豊功神社(とよことじんじゃ)は 神話伝説の島として知られる゛満珠・干珠島゛の2島を展望する絶景の宮崎の地に鎮座します 元々は 忌宮神社の境内にあった゛豊功社〈長府藩初代藩主毛利秀元以下を祀る〉゛をここに遷し 祀られていた串崎若宮〈櫛崎八幡宮〉・宮崎八幡宮・松崎八幡宮を〈大正6年(1917)6月〉合祀して 社号を豊功神社と改称したものです
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
豊功神社(Toyokoto shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
山口県下関市長府宮崎町4-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《中殿》豊功大明神 (文武両道の神様)
・穂田元清(ほいだ もときよ)〈毛利元就の四男〉
・毛利秀元(ヒデモト)・毛利光広(ミツヒロ)・毛利綱元(ツナモト)
・毛利元朝(モトトモ)・毛利元矩(モトノリ)・毛利匡廣(マサヒロ)
・毛利師就(モロナリ)・毛利匡敬(マサヨシ)・毛利匡満(マサミツ)
・毛利匡房(マサフサ)・毛利元義(モトヨシ)・毛利元運(モトモチ)
・毛利元周(モトカネ)・毛利元敏(モトトシ)
《左殿》櫛崎八幡大神(開運発展の神様)
《右殿》大国主大神(医薬縁結びの神様)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・旧縣社
・元 忌宮神社境内社
【創 建 (Beginning of history)】
旧県社 豊功(とよこと)神社 由緒
この宮崎の地には古くから串崎若宮(櫛崎八幡宮ともいう)が祀られていました。
慶長七年(一六〇二年)毛利秀元が当地に城を構えるにあたり、毛利氏守護神宮崎八幡宮を安芸国より勧請して中殿に祀り、左殿に櫛崎八幡宮を移し、右殿に高良大明神を祀って宮崎八幡宮と称し、毛利光広の時に松崎八幡宮と改称しました。
天保五年(ー八三四)毛利秀元の霊祠に豊功大明神の称号が許され、慶応二年(ー八六六)豊功霊神をはじめとする霊社が忌宮神社境内に創建されて豊功社と改称した。さらに大正六年(ー九一七)六月には松崎八幡宮と合祀することとなり、現在地に移遷しました。昭和四十四年(ー九六九)火災により社殿が消失したため城郭造りの拝殿と仮本殿が造営され平成十二年御祭神長府開藩四百年・没後三百五十年 翌十三年は豊功神社御創建八十五年式祭を迎えることとなり 本殿御造営を始めとする記念事業を計画、十三年十一月めでたく御祭神ゆかりの津軽檜葉を用いた神明造りの御本殿が完成し盛大な式年大祭挙行されました。
境内は満珠•干珠の二島(国の天然記念物に指定)を展望する絶景地で、神域公園として参拝者にその景観を提供している。
特に元旦は初日を拝む人々で賑わい、氏子崇敬者の憩いの場であるとともに青少年の一大教化活動の場としても活用されている。御祭神
左殿 櫛崎八幡大神(開運発展の神様)
中殿 豊功大明神 (文武両道の神様)
右殿 大国主大神(医薬縁結びの神様)境内社
龍 神 社(一千年前より奉祀)
串崎稲荷神社(商売繁盛の御神徳高し)
七 福 神 社(除災招福の神)
秋 葉 社(火除けの御神徳高し)現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
豊功神社は 神話伝説の島として知られる満珠・干珠の2島を展望する絶景の此の地に鎮座する旧県社で、祭神は応神天皇・武内宿祢・穂田元清・毛利秀元をはじめ長府藩歴代の藩公を祀る。
古くより櫛崎八幡宮の鎮座地であることが文書にも見えるが、慶長7年(1602)秀元公が当地に城を構えるにあたり、毛利氏の守護神宮崎八幡宮を安芸国より勧請して中殿に祀り左に櫛崎八幡宮を遷し、右に高良大明神を祀って宮崎八幡宮と称し、のちに松崎八幡宮と改称した。
天保5年(1834)毛利秀元公の霊祠に豊功大明神の称号が許され、慶応2年(1866)豊功霊神をはじめとする霊社が忌宮神社境内に創建されて豊神社と名づけられ、明治10年豊功神社と改称。
大正6年松崎神社と合祀し此の地に移遷。昭和44年火災により社殿焼失す。昭和57年8月より境内の環境整備を進め境内社、大国神社・串崎稲荷社・秋葉社を建立。
昭和61年本殿を再建し中殿に豊功神社、左に松崎八幡宮、右に大国神社を祀る。海岸一帯を展望台小公園としてその景観を提供。元旦は初日の出を拝む人々で賑わい、野外活動の場として知られつつある。付近には史蹟も多く串崎城跡、毛利藩校(現豊浦高校)、毛利水軍々船修理ドック跡など歴史の町長府の古いおもかげを偲ぶことができる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・串崎稲荷神社
《主》倉稲魂命
串崎稲荷神社由緒
場内「長府毛利藩邸」にあった御社を現在地に鎮座したもので、宇迦御魂大神を、王祭として稲荷大明神と称奉る。
例祭は二月初午の頃斎行神賑はどんど焼を行う。現地立札より
・秋葉社《主》火之迦具土大神
・長府藩報国隊顕彰之碑
元治元年(一八六四)八月、京都禁門の変に敗退した長州藩に対し、幕府は征長令を下した。幕府に恭順の萩本藩俗論党政府から、圧迫を受け解隊を迫られた奇兵隊を中心とする諸隊は、同年十一月、五卿を護衛し長府功山寺に入った。
元治元年十一月二十三日、風雲急を告げる時勢に奮起した長府藩の青年藩士、熊野直介、福原和勝ら二十名が、豊功神社前において、決死報国の盟約を結び、八十六名の加盟を得た。
慶応元年(一八六五)一月一八日、同有志数十人が豊功社に参拝、国家安全を祈り、報国隊組織上申書を作成し藩主に提出、同年二月十四日、報国隊の設立が許可された。奇兵隊に準じ、武士以外の者も入隊を許し結成された報国隊は、小倉戦争および北越戦争に従軍、特に北越戦争には四百五人が出陣、百五十余日にわたる戦争中、五十七回の激戦に戦功を立て官軍を勝利にみちびき、明治維新の鴻業に偉大な足跡を残した。
下関市立長府図書館 館長 中原郁生 撰文
現地石碑文より
・茶筅塚(ちゃせんつか)
〈題字の揮毫 安倍洋子さんは 元内閣総理大臣・岸信介さんの長女 安倍晋太郎さんの妻 元内閣総理大臣・安倍晋三さんの母〉
・龍神社
龍神社由来
豊浦の海は、古来龍宮界との窓口になっている海域として知られています。
神功皇后様もこの海で住吉三神から潮満、潮干二宝珠を授かり大陸から凱旋しました。
それが眼前の満珠、干珠の二神島です。
当社は、その龍宮のお使いである龍の御神徳を仰ぎ千年前より地元を始め遠近の人々に奉斎されております。正に豊功神社境内は龍宮に向って開かれた神域として、龍神の水徳発揚の聖域と申せましょう。
どうぞお参り下さい。例祭日三月縁日現地立札より
・七福神社・祈願の鐘
・七福神社
〈恵比須大神・大国天大神・弁財天大神・寿老人大神・布袋大神・福禄寿大神・毘沙門天大神〉
・七福神 龍神船の像
此の像の背方向の満珠・干珠神の二島の浮かぶ豊浦湾は古来龍宮世界につながる聖なる海としていろいろな神話や伝説に富んでいます
当神社の境内にも太古より龍神が祭られ今に龍神社として崇められております
此の像はまさしく寿・福・富をもたらす七福神が宝船ならぬ龍神船に同乗して龍宮の神都に向かうめでたい瑞祥を形象して七福神に献納されました崇敬の皆様方に七福の瑞祥あらたかならんことを祈念致します
・祈願の鐘
祈願の鐘の由来
古来神道では音霊(おとたま)信仰と申しまして、清らかな音には神様の力が現れるとされ、祈念をこめた音(笛、太鼓、鐘)により邪気悪霊を祓い清めて福を招くと信じられております。
満珠干珠の二つの神の島を眼前にこの清浄な鐘の音を響かせて無病息災・家内安全・学業成就・交通案内等を御祈願致しましょう。
現地立札より
・櫛崎城址
櫛崎城址石垣 長府宮崎町
櫛崎城(串崎城とも書く)は遠く天慶三年(九四〇)西海に勢力をふるった藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが 確かな記録はなく 一応大内氏の重臣 内藤左衛門太夫隆春が築城したものとされている
後 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦において豊臣方に荷担した毛利氏は 防長二州に減封され これにともなって 山口に居を構えていた毛利秀元公が長府藩五万石の支藩としてこれを再築し入城 爾来 雄山(かつやま)城と称した元和元年(一六一五)に徳川幕府の定めた一国一城の令によってとりこわされ 隣接する県立豊浦高等学校の敷地に居館を置いた 当時の城郭図巻によると松崎口 浜之坂口三軒屋口に櫓建てがあり 現在櫛崎城址の石碑が建てられているあたりが 松崎口で大手門二重櫓の跡とみられている
平成五年三月 長府観光協会
現地石碑文より
・満珠干珠展望台
・〈看板〉年間の日の出位置
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)
〈忌宮神社の飛び地境内〉〈国の天然記念物〉
伝説によれば
神功皇后が 龍神〈住吉大神の化身〉から授けられた二つの玉〈潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)〉から生まれた島と云う
また 彦火火出見尊が 海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたとも云う
〈忌宮神社の飛び地境内 禁足地 島に渡ることはできません〉
国指定天然記念物
満珠樹林(まんじゅじゅりん)・干珠樹林(かんじゅじゅりん)大正十五年十月二十日指定
ここから東に約一.二km、及び三、〇km沖合の周防灘には「満珠」「干珠」の二つの島が浮かびます。この二つの島は古来より様々な呼び名と伝承を持つ島として知られています。古くは日本書紀に「興津島(おきつしま)」「平津島(ひらつしま)」とあり、神功皇后伝説が島名の由来となっています。また関門海峡を舞台とした源平合戦の物語にも登場します。この両島は古くより忌宮神社の飛地境内として禁足地であり、現在も立ち入りが制限されています。そのため、島内の植物が荒らされることなく、原生樹林の植生を今に残しています。
「満珠」と「干珠」の島名については、本文を含め国の天然記念物の説明では沖側の島を「干珠」、陸側の島を「満珠」としていますが、国土地理院の地図や忌宮神社の古絵図では逆になっており、現在では両説が存在します。
両島とも様々な植生が見られますが、特に瀬戸内海にありながらヤブニッケイなどの高木や、ヤブツバキやハマビワ、イヌビワなどの亜高木、ホソバカナワラビなどの草本といった暖地性の植物群がみられることが特徴です。
ただし、昨今は自然環境の変化からテイカカズラなどのツル性植物が優勢となってきているようです。干珠樹林では、ナタオレノキやハマセンダン、バクチノキなどの巨樹なども存在し、またスタジイ群叢が認められる、うっそうとした原生林の様相を呈しています。また、満珠樹林はムクノキなどの落葉樹とカクレミノやムベなどの常緑樹とが混在したやや背の低い原始林で、特にヤブツバキが顕著に存在する植物群落を形成しています。これらの植物樹林の貴重性が認められ、国では大正十五年(一九二六)に両島を天然記念物として指定しています。また併せてその自然景観の傑出性から満珠、干珠一帯は「瀬戸内海国立公園」としても指定されています。
下関教育委員会
現地案内板より
・忌宮神社(下関市長府宮の内町)長門国二之宮
満珠島・干珠島は 忌宮神社の飛び地境内です
豊功神社(とよことじんじゃ)は 元々は 忌宮神社の境内にあった゛豊功社〈長府藩初代藩主毛利秀元以下を祀る〉゛を ここに遷し社号を豊功神社と改称したものです
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
由緒
豊功神社は 神話伝説の島として知られる満珠・干珠の2島を展望する絶景の此の地に鎮座する旧県社で、祭神は応神天皇・武内宿祢・穂田元清・毛利秀元をはじめ長府藩歴代の藩公を祀る。
古くより櫛崎八幡宮の鎮座地であることが文書にも見えるが、慶長7年(1602)秀元公が当地に城を構えるにあたり、毛利氏の守護神宮崎八幡宮を安芸国より勧請して中殿に祀り左に櫛崎八幡宮を遷し、右に高良大明神を祀って宮崎八幡宮と称し、のちに松崎八幡宮と改称した。
天保5年(1834)毛利秀元公の霊祠に豊功大明神の称号が許され、慶応2年(1866)豊功霊神をはじめとする霊社が忌宮神社境内に創建されて豊神社と名づけられ、明治10年豊功神社と改称。
大正6年松崎神社と合祀し此の地に移遷。
干珠満珠物語 〈下関市長府〉
下関市長府に、神功皇后が、竜神から満珠(ふると潮が満ちる)と干珠(ふると潮が引く)の二つの球を借り受けたという伝説がある。
「(前略)そのちょうど満願の日のことであった。それまでは、おぼろ月のしたに静まりかえっていた瀬戸の山々がにわかにどよみ、潮鳴りがして潮の流れは たけり狂いはじめたのである。
と、その音にまじって、
「皇后さま、皇后さま、わたしはこの瀬戸にすむ住吉神宮の化身(けしん)でござりまする」 と呼ぶ声が、皇后の耳に聞えてきた。みると、うっすらかすんだ海の上に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていられるのである。( 中略 )
そこで皇后は、この海岸にすむ安曇の磯良という若者を召されて、龍神のもとへ使わされ、二つの珠をかりうけてこさせられたのであった。
その二つの珠というのは、敵軍が大勢せめよせてくれば、満珠をふると、たちまちのうちに潮が満ちて敵兵はおぼれ、敵が軍船をしたててくれば、干珠をふると、たちまち潮はかれて陸となり、軍船はものの役にもたたなくなるという、まこと不思議な珠なのであった。(後略)」
『ふるさと叢書Ⅱ 周防長門の伝説』 松岡利夫 山口県教育会 1976
〈山口県内の災害伝承 3(伝説・昔話、ことわざ)より抜粋〉
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
地元の伝説によれば
〈神功皇后が 龍神〈住吉大神の化身〉から授けられた二つの玉〈潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)〉から生まれた島と云う〉三韓征伐後に この二つの玉を海に還したところ 満珠島・干珠島が現れたとしています
『日本書紀』には゛皇后は如意玉(ニョイノタマ)を海中から得た゛゛宮室(ミヤ)を穴門(アナト)に興されて 穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)〈現 忌宮神社〉゛としたことが記されています
『日本書紀』に記される゛皇后は如意玉(ニョイノタマ)を海中から得た゛とは 地元の伝説 神功皇后が 龍神〈住吉大神の化身〉から授けられた二つの玉〈潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)〉「満珠」と「干珠」の二つの神島とされます
【抜粋意訳】
日本書紀 第八 足仲彦(タラシナカツヒコノ)天皇〈仲哀天皇〉
〈即位二年〉三月癸丑朔丁卯〈三月十五日〉
天皇は南国を巡狩(メグリミソナハ)〈巡幸〉され 皇后と百寮(ツカサツカサ)〈官僚〉を留めおかれ 駕に従っている二〜三人の卿大夫(マヘツキミタチ)〈家臣〉と官人(ツカサツカサ)数百人とで 軽やかに出かけられた
紀伊国(キノクニ)に到着し 德勒津宮(トコロツノミヤ)に滞在したこの時 熊襲が叛(ソム)いて朝貢を奉らなかった 天皇はそれで熊襲国を討とうとされ すぐに德勒津(トコロツ)を発って 浮海(ミフネ)して穴門(アナト)に行かれた その日に使いを角鹿(ツヌガ)〈敦賀〉に遣わし 皇后に詔した
「すぐに その津〈港〉から発(タ)て 穴門で逢(アウ)たまへ」〈即位二年〉夏六月辛巳朔庚寅〈夏六月十日〉
天皇は 豊浦津(トユラノツ)に泊まられた
また 皇后は 角鹿(ツヌガ)から発して 濘田門(ヌタノミナト)に着き 船上(ミフネ)で食事をされた
その時 海鯽魚(タイ)が 船の傍に多く集まった 皇后は 酒を鯽魚(タイ)に注がれました 鯽魚はすぐに酒に酔って浮かびました
その時 海人(アマ)は 沢山のその魚を得て喜んで言った
「聖王(ヒジリノキミ)からたまわった所の魚です」それで その土地の魚は 六月になるといつも 口をパクパクと動かして酔ったようになる それはこれが由縁です
〈即位二年〉秋七月辛亥朔乙卯〈秋七月五日〉
皇后は 豊浦津に泊まられた
この日 皇后は如意玉(ニョイノタマ)を海中から得ました〈即位二年〉九月
宮室(ミヤ)を穴門(アナト)に興されて居住された
これを 穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)という
【原文参照】
浮鯛神社(三原市幸崎能地)について
上記『日本書紀』に記される
゛皇后は 角鹿(ツヌガ)から発して 濘田門(ヌタノミナト)に着き 船上(ミフネ)で食事をされた
その時 海鯽魚(タイ)が 船の傍に多く集まった 皇后は 酒を鯽魚(タイ)に注がれました 鯽魚はすぐに酒に酔って浮かびました゛
この地が 現在の浮鯛神社(三原市幸崎能地)と伝承されています
・浮鯛神社(三原市幸崎能地)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山陰本線 長府駅から R9号を南下 約3.9km 車10分程度
R9号を左折〈東へ〉山口県立豊浦高等学校とグラウンドの間を走る道を進む
参道の入り口には 右手に゛櫛崎城址゛があり 櫛崎の高台へと上がって行きます
参道は途中で90度左に折れていて その場所には゛日本一の初日の出゛との看板があります
坂の上には鳥居が建ちます
豊功神社(下関市長府宮崎町)に参着
参道の脇から゛満珠干珠゛が見えました
駐車場には 忌宮神社と同じく 鶏が放し飼いとなっています
一礼をして 二の鳥居をくぐります
広々とした境内にでます 正面に゛社殿゛ 向かって正面左手は゛串崎稲荷神社゛ 向かって右手には゛七福神社゛
更に右手〈東〉には瀬戸内海が広がりひ゛満珠干珠゛を見下ろせます
境内の向かって左手には゛龍神社゛が祀られています
拝殿にすすみます
御神紋は 毛利氏の家紋゛一文字に三つ星゛
拝殿 左右の壁に掲げられている画碑
゛長府藩祖毛利秀元公の尊影゛
゛御遷座85年祭に出現の龍神像゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内には゛満珠干珠展望台゛があり実に良く゛満珠干珠゛が見えます
ここから 対岸に見えるのは 九州 岬の先端は
僧清虚火焚場跡のある部埼です
社殿に一礼をします
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
豊功神社(下関市長府宮崎町)が 忌宮神社の境内の一隅に在った頃に 記されています
【抜粋意訳】
山口縣 長門國豊浦郡長府村大字豊浦
縣社 豊功(ホウコウ)神社
祭神
毛利秀元(ヒデモト)毛利光広(ミツヒロ)毛利綱元(ツナモト)
毛利元朝(モトトモ)毛利元矩(モトノリ)毛利匡廣(マサヒロ)
毛利師就(モロナリ)毛利匡敬(マサヨシ)毛利匡満(マサミツ)
毛利匡房(マサフサ)毛利元義(モトヨシ)毛利元運(モトモチ)
毛利元周(モトカネ)〈毛利元敏(モトトシ)〉明治十年九月創建、元豊浦藩主 毛利元敏の祖先なり、明治十六年六月縣社に列せらる、毛利秀元卿は毛利元就公の五男 穂井田備中守元清卿の子にして、養われて輝元卿の子となり、天正十八年従四位下に敍せられ、左京太夫に任ぜらる、
其の後正三位参議に進み、慶長二年二十萬石を分封せらる、同五年関原の役に石田三成に興して封を殺がれ、僅に豊東、豊西、豊田の三郡を有し、五萬石を食む、府中に居り豊浦に移る、慶安三年十月卒す、年七十二、同年嫡子光廣嗣ぎて和泉守となり、國持格に準ぜらる、以下相嗣ぎて元矩に至り、封を除かる、族匡廣入りて継ぐ、寛延四年宗家の嗣絶えしかば、匡敬入りて之を襲ぎ、家を子匡満に譲る、以下相継ぎて、維新に及べり、本社は忌宮神社の境内の一隅に在り。
社殿は本殿、拝殿、詰所等を具備し、境内地百餘坪あり。境内神社
稲荷神社 粟島神社 五十鈴神社 多賀神社 菅原神社 大歳神社 厳島神社
【原文参照】
豊功神社(下関市長府宮崎町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)