宇佐神宮(うさじんぐう)は 全国4万社余りの八幡社の総本宮です 豊前国一之宮でもあります 神亀2年(725)創建以来 皇室から「伊勢神宮」につぐ「第二の宗廟(sobyo)」としての崇敬を受けています 信仰の地となってから約1300年 境内に足を踏み入れれば 日本の息吹が伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
宇佐神宮(usa jingu)
(うさじんぐう)
[通称名(Common name)]
宇佐八幡宮(usa hachiman gu)
【鎮座地 (location) 】
大分県宇佐市南宇佐2859
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
・一之御殿 八幡大神(hachiman okami)
[誉田別尊(hondawake no mikoto) 応神天皇(ojin tenno)]
・二之御殿 比売大神(hime okami)
[多岐津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命(宗像3女神)]
・三ノ御殿 神功皇后(jingu kogo)
[息長帯姫命(okinaga tarashihime no mikoto)]
※主祭神は 一之御殿「八幡大神(hachiman okami)」とされます
しかし 実際には 大きな勅使門の奥 中央の本殿に祀られているのは 二之御殿「比売大神(hime okami)」です
何故でそうであるのかは 謎とされています
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・皇室弥栄国家安泰世界平和祈願 The imperial family prospers more and more, praying for national peace and world peace.
・厄除開運 Prayer at an age considered a milestone in life.Bring good luck and happiness.
・家内安全 Safe and comfortable home life
・交通安全 Pray for Traffic safety
・病気平癒 God cures the disease
・身上安全 Body and life safety
・祝歳(古希・喜寿・傘寿・米寿・卒寿・白寿)
・心願成就 Realization of wish of heart
・神恩感謝 Thank God for the grace that God has given
・良縁成就 Deepen connections and intimacy with the good people
・安産祈願 Healthy childbirth
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・事業発展 Hope for business growth
・工場安全 Factory safety
・工事安全 Construction safety
・海上安全 Maritime safety
・大漁満足 Good harvest and big catch
・選挙当選 Win the election
・必勝祈願 Victory prayer
・入試合格 Pass the entrance examination
・学業成就 Want to acquire knowledge and skills
・御礼報賽参り Report your gratitude. We give thanks to God for the happiness we have received from Him and worship Him.
・旅行安全 Travel safety
・七五三詣 7 year old 5 year old 3 year old celebration
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 豊前国一之宮(sado no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
・ 勅祭社
【創 建 (Beginning of history)】
八幡さまは古くより多くの人々に親しまれ、お祀りされてきました。
全国約11万の神社のうち、八幡さまが最も多く、4万600社あまりのお社(やしろ)があります。
宇佐神宮は4万社あまりある八幡さまの総本宮です。
御祭神である八幡大神さまは 応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。
宇佐の地は 畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は 八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。
八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)に神託により 二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。
三之御殿は神託により、823年(弘仁14年)に建立されました。応神天皇の御母、神功皇后をお祀りしています。神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。
八幡大神の御神徳は 強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺 大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ)公に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名です。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社16社に列されています。また、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。
八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています。その長い信仰の歴史は宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができます。千古斧(おの)を入れない深緑の杜(もり)に映える美しい本殿は国宝に指定されており、総本宮にふさわしい威容を誇っています。
公式HPより
【由 緒 (history)】
まず社名について。
奈良時代にはただ八幡宮・八幡神宮・八幡神社 八幡大菩薩宮等と呼ばれていたが、
平安時代に京都に石清水八幡宮が創建されてからは、石清水八幡宮と区別する意味で宇佐宮・八幡宇佐宮・宇佐八幡宮と云うように「宇佐」の字をつけるようになった。明治6年、官幣大社宇佐神宮となり、
昭和20年、社格制度廃止により、今の宇佐神宮となった。宇佐の地に 初めて八幡神が御示顕になられたのは、
欽明天皇の御代に御許山(おおもとさん)(宇佐神宮奥宮 大元神社鎮座)に顕われた。
また 同天皇32年(571)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕われ、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げられたので、この地に祀られたのが宇佐神宮のはじまりである。その後
和銅5年(712)鷹居社が 社殿として初めて造立され、
霊亀2年(716)小山田社に移り、
神亀2年(725)現在の亀山に移され第一之殿が造立された。
天平元年(729)には第二之殿、
弘仁14年(823)には第三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成した。養老3年(719)大隅・日向の隼人が反起したので、八幡神は託宣により神輿を奉じて日向まで神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮めた。
この隼人の霊を慰めるため天平16年(744)、和間浜で「放生会」が行われた。これが全国各地の八幡宮で行なわれている放生会(ほうじょうえ)の起源ともなった。
また天平10年(738)、聖武天皇の勅願で 境内に神宮寺「弥勒寺」が建立てられた。
聖武天皇が天平15年(743)、
東大寺大仏建立を発願したが、難工事となり八幡神に無事完成を祈念した。
これにたいし全面的に協力し「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」また大仏に塗る泥金が不足すると「必ず国内より金は出る」と次々と託宣を発し 大事業も無事に完成した。天平20年(748)には 東大寺の守護神に勧請され、その後東大寺の脇に手向山八幡宮が建てられた。このように八幡神は 仏教と早くから融合し「八幡大菩薩」の称号を賜わった(781)。
また孝謙天皇の時、
皇位をねらう弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の事件が起き、神護景雲3年(769)に大宰主神 中臣習宜阿蘇麻呂(だざいのかんずかさ なかとみのすげのあそまろ)は「道鏡を皇位につければ国平らかならん」と八幡神の託宣があったと天皇に奏上した。
その真偽を確かめるために和気清麻呂を勅使として宇佐へ遣わし、「我国は開闢(かいびゃく)以来君臣のこと定まれり、臣をもって君とするはいまだこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の者よろしく掃除すべし」と託宣をうけ道鏡の野望を退け、国体を鎮護することができた。
これにより一層朝廷より崇敬されるようになった。
以来勅使は「宇佐使」や「和気宇佐使」と呼ばれ、特に天皇の即位奉告の勅使には 代々和気氏が任命されたので 和気宇佐使と呼ばれた。宇佐の地方神であった八幡神が 八世紀には朝廷とむすびつき、国家神にまでになった。
さらに貞観元年(859)大和の大安寺の僧行教が「われ都の近く移坐り、王城を鎮護せん」との託宣を受け、
京都男山に八幡神を勧請して石清水八幡宮を建てた。後に鎌倉に鶴岡八幡宮(1063)が祀られ、弓矢八幡として武士の信仰も厚く、全国各地に八幡宮が祀られ庶民からも親しめる神となった。
建久7年(1196)の宇佐大鏡によると、
平安時代の全盛期には 九州の農地8万町歩のうち 宇佐宮は24,000町歩の荘園があり全体の3分の1を占めていた。
この経済力が 八幡文化の基礎となり、且つ大分県の文化・政治でもあった。県北の国東半島では
養老年間に八幡神の化神「人聞」(仁聞・にんもん)が開いたといわれる六郷満山の仏教が開華し、宇佐氏による伝乗寺や富貴寺などの寺院が建立されて、中世には本山・中山・末山の三山組織ができ、国東独特の山岳仏教文化が生れた。
また県南では
大神氏による臼杵石仏に代表される豊後石仏群が出来上がった。(全国の石像美術の90パ-セントは県内にある)しかし
源平の争いには 平氏に加担したため、緒方惟栄の焼き打ち(1184)にあい社殿・寺院ことごとく全焼し、多くの財宝や資料を失った。南北朝には 大宮司家も二に分裂して 到津家は南朝に、宮成家は北朝につき対立した。この内乱により33年に一度続いた式年造営も出来なくなり、ますます衰えていった。
室町時代になると 豊前の守護職 大内盛見は宇佐宮造営に着手し、12年の歳月を掛けて、永享2年(1430)に完成した。このときの造営が古代宇佐宮の名残を留める最後の造営で そのときの遺産として「応永の古図」や神輿が残っている。
戦国時代になると、豊前の大内、豊後の大友の両氏に挟まれて宇佐宮の神職も武士化した。
永禄5年(1562)、大友宗麟の焼き打ちにあい社殿他ことごとく焼失した。
このようにしかし武士の時代になると、神社の経済基盤であった荘園が少なくなり、また何度も戦火にあい急速に衰えていき、盛時の面影は無くなってしまった。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐では神領は没収され、また黒田孝高により平安以来の神宝刀剣90余振を奪われ苦難の時代であった。
しかし黒田孝高の子黒田長政は 宇佐宮の造営を思い立ち文禄元年(1592)、着手して慶長4年(1599)には二之御殿が完成した。
黒田氏の後 小倉藩主となった細川忠興は慶長6年(1601)、宇佐宮に500石を寄進し、さらに慶長11年(1606)には300石を寄進し行幸会を復活した。
慶長15年には 三之御殿を造営し、年次社殿堂宇50余棟を造営して、落ちぶれていた神官社僧百数十家も禄をえて復帰して、放生会・行幸会の二大行事が復活した。正保3年(1646)には徳川家光が神領10して1000石を寄進した。
享保8年に上宮が 火災のため全焼して、享保13年(1728)に臨時の造営に着手し、元文5年(1740)頃完成した。この遷宮を祝い中絶していた宇佐奉幣使として飛鳥井中将が延享元年(1744)、参拝した。文久3年にも本殿を修理して、これが今の本殿である。
明治元年の神仏分離令が出され、廃仏毀釈の旋風も激しく、仏像をはじめ多くの仏教美術品が失われた。
昭和60年の勅祭を記念して宝物館を建設し、貴重な文化財の保存や散逸した宇佐宮関係の文化財の収蔵に勤めている。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
【宇佐神宮 境内外社(摂社・末社)&関連社について】
詳しくは 記事をご覧ください
「宇佐神宮 境内外社(摂社・末社)&関連社について」
全国4万社余りの八幡社の総本宮 宇佐神宮(usa jingu)の 境内外社(摂社・末社)&関連社についてご紹介します 続きを見る
宇佐神宮 境内外社(摂社・末社)&関連社について
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
宇佐神宮の御祭神は 3座です 3座ともに 宇佐郡 3座(並大)となっています
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊前国 6座(大3座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宇佐郡 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内 名神大社
①一之御殿 八幡大神(hachiman okami)
[旧 神社名 ] 八幡大菩薩宇佐宮(名神大)
[ふ り が な ](はちまんだいぼさつ うさのみや)(みょうじんだい)
[How to read ](hachimandaibosatsu usanomiya)(myojindai)
➁二之御殿 比売大神(hime okami)
[旧 神社名 ] 比売神社(名神大)
[ふ り が な ](ひめ かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](hime kamino yashiro)(myojindai)
➂三ノ御殿 神功皇后(jingu kogo)
[旧 神社名 ] 大帯姫廟神社(名神大)
[ふ り が な ](おほたらひめのみたまや かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](ohotarahime no mitamaya kamino yashiro)(myojindai)
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku) あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「行幸会(gyokoe)」の行幸順は 次のように伝わります
宇佐八幡→①田笛社→②鷹居社→③郡瀬社→④泉社→⑤乙咩社→⑥大根川社→(薦神社)→⑦妻垣社→⑧小山田社→宇佐八幡
かつては 宇佐八幡の境外8摂社とされていた行幸会(ぎょうこうえ)
詳しくは「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について の記事をご覧ください
スポンサーリンク
「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について
宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います
「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」の記事をご覧ください
豊後国への分祀として 別宮として扱われた 豊後国一之宮 柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)
・柞原八幡宮(大分市上八幡三組)
スポンサーリンク
宇佐神宮(usa jingu)の創建由来にかかわる「元宮・祖宮&奥宮」について
【元宮と云われる】金冨神社
・金富神社(kintomi shrine) (矢幡八幡宮 福岡県築上郡築上町)
詳しくは 金富神社の記事もご覧ください
【祖宮と云われる】薦神社
・薦神社(komo shrine) (大貞八幡宮 大分県中津市)
詳しくは 薦神社の記事もご覧ください
【奥宮と云われる】大元神社
・大元神社(omoto shrine)(大元神社 大分県杵築市)
詳しくは 大元神社の記事もご覧ください
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
宇佐駅から R10号を中津方面に約4..5km 車 10分程度
R10号沿いに大きな駐車場があります
駐車場の横から参道入口があります 宇佐飴の売店なども立ち並びます
宇佐神宮(usa jingu)に到着
境内は広大で 見どころや境内社も多数あります
売店を抜けると 狛犬の先には 社号標「宇佐神宮」と宇佐鳥居(特徴は 笠木の両端が大きく反り返ります 柱の左右上部に黒色の台輪が置かれています)が建ちます
一礼してくぐり抜けます
参道は右に折れて 朱色の御神橋が見えます
神橋の手前の石柱には「史跡 宇佐神宮境内」とあります
朱色の御神橋は 寄藻川(yorimo gawa)に架かかります
御神橋を渡りると いよいよ広大な境内に入ります
境内に建つ「大鳥居」が見えてきます
大鳥居の手前右の境内社にお詣りします
・黒男(kuroo)神社
《主》武内宿禰命(takenochi no sukune no mikoto)
一礼して「大鳥居」をくぐり抜けます
参道の右手に初沢池と宇佐神宮宝物館があります
左手には 大尾山に真っ直ぐに延びている「大尾山参道」があります
霊地の大尾山については 次の記事をご覧ください
山頂に・大尾(oo)神社
《主》八幡大神(hachiman okami)
中腹に・護王(goo)神社
《主》和気清麿朝臣命(wakeno kiyomaro ason no mikoto)
参道の右手には「宇佐神宮廰」(社務所)が建ちます
参道左手には「手水舎」が建ちます 清めます
「参拝順路のご案内」の立て札があり
①手水舎⇒表参道⇒➁上宮⇒➂若宮神社⇒下宮参道⇒④下宮⇒手水舎(現地)とあり この順に参拝です
参道の脇には とても大きな四角推の台座を持つ 独特の石灯篭があります
右手の境内社にお詣りします
・春宮(togu)神社
《主》菟道稚郎子(ujinowakinoiratsuko no mikoto)
参道の正面には「祓所」があります
・勅使・ご神職などが清められる場所で 清らかな地の為 一般参拝者は入れません
参道の石段を上がる所に 大きな鳥居があり 一礼してくぐり抜けます
ここからご鎮座地の亀山に上がります
石段の途中には 人気のある「夫婦石」があります
左右対称になった三角の石 独り身は両足で踏めば良縁が訪れ 夫婦やカップルは手をつないでそれぞれ一緒に片方ずつ踏めば末長く仲良く暮らせるらしい
頂上付近には 鳥居が建ち その先には西大門が見えます
西大門をくぐり抜けると神宮内郭に入ります
本殿域には 更に回廊が廻されています
拝所は向かって左から
一の御殿・二の御殿・三の御殿それぞれに設けられています
中央の大きな拝所は二の御殿の拝所となっていて 南中楼門(勅使門)で普段は開きません
南中楼門(勅使門)は それ自体も神社になっています
・善神王(zejino)神社
《主》高良大明神(kora daimyojin)
阿蘇大明神(aso daimyojin)
一の御殿から順に拝所にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の正面の回廊には宇佐神宮の奥宮とされる「大元神社 遥拝所」があり 遥拝します
詳しくは 大元神社の記事もご覧ください
神宮内郭の拝殿正面には 神札授与所があり お守りなどを授与します
西大門の横には「神井」があります
西大門を くぐり抜けて神宮内郭を出ます 振り返り一礼します
参道の正面に境内社お詣りします
・若宮(wakamiya)神社
《主》大鷦鷯命(osazaki no mikoto)
大葉枝皇子(obae no miko)小葉枝皇子(kobae no miko)
雌鳥皇女(medori no miko)隼別皇子(hayabusawake no miko)
すぐ右手に境内社があり お詣りします 亀山の山の神です
末社 (massha)
・亀山(かめやま)神社
《主》大山積命(oyamatsumi no mikoto)
帰りの参道は下宮を経由します
下り参道は 朱色の垣で仕切られていてご神域(宇佐神宮社叢)へは立入が出来ないようにされています
鳥居が建ち 下宮に到着します
御祭神は 上宮と同様です お詣りをします
・下宮(geku)
《主》一之御殿 八幡大神(hachiman okami)
二之御殿 比売大神(hime okami)
三ノ御殿 神功皇后(jingu kogo)
「兆竹」と呼ばれる卜占に使用される笹竹が玉垣に囲まれて生えています
兆竹(さましだけ)
往古、宇佐神宮では神事や豊穣、国家の大事を決する時の神意の卜占を、摂社 若宮神社の拝殿にて対馬の卜部が亀甲を焼いて行っていた。その際、この下の宮境内の竹を用いて熱した亀甲を「冷まし」たといわれる。
案内板より
神門をくぐり抜けて 下宮の境内から出ます
神門のすぐ横 鳥居を出る手前に高倉があります
鳥居をくぐり 下宮に振り返り一礼します
西へ呉橋の方面に向かうと 境内社がありお詣りです
・八坂(yasaka)神社
《主》須佐之男命(oyamazumi no mikoto)
・養蚕(yozan)神社(八坂神社に合祀)
《配》天棚機姫命・稚日女尊・誉田別尊
神仏習合時の弥勒寺跡があります
呉橋が掛かります
呉橋(くれはし)
呉橋は西参道にある屋根がついた神橋です。
昔、呉の国の人が掛けたともいわれ、この名があります。鎌倉時代より以前からある橋です。上記の歌は後伏見天皇正安3年(1301)の勅使、和気篤成朝臣のものです。
公式HPより
神武天皇を迎えた「聖跡 一柱騰宮跡(ashihitotsu no agarimiya)」碑が建ちます
丘陵には 末社が続き お詣りします
・金刀比羅神社《主》大物主大神《配》崇徳天皇
・粟島神社《主》少彦名命
・天満神社《主》菅原道真公
・兪加神社
一生に一度だけ願いを叶えてくれるという「願かけ地蔵」もあります
参道を戻り 菱形池へと向かいます
手水舎の裏手から 朱色の太鼓橋を渡り
能舞台のある中島に境内社がありお詣りします
・木匠祖(mokushoso)神社
《主》手置帆負命(taokihoi no mikoto)
比古狭知命(hikosashiri no mikoto)
菱形池の奥には 自然のままに大木が茂る小径を歩みます
御霊水(ごれいすい)
亀山の麓、菱形池のほとり、三つの霊泉からなるこの御霊水は、上宮御本殿の真裏(北側)に位置し、往古、常に清水が湧き出で絶えることのない霊泉として知られています。境内に建立されていた弥勒寺の僧、神吽が、鎌倉時代後半に纏めた『八幡宇佐宮御託宣集』には、欽明天皇三十二年(571)辛卯、八幡大明神、筑紫に顕れたまふ。豊前国宇佐郡薜峯菱形池の間に、鍛冶の翁有り。首甚だ奇異なり。これに因って大神比義、穀を絶つこと三年、籠居精進して、即ち幣帛を捧げて祈って言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。「我は是れ日本の人皇第十六代誉田天皇なり。我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり。国々所々に、跡を神道に垂れ、初て顕るのみ。」と記され、八幡大神がこの御霊水の辺りに初めてご顕現になったと伝えています。
公式HPより
池の中の島に境内社が見えています
島に架かる石橋を渡ります
境内社にお詣りをします
・水分(mimakuri)神社
《主》高龗神(takaokami no kami)
天水分神(ameno mimakuri no kami)
国水分神(kunino mimakuri no kami)
天汲抱持神(ameno kuhizamochi no kami)
国汲抱持神(kunino kuhizamochi no kami)
中島から 橋を渡ると頓宮が鎮座します お詣りをします
・頓宮(tongu)
《主》八幡大神(hachiman okami)
頓宮から 大尾山参道で大尾神社に向かいます
霊地の大尾山については 次の記事をご覧ください
山頂に・大尾(oo)神社
《主》八幡大神(hachiman okami)
中腹に・護王(goo)神社
《主》和気清麿朝臣命(wakeno kiyomaro ason no mikoto)
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』神代 誓約(ukehi)段一書(三)に記される伝承
ここに記される「三柱の女神(宗像三女神)」が「宇佐嶋に天下った」との伝承があります 文中にも「今は 北の海路(玄界灘の海路)に坐ます」とありますので その前は別の場所であったと推測されています 宇佐神宮では これを御許山(omoto san)(大元山)としています
意訳
「 そして「日の神」がお生になられた三柱の女神は 葦原中国(ashihara no nakatsukuni)の宇佐嶋(usa shima)に降らせられました
今は 北の海路(玄界灘の海路)の中にお出でになられています
名づけて「道主貴(michinushi no muchi)」と言います
これは 筑紫の水沼君(chikushi no minuma no kimi)などが祀る神です 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『続日本紀(shoku nihongi)』天平9年(737)4月1日条に記される伝承
日本が 半島の新羅と緊迫化した関係にあった当時でした
八幡神(宇佐神宮)が 史書に登場した初見となります
八幡二社とされているのは この頃は 八幡神と比売神の二柱が祀られていたからで 平安時代になってから 神功皇后が加わり三座となりました
初登場であるのに いきなり伊勢神宮・大神神社・博多住吉神社といった国家神と すでに肩を並べています
意訳
「 夏4月 勅使を
伊勢神宮(isejingu)
大神社(omiwanoyashiro)
筑紫住吉(tsukushi no sumiyoshi)
八幡二社(hachiman no futayashiro)及び 香椎宮(kashiinomiya)に 遣(tsukaha)して 幣(mitegura)を奉る 以て 新羅の無礼の状(さま)を告ぐ」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『日本書紀(nihon shoki)』
神武天皇の条に記される椎根津彦(shiinetsuhiko)の伝承
神武天皇が 御年45歳の時 御東征を決意されて 日向を出発し 潮流の激しい豊予海峡の速吸門(hayasuinoto)まで来たときに
国津神の漁師が現れ 神武天皇に水先案内を申し出ました
天皇は 椎の棹を珍彦に授けて 無事に難所を渡ることができたので 椎根津彦(shiinetsuhiko)の姓を授けたとされています
その後 上陸した 宇佐の地で 天皇一行は
宇佐国造の祖である菟挟津彦(usatsu hiko)・蒐侠津媛(usatsu hime)が 宇佐川の川上に 一柱騰宮(ashihitotsu agarinomiya)の仮宮(宇佐神宮の呉橋南岸)を建て歓待したとあります
詳しくは 境外末社 椎根津彦神社(椎宮)の記事をご覧ください
『橘三喜(tachibana mitsuyoshi)諸国一宮巡詣記抜粋(shokoku ichinomiya jumpaikibassui)』に記される伝承
江戸期の宇佐神宮の様子が 絵図で描かれていて とても判り易いです
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋 乾』(1675年~1697年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039344&ID=M2014090119552785625&TYPE=&NO=画像利用
全国4万社余りの八幡社の総本宮
宇佐神宮(usa jingu)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)