都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)は 社伝には 雄略天皇の勅により〈現在地に〉2つの社殿を造営したのが起源 永禄年間に兵火により旧記・社殿焼失 寛永年間に再建 明治時代に2社を合併し 両社の祭神は1つの社殿に奉祀されます 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 奈加等神社(なかとの かみのやしろ)都波岐神社(つはきの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
都波岐神社・奈加等神社(Tsubaki shrine・nakato shrine)
【通称名(Common name)】
都波岐奈加等神社(つばきなかとじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市一ノ宮町1181
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
都波岐神社
《主》猿田彦大神 (さるたひこのおほかみ)
奈加等神社
《主》天椹野命 (あまのくののみこと)〈中跡直(なかとのあたい)の祖神〉
中筒之男命 (なかつつをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・人々の歩むべき道を教える
・方災解除・交通安全・病気平癒
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 伊勢國一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
都波岐奈加等神社の御祭神
本社は通称都波岐奈加等神社と呼習わしていますが、二社が相殿の神社で主な祭神は次の通りであります。
都波岐神社 猿田彦大神
奈加等神社 天椹野命 中筒男大神
尚、その他に境内社として小川神社・神明春日社があり、小川神社は天宇受売命外八神を、神明春日社は天照大神と天見屋根命が祭られています。
春日社 天照大御神・天児屋根命
小川薬王子社 天宇受賣命以下八神都波岐奈加等神社の御由緒
当都波岐神社は、延喜式内の古社で伊勢国一之宮であります。創立は雄略天皇二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが初まりであります。
その際、天椹野命十五世の孫中跡直広幡が宣旨を受けて初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代であります。
平安時代の初めには、弘法大師空海が本社に参籠し獅子頭二口を奉納したと伝えています。
室町時代には、征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途本社に参拝し幣帛を供え社領を寄進したので、多くの武士が参詣したと伝えています。
戦国時代には、織田信長が、伊勢平定の軍を進め近くの神戸・高岡の二城を攻略しました。その際、本社は兵火にかかり社殿が焼失しました。幸いにも御神宝の獅子頭などは他所へ遷し難を免れることができました。
社殿は、江戸時代の初めの寛永年中に神戸城主一柳監物によって再建されました。また、肥後国の阿蘇神社及び常陸国の鹿島神宮と同じ鷹司家の執奏社として本社には大宮司職が置かれ、当地方において大きな勢力を維持しました。現在の本殿は、江戸時代末期安政三年造営されたものです。
本社には、伊勢地方の四流派、即ち「四山の獅子」の一流はとして、「中戸流」の舞神楽が伝えられており、江戸時代には各地を舞歩きました。そして、貴重な宝ものとして古新あわせて四頭の獅子頭が伝えられています。今日では、毎年十月十日の秋季例大祭当日、四頭の内の新頭の雌雄二頭によって舞神楽が奉納されます。
明治に入り、江戸時代に続いて社殿の整備がすすめられ、明治九年に現在の拝殿が造営されました。明治三十六年には県社に列せられ、更に一層の発展が見られました。本社の主祭神の「猿田彦大神」は、伊勢国の大地主の神、また道開きの大神として崇められ、その御神徳を慕い全国各地から参拝者がたえません。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
本社は延喜式内の古社で伊勢国一之宮である。
本社はまた、雄略天皇23年に伊勢国造高雄東命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となった。
白河天皇より正一位の勅額を賜わり、花園天皇の正和年中に摂政藤原冬平の執奏により神伝記を天覧に供し、後小松天皇の嘉慶年中に征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途当社に参詣して幣帛を供え社領を寄進した。
織田信長が神戸、高岡の二城を攻略の際、本社は兵火に罹り社殿が消失した。その後、一柳監物の援助で社殿を復興し、明治三十六年に県社に昇格した。
猿田彦大神を主祭神として奉斎、御神徳を慕って、全国から参拝者が絶えない。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
〈本殿向かって右手前の境内社〉
・神明春日社
《主》天照大御神《合》天児屋根命
〈本殿向かって左手前の境内社〉
・小川薬王子社
《主》天宇受賣命
《合》大穴牟遅神、少毘古名神、宇迦之御魂命、品陀和気命、鷹司房輔公、菅原神、須佐之男命、大山津見神
〈延喜式内社 伊勢國 河曲郡 小川神社(をかはの かみのやしろ)〉の論社です
江戸時代は「小川薬王寺神社」と称し 中戸村字村内(中戸村の東位小川原と称する村邑)に鎮座していた
明治41年(1908)都波岐神社奈加等神社の境内社八幡社に合祀されて 小川神社と称した 現在は 小川薬王寺社と称する
・拝殿
・神橋・二の鳥居
・手水舎
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
伊勢國の椿神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十 貞觀七年(八六五)四月十五日乙丑
○十五日乙丑
授に 伊勢國
正五位上 稻葉神(イナハノカミ)に 從四位下
從五位上勳七等 椿神(ツハキノカミ)に 正五位下を公卿就太政官曹司廳。賜文武官成選位記。
是日。制。興福寺維摩會立義得第僧叙滿位階。立爲恒例。
常住寺十禪師傅燈法師位延庭奏言。於山駐國葛野郡北山。奉爲國家。建立道場。名曰興隆寺。四履六町。安置千手觀音像一躰。梵王帝釋像各一躰。四王像四躰。貞觀二年詔令木工寮修造堂舍。春演説最勝王經。秋吼講妙法蓮華經。安居之中。轉讀大般若經。誓護國家。深期永代。望請。爲御願寺。修戒律眞言兩宗。但不經僧綱并講師之攝。從之。
以從五位下行越前權介文室朝臣能雄爲能登守。從五位下行豐後介菅野朝臣宗範爲薩摩守。
是日。以傳燈大法師位眞延爲内供奉十禪師。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)は 四つの式内社の論社になっています
内訳は
本 社が三つ〈①椿大神社②奈加等神社④都波岐神社〉境内社が一つ〈③小川神社〉
本殿と向かって左手前の境内社 小川薬王子社
①椿大神社〈本社が論社となっている〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ]椿大神社
[ふ り が な ](つはきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuhaki no kaminoyashiro)
【原文参照】
②奈加等神社〈本社が論社となっている〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 奈加等神社
[ふ り が な ](なかとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakato no kaminoyashiro)
③小川神社〈境内社が論社となっている〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小川神社
[ふ り が な ](をかはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Okaha no kaminoyashiro)
④都波岐神社〈本社が論社となっている〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 都波岐神社
[ふ り が な ](つはきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuhaki no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢國の一之宮について
伊勢國には 一宮を称している神社が二社ありす
①椿大神社(つばきおおかみやしろ)
②都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)
・椿大神社(鈴鹿市)
・都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市)
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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される゛椿大神社゛の類社について
伊勢國 河曲郡 都波岐神社(つはきの かみのやしろ)
・都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市)伊勢国一之宮
・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)
〈飯野神社に合祀 津萩神社(八王子社)〉
伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社
・椿岸神社(四日市市智積)〈七郷の総社〉
・椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮〉
近江國 伊香郡 椿神社(つはきの かみのやしろ)の論社
・椿神社(長浜市木之本町小山)
・椿坂八幡神社(長浜市余呉町椿坂)〈八幡神社に合祀 椿神社〉
・椿神社跡(長浜市余呉町椿坂)〈八幡神社に合祀 椿神社の旧鎮座地〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄鈴鹿線 鈴鹿市駅から県道103号・506号経由で北上 車で約7分程度
県道506号沿いに大きな石灯籠がたちます
この道が神社から南へ伸びている参道なのだと思います
都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)に参着
現在は両社の祭神は1つの社殿に奉祀されますが 元々は明治時代に2社を合併したものなので 社号標なども2社それぞれの物があります
一礼をして鳥居をくぐります 先程迄 物凄いにわか雨が降っていましたが 雲の合間から日差しがある参道を進みます
途中 神橋がありその先の鳥居をくぐると拝殿になります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿と幣殿はコンクリート造で その奥に白塀が廻された中に 本殿と境内社が2社祀られています
参拝を終えたとたん またしても物凄い雨量のにわか雨が 社頭に一礼をしてもどります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椿大神社について 所在は゛山本村に在す゛〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉と記しています
類社として 当国河曲郡 都波岐神社〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉を挙げています
【抜粋意訳】
椿大神神社
椿は 豆波木と訓べし、和名鈔、〔草木部〕椿、〔假字上の如し〕」
大神は 於保武賀美と訓べし、○祭神 猿田彦大神、〔頭注〕或云、保食神、
〇山本村に在す〔考証、俚諺〕
〇当國一宮とも云ふ、〔一宮記、河曲郡都波岐神社とす、〕
雑記に、今椿大明神といふ、又行満大明神ともいふ、保食神也、又式なる小岸大神社は、今岸大明神といふ、両社相殿に坐すなり、」
亀山賦に、椿嶽の下にあり、椿岸社〔三重郡に在す〕は、俗に下椿といふ、」
多氣窓螢に、昔椿の社より朝廷の御所せしこと恒例也、と云り、」
或人云、当社前にあやつぱきとて、檜の葉に似たるものに椿の花さく也、色は赤白あり、他所になきもの也とぞ、類社 当国河曲郡 都波岐神社、近江国伊香郡 椿神社、
神位 三代実録、貞観七年四月十五日乙丑、授ニ伊勢國從五位上勲七等 椿神正五位下、
【原文参照】
式内社 奈加等神社については 所在は゛中戸村に在す゛〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉と記しています
式内社 小川神社については 所在は゛祭神在所等詳ならず゛とあり 祭神所在は不明と記します ゛一説社なし、今中戸村の邊に字あり゛一説として〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉とも記しています
式内社 都波岐神社については 所在は゛中戸村 奈加等神社相殿に在す、今當社と主とす゛〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉と記しています
その上で 伊勢國の一之宮ともされるが ゛鈴鹿郡椿大神社をも一宮といひ、此社は神位ありて、今に歷然としたり、此等壹ー宮記に疑ひある一ツ也゛と記していて 一宮記は疑いがあるとも但し書きが添えられています
【抜粋意訳】
奈加等神社
奈加等は假字也、和名鈔、〔郷名部〕中跡、〔奈加止〕
○祭神 天椹野命、〔考証、俚諺〕
〇中戸村に在す、〔同上〕
○舊事紀、〔天神本紀〕天椹野命、中跡直等祖、
小川神社
小川は乎加波と訓べし
○祭神在所等詳ならず
勢陽俚諺に、南若松村、一説社なし、今中戸村の邊に字あり、〔考証云、社地無考、〕或云、楠村ノ岐ノ川ニアリ、今諏方卜云フ社也、と云り、猶考ふべし、
類社 当國壹志郡 小川神社の條見合すベし
都波岐神社
都波岐は 假字也
〇祭神 猿田彦大神、〔頭注〕
〇中戸村 奈加等神社相殿に在す、今當社と主とす、
〇當國一宮也、〔一宮記〕
考証云、楠村産社此乎、と云るは非也、抑一宮とも稱す神の、中古より廃れて相殿に在すといふいといぷかしく、されどー宮記に、河曲郡云々とあれば、しばらく是に從ふ、然て鈴鹿郡椿大神社をも一宮といひ、此社は神位ありて、今に歷然としたり、此等壹ー宮記に疑ひある一ツ也
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 椿大神社について 所在は゛今山本村椿嶽の麓にあり一宮椿大明神と云、即 伊勢一宮也゛〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉と記しています
【抜粋意訳】
椿大神社(ツハキノオホカミノ)
今山本村椿嶽の麓にあり一宮椿大明神と云、即 伊勢一宮也、
〔本社所蔵 康暦永德明德等書爲大般若経跋、一宮記、神名〔帳〕考証、勢陽雑記、椿詣記、式内社検録、〇按 式内社検録云、社の坤位 域内に、前方後圓西向の大塚あり、高山塚と云、是大神の霊陵なるへしと云り、〕
清和天皇 貞観七年四月乙丑、従五位上勲七等椿神に正五位下を授け、〔三代実録〕
【原文参照】
式内社 奈加等神社については 所在は゛今 中戸村にあり゛〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉と記しています
式内社 小川神社については 祭神所在は不明と記します
式内社 都波岐神社については 所在は゛今 北長太村 八王子祠の相殿に合祭る .津荻大明神是他゛〈現 飯野神社(鈴鹿市長太旭町)に合祀 津萩神社(八王子社)〉と記しています
【抜粋意訳】
奈加等(ナカトノ)神社
今 中戸村にあり、〔神名帳考証、勢陽雑記、〕
盖 中跡直祖 天椹野命を祀る、〔参酌舊四事本紀、中戸神社記〕
小川(ヲカハノ)神社
都波岐(ツキハノ)神社
今 北長太村 八王子祠の相殿に合祭る .津荻大明神是他、〔式内社検録、〇按 舊址は八王子祠の北四十間許 畑中なね小路塚にあり、小路或は 老翁(オホナ)大木に作るは誤れり〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 椿大神社について 所在は゛山本村゛〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉と記しています
祭神については゛大朝臣の祖神゛であろうと記し
伊勢一之宮は 都波岐神社〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉という説もあるが 〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉であろうと記しています
【抜粋意訳】
椿大神社
祭神
神位 清和天皇 貞観七年四月十五日乙丑授伊勢國從五位上勲七等椿神 正五位下
祭日 八月朔日
社格 郷社所在 山本村 (鈴鹿郡椿村大字山本)
今按るに 椿は地名神鳳鈔に内宮椿御蘭廿二町〔大窪水澤山本七郷〕とありて 数村に亘る総称なり 今も西山に椿カ嶽といふあり 其東麓の山本村に社地あり 故に椿の神とも椿の大神とも稱せるなり 然るを椿大(ツバキタ)と訓するか如きは謬れり 然して大神はおはのかみと訓して 大朝臣の祖神の義ならむ朝明郡の太神社 奄藝郡の大乃已所神社の大字と同意のおはなるにこそさるを社域に猿多く柄めろと古事記に猿田昆古大神とあるとを附倉して 祭神を猿田彦神とするは受かたし
然て又本社を當國一宮とす本社別當 随光院所藏大般若經跋云 奉施入一宮山木椿大明神 康暦元年六月廿五日大願主 比丘尼聖周と載せ 諸國一宮神名帳にも椿宮伊勢國とあるを以て證すへし 然るに其後の大日本國一宮記に都波岐神社〔猿田彦神也〕伊勢國河曲郡と記せるは椿と都波岐と謬混せしなり 古證に據て一宮は木社に定へきなり
【原文参照】
式内社 奈加等神社については 所在は゛中跡村゛〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉と記しています
式内社 小川神社については 祭神所在は不明だが考察がされていて 所在については゛南川村゛とも゛中戸村 若王子祠゛の論社を記しています
式内社 都波岐神社については 所在は゛明細帳〔都波岐奈加等〕両神社とあり゛〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉と表記していますが考証がなされていて 本来は゛南長太村 八王子津萩大明神と二座゛〈現 飯野神社(鈴鹿市長太旭町)に合祀 津萩神社(八王子社)〉であろうと記しています
【抜粋意訳】
奈加等神社
祭神 天椹野命
今按 舊事紀 天椹野命中跡直等祖とみえ 社傳にもしかあり 和名抄中跡郷ありて 本社の中跡村にあるも由あれば 今之に從ふ
祭日 八月四日
社格 村社所在 中跡村
今按るに傍注考説以下悉く中戸村産神に配して異論ある事なしこれに從ふへし
然るに正徳享保の頃 其社の神官山部廣身なる者狡點なる性にて都波岐神社の紛転なるを幸とし中戸社に合併奉祀する所として ー殿を二扉に作り 一宮記に都波岐は木国の一宮と記せりとて 其社をー宮と誇言し奈加等の神を却て客の如くす 三國地志に奈加等社 今 都波岐社を混合して 一宮の偽記を著すと駁論せるか如し宜く糺しすへきか小川神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに考證には南川村歟とあるを 案内記に南若松村春日社に配す社西三町許に小川と字する田と川とあるを以てするにやあらむ 其社の棟札に藤原春日大明神 慶長十七年二月とあれと 本社たる證なし 其社 南に天明年中小祠を創造して小河神社と稱するあり 明細帳區別帳に本社と稱するは是なり
其小社の棟札云 奉正遷宮小川神社背面に當社大破に至リ春日社ノ相殿ニ座ス事年久シ干時安永三正月作ニ假殿雖ニ斎祭未奉移ニ 其御神霊干時天明六午四月作ニ新神殿奉遷幸とありて舊と春日社と合併して祀るといふ 其以前は里より二丁半餘未方 田畝之中に残て三間に二間半之地今有と明細帳に載たるは 上件に注せる小川と字する邊の事を謂ふなり 慥に舊址の證文もなけれは從かたく 且は後世 私営の小詞を式社とも判定しかたし 然るに又 古屋草紙遺響等に中戸村の封内に小川と云地あり 社亡舊址と謂ふへきかといへるに 其後の宮地記には中戸村より東へ一町計少し森有 殿社一宇坐すといへり 此頃に至て 若王子祠といふ小祠の在たるに牽合せしなり 其祠の棟札に奉遷宮小川大明神 天鈿女命御鎭座所天正四丙子歳三月とあり 其余慶長寬永寶永享保延享の札あり 木も筆跡もー樣にて偽物たる事ー目撃して識らるれは是亦式社と定めむ事難し都波岐神社
祭神
祭日
社格所在 明細帳〔都波岐奈加等〕両神社とあり村社
今按るに 傍注考證再考等には楠村産神 諏訪社に配す是れ諏訪と都波との音通より出たる説にて憑據あるに非す 所在紛転せるを幸として 中戸村神官山部廣眞已か奉祀する社を奈加等神社に配するか 余に都波岐神社も合併してー殿に在とし 一宇の殿に両扉を設け、都波岐は伊勢ノ國ノー宮と一宮記に在るを以て これを主神の如くし 奈加等を中宮とし却て客神の加くす 其造意を逞くして棟札を僞作し両扉内に收む奉遷宮 都波岐大明神 猿田彦命御鎖座所云々 勢州ー宮天正四丙子歳二月と書し 又奉遷宮 奈加等大明神〔天椹野命 中筒男命〕御銀座所云々 中宮天正四丙子歳三月と記せり 其余慶長十ー同十九寛永八同十九正德元享保八寬保三明和四等の札 両戸内にあり各同手に出たる偽物にて支證とするに足らず 其上 勢州河曲郡中戸村神社記を編述せしめ奈加等神社一座〔中筒男命〕都波岐神社ー座〔猿田彦神〕とす 三國地志に奈加等社 今 都波岐社を混合して一宮の偽記を著すと辨駁せしは確論なり 此挙や正德より明和頃まてに所作せしなりけむ 然か故に按内記以降ノ諸書 本社を中戸村に配して偽作を悟らす 往昔國内の一宮とも稱すへき神の他の神殿中に合祀して在なむや憶はさるの甚しきなり されは中戸の都波岐は信受しかたし
依て 更に考るに三國地志云 都波岐神社 南長太村字老翁山の地是にして 長太は狹長田の略 猿田彦命御鎭坐の地なりと云ふと載す 但南長太は北長太に作るへし 老翁山は北長太村の属邑 小路(ヲホチ)なる小路山といふ小丘陵を謂ふなり
老翁殿ー宮記云 伊勢國川曲郡海部郷長太邑 老翁殿ー宮津萩神社 津波岐神社 両用に謂之田の中に一つの在古墳 櫻木を神木として小木ノ森も少し有り 神殿は無し 則田圃之字爾 今長田の神樹と唱 今土民唱ふるは ながたのをじやま殿と云 古墳を山と見てをしやま殿と云なりと載す 是即ち舊 都波岐神社の在たる舊址を謂ふなり 當今の形容は北長太ノ地方小路村の西神ノ木 と字する田圃の東方に南北長さ三間許弘五尺許高四尺許に鋤遺して樹木はある事なし 併里民は口碑に傳て 津萩神社の舊地と云へり 然て其神社を遷移せし事は 長太村神社記に永正十酉二月吉辰 大木神社神ノ木より日天の宮 八王子今ノ宮地に奉遷宮とあり 大木とあるは小路(ヲオヂ)の誤にて 此時神ノ木の小路山より産神八王子社に合併せしなり 仍て今 其社の調度或は灯範等にも必す八王子津萩大明神と二座の號を記し 殿内の神霊も二座在て 八王子は石津萩は男體の木像なり 是を以て 本社都波岐神は舊と北長太村の小路山に在りたるを永正十年二月に其社地より四十間許南なる小路の産神八王子社に合祭せりと判決すへきか 必るを小路を大木と訛て式社の大木神社をここに牽合し棟札に入墨し額字を偽作なとして大木に紛混せむとすらは妄説なり 宜く糺明すへきか
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇三重縣 伊勢國 河藝郡一ノ宮村大字中戸
縣社 都波岐(ツバキノ)神社
奈加等(ナカトノ)神社祭神 猿田彦大神(都波岐)
祭神 中筒之男命 天椹野命(奈加等)両社の草創は大泊瀬幼武(オホハツセワカタケ)天皇(雄略)の二十三年春三月也と云ふ、
神名帳考証に、都波岐(ツハキノ)神社、「楠村社歟、猿田彦命、伊勢地主神也、奈加等(ナカトノ)神社、今高岡東有ニ中戸社、天椹野命とあり、共に式の小社に列し、奄藝郡〔明治廿九年奄藝河曲を合して河藝とす〕十三座の中に列す、
和名鈔に云く、「中跡〔奈加止〕、」
舊事紀に云く、「天椹野命、中跡直等祖、」
神社覈録、奈加等は仮字也、祭神天椹野命、中戸村に在す、郁波岐は假字也、祭神猿田彦大神、中戸村奈加等神社相殿に在す今当社を主とす。当國一宮也」と云ひ、
尚考証に、「楠村産社此乎、」と云へるは非也、抑一宮とも称する神の、中古より廃れて相殿に在すといふいといぶかし、されど一宮記に、河曲郡云々とあれば、しばらく是に從ふ、然て鈴鹿郡椿大神社をも一宮と云ひ、此社は神位有りて、今に歴然としたり、此等一宮記に疑ひある一つ也」と附記せり、
神名帳考証再考に、奈加等(ナカトノ)神社、和名抄に中跡〔奈加止〕郷名也、神戸ノ長二十丁に中戸村ありて、有社と云ふ、
舊事紀曰、天椹野命、中跡直等祖、此中跡直は、此地より出たる氏姓にて、天椹野命を祀るなり、都波岐(ツバキノ)神杜、考証に云、今曰 楠村ノ産社是歟、今属ニ三重郡也と、其社地末考といへども、神鳳抄三重郡の下、椿ノ御園〔廿二町七郷〕とあれば、建久の頃より、此神社の地三重郡に属せり、此御園は、鈴鹿郡の椿ノ神田と同時に置れたれば、彼神田の神猿田彦をこゝに勧請し来りたる故、御園をも、椿といふなり、」と云へり、
又神祇志料によれば、「奈加等神社、今中戸村にあり、蓋中跡直祖天椹野命を祀る、都波岐神社、今北長太村八王子祠の相殿に合祭る、津萩大明神是也、按旧址は、八王子祠の北四十間許畑中なる小路塚にあり、小路或は老翁大木に作るは誤れり」と見え、
大日本地名辞書に云く、「一宮(イチノミヤ)、中戸の椿岳(ツバキダケ)の麓に在り、即奈加等神也、式内都渡岐神を合祀す、一宮と云ふは一郡の最たる意ならん、」
又云く、今一宮村大字中戸あり、長太(ナゴ)の西に接す、延喜式奈加等神社あり」といへり
尚社傳によれば、古来二社同殿に斎き奉り、殊に都波岐神社は一宮の故を以て、古來朝家の崇敬淺からす、特に大宮司の官を置かれ、永く摂政鷹司公爵家の執奏を受けつゝありし社頭なりしが、明治六年村社に列せられ、同三十六年三月二十七日縣社に昇格す。社殿は本殿、拝殿の二宇にして、境内坪数八百坪(官有地第一種)あり、古松老杉蒼鬱として社を囲み、実に幽邃の神境たり。
境内神社 小川神社 神明春日社
【原文参照】