建穂神社(静岡市葵区建穂)〈延喜式内社 建穂神社の論社〉

建穂神社(たきょうじんじゃ)は かつて隣村の服織(はとり)現 静岡市葵区羽鳥(はとり)木枯森(コガラシノモリ)の辺りに 境内を構えていたとされます この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハトリorハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)から発祥しています 駿府の「秦氏(Hata uji)」の拠点であったところです

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

建穂神社Takyo Shrine)
(たきょうじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

馬鳴明神(manari myojin)

【鎮座地 (Location) 

静岡県静岡市葵区建穂271

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》保食神Ukemochi no kami)
   天照大御神Amaterasu sume omikami)

《合》猿田彦命Sarutahiko no mikoto)
   須佐之男命Susanowo no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

当神社の創建は 詳らかでない

建穂神社

祭 神 名 保食神(ウケモチノカミ) 天照大御神
(合祀神) 猿田彦命・須佐之男命

社殿工作物 本殿 9.9平米 拝殿 49.5平米

境内 敷地 6,883平米

氏子 戸数 520戸(平成26年現在)

由 緒
当神社の創建は詳らかでない。
三大実録に「陽成天皇 元慶二年四月己卯授 駿河国正六位上岐都宇命神従五以下」とあるは、この神社といわれる

延喜式神名帳にも載せられ、諸郡神階帳に正五位下 建穂神社とあり

惣国風土記には「建穂神社 所祭 天照大御神 也」とあり
類聚国史には聖武天皇 天平7年 右大臣藤原武智麻呂 御帳田奉納のことが見られる。

又 吾妻鑑にも この神社の神託の事が記され、又 永正3年 比叡山の僧 存海が録した金玉集に、大宰大貳が千本の桜を分けて 当神社に植えしめ、その子 従三位 藤原有家朝臣が和歌を詠んで寄せられた事が書かれている。
室町時代の慕景集にも、太田道真が参拝して幣を奉った事がのせられており、駿河国では屈指の名社であった。

建穂の語源はアイヌ語の「トキウ」で沼葺處の意であるという。

この建穂の開村は極めて古く、開村と共に創祀された当神社も 亦 静岡でも最古に属するものであろうと思われる。

仁徳天皇の御代に帰化した秦氏族が諸都に配置され、和銅年代には駿河国は 全国有数の養蚕地となり、その絹帛の大部分は建穂・羽鳥等に住する服織部(はとりべ)に依って 産出されたのであるが、当神社は養蚕の神馬鳴の神と習合されて 馬鳴大明神と称され服織の信仰を集めた。

天平年間 秦氏の信仰により建立された建穂寺が 建穂神社の別当となり 鎌倉時代には主客が転じて 建穂神社を建穂寺の鎮守とするに至った。
こうして建穂寺は 当神社を中心として堂塔を構えて盛大となり、今川・武田等により幾度か朱印状が贈られた。特に徳川時代に至り、慶長7年12月8日 家康より480石6斗の朱印が建穂寺に与えられ、学頭以外に甘一坊を有した
明治元年 神仏分離の令により仏堂伽藍は一切取除かれて建穂寺は廃寺となり、社僧は復飾して 建穂神社は本来の姿に帰り、明治6年 第5大区4小区の郷社に列せられ、藁科5カ村40部落が郷社区域となった。
大正7年 無社格 白髭神社を合祀し、昭和11年 無社格 八雲神社を合祀した。大正15年 現在の拝殿を建築した。昭和16年 神饌幣帛料供進神社に指定された。
静岡祭 浅間神社 廿日会祭 古式稚児行列の出発式は当神社にて 奉告参拝の神事を行っている。

神職 小梳神社 宮司 森英樹  静岡市神社名鑑 昭和51年発刊

現地案内より

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【由  (history)】

建穂寺と調査の概要

建穂寺は、真言宗(しんごんしゅう)寺院であったが、「神仏混淆(しんぶつこんこう)」の寺であったため建穂神社と建穂寺が同じ境内に存在していた。
中近世には、参道の両側に塔頭(たっちゅう)が20前後立ち並んでおり、浅間神社に引き継がれた稚児舞(ちごまい)が行われていたことでも有名である。
明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で神社が優先され、寺が廃寺となり現在に至っている。建穂寺跡の現状は、丘陵上の観音堂跡と呼ばれている地点と丘陵下の現建穂神社及びその前面の塔頭が存在した地区がある。
塔頭地区は平成10年度に発掘調査が実施され、掘立柱建物や中世の遺物が確認されてている。観音堂地区は、昭和3年刊行の「静岡県史跡名勝天然記念物調査報告第4集」に観音堂跡の礎石や周囲の池跡、堂跡などの配置の図が掲載されていたが、発掘調査は行われていなかった。平成29年度に観音堂跡の発掘調査が初めて行われ、観音堂跡の建物規模などを確認した。今年度の調査では、観音堂の周囲にかつてあったが、現在は現地でその存在や位置などが分からなくなっている池跡や堂跡の位置などが確認されている。もともと観音堂にあった不動明王立像(静岡県指定文化財)をはじめとする仏像群は、明治初年の廃仏毀釈や火災を免れ、現観音堂に納められ、地元の人々により大切に守られている

静岡市役所HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

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※『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』 によれば 荒神(クワウジン)社 庚申(カウシン)社

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安倍郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 建穂神社
[ふ り が な ] (たけほの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takehono kamino yashiro)

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「秦氏(Hata uji)」「服織(hatori)木枯森(kogarashi no mori)」について

秦氏(Hata uji)の氏寺とれる「建穂寺(Takyo ji)」(現在は廃寺)も 式内社「駿河国 安倍郡 建穂神社(Takyo Shrine)」も 住所は「建穂(Takyo)」です
しかし 建穂神社(Takyo Shrine)は かつて隣村の「服織(hatori)(現 静岡市葵区羽鳥(hatori)」の「木枯森(コガラシノモリ)」の辺りに 境内を構えていたとされます
この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)が開拓した地域から発祥しています

木枯森(コガラシノモリ)は 建穂神社(Takyo Shrine)の前から参道をまっすぐ南下した所にあります
さらに
「秦氏(Hata uji)」の本拠地である 現在の京都市右京区太秦(ウズマサ)に かつて(平安期までは)あった森も「木枯森(コガラシノモリ)」とよばれていたらしく 清少納言(セイショウナゴン)が『枕草子(マクラノソウシ)』の中で「森はこがらしの森」とたたえている地ですが 静岡・羽鳥説や京都・太秦説など諸説あるようです

京都・太秦(ウズマサ)には『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)所載社「大酒神社(Osake Shrine)」が鎮座していて 本殿に「木枯神社(Kogarashi Shrine)(木枯明神)」(元は広隆寺境内に鎮座)が合祀されています
「大酒神社(Osake Shrine)」とは「秦氏(Hata uji)」の祖神とされる「・秦始皇帝・弓月王・秦酒公」を祀っていて「秦氏(Hata uji)」の総鎮守であったと伝われます

大酒神社Osake Shrine)の記事をご覧ください

駿河国「建穂神社(Takyo Shrine)」の由緒からも「秦氏(Hata uji)」との関係性の深さはわかっていて 建穂神社(Takyo Shrine)の前から参道をまっすぐ南下した地理的な関係からも「木枯の森(kogarashi no mori)」は 「秦氏(Hata uji)」との深い関連性があると推察できます

「建穂神社(Takyo Shrine)」の旧鎮座地の付近とされる「木枯の森(kogarashi no mori)」からは 夏至の頃の日の出には 三保の松原に鎮座する「御穂神社(Miho Shrine)」へと直線が結ばれます

参考までに グーグルマップを作製しました
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?hl=ja&hl=ja&mid=1XhYt9ycQ1PEQaIU5nuxCoAFGY6otywSE&ll=34.970477331992655%2C138.37986013327384&z=13

詳しくは 秦氏(Hata uji)の太陽信仰とも関わる
静岡浅間神社(静岡市)の記事をご覧ください

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

静岡駅からR362号経由 約5.6km 車15分程度
安倍川を渡り「羽鳥」交差点付近を北へ向かいます

羽鳥と建穂の境には「大門川」が流れていて ここから建穂へと入り 参道を進みます

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建穂神社Takyo Shrine)に参着

かつての参道は 今の2倍程の道幅があったらしく 現存する参道は向かって左側のみだけが残されているとの事 ですから正面階段の左手に着きます

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参道の石段を上がります

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石段の上には コンクリート製の鳥居が建ち 注連縄が掛かります 一礼をして くぐり抜けます
正面には 注連縄の掛かる 瓦屋根の拝殿が建っています

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拝殿にすすみます 左手すぐ脇には境内社が見えています

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注連縄の上には扁額「建穂神社」と掲げられています

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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向かって左手から回り込み 境内社にお詣りをします
ちょうど拝殿の真後ろは 一段高くなり 本殿が建っています

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再度 本殿の前でお祈りです

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拝殿の前に戻ると 鳥居の先に延びる参道は 藁科川の木枯森(コガラシノモリ)に向かっています その先には丸子との境にある駿河峰が聳えています

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鳥居を抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』延喜元年(901年)成立に記される伝承

第57代 陽成天皇(ヨウゼイ テンノウ) 元慶2年(878)4月14日 己卯授に 神階を授かっています

意訳

元慶2年(878)4月14日 己卯

阿波国〈現 徳島県〉
正五位上 大麻比古神に 従四位下 〈現 大麻比古神社 鳴門市大麻町〉
従五位上 天日鷲神 に 正五位下 〈現 忌部神社 徳島市〉

駿河国〈静岡県〉
正六位上 岐都宇命神 〈現 建穂神社 静岡市葵区建穂

火雷神  に 〈現 大歳御祖神社 静岡市葵区宮ヶ崎町〉
並びに 従五以下を授く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の後(スエ)〈後裔〉である 建部公(タケベノキミ)の氏神として関係が深く 旧鎮座地が 藁科(ワラシナ)川の丘の山木 木枯森(コガラシノモリ)の辺りにあると伝えています

意訳

建穂(タケホ)神社

[姓氏]建部公(タケベノキミ)は 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の後なり
〇安倍川の上流 藁科(ワラシナ)川の丘の山木 木枯森(コガラシノモリ)の辺りにあり 今 馬鳴(ウマナリ)明神と称して 建穂(ケンスイ)寺の鎮守となる

[東領]建穂(ケンスイ)寺 建穂と云う処なり 総じて 建保神社

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

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『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』明治45年(1912)に記される伝承

もとの鎮座地は隣村の羽鳥村であったこと
御祭神は「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」であろうと記されています

意訳

郷社 建穂(タケホノ)神社

祭神 保食神(ウケモチノカミ)天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)

かつて 馬鳴明神(manari myojin)とも称せり 創立年代も詳しくわからず
但し 延喜の制に小社に列せられ 諸郡神階帳に 正五位下 建穂天神と見えたり もとは隣村の羽鳥村に鎮座あらせられしが如し 式社備考にいわく

「古社地は 隣村 羽鳥村にあり、その村の西南の田哺、今に古松三株あり、里人 今に明神森と云う、字山脇とも 山腰宮城とも云う、泥中に巨石あり、鳥居跡、又 五百歩許へだて大鳥居など、田の字に存す」

その後 今の地に奉遷す 維新前は 建穂寺の仁王門正面 一段高き所に鎮座あらせられ 建穂寺の鎮守神たりしが 維新後 建穂寺を壊し 寺僧復飾し 改めて神地とし 社殿を造営し 更に社号を復帰して 建穂神社とせり
吾妻鏡にいわく
「承元4年(1210)11月24日 駿河国 建福(穂の誤り)鎮守 鳴大明神は 去る21日・・(稚児に託し 酉年に合戦のある由 すなわち建暦3年(1213)の和田合戦が起ると神託す)・・・・」

と果たして後4年 和田氏の事ありたり 又 太田道灌の慕景集に「嘉吉元年(1441)5月云々、駿河の府にいたりて、云云、建穂の馬鳴のやしろなどに、志のぬさ たむけ侍り云々」と見え 元亀3年(1572)の武田家の判物に 建穂寺 中性院の義道坊 心蔵坊は 前々の如く神役に従うべきよし見えたり 明治6年(1873)郷社に列せられる

社殿は本殿 拝殿を具備し 境内は2084坪8合(官有地 第一種)あり 当社祭神に付きては 古来 寺僧 相伝えて保食神とす しかれども毫(すこし)も信を措(お)くに足らず 偽書 総國風土記に據(よ)りて 天照皇大御神となすものあるに至りしが 特選神名帳は 社号の建穂は 武部なるべしとして 祭神を日本武尊なるべしといへり

境内神社 荒神(クワウジン)社 庚申(カウシン)社

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編

『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』xxx

建穂神社Takyo Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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「秦氏(Hata uji)」の総鎮守であったと伝われます
大酒神社京都 太秦の記事をご覧ください

「秦氏(Hata uji)の太陽信仰とも関わる
静岡浅間神社(静岡市)の記事をご覧ください

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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