宇都宮二荒山神社(宇都宮市)

宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみが 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futaarayama Shrine)
(うつのみや ふたあらやま じんじゃ

 [通称名(Common name)]

明神様(myojinsama) 二荒さん(futaarasan)

【鎮座地 (location) 

宇都宮市馬場通り1-1-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》豊城入彦命(toyokiirihiko no mikoto)
《配》大物主命(omononushi no mikoto)
   事代主命(kotoshironushi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

戦勝祈願 Victory prayer
・火災予防 Prevent fire in advance
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・等 etc

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社(名神大)
・ 下野一之宮Shimotsuke no kuni ichinomiya)
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

神社の起源

二荒山神社は大変歴史が古く、第10代崇神天皇の御代にさかのぼることができる神社です。
当社は何度も火災にあい、近年に入ってからも天正13年、安永2年、天保3年、更に明治維新の戊辰の役と4度もあって古い史料のほとんどが消失しています。

現在残っている社記には、第16代 仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に
毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神 豊城入彦命の4世孫 奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられます。
この時 祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祭神として祀ったのが始まりで、その後 承和5年(838)に現在の地 臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。

延長5年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には東山道街道筋として
下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大 とあります。
栃木県内には由緒ある神社が11社記されていますが 名神大社は当社のみで
代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け 下野國一之宮といわれておりました。

宇都宮二荒山神社公式HPよりhttp://futaarayamajinja.jp/about/

【由  (history)】

式内名神大社 (うつのみや ふたあらやま じんじゃ
下野国一之宮  宇都宮二荒山神社

御由緒

主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。

国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服し、族は鎮まり、その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫 奈良別王(ならわけのきみ)が、第16代 仁徳天皇の御代に 下野の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。

その後 承和5年(838)に 現在地の臼ヶ峰に還座されました。

以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、
下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。

古くは、延喜式内、名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。

宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、市の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」とうたわれています。

境内案内板より

創建者とされる 奈良別王Narawake no kimi)を祀る神社があります
奈良之神社Nara Shrine)の記事をご覧ください

 

その旧蹟や御陵と伝わる古墳も残っています
奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市) の記事をご覧ください

 

【旧 鎮座地 元宮(The shrine in its original location)】

境外摂社
下宮Shimo no miya)
《主》豊城入彦命(toyokiirihiko no mikoto)
《配》大物主命(omononushi no mikoto)
事代主命(kotoshironushi no mikoto)

本社の旧鎮座地と伝えられていて 周辺の旧地名を「荒尾崎」といいます
明治期までは小高い丘になっていたと伝わります
現在の下之宮は 地区の再開発で 1995年に移転・創建されたものです

宇都宮二荒山神社 下宮Shimo no miya)の記事をご覧ください

 

【境内社 (Other deities within the precincts)】

神門の内側

女体宮Nyotai no miya)(安産の神)御垣の神門より参拝
《主》三穂津姫命(mihotsuhime no mikoto)

初辰稲荷神社Hatsutatsuinari Shrine)(豊穣・商業の神)
《主》倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)

須賀神社Suga Shrine)(お天王さん)
《主》素戔嗚命(susanowo no mikoto)
市神社Ichi Shrine)(市・商業の神)
《主》大市姫命(oichihime no mikoto)

十社宮Jussha no miya)(県内延喜式内社の合祀)本殿の左奥に鎮座
《主》素戔嗚命,天児屋命,味耜高彦根命,武甕槌命,豊城入彦命,大山咋命,事代主命,下照姫命,誉田別尊,日本武尊

表参道向かって左側
剣宮(tsurugi nomiya)(武徳の神)
《主》素戔嗚命(susanowo no mikoto)
菅原神社Sugawara Shrine)(学問の神)
《主》菅原道真公(sugawara no michizane no mikoto)
十二社Juni sha)(肇国の神)
《主》・国常立神・国狭槌神・豊斟渟神・泥土煮神・沙土煮神・大戸之道神・大苫辺神・面足神・惶根神
・伊弉諾神・伊弉冉神・天照皇大神・天忍穂耳神・彦火瓊瓊杵神・彦火火出見神・ 鸕鵜草葺不合神

表参道向かって右側
松尾神社Matsuo Shrine)(醸造の神)
《主》大山咋神(oyamakui no mikoto)
中津島姫命(nakatsushimahime no mikoto)
荒神社Ko Shrine)(疫病鎮め神)
《主》素戔嗚命(susanowo no mikoto)
水神社(suijin sha)(水の守神)
昭和38年塩谷町喜佐見に社殿造替の御用材林が敬神家・永井高一郎氏より寄贈され その山林の守護に当社分祠が祀られています

裏参道の側
東照宮Toshogu)(徳川家康公)
《主》源家康(minamoto no ieyasu)

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 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下野国 11座(大1座・小10座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河内郡 1座(大)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 二荒山神社(貞・名神大)
[ふ り が な  ](ふたあらさんの かみのやしろ)
[How to read ]Futaarasan no kamino yashiro)

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)に所載
下野国 河内郡 二荒山神社Futaarasan no kamino yashiro)(貞・名神大)の論社について

現在 論社とされている神社は 全部で6神社あります
日光に4神社と宇都宮に2神社が鎮座します

・日光二荒山神社 本社(Nikko Futarasan Shrine)
・本宮神社(Hongu Shrine)
・二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)

・宇都宮二荒山神社(Utsunomiya Futarasan Shrine)
・二荒山神社 下之宮(Futarasan Shrine Shimonomiya)

それぞれの記事をご覧ください

・日光二荒山神社 本社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください

 

本宮神社(Hongu Shrineの記事をご覧ください

 

二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)の記事をご覧ください

 

宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futarasan Shrineの記事をご覧ください〈当社〉

 

二荒山神社 下之宮Futarasan Shrine Shimonomiyaの記事をご覧ください

 

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東武宇都宮駅から オリオン通り経由 約800m 徒歩12分程度

大通り沿いに ケヤキでできた大きな鳥居が建ちます
この大鳥居(高さ9.7m 幅13.8m 柱の直径90cm)は 樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いたもので 平成20年に建てかえられたものです

宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futaarayama Shrine)に到着

社号標には「式内大社 二荒山神社」と刻まれていて
木製の両部鳥居の大鳥居の下には ここからでも御参拝が出来るように賽銭箱が置かれています

一礼して 大鳥居をくぐり抜けます

街中の開けた広場の中を参道が続き その先に石段が続いています
石段の上に建つ神門をくぐると本殿の建つ 境内地になります

神門のすぐ左側には手水舎があり 清めます

参道石畳の正面先には拝殿が建ちます

右手には立派な神楽殿があります 境内は街中にあるので市民の憩いの場にもなっているようでくつろぐ人々が多くいます

その横には 神馬の像があります

この辺りから 入口の神門を振り返ると 高層のビルもあって 都会の中に鎮座している神社であると再認識します

ちょうど紅葉の季節で見事に木々が色づいています

拝殿にすすみます 

狛犬と銅製の大きな天水桶があります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内社を巡り お詣りをします

お詣りも終えて 境内の西側には社務所と神札所があり立ち寄ります

神門に向かいます

神門をくぐり抜け 石段をおります

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『平家物語(Heike monogatari)』第11巻
「屋島の戦い」那須Nasu no yoichi)に記される伝承

那須与一(Nasu no yoichi)という人は 源氏と平家の「屋島の戦い」にて 「揺れる舟の上の扇の的を射よ」と平家が立てた扇の的を 見事射落としたことで有名な源氏方の武士です
矢が的を射たことで 源氏の武運が勝ると見られ 平家が没落していきます

那須与一(渡辺美術館蔵)Photo By Wikipedia

『平家物語(Heike monogatari)』第11巻「屋島の戦い」那須Nasu no yoichi)では

那須与一(Nasu no yoichi)は 源氏側の代表として この矢を射る時「扇の的」を射落とせるように神々に祈りを捧げます

八幡神(源氏の氏神)から祈り始め 下野の国の神々(故郷の国の神々)と日光の権現・宇都宮大明神(現 二荒山神社)と那須温泉神社(地元の氏神)に念じていることが書かれています

意訳

矢の射程距離には少し遠かったので
海へ一段(約11m)ほど(馬を)乗り入れたけれども さらに扇との間は 七段(約77m)ほどはあろうかと見えた

時は 2月18日の酉の刻(=午後六時)頃のことであったが ちょうどその時 北風が激しく(吹い)て 磯に打ちつける波も高かった

舟は(波で)揺れ上がり 揺れ下がり漂うので 扇も竿先で不安定にひらめいていた

沖では 平家が舟を一面に並べて見物している
陸では 源氏が(馬の)轡(くつわ)を並べてこれを見守る
どちらも どちらも 晴れがましい情景である

与一は 目を塞いで
「南無八幡大普薩(なむ はちまん だいぼさつ)
我が下野国の神々
日光の権現(ごんげん)
宇都宮の大明神
那須の湯泉(ゆぜん)大明神よ
願わくは あの扇の真ん中を射させてくださいませ
(もし)これを射損じるものならば 弓を切り折って (私 与一は)自害して 人に再び顔を合わせるつもりはありません
もう一度 (私 与一を)故郷に迎えてやろうとお思いになるならならば この矢を外させないでください」

と(与一は)心のうちで祈念した
目を開いたところ 風も少し吹き方が弱まり 扇も(静かになり)射やすそうになってきた

与一は 鏑矢(かぶらや)を取って(弓に)つがえ 十分に引きしぼって「ひょう」と(矢を)放った
(与一は)小柄な武者とは言いながら 十二束三伏の(長い矢)弓も強く
浦に響くほど(鏑矢は)長いあいだ鳴り響き 狙いを外さず 扇の要の端から一寸ほどのところを ひゅんと射切った
鏑矢は海へ落ちて 扇は(衝撃で)空へと舞上がった
しばらく空中にひらめいていたが 春風に1もみ2もみもまれて 海へさっと散り落ちていった
夕日の輝いていたところに 日の丸を描き出した真っ赤な紅色の扇が 白波の上に漂い 浮いたり沈んだりして揺られていたので
沖では 平家が船端を叩いて感嘆した 陸では 源氏が箙(えびら)を叩いてはやしたてた

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『平家物語』鎌倉時代に成立 出版 刊本 ,万治02年  [旧蔵者]紅葉山文庫

宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futaarayama Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

創建者とされる 奈良別王Narawake no kimi)を祀る神社があります
奈良之神社Nara Shrine)の記事をご覧ください

 

その旧蹟や御陵と伝わる古墳も残っています
奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市) の記事をご覧ください

 

二荒山神社それぞれの記事をご覧ください

・日光二荒山神社 本社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください

 

本宮神社(Hongu Shrineの記事をご覧ください

 

二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)の記事をご覧ください

 

宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futarasan Shrineの記事をご覧ください〈当社〉

 

二荒山神社 下之宮Futarasan Shrine Shimonomiyaの記事をご覧ください

 

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-全国 一の宮("Ichinomiya" all over Japan)
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