名帳ニ榎村社トアルヲ堅田社ノ異名トシテ」と記述して 宇治山田神社を大國玉比賣神社であると述べています

・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 榎村神社(えむらの かみのやしろ)の論社

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

・荻原神社(大台町江馬)

・定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)
〈定神社の前身は 奥定(榎村神社)・中定(中の宮)・口定(定古清宮・萩原神社)の三神社からなり この内の・奥定(榎村神社)が論社〉

お伊勢さん125社について

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 二見浦駅からR42号を北東へ約350m 徒歩5分程度

堅田神社の北側には R42号が゛通りますが 社頭は南側の住宅横の細い道を進みます

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堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着

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社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます

古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待つ〉

殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 大國玉比神社について 所在は 不明で定かではないが 或は 堅田社称す〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉であろうと記しています

【抜粋意訳】

大國玉比神社

大國玉は於保久爾多麻と訓べし、比は假字也、

〇祭神 玉命、佐々良比命、
○在所詳ならず、亦 堅田社称す、考証

○式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第十三に載す、
○儀式帳云、稱に東方堅田神社、形石坐、倭姫内親王代定祝、
神名略記云、儀式帳津長下大水上載堅田神社無大國玉比神社、
神祇本源云、大國玉比社、長寛検録文無に寶殿敷地、按堅田神社即大国玉比也、祇言見依此二神鎮座名二見歟、長寛不考合二名其言如此、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

式内社 榎村神社について 所在・祭神ともに 不明で定かではないとし 或は ・江村の堅田社〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉・奥定 江馬〈現 定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)〉榎村を江馬〈現 荻原神社(多気郡大台町江馬)〉であろうと記しています

【抜粋意訳】

榎村神社

榎村は衣武良と訓べし

○祭神在所等詳ならず 或説云、今江村乎、奥定村乎、また奥定江馬は多気郡に属す、再興云、榎村を江馬といふはむらの約まりなり、社所在の江馬山は大杉谷奥定村なり、

連胤云、当社と上なる 礒神社とは、当郡中にて二所大神宮所摂の中に漏れたり、其事詳ならず、猶 礒神社の下見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 大國玉比神社について 所在は 二見郷江村にあり佐見都日女命を祀る〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
堅田社について 倭姫命が諸国を巡幸し二見の地を訪れた際 土地の神である佐見都日女命は倭姫命に堅塩を奉った事が記されています

【抜粋意訳】

大國玉比賣(オホクニタマヒメノ)神社

 

 二見郷江村にあり、延暦儀式帳解、度會縣神社帳、
蓋 佐見都日女命を祀る、倭姫命 大御神の大宮處を覓給ひ、二見濱に御船留給て坐時 佐見都日女参奉りき、汝 國名何と問給き、御詔を聞す御答白さすて堅鹽を以て多御饗奉りき、倭姫命慈給ひて、堅田社定給ふ即是也、(倭姫世紀〇按延暦儀式帳、堅田社を載せて、大國玉比賣神社なく、延喜式、大國玉比賣神社ありて、堅田社を載せず、一社二名歟宜しく堅田社の條と合せ考ふへし、世紀に據るに、佐見都日女、或は二見國の地主神に似たり、故二見國玉の義にて、大國玉比賣神と云るなるへし、姑附て後考を俟つ
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞祭に預る、凡己上五座、及 大土御祖、國津御祖、坂手國生、粟皇子、久久都比賣社、井太神宮所攝廿四座の神也、延喜式

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

式内社 榎村神社について 所在について 二見郷 三津村 東江村の田畝中にあり堅田神社〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

榎村(エムラノ)神社

又 堅田神社と云、今二見郷 三津村 東江村の田畝中にあり、伊勢國式社検録

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 大國玉比神社について 所在は 宇治郷中村〈現 宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

大國玉比神社

祭神 大國玉比
祭日
社格 内宮所攝

所在 宇治郷中村(明細帳に宇治郷に中村なるものなし凡て此神社見えず覈録に所在詳ならすしあり)

今按 神社檢錄に儀式帳に宇治山田神社 建久年中行事に楊田社または八王子社とあるは是欺と云へり猶よく考ふベし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

式内社 榎村神社について 所在について 三重縣二見郷江村堅田〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し
参考として・多氣郡大杉村に榎村神社あり奥定社と云〈現 荻原神社(多気郡大台町江馬)〉があるが 確証がない と記しています

【抜粋意訳】

榎村神社  一云 堅田神社

祭神
今按 儀式帳に堅田神社 弘安九年 参詣記に佐美明神と云るは此社ならん故に定めて記せり

祭日
社格 内宮所攝 廿四所之一

所在 三重縣二見郷江村(度會郡二見町大字江村)

今按 度會注進狀に多氣郡大杉村に榎村神社あり奥定社と云 祭神大屋津姫命と云へど明なければとらず

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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