天神社(てんじんしゃ)は 現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で 太古は鳴海潟の波打ち際でした 日本武尊が この地にお立ちになり 対岸の火高丘陵(現 大高)の尾張氏館の宮簀媛命のもとへと渡られた地であり 是を由縁とし 天武天皇 朱鳥元年(686)尊の御東征を翼賛した尾張氏祖〈宮簀媛命・建稻種命〉を祀り この所に創建された〈成海神社創祠の地〉
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天神社(Tenjinsha)〈成海神社創祠の地〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
愛知県名古屋市緑区鳴海町字城二八番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
《配》宮簀媛命(みやすひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
※江戸時代は「天神」と称し 現在は 成海神社のお旅所
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の創祠の地
・〈成海神社創祠の地〉
【創 建 (Beginning of history)】
成海神社 旧祠 天神社由緒
古事記に景行天皇四十年 皇子 日本武尊東夷を征すとあるが、その節 鳴海浦のこの地にお立ちになった尊は 対岸の火高(現 大高)丘陵の尾張氏館を望見して
鳴海浦を見やれば遠し火高地に この夕潮に渡らへむかも
とお詠みになった事が熱田神宮寛平縁起に見える
鳴海神社は是を由縁として 天武天皇 朱鳥元年 尊とその御東征を翼賛した尾張氏祖とを併せ祀って この所に創建されたのである
延喜五年制定の律令書「延喜式神名帳」には 尾張国愛知郡 成海神社と登録せられ 文治二年の「尾張国内神名帳」には 従三位上 成海天神と称えられて 此所に鎮座 東海道古名社と尊ばれた
戦国時代当初 応永年中 足利氏武将 安原宗範この地に築城のため成海神社を乙字山の現在地に奉遷
その後 永禄三年 桶狭間合戦の際 この城は今川氏の重要拠点となったが 天正年間 織田信長により廃城され 後世「鳴海城址」として史蹟に指定された
城の鎮守として斎かれた天神祠は そのままこの地に遺り 世俗 成海神社御旅所と称え 祭礼の日 古例に則り御神幸あり 崖下 扇川畔にて御東征の遺意を伝える「御船流神事」が斉行せられる
平成二年十一月
社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
鳴海神社 由緒
天武天皇の朱鳥元年(689)熱田神宮 神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀と伝えられています。 是は社伝「成海神社古実聞書」(元禄14年~延享4)神主 牧野播磨守英治筆録のみでなく、奈良朝末期 天応元年(781)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第本記」に成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神と見えることでも肯けます。
ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所で その東征のとき尾張国の長官であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました 寛平2年(890)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので 成海神社は 是を縁起としてその故地に創祀された。 その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成って室町初期、応永の時代(約596年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当って、今の乙子山の地にご遷座したもので 現在では当社の御旅所として、礼祭日には神輿渡御で巡幸し その折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を齋行する。 当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依る縁由で 旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・天神社の祠・鳴海神社御旅所の石碑
・史跡 鳴海城趾〈石碑〉
鳴海城跡
根古屋城ともいい、応永年中(一三九四~)安原宗範の築城といわれる。
永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将 岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもつて奮戦した。 その後、佐久間信盛、正勝らが城主となつたが、天正十八年(一五九〇)廃城となつたと伝えられる。
『尾張志』は東西七五間、南北三四間で四面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。
名古屋市教育委員会
現地案内板より
・鳥居
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・御舩流神事 10月第2日曜
〈日本武尊が鳴海浦へ船出した故事を祝詞に奏し 木片一片を御舩として扇川に流す御舩流神事が行われます〉
祭礼は 神輿渡御で巡幸する 境外の天神社〈お旅所〉に神幸し その際 扇川の畔に行列を仕立てて参進し 祝詞に奏上の後 御舩板を扇川に流し放つ この時 若者が川に入ってこれを競って拾い 船靈 或は家の守護として崇める習わし 御舩流・御井の神事を齋行します ・御手洗の御井の古蹟などが記されています
成海神社の公式HPより「(祭 礼)神輿渡御神事巡行路図」を参照のこと https://narumi-jinja.or.jp/images/Shinyotogyo-Reiwa6.pdf
現在の鳴海神社については 別記事を参照してください
・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』 奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて) 2.産物 3.土地の肥沃の状態 4.地名の起源 5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本 『出雲国風土記』がほぼ完本 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉 その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」 ・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 17座(大4座・小13座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 成海神社
[ふ り が な ](なるみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Narumi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「尾張氏の祖神」とされる 御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)について
御祭神について 少し詳しく
別名を 建稲種公(たけいなたねのきみ)とも称します
建稲種命は (1900年程昔)2代の天皇(朝廷)〈第12代景行天皇(keiko tenno)と 第13代成務天皇(seimu tenno)〉に仕えたとされ
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征の際は 副将軍として軍を従え 軍功を挙げた神とされます
尾張国内では 熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社などの古社に祀られています
古代豪族の尾張氏について
古代豪族の尾張氏(owari uji)は 『記紀神話』では(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の後裔とされ 名門氏族の「天孫族(tenson zoku)」とも呼ばれています
『姓氏録』や系図史料では 綿津見神(watatsumi no kami)の後裔とされて 皇統譜の古い時期には・第5代孝昭天皇の皇后・第6代孝安天皇の母・第10代崇神天皇の妃など 尾張氏からしばしば后妃を輩出しています
建稲種命(take inatane no mikoto)は 初代の尾張国造(owari kuni no miyatsuko)となった乎止与命(otoyo no mikoto)の御子です 建稲種命より以降は 尾張氏一族が さらに朝廷への影響力を強めて発展していきます 御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が この礎を築いたとされ 「尾張氏の祖神」と呼ばれていくことになります
御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」を「尾張氏」の家系を順に説明
父は 「初代 尾張国造 乎止与命(otoyo no mikoto)」 (天火明命(ameno hoakari no mikoto)の子孫)
母は「眞敷刀婢命(mashikitobe no mikoto)」 (尾張大印岐(owari no oimiki)の娘)
妹は「宮簀媛(miyazu hime)」 (日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)草薙剣を熱田神宮に奉斎しました)
妃は「玉姫(tama hime) (丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)
※ 玉姫妃(tama hime hi)と 建稲種命の間には 二男四女があったとされ
息子は 尻綱根命(shiritsunane no mikoto) (第15代 応神天皇の大臣)
下娘は「志理都紀斗売(shiritsuki tome)」 (五百城入彦皇子(iokiiribiko no miko=第12代景行天皇 皇子)の妃 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)=第12代景行天皇 孫)の母
下娘は「金田屋野姫命(kanetayane no hime no mikoto)」 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)〈景行天皇の孫 五百城入彦皇子の子〉の妃 第15代応神天皇(ojin tenno)の皇后(kogo)と妃(hi)となる 3人の娘を産む)
建稲種命の 孫娘は
応神天皇 皇后(kogo)「仲姫命(nakatsuhime no mikoto)」 (第16代仁徳天皇(nintoku tenno)の母)
応神天皇 妃(hi) 「高城入姫命(takaki no irihime no mikoto)」
応神天皇 妃(hi) 「弟姫命(otohime no mikoto)」
尾張氏の影響力は 大和朝廷の中枢に位置するようになっていきます
「名古屋市博物館 企画展 尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」より http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji120428.htmlより画像
御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 「尾張水軍」の大将軍です
日本武尊の東征では 副将軍であった〈建稲種命〉
第12代景行天皇(keiko tenno)が 皇子の日本武尊(yamatotakeru no mikoto)に東国平定を命じました時 尾張国造(owari kuni no miyatsuko)の子である建稲種命(take inatane no mikoto)は 副将軍として東征に向かって 武功を挙げた神です
尾張氏(owari uji)の御曹司 (onzoshi)が なぜ副将軍なのかと言えば 尾張氏(owari uji)は 強大な尾張水軍を有して 伊勢湾一帯の中部日本地域を支配していたからです
羽豆神社が鎮座する 知多半島の先端 羽豆岬(hazu misaki)は 古代より 水軍の見張所が築かれるなど 伊勢湾の海上交通路の要衝であり 東征の折には 水軍の出発地点にもなったのであろうと推測されています
中世になっても ここは城が築かれていました 14世紀初 元亨年間の南北朝時代 熱田神宮の大宮司「千秋昌能(senshu masayoshi)」は 後醍醐(godaigo)天皇の建武(kemmu)の新政で側近であり 武者所(mushadokoro)結番(kechiban)となって 知多半島の波豆(hazu)城をおさえて再築したとあります ここを確保することは 吉野(yoshino)・伊勢(ise)と 東国をむすぶ海上交通路の要衝を抑えることとなり 重要な戦略拠点と伝わる「羽豆(hazu)城跡の石碑」もあります この海上の要衝を基地として 強大な尾張水軍を 統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の率いる 皇軍を勝利に導いたのが「建稲種命(take inatane no mikoto)」です
妹の「宮簀媛」は 草薙剣を熱田神宮に奉斎した 日本武尊の妃
妹の「宮簀媛(miyazu hime)」は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)となり 草薙剣を熱田神宮に奉斎しました
建稲種命の訃報
しかし 建稲種命の尾張水軍が東海道沿いに 東征の帰途についた折 駿河の海にさしかかり めずらしい海鳥を見つけたので 日本武尊(yamato takeru no mikoto)に献上しようと思われて 捕まえようとされて 駿河の海で命を落とされた 或いは 駿河の海で 船が難破されて 命を落とされた と伝わります
この時 日本武尊は 中山道経由で 東征の帰路 尾張にはいり篠城に到着し て内津の坂をくだられる頃 副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が 建稲種命が駿河の海に落ち水死された と早馬をもって報告した
この知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われ その霊をまつられたのが内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという 現在の「内々神社(うつつじんじゃ)」になります
伝承により 2つの「はずじんじゃ」があります 「羽豆神社(hazu shrine)」「幡頭神社(hazu shrine)」
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」ですが
その遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られたのが 「幡頭神社(hazu shrine)」(吉良町) 延喜式内社(参河國 播豆郡 羽豆神社)
・幡頭神社(西尾市吉良町)
その衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされたのが 「羽豆神社(hazu shrine)」(師崎)当社 延喜式内社(尾張國 知多郡 羽豆神社)
・羽豆神社(知多郡南知多町)
にそれぞれ祀られています
御祭神が 成海から強大な尾張水軍を統率し 勝利に導いた将軍ですので 「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」とされて「羽豆(幡頭hazu)」と呼ばれると言われています
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御祭神 建稻種命とかかわる式内社について
御祭神 建稲種命は「尾張氏の祖神」とされ 古代豪族の尾張氏と関係ある古社に祀られています
延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子神社(ほのかみあねこの かみのやしろ)
尾張国造城館の所在地とされる「火高(現在の大高)」の地
日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山) 〈熱田神宮の境外別宮〉
・氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山) 〈氷上姉子神社の元宮〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)
東征から帰還の日本武尊は 鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったと伝わります
「火高(現在の大高)」とは 尾張国造城館の所在地 日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)
・天神社(名古屋市緑区鳴海町) 〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
延喜式内社 尾張國 知多郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされた
・羽豆神社(知多郡南知多町)
延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られた所
・幡頭神社(西尾市吉良町)
延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)
建稲種命が 駿河の海に落ち水死された との知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われる地
その霊をまつられたのが 内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという
・内々神社(春日井市内津町字上町)
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 熱田神社(名神大)(あつたの かみのやしろ)
日本武尊に従い 副将軍として 東国の平定に赴きその帰途亡くなられた 尾張地方繁栄の礎を築いた神とされて 祀られています
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
延喜式内社 尾張國 山田郡 尾張戸神社(をはりへの かみのやしろ)
宮簀媛命の勧請と伝える古社
・尾張戸神社(瀬戸市十軒町)
・八幡社(小牧市大字上末字新田)
延喜式内社 尾張國 丹羽郡 針綱神社(はりつなの かみのやしろ)
尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を主祭神として 建稲種命・玉姫命・大荒田命・尻調根命(尾綱根命)健多乎利(たけだおり)命〈建稲種命の祖父 他を祀っています
・犬山城天守台付近(犬山市大字犬山字北古券) 〈針綱神社の旧鎮座地〉
・針綱神社(犬山市大字犬山字北古券) 〈天文6年(1537)犬山城の築城により遷座〉
・立野神社(犬山市大字上野字郷)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄名古屋本線 鳴海駅から北へ扇川を渡り旧東海道を過ぎて約350m 徒歩5分程度
天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社創祠の地〉に参着
社頭には ゛鳴海神社創祀 天神社゛との社号標が建ち 由緒書きが掲げられています
石段を上がると 境内は三段になっていて 下の段に鳥居が建ち 中の段は玉垣に囲まれています 上の段には玉垣が廻され天神社の祠が祀られています
中の段へと上がり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします ご神威に添い給うよう願いながら礼
鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして境内を戻ります
写真の遥か下の方に 赤い電車が写っている辺りが鳴海駅で 御舩流神事が斎行される扇川の畔になります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 成海神社について 所在は゛鳴海庄鳴海驛に在す、俗東宮大明神と称す、゛〈現 成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〉〈現 天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉〉と記しています
【抜粋意訳】
成海神社
成海は奈留美と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕成海、〔假字上の如し〕
○祭神 日本武尊、〔社傳〕
○鳴海庄鳴海驛に在す、俗東宮大明神と称す、〔集説、府志〕
社記云、日本武尊 東征之日留止之地也、仍祭に日本武尊也、
神位
國内神名帳云、從三位成海天神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 成海神社について 所在は゛鳴海驛 乙子山にあり、東宮明神と云ふ、゛〈現 成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〉と記しています
【抜粋意訳】
成海神社
今 鳴海驛 乙子山にあり、東宮明神と云ふ、〔国内帳集説、神名帳考証、張州府志、愛智縣神社調、〕
蓋 日本武尊を祭る、昔 日本武尊 東征の時、過させ給ふ所なるを以て也、〔参取熱田縁起、本社社記、〕
凡 六月二十一日祭を行ふ、〔愛智縣神社調、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 成海神社について 所在は゛成海庄鳴海村字乙子山゛〈現 成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〉 旧鎮座地を゛もと今御旅所なる天神山と云地にあり゛〈現 天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉〉と記しています
【抜粋意訳】
成海(ナルミノ)神社
稱 東宮明神
祭神
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやすひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)祭日 六月二十一日 社格 郷社
所在 成海庄鳴海村字乙子山(愛知郡鳴海町)
今按 尾張國式社考に 當社もと今御旅所なる天神山と云地にありしを 應永の頃 今の地にうつせり 昔は社人も三十餘家あり社領も若干ありしを 長祿の頃收公せられしと云り
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛知縣 尾張國 愛知郡鳴海町字鳴海
郷社 成海(ナルミノ)神社
祭神 日本武尊 宮簀媛命 建稻種命
天武天皇朱鳥元年六月の創祀にかゝる(社記、府志、尾張名所圖繪)、 此地が日本武尊東征の時 須臾止りたまひし所なるを以てなり(神名帳、集説)、 当時 天神山に在り(社記、名勝地志参取)、 醍醐天皇 延喜の制小社に列り(延喜式)、 一に東宮と称するは 熱田神宮の東に在るを以てなり(府志、社記)、 尾張名勝志には 正一位東宮大明神とあり、 又 本国帳には正二位鳴海神社とあり、
後小松天皇 応永年中 安原備中守源宗範 此地に城を築くに当り 今の地に遷す(社記、名勝地志)、 後奈良天皇 弘冶二年 織田信長 社領若干を寄せ、又正親町天皇 天正十七年 山口長次郎の寄せし文書今も存せり(名所圖繪、府志)、
例祭の当日には神輿を舊社地 天神社に遷し、井上に安んずる式あり、 又 木板一片を以て名けて御舟といひ 之を扇川に流す、是れ日本武尊東征の日の龍舸に橡るといふ(府志、社記参取)、 中御門天皇 享保元年九月十一日 正一位に進められ、 明治元年九月 官幣使の参向あり、同五年五月郷社に列し。
社殿は本殿、拝殿、渡殿、籠所、神輿所、社務所、假殿、神札所、祭車蔵等を具備し、境内地壱萬三千二百二十一坪(官有地第一種)あり、 鳴海驛の真北に位せり、当社の西方二鉾の木といふ所に矛掛松といふがあり、昔 日本武尊東征の日 矛を掛けて憩ひたまひし所と云ひ傳ふ、又昔 御手洗の御井とてありしといふ。
【原文参照】